瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 百人一首81~90について調べてみました。

81.後徳大寺左大臣 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる(千載集)
 後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん) 藤原実定(ふじわらのさねさだ、1139~1191年)は平安後期の公卿・歌人。右大臣公能(きんよし)の子。定家の従兄弟。漢詩・今様・管弦などに優れていました。
現代語訳 ほととぎすが鳴いている方をながめると、そこにはほととぎすの姿はなく、ただ有明の月が残っているだけである。
※ホトトギスといえば3月から5月にかけて日本に渡ってくるので「夏を告げる鳥」として有名です。そのため「時鳥」などと呼ばれて愛され、文学的にも格調の高い景物として扱われています。ホトトギスの第一声(初音)を聴くのは非常に典雅なこととされました。そこで山の鳥の中で朝一番に鳴くといわれるホトトギスの声をなんとか聴くために、夜を明かして待つこともよく行われていたのです。しかもホトトギスはとても動くのが速く、こちらと思えばまたあちら、というように移動するそうです。後徳大寺左大臣が「すわ、ホトトギスの初音だ」と振り返った瞬間、もうホトトギスはそこにはいない、という印象もこの歌には込められているのです。
82.道因法師 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり(千載集)
 道因法師(どういんほうし) 藤原敦頼(ふじわらのあつより、生没年不詳)は平安後期の歌人。高齢に至るまで歌道に精進したものの、歌合で藤原清輔に敗れるなど、その評価は低かったようです。
現代語訳 うまくいかない恋に思い悩んで、それでも命はあるものなのに、つらさに耐えないで落ちてくるのは涙であったなあ。
※このような憂鬱な歌を作った道因法師ですが、本当に歌が好きだったようで、死後千載集に歌をたくさん載せてもらったお礼をしに藤原俊成の夢枕に立ったというエピソードが残されています。
83.皇太后宮大夫俊成 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる(千載集)
  皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり) 藤原俊成(ふじわらのとしなり、1114~1204年)は平安末期・鎌倉初期の歌人・歌学者。定家の父。後白河法皇の院宣により『千載集』を撰進。歌論書『古来風体抄』、家集『長秋詠藻』などを著し、幽玄の歌風を確立しました。平安期の古今調から鎌倉期の新古今調への転換期において、歌壇の第一人者として指導的な立場にありました。
現代語訳 世の中なんて、どうにもならないものだ。(世俗を離れるべく)思いつめて入り込んだ山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いているようだ。
※作者藤原俊成は、西行と並んで後鳥羽上皇に賞賛されたように、平安時代末を代表する歌人でした。その歌はやさしく、技巧に走らず自分の心の内を語っていく抒情的です。
84.藤原清輔朝臣 長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき(新古今集)
 藤原清輔朝臣 (ふじわらのきよすけあそん) 藤原清輔(1104~1177年)は平安後期の歌人・歌学者。顕輔の子。藤原俊成とならぶ平安後期歌壇の双璧。二条天皇の勅命により『続詞花集』を撰進したものの、天皇崩御により勅撰集とはならず。歌論書『奥義抄』『袋草紙』、家集『清輔朝臣集』などを著した。
現代語訳 この先、生きながらえるならば、つらいと感じているこの頃の世の中もなつかしく思い出されるのであろうか。つらいと思っていた昔のことも、今では恋しく思い出されるのだから。
※清輔と父親・顕輔も仲の悪い親子だったようで、息子・清輔は才能に恵まれながらも、何かと挫折の多い人生を経験しました。正四位という意外な位の低さも、父親の横やりのようです。この歌は、過去の辛かった思い出も今は懐かしいのだから、きっと今の辛さも将来懐かしく思えることがあるだろう、という内容の歌です。原典は中国の詩人・白楽天の詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」の「老色日上面 歓情日去心 今既不如昔 後当不如今」(後日解説)ではないかと言われています。
85.俊恵法師 夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり(千載集)
 俊恵法師(しゅんえほうし) 俊恵(1113~?年)は平安後期の歌人。源俊頼の子。経信の孫。東大寺の僧であったが、経歴の詳細は不明。鴨長明の歌の師。僧坊の歌林苑で歌会を開催。平安後期歌壇の中心人物の一人。
現代語訳 (愛しいあなたがいらっしゃらないせいで)一晩中、物思いにふけっているこの頃は、夜がなかなか明けようとしないで、(つれないのはあなただけではなく)寝室の隙間さえもがつれなくしているようです。
※俊恵は洛北・白河の僧房で歌林苑と名付けた歌合を月毎に催していました。そこには官位の低い僧侶・貴族・女房などが集って親密な雰囲気に包まれていたとされ、会衆の一員だった鴨長明は『無名抄(14)千鳥、鶴の毛衣を着ること』でその場の雰囲気を伝えています。
86.西行法師 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな(千載集)
 西行法師(さいぎょうほうし) 西行。俗名は、佐藤義清(さとうのりきよ、1118~1190年)は平安後期の歌人。北面の武士として鳥羽院に仕えた後に出家。日本各地を行脚しながら歌を詠んだ。新古今集には最多の94首が入撰。家集『山家集』。
現代語訳 嘆けといって月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、そんなことはない。にもかかわらず、まるで月のせいであるかのように、こぼれ落ちる私の涙であるよ。
※鳥羽天皇の北面の武士(天皇を護る近衛兵)というエリート職を捨て、俗世を捨てた自分。それと日の光を見ることなく、いつも暗い夜空に輝いている月に相通じるものを感じたのかもしれません。鳥羽天皇に出家を願い出る時には、こんな歌を詠んでいます。
  をしむとて をしまれぬべき この世かは 身をすててこそ 身をもたすけめ
87.寂蓮法師 村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ(新古今集)
 寂蓮法師(じゃくれんほうし) 寂蓮 俗名は、藤原定長(ふじわらのさだなが、?~1202年)は藤原俊成の甥。はじめ俊成の養子でしたが、俊成に実子定家が生まれたため、出家。『新古今和歌集』の撰者の一人となりまとが、完成前に没しました。
現代語訳 村雨の露もまだ乾いていない真木の葉に、霧が立ちのぼる秋の夕暮れであるよ。
※和歌にも秋の夕暮れを歌った「三夕(さんせき)の歌」という名歌があります。いずれも新古今和歌集に採られた歌で、「秋の夕暮れ」を結びとしています。
  361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)
  362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)
  363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)
88.皇嘉門院別当 難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき(千載集)
 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう、生没年不詳)は平安末期の歌人。源俊隆の娘。崇徳天皇の皇后、皇嘉門院聖子に仕えました。
現代語訳 難波の入り江に生えている芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、〔難波の遊女は〕たった一夜(ひとよ)の仮寝ために、澪標(みおつくし)のごとく、身を尽くして〔旅人を〕恋し続けなければならないのでしょうか。
※澪標は《「澪 (みお) つ串 (くし) 」で、「つ」は助詞「の」の意》澪にくいを並べて立て、船が往来するときの目印にするもの。和歌では「身を尽くし」にかけて用いることが多い。みおぎ。みおぐい。みおじるし。
89.式子内親王 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする(新古今集)
 式子内親王 (しょくしないしんのう、?~1201年)は平安末期・鎌倉初期の歌人。後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院をつとめた後に出家。歌を藤原俊成に学んだといいます。
現代語訳 我が命よ、絶えるならば、絶えてしまえ。このまま生きながらえれば、(恋心を表さないように)耐え忍んでいる意思が弱ると困るから。
※、実兄の以仁王(もちひとおう)が源頼政(みなもとのよりまさ)が当時政権を握っていた平氏に対して挙兵し失敗した事件に連座。1197(建久8)年頃に出家しました。新古今集時代の代表的な女流歌人で、藤原俊成の弟子でした。なんと、藤原定家と恋愛関係にあったという説もあります。
90.殷富門院大輔 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず(千載集)
 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ、生没年不詳)は平安末期の歌人。藤原信成の娘。後白河天皇の第1皇女殷富門院亮子内親王に仕えた。


現代語訳 血の涙に濡れて変色した私の袖をお見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえ、濡れに濡れたにもかかわらず、色は変わらないのですよ。
※この歌は百人一首にも登場する源重之(みなもとのしげゆき)が作った「松島や 雄島の磯にあさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか(松島の雄島の磯で漁をする海人の袖はこそは、私の涙の袖と同じくらい濡れているのです)」という歌を本歌(ほんか)にした「本歌取り」の歌です。本歌取りというのは、昔の有名な歌の一部を引用したりさまざまにアレンジして新しい歌を作る、和歌の技法のひとつです。


 


 和泉式部   黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき
                              後拾遺和歌集
 訳  恋に思い乱れ、髪を乱したまま床にうちふす。その時に優しく髪をかき上げたあの人が恋しい。

 待賢門院堀河 長からむ 心も知らず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそ思へ
                              千載和歌集
 訳  あなたは、末永く心変わりはしないとおっしゃっいました。ですが、本当にその言葉を信じていいのかと、貴方の心を疑ってしまいます。そして、その心の乱れのままに黒髪も乱れてしまっているのです。

 藤原定家   かきやりし その黒髪の すぢごとに うち臥すほどは 面影ぞたつ
                              新古今和歌集
 訳  私の手で黒髪をかきやり横になる、かきやった髪のその一筋がはっきりと見えるように、あの人の面影が我が眼の前にくっきりと浮かび上がる。
※     女性の立場になって詠ったものか?


        うば玉の 闇のうつつに かきやれど なれてかひなき 床の黒髪
                              新古今和歌集
 訳  暗闇の中で、たしかに黒髪をかきやったけれども、また乱れてしまい意味がなかったことですね。

 与謝野晶子  くろ髪の 千すぢの髪の みだれ髪 おもひ乱れ かつおもひ乱るる
                              みだれ髪
 訳  私の豊かな千すじもの黒髪は乱れている、そして私の気持ちもあなたへの恋心によって思い乱れ、さらに思い乱れて…



 https://www.youtube.com/watch?v=e6laTBHMPsk



無名抄 第49話 代々恋中の秀歌
 俊恵語りていはく、「故左京大夫顕輔語りていはく、『後拾遺の恋の歌の中には、
    夕暮は待たれしものを今はただ行くらむ方を思ひこそやれ
 これを面歌(おもてうた)と思へり。金葉集には、
    待ちし夜の更けしを何に歎きけん思ひ絶えても過ぐしける身を
 これを優れたる恋とせり。わが撰べる詞花集には、
    忘らるる人目ばかりを歎きにて恋ひしきことのなからましかば
 この歌をかの類(たぐひ)にせんとなん思ひ給ふる。いとかれらにも劣らず、けしうはあらずこそ侍れ』と言はれけり。しかあるを、俊恵が歌苑抄の中には、
    ひと夜とて夜離(よが)れし床の小筵(さむしろ)にやがても塵の積りぬるかな
 これをなむ面歌と思ひ給ふる。いかが侍らん」とぞ。
 今、これらに心付きて、新古今を見れば、わが心に優れたる歌、三首見ゆ。いづれとも分きがたし。後の人定むべし。
    かくてさは命や限りいたづらに寝ぬ夜の月の影をのみ見て
    野辺の露色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻(おぎ)の上風(うはかぜ)
    帰るさのものとや人の眺むらむ待つ夜ながらの有明の月
 俊恵いはく、「顕輔卿の歌に
    逢ふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける
 この歌を、俊頼朝臣、感じていはく、『これは椋(むく)の葉磨きして、鼻脂(はなあぶら)ひける御歌なり。世の人ならば、『うつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ嬉しかりける』とぞ詠ままし。誰(た)がかくは詠まん』とぞ、讃められける」。

現代語訳
 俊恵が、「六条藤家・顕輔殿が、『「後拾遺集」の恋歌の中で、
    夕暮れは、(以前にはあなたのおいでを)期待せずにはいられなかったのに、(あなたがおいでにならなくなった)今は、ひたすら現在(あなたが)足を運んでいる(女性の)邸宅(はどこかと)想像しています・・・・。
 これを、(「後拾遺集」の恋歌の中の)代表歌だと(私は)思っています。「金葉集」では、
    (あなたのおいでを)待っていた夜が、(あなたのおいでを見ないまま)更けてしまったのを(昔は)どうして嘆いていたのだろうか、(だって、あの頃は、あなたに捨てられたら死んでしまうと思っていたのに、現在、あなたに)捨てられても生きていられる我が身なのになあ。
 これを優れた恋歌だと思っている。私、顕輔が撰進した「詞花集」では、
    (あなたに)見捨てられた体面の悪さだけを嘆くだけで、(あなたに対する)恋しさがなかったら(問題なかったのに、でも実際は、あなたのことを忘れることができなくてつらくてしようがない)。
 この歌を、これまでの歌のように(私の撰んだ「詞花集」における恋部の代表歌と)しようと(私は)思います。(「詞花集」の恋歌の代表歌たるこの歌も)、そんなにそれら(上述の、「後拾遺集」「金葉集」の恋の部の代表歌)に劣ることなく、悪くはございません』と、(顕輔殿は)おっしゃったそうだよ。ところで、私・俊恵の作った私撰集・『歌苑抄』の中では、
    一晩だけだ(来られない)といって(そのまま二度と)夜、(あなたが)通って来ることがなくなった寝床の小筵に、(いらっしゃらない日数を反映して)そのまんま塵が積もってしまっているなあ。
 この歌を、(私の『歌苑抄』の恋部の中での)代表歌だと思っていますが、どうでしょうか」と(師・俊恵が)語った。)
 (今、(私が)これらの例を見てその気になって『新古今集』(の恋の部)を見ると、私の感性から優れている(とみなせる)歌が三首見えます。(この三首のうち)どれが一番かだと判定もしがたい。後の時代による評価に任せるしかない。
    こんなふうにして(=いたづらに寝ぬ夜の月の影をのみ見ているばかりで)、それじゃあ、私の寿命は終るのか、(あなたのおいでを)むなしく待って寝ずに過ごす夜の、月の光だけを見ながら。
    野辺の(荻(オギ)に降りた)露は、色もなしに(透明のまま私の袖に)こぼれたのか(いや、そんなことはない。私の袖を濡らすのは、露ではなくて私の血の涙であるから赤く染まり、その)袖を通って、荻(をぎ)の上を(「招(を)ぎ」てもむなしく)吹いて過ぎる(「飽き」ならぬ)秋風だよ。
   (他の女の許に通っての)帰りの途中の景物としてあなたは今ごろ(この有明の月を)眺めているでしょう、(しかし私にとっては一晩中あなたのおいでを)待ちつづけて(むなしく)見ることになった有明の月ですよ。)
 俊恵が(私に)、「顕輔卿の歌に、
   (夢の中で愛しいあなたに)逢った、と見ても、現実には意味はないけれども、こんなはかない夢が、私の命(の綱)なのだなあ(あなたが足を運んでくれない限り、それしかあなたとのきずなはないのですから)。
 この歌を、父・俊頼が賞讃して、『この歌は、(完成した歌を、ちょうど掃除した廊下を、さらに乾燥した)椋の葉で磨いた上に、脂(ワックス)を引いた(ような、完璧の上にも完璧を目指した)歌である。ふつうの人なら、「現の甲斐はなけれどもはかなき夢ぞ嬉しかりける」と詠んだだろうに。他の誰がこんなふうに詠むだろうか』と、賞讃なさった。)


 



源氏物語 12 須磨より
 月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、
 「ただ是れ西に行くなり」
と、ひとりごちまいて、
 「いづ方の雲路に我も迷ひなむ月の見るらむことも恥づかし」
とひとりごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。
 「友千鳥諸声に鳴く暁はひとり寝覚の床も頼もし」
 また起きたる人もなければ、返す返すひとりごちて臥したまへり。

現代語訳
 月がたいそう明るく差し込んで、仮そめの旅のお住まいでは、奥の方まで素通しである。床の上から夜の深い空も見える。入り方の月の光が、寒々と見えるので、
「ただ月は西へ行くのである」
と独り口ずさみなさって、
 「どの方角の雲路にわたしも迷って行くことであろう月が見ているだろうことも恥ずかしい」

と独詠なさると、いつものようにうとうととなされぬ明け方の空に、千鳥がとても悲しい声で鳴いている。
 「友千鳥が声を合わせて鳴いている明け方は  独り寝覚めて泣くわたしも心強い気がする」
 他に起きている人もいないので、繰り返し独り言をいって臥せっていらっしゃった。


 

古事談 二-五四
 待賢門院(大納言公実女、母左中弁隆方女)は、白河院御猶子の儀にて入内せしめ給ふ。其の間、法皇密通せしめ給ふ。人皆な之れを知るか。崇徳院は白河院の御胤子、と云々。鳥羽院も其の由を知ろし食して、「叔父子」とぞ申さしめ給ひける。之れに依りて、大略不快にて止ましめ給ひ畢(をは)んぬ、と云々。鳥羽院最後にも、惟方(時に延尉佐)を召して、「汝許(ばかり)ぞと思ひて仰せらるるなり。閉眼の後、あな賢(かし)こ、新院にみすな」と仰せ事ありけり。案の如く新院は、「見奉らむ」と仰せられけれど、「御遺言の旨候ふ」とて、懸け廻らして入れ奉らず、と云々。

現代語訳
 鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子〔(閑院流藤原氏)大納言公実の娘、母は左中弁隆方の娘〕は、白河法皇の名目上の養女の資格で、法皇の孫の鳥羽天皇に入内なさった。彼女が中宮でいるあいだ、白河法皇は、彼女と密通していらした。誰もがその事実を知っていたのだろうなあ、崇徳院は白河法皇の実子である、ということだと。鳥羽院もその事実をご存知でいらして、息子であるはずの崇徳を、「叔父さま」とお呼び申し上げなさった。そういうわだかまりのせいで、鳥羽院は、だいたいいつも不愉快なままでいらしたという。鳥羽院がご臨終の時にも、惟方(当時、右衛門権佐で検非違使尉であった)をお呼びになり、「おまえだけは、と思って私はいうのだ。私が死んでから後は、絶対に崇徳院に私の死顔を見せるな」とおっしゃった。案の定、崇徳院は、「亡父にお会いしたい」とおっしゃったけれど、「御遺言がございますゆえ」といって、市街の周りに帳を掛けまわしてお入れ申し上げなかった、ということだ。
※要するに、おじいちゃんが孫の嫁さんに手を出して子を産ませたのだから、孫にとっては生まれた子は子でありながら叔父さんになる、という話。生まれた子にとっては、お父さんは甥で、ひいおじいちゃんがお父さん、ということになります。

雨月物語 白峰より
 猶((なほ))、心怠(おこた)らず供養(きようやう)す。露いかばかり快(そで)にふかかりけん。日は没(い)りしほどに、山深き夜のさま常(ただ)ならね、石(いし)の床(ゆか)木(この)葉(は)の衾(ふすま)いと寒く、神(しん)清(すみ)骨(ほね)冷(ひえ)て、物とはなしに凄(すさま)まじきここちせらる。月は出(い)でしかど、茂(しげ)きが林(もと)は影をもらさねば、あやなき闇(やみ)にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく「円(ゑん)位(ゐ)、円(ゑん)位(ゐ)」と呼ぶ声す。
 眼(め)をひらきてすかし見れば、其の形(さま)異(こと)なる人の、背(せ)高く痩(やせ)おとろへたるが、顔のかたち、着たる衣の色(いろ)紋(あや)も見えで、こなたにむかひて立(た)てるを、西行もとより道心(だうしん)の法師(ほふし)なれば、恐(おそ)ろしともなくて、「ここに来(き)たるは誰(た)ぞ」と答ふ。
 かの人いふ。「前(まえ)によみつること葉(のは)のかへりこと聞えんとて見えつるなり」とて、
     松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
 「喜(うれ)しくもまうでつるよ」と聞(きこ)こゆるに、新院の霊(れい)なることをしりて、地にぬかづき涙を流していふ。
 「さりとていかに迷(まよ)はせ給ふや。濁世(ぢょくせ)を厭離(えんり)し給ひつることのうらやましく侍りこそ、今夜(こよひ)の法施(ほふせ)に随(ずい)縁(えん)したてまつるを、現形(げぎょう)し給ふはありがたくも悲(かな)しき御(み)こころにし侍り。
 ひたぶるに隔生即忘(きゃくしゃうそくまう)して、仏果(ぶつくゎ)円満(ゑんまん)の位(くらゐ)に昇(のぼ)らせ給へ」と。情(こころ)をつくして諫(いさめ)奉(たてまつ)る。
 新院呵々(からから)と笑はせ給ひ、「汝(なんぢ)しらず、近来(ちかごろ)の世(よ)の乱(みだ)れは朕(わが)なすこと事(わざ)なり。生(いき)てありし日より魔道(まだう)にこころざしをかたふけて、平治(へいぢ)の乱(みだ)れを発(おこ)さしめ、死(しし)て猶(なほ)、朝家(てうか)に祟(たたり)をなす。見よみよ、やがて天(あめ)が下(した)に大乱(たいらん)を生(しゃう)ぜしめん」といふ。

現代語訳
 なお心をゆるめずに読経を続ける。涙と夜露で、その袖はどんなに濡れていたことか。日が沈むにしたがって、深山の夜景は無気味でただならぬさまをみせてきた。石の上に座り、落ちかかる木の葉を身にかけただけではひどく寒く、そのため精神はすみ、骨の髄まで冷えて、なんとはなしに荒涼とした物凄い心地がする。月は出たが、繁茂した木立は月光(ひかり)を漏らさないので、文目(あやめ)もわからない闇の中で心わびしく思いながら、やがて眠るともなくうとうとしようとすると、たしかに、「円位、円位」と呼ぶ声がするではないか。
 (西行が)目を開いて(闇の中を)透かして見ると、背の高く、やせ衰えた異形の人が、顔形、着衣の色、柄もはっきりとは見えない姿で、こちらを向いて立っている。もちろん、西行は悟道(ごどう)の僧であったから、恐ろしいなどとは思わず、「ここに来ているのはどなたか」と応答した。
 その人が言うには、「さっき(お前が)詠んだ歌への返しをしようと姿を現したのだ」といって、
   松山の……:
   (松山に寄せては返す波、その波に漂い流された船のように、ついに都へ帰ることなく、わが身はこの地に朽ち果ててしまったことよ)
 「よくここまで参ってくれた」と言うのを聞いて、これぞ崇徳新院の霊魂であると気づき、おもわず地にぬかづき、涙を流して申しあげた。
 「畏(おそ)れ多いことでございます。しかしながら、何ゆえ成仏なされずお迷いになっておられますのか。醜悪な現世を逃(のが)れ去られたことが羨(うらや)ましく思われてこそ、こうして、仏縁にあやかるべく今夜はご回向申し上げましたのに、奇怪なご出現は愚僧にとってはありがたいよりは、悲しい御心(みこころ)であります。
 どうか一途(いちず)にひたすらに現世への妄執(もうしゅう)を断たれ、円満十分な成仏の高みへ御昇りなされませ」と、心情をこめて諫(いさ)め申し上げる。
 新院は声をあげてからからと笑われ、「汝(なんじ)は何も知らぬ。近頃の世の乱れは自分のしわざなのである。朕(われ)こそは生きていた日から魔道に深く心を傾けて平治(へいじ)の乱を起さしめ、死後もなお、国家・朝廷に祟(たた)ろうとするものである。見ているがいい。もうすぐに、天下に大乱を起してやるぞ」と言った。


 


無名抄 第33話 琳賢基俊をたばかる事
 いかなりけるにか、かの琳賢は、基俊と仲のあしかりければ、「たばからん」と思ひて、ある時、後撰の恋の歌の中に、人もいと知らず耳遠き限り二十首を撰出して、書き番(つが)ひて、かの人の許へ持て行きけり。「ここに、人の異様(ことやう)なる歌合をして、勝ち負けを知らまほしうし侍るに、墨付けて給はらん」とて、取りて出でたりければ、これを見て、後撰の歌といふこと、ふつと思ひ寄らで、思ふままに、様々(やうやう)に難ぜられたりけるを、ここかしこに持て歩きて、「左衛門佐にあひぬれば、梨壺の五人が計らひももものならず。あはれ、上古にもすぐれ給へる歌仙かな。これ、見給へ」とて、軽慢(きやうまん)しければ、見る人、いみじう笑ひけり。基俊、返り聞きて、安からず思はれけれども、甲斐なかりけり。

現代語訳
 どういう原因だったのだろうか、その琳賢は、基俊と仲が悪かったそうで、「(基俊を)引っ掛けてやろう」と思って、ある時、『後撰和歌集』の「恋の部」の歌の中で、誰もあんまり知らない、評判になっていない歌だけ二十首を撰び出して、(まるで歌合(うたあはせ)の記録であるかのように)対(つい)に書き出して、(そのニセの記録を)、かの基俊のもとへ持って行ったという。(そして、)「ここに、誰かが普通ではない歌合をして(しまいましたが、まだ判定が下っていないので、それぞれの題について、左右のどっちが)、勝ちか負けかを知りたがっておりますので、判定を書いていただけないでしょうか」といって、取り出したところ、それを見て(基俊はそれが)『後撰和歌集』の歌であるなんてさっぱり思いつくことなく、ノリにノって、あれやこれやとさまざまに(歌に対する)非難を(書き込み)なさったので、(その書き込みを)あちらこちらに(琳賢が)持って回って、「左衛門佐・基俊殿に対面すると、(『後撰和歌集』の撰者であらせられる)「梨壺の五人」の熟考(して選び抜いた歌)でさえ、物の数ではない(ことになります、だって、「梨壺の五人」が撰んだ歌を、ボロクソにけなしてるんですから)。ああ(、すると基俊は、「梨壺の五人」が束になっても適わないのだから)、大昔の偉大な歌人以上に優れていらっしゃる、(いわば)『歌仙』でいらっしゃるなあ。(証拠として)これ(=歌合の記録にボロクソに基俊が書いた判定)を御覧ください」といって、軽んじてばかにしたのだが、(その話を)基俊が聞いて、(引っ掛けられたことは)面白くなかったが(『後撰和歌集』の歌だと気づかずにボロクソに書いたのは本当だから)、どうにもしようがなかった。

無名抄 第34話 基俊僻難する事
 俊恵いはく、「法性寺殿にて歌合ありけるに、俊頼・基俊、二人判者にて、名を隠して当座に判しけるに、俊頼の歌に、
   口惜しや雲井隠れに棲むたつも思ふ人には見えけるものを
 これを、基俊、鶴(たづ)と心得て、『田鶴(たづ)は沢にこそ棲め、雲井に棲むことやはある』と難じて、負けになしてける。されど、俊頼、その座には詞(ことば)も加へず。その時、殿下、『これ、鶴(たづ)にはあらず、龍(たつ)なり。かのなにがしとかやが、龍を見むと思へる心ざしの深かりけるによりて、かれがために現はれて見えたりし事の侍るを、よめるなり』と書きたりけり。基俊、弘才の人なれど、思ひわたりにけるにや、すべて思ひ量りもなく人のことを難ずる癖の侍りければ、あとに失の多くぞありける」。

現代語訳
 俊恵が、「藤原忠通殿のお邸で歌合(元永元年(1118)十月の「内大臣忠通家歌合」)があったそうだが、(我が父)俊頼(と)、(宿敵)基俊(の二人)が判者であって、(判詞を書いた判者の)名を隠して、その場で判定したそうだが、俊頼の(詠んだ)歌に、
  残念なことだなあ、雲の中に隠れ住む『たつ』でさえも、(強く)願っている人には姿を現すのに(私が強く愛している人は私の前に姿を見せてくれないのだ)なあ。
 この歌(の『たつ』)を、基俊が、『鶴(たづ)』だと勘違いして、『田鶴(たづ)は沢に住むけれど、雲の中に住むことなんてあるか』と非難して、負けにしてしまった(ちなみに、この時、俊頼の相手になっていたのは、基俊の歌だったから、この判定は当り前)。しかし、俊頼(は、基俊が勘違いしているのに気づきながら)、その場では、判詞を加えることもなかった(きっと誰かが基俊の誤りを指摘するだろうと信じて)。その時に、ない大臣・忠通殿が、『これは、鶴(たづ)ではなくて、龍(たつ)である。例のなんとかとかいう人(=葉公子高)が、龍を見たいという気持ちが深かった(から、龍の絵を集めまうっていたという噂をホンモノの龍が聞いた)ので、その人(=葉公)のために(ホンモノの龍が)出現して姿を見せた(けれど、その姿に葉公はびびった)、ということがありましたが、その故事を(ふまえて)読んだ歌である」と、(後に)判詞に書いたそうだ。基俊が、(自分は知識人だと)思い込んでいたのだろうか、何であれ、考えなしに他人のことを非難するくせがあったそうで、その後も失策が多かったそうだ」と語った。


無名抄 第27話 貫之躬恒の優劣
 俊恵法師語りていはく、
「三条の大相国、非違(ひゐ)の別当と聞こえける時、二条の帥(そち)と二人の人、躬恒・貫之が劣り勝りを論ぜられけり。かたみにさまざま言葉を尽くして争はれけれど、さらにこときるべもあらざりければ、帥いぶかしく思ひて、『御気色(けしき)を取りて勝劣きらむ』とて、白河院に御気色給はる。仰せにいはく、『われはいかでか定めむ。俊頼などに問へかし』と仰せごとありければ、ともにその便(びん)を待たれけるほどに、二、三日ありて、俊頼まゐりたりけり。帥このことを語り出でて、初め争ひそめしより、院の仰せのおもむきまで語られければ、俊頼聞きて、たびたびうちなづきて、『躬恒をば、なあなづらせ給ひそ』といふ。帥思ひのほかに覚えて、『されば貫之が劣り侍るか。ことをきり給ふべきなり』と責めけれど、なほただ同じやうに、『躬恒をばあなづらせ給ふまじきぞ』といひければ、『おほしおほしことがら聞こえ侍りにたり。おのれが負けになりぬるにこそ』とて、からきことにせられけり。躬恒が詠みくち、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」
とぞ。
現代語訳
 俊恵法師が語って言うことには、
「三条の太政大臣(藤原実行)が検非違使の長官と申し上げていた時、二条の帥(藤原俊忠)とふたりで、躬恒と貫之の優劣を論じ合われた。お互いにさまざまに言葉を尽くして論争をなさったが、いっこうに決着する様子がないので、帥がはっきりさせたいと考えて、『白河院の御意向をお伺いして優劣を決めよう』ということで、白河院に御意向を仰ぐ。白河院の仰せによるところでは、『予がどうして決められようか。俊頼などに問うがいい』とのことだった。そのような仰せがあったので、ふたりとも機会を待っていると、二、三日して俊頼(源俊頼)が参上した。帥はこの件について語り出し、最初に優劣を論じ始めてから、院の仰せの趣旨までお話しになったので、俊頼は話を聞いて、幾度も頷いて、『躬恒のことを、侮りなさいますな』と言う。帥は意外にお感じになって、『それならば貫之が劣っているのですな。躬恒のほうが優れているとお定めになるべきでしょう』と促したが、俊頼が依然としてただ同じように『躬恒のことを侮りなさるべきではありませぬぞ』と言ったので、『大体おっしゃっていることは理解できました。貫之が優れていると考えていた私の負け、ということですな』と、負けたことを辛くお思いになった。躬恒の詠みぶりの、深く思いを歌にこめてある趣は、他に並ぶものがないものだ」
ということだ。

無名抄 第28話 俊頼歌を傀儡歌ふ事
 富家の入道殿に、俊頼朝臣候ひける日、かがみの傀儡(くぐつ)ども参りて歌つかうまつりけるに、神歌になりて、
  世の中はうき身に添へる影なれや思ひ捨つれど離れざりけり
 この歌を歌ひ出でたりければ、俊頼、「至り候ひにけりな」とて居たりけるなん、いみじかりける。
 永縁僧正、このことを伝へ聞きて、羨みて、琵琶法師どもを語らひて、さまざま物取らせなどして、わが詠みたる、「いつも初音の心地こそすれ」といふ歌を、ここかしこにて歌はせければ、時の人、「ありがたき数寄人(すきびと)」となん言ひける。
 今の敦頼入道、またこれを羨ましくや思ひけん、物も取らせずして、盲(めくら)どもに「歌へ歌へ」と責め歌はせて、世の人に笑はれけりと。

現代語訳
 ([源俊頼の歌を、人形使いが口にした話]
 藤原忠実のお邸に俊頼朝臣がお仕えしていた時、鏡の宿の人形遣いたちが参上して、歌をお詠み申し上げたそうだが、神事に関する歌を詠む時になって、
   俗世(への妄執)というものは、つらい我が身に添っている影のようなものなのか、(どちらも)いくら切り捨てても、(我が身から)離れないなあ。
 (源俊頼の)この歌を永縁僧正が、この話を伝え聞いて、羨ましく思って、琵琶法師などを説得して、各種のご祝儀を与えたりして、(永縁法師)本人が詠んだ、「いつも初音の心地こそすれ」という歌を、あちらこちらで歌わせたそうですが、(その話を聞いて)当時の人々は、「(そんなにまでして自分の歌を広めようとするのは)めったにない風流人だ」といったそうだ。
 現在も存命の敦頼入道が、この話を聞いて、羨ましく思ったのだろうか、ご祝儀も与えずに、盲人たちに、「(私の)歌を歌え」と無理矢理歌わせて、世間の笑いものになった、という話です。


無名抄 第32話 腰句の終のて文字難事
 またいはく、「雲居寺(うんごじ)の聖のもとに、秋の暮の心を、俊頼朝臣
  明けぬともなを秋風の訪づれて野辺の気色よ面変(おもがは)りすな
 名を隠したりけれど、これを「さよ」と心得て、基俊いどむ人にて、難じていはく、『いかにも、歌は腰の句の末に、て文字据ゑつるに、はかばかしきことなし。支(ささ)へて、いみじう聞きにくきものなり』と、口くち開かすべくもなく難ぜられければ、俊頼はともかくも言はざりけり。その座に伊勢の君琳賢がゐたりけるなん、『異(こと)やうなる証歌こそ、一つ覚え侍れ』と言ひ出でたりければ、『いでいで、承はらむ。よも、ことよろしき歌にはあらじ』と言ふに、
  「桜散る木の下風は寒からで
と、果てのて文字を長々と長めたるに、色真青(まさを)になりて、物も言はずうつぶきたりける時に、俊頼朝臣は忍びに笑はれけり」

現代語訳
 また、ある人が言うには、「雲居寺の聖のところで(歌合せをした時)、秋の暮(秋の終わり)という題で、俊頼朝臣が(こんな歌を詠んだ)、
    明けぬとも猶秋風の訪れて野邊の氣色よ面變りすな
   (夜が明けて冬になっても、やはり秋風が吹いてきて、野辺の秋の景色よ その美しさを変えてくれるな)


 作者名を隱していたが、(基俊は)この歌を『それだ(俊頼の歌だ)』と気がついて、基俊は対抗心の強い人なので、批判して言いました。『なんといっても和歌は、腰の句(三句)の末に、「て」という文字を置くことは、よいことではありません。(歌の流れが)つかえて、たいそう聞きにくいものです』と、他人が口をはさむ余地もないほど(きっぱりと)批判されたので、俊頼はなんともかんとも言わなかったのだった。
 その座に伊勢の君琳賢が居あわせていたが、『いっぷう変わった引き歌を一首思い出しました』と言い出したので、(基俊は)『さあさあ、うかがいましょう。まさか取り柄のある歌ではありますまい』と言うので、
 (琳賢は)「櫻散る木の下風は寒からで」(紀貫之の有名な歌)と、末の「て」の文字を長々と声を伸ばして詠じたところ、(基俊は)顔色が真っ青になって、物も言わずにうつむいた時に、俊頼朝臣は声を忍んで笑ったのだった」ということだ。
※○俊頼:源俊頼朝臣(1055~1129年)経信の子。金葉和歌集の撰者。
 ○基俊:藤原基俊(1060~1142年)万葉集を研究し、訓点をつけた。
 ○琳賢:(~1134年頃)橘氏。
 ○櫻散る木の下風は寒からで:桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける(拾遺集 春 紀貫之)
    桜が散る木の下を吹く風は寒くはないが、空に知られぬ雪が降ることだ


 


古今著聞集 政道忠臣部 大江匡房非道二船事


 匡房中納言は大宰権帥になりて任に赴かれたりけるに、道理にてとりたる物をばふね一艘につみ、非道にてとりたる物をば又一艘につみてのぼられけるに、道理のふねは入海してけり。非道の船は平らかにつきてければ、江帥いはれけるは、世ははやはや末になりにけり。人いたく正直なるまじき也とぞ侍りける。それを語らんが為にかくつみてのぼせられけるにや。むかし中ごろだにかやうに侍りけり。末代よくよく用心あるべきこと也。



※太宰府からの帰路の旅で、在任中、道理で取った財物を船一艘に積み、非道で取った財物を別の一艘に積んで上ったが、嵐にあって道理の船は沈没し、非道の船が淀の津に着岸。そこで匡房一言。「世ははやはや末になりはてたことだ。人はことさら正直であってもしょうがないわい。」



徒然草 百七十九段


 入宋(にっそう)の沙門(しゃもん)、道眼上人(どうげんしょうにん)、一切経を持来(じらい)して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置(あんぢ)して、ことに首楞厳経(しゅりょうごんきょう)を講じて、那蘭陀寺(ならんだじ)と号(こう)す。その聖(ひじり)申されしは、「那蘭陀寺は大門北向きなりと、江師(ごうそつ)の説とて言ひ伝へたれど、西域伝(さいいきでん)・法顕伝(ほっけんでん)などにも見えず、更に所見なし。江師は如何(いか)なる才学(さいかく)にてか申されけん、覚束(おぼつか)なし。唐土(とうど)の西明寺(さいみょうじ)は北向き勿論なり」と申しき。


現代語訳

 宋(実は元)へ渡航した道眼上人が一切経を持ち帰って、六波羅のあたり、やけ野という所に安置して、ことに首楞厳経(しゅりょうごんきょう)の講義を行って、那蘭陀寺(ならんだじ)と号した。その聖(道眼上人)が申されたことに「インドの那蘭陀寺は大門が北向きであると江師(大江匡房)の説といって言い伝えられているが、『大唐西域伝』『法顕伝』などにも見えず、どの文献にもまったく記載が無い。江師はどんな学識によってこのように申されたのか。はっきりしない。中国の西明寺は大門が北向きであることはもちろんだ。」と申された。


※道眼上人:生没年は勿論、宗派や嗣承も一切不明。わざわざ中国まで行って、しかも日本に帰ってきただけでも凄く、更に上記の記録を見ると、かなりの学僧であったことも伺わせますけど、誰なのかよく分かりません。


 

金葉集(巻8・恋下・再奏本469、三奏本464)
   堀河院御時艶書合によめる            中納言俊忠
     人しれぬ思ひありその浦風に なみのよるこそいはまほしけれ
  返し                       一宮紀伊
     音にきくたかしのはまのあた波は かけしや袖のぬれもこそすれ

※ 歌合の中でも「艶書合(えんしょあわせ・けそうぶみあわせ)」という趣向で詠まれたものです。艶書合とは、男が女に求婚の歌を詠み、女がそれに応える歌を詠むのを一つがえにした歌合せです。
 「堀川院艶書合」は康和4年(1102)年閏5月に内裏で行われました。
 まず藤原俊忠が詠みます。俊忠は俊成の父です。
   人知れぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ
 歌の意味は、「人知れず貴女に思いがあるから、有磯の浦風に乗って、波が岸に寄るように、夜お会いしたい」というものです。
 有磯の浦は越中の歌枕で、大伴家持が歌に詠んだことにより生まれました。もとは漠然と越中の海をさしていましたが、後に場所が決められ、松尾芭蕉も『おくのほそ道』の旅の中で訪れています。それに応えたのが、紀伊のこの歌です。
 俊忠の歌が「波」で詠んだので同じく「波」で応え、歌枕「有磯の浦」に対しても同じく歌枕「高師の浜」で応えたのです。
 技巧が込んだ中にも艶っぽいやり取りで、洗練された貴公子と才女の晴れやかな姿が目に浮かぶようですが…この年、俊忠は29歳。対する紀伊は70歳すぎだったと言われています。若い頃素敵な殿方とこんな歌のやり取りをしていたら…などと、楽しみながら詠んだのかもしれません。

 奥の細道 越中路
 黒部四十八ヶ瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出(い)づ。
 担籠(たご)の藤浪は春ならずとも、初秋(はつあき)の哀れとふべきものをと人に尋ぬれば、「これより五里いそ伝ひして、むかふの山陰(やまかげ)にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじ」といひをどされて、加賀の国に入(い)る。
    わせの香や 分入右は 有磯海


現代語訳
 「黒部川48が瀬」(黒部川の河口近くにある無数の分岐のことをこう称した)というが、数もわからないほどの川を渡って、那古《なご》という浦(歌枕。かつては海だったが芭蕉がいたときは湖になっていた)に出た。担籠の藤波《たこorたごのふじなみ》(歌枕。担籠は地名で、藤波とは藤の花が波のように揺れているように見える景色のこと)は、たとえ(花の咲く)春でなくても、初秋の哀《はつあきのあわれ》(初秋ならではの情趣、の意だが、あえて古い時代の読み方が推奨されている)は見られるだろうと思い、人に尋ねたところ、「ここから5里海岸沿いに行き、向こうの山陰に入ったところにあるが、漁師の粗末の家がいくつかあるだけなので、一夜の宿を貸す者はいないでしょう」と脅されるように言われ、加賀の国(能登の国を除いた現在の石川県)に入った。
    わせの香や分(け)入(る)右は有磯海《ありそうみ》
   (早稲の香りのする稲穂畑を分け入って進み、加賀の国へ入ろうとしている。その右手には、行こうと思ったが叶わなかった有名な歌枕、有磯海が広がっている)


 


十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 10の4
 帥民部卿経信卿、また、この人(藤原公任)におとらざりけり。
 白河院、西川に行幸の時、詩・歌・管絃の三つの舟を浮べて、その道々の人々を分かちて乗せられけるに、経信卿、遅参のあひだ、ことのほかに御気色悪しかりけるほどに、とばかり待たれて参りたりけるが、三事兼ねたる人にて、汀にひざまづきて、「やや、どの舟にまれ、寄せ候へ」と言はれたりける、時にとりていみじかりけり。かく言はれん料に、遅参せられけるにこそ。
 さて、管絃の舟に乗りて、詩歌を献ぜられたりけり。「三つの舟に乗る」とはこれなり。

※白河院が大堰川に行幸した際、漢詩・和歌・管弦の三つの船を川に浮かべ、その道に優れた人を乗せました。ところが、経信卿が遅れて姿を見せなかったので、院の機嫌が大変悪くなりました。しばらく待っているうちに経信卿参上。詩でも、歌でも、音楽でもどの道にも通じている人でしたので、経信卿は水際に膝まづいて、「おおい、どの舟でもかまわない、お乗せ下され」といいました。その場においては、これほど誇らしく、見事な振る舞いはありません。
 もっとも、このような言葉をいうために、わざと遅参したとも言われている程です。経信卿はその時、管弦の舟に乗って、漢詩と和歌を献じました。

十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 10の5 
 後三条院、住吉社に御幸ありける時、経信卿、序代を奉られけり。その歌にいはく、
  沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづえを洗ふ白波
 当座の秀歌なり。
 かの卿、のちに俊頼朝臣を呼びて言はれける、「古今に入れる躬恒歌に、
  住吉の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波
 この歌、任大臣の大饗せん日、わが所詠の沖つ風の歌、中門の内に入りて、史生の饗につきなんや」と。俊頼いはく、「この仰せいかが。かの歌、全く劣るべからず。しかれども、古今歌たるによりて、かぎりありて、まづ任大臣候はんに、御作は一の大納言にて、当者として、南階よりねりのぼりて、対座に居なんとこそ存じ候へ」と言ふ。
 「さてはさもありなんや、いかがあるべき」とて、感気ありけり。
 また、自嘆していはく、「躬恒家集、歌多かるなかにも、『松を秋風』の歌のたけ・しなは、年長(た)けたる胡人の、錦の帽子したるが、尺八・琵琶を鳴らし、紫檀の脇息おさへて、詩を詠じ、うそぶき、眺望したる姿なり。このに向ひて、あひしらひしつべきは、わが、『沖つ風』の歌こそあれ」と言はれけり。
 人の身には、一能の勝るるだにありがたきに、この人々、上古にすすめる英才なり。ゆゑに、能の始めに、これを注(しる)す。

現代語訳
 後三条院が、住吉大社に行幸なさった時に、経信卿が、序代(和歌の序文)を奉られた。その歌にいうには、
   沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづえを洗ふ白波
   (沖の方では風が吹いたらしい。住吉の岸辺に生える松の下枝を、高くなって押し寄せる白波が洗っていることだ。)
 その場にあたっての秀歌です。
 その卿(経信)が、のちに俊頼朝臣を呼んでおっしゃるには、「『古今集』に入っている凡河内躬恒の歌に、(こうある)
   住吉の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波
   (住吉の浜に秋風が吹き、松が快い響きを立てると、沖では白波がそれに応じて楽を奏でている。)
 この歌は、(この歌を大臣にたとえれば)大臣に任命された時の祝宴をする日に、私の詠んだ「沖つ風」の歌は、(お屋敷の)中門の中に入って、史生(下級役人、招待客の最下位)の御膳ぐらいはいただけるだろうか」と。
 俊頼が言うには、「このお言葉はいかがなものでしょう。あの(沖つ風の)歌は、全く(躬恒の歌に)劣りはしません。しかしながら、『古今集』の歌でありますから、(比較にも)限度がありまして、まず(躬恒の歌が)任大臣の祝宴がありましたら、御作(沖つ風)は第一の大納言でありまして、当者(尊者の誤写? 主賓)として、(正面の)南の階からしずしずと昇って、(大臣の)正面の座に座るであろうと存じますが」と言います。
 (経信は)「それならそうなるかもしれないな、(そうなったら)どうしようかな」と、嬉しそうでした。
 また、(経信が)自賛して言うには、「躬恒の家集に、歌が多くある中にも、『松を秋風』の歌の勢いや基本は、老いた胡人の、錦の帽子をかぶったのが、尺八・琵琶を鳴らし、紫檀の脇息に寄りかかって、詩を詠じ、吟じて、あたりを眺めわたしている姿(のよう)でした。この歌に向かって、お相手することができるのは、私の、『沖つ風』の歌であろうよ」とおっしゃいました。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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