瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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百人一首についての調べも最後に入りました。百人一首91~100について調べてみました。

91.後京極摂政前太政大臣 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む(新古今集)
 後京極摂政前太政大臣 藤原〔九条〕良経(ふじわらのよしつね,くじょうよしつね、1169~1206年)は平安末期・鎌倉初期の貴族・歌人。兼実の子。摂政、太政大臣を歴任。歌を藤原俊成に学んで歌壇の中心人物の一人になったほか、漢詩や書画にも優れていた。『新古今和歌集』の仮名序を執筆。
現代語訳 こおろぎが鳴く霜の降りた夜の寒々とした筵の上に、衣の片袖を敷いて、一人寂しく寝るのだろうか。
※平安時代は女性と男性がともに寝る時は、お互いの着物の袖を枕にして敷きました。そこでこの歌のように、自分で自分の袖を敷いて寝るのは「わびしい独り寝」だと読めるわけです。
92.二条院讃岐 わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし(千載集)
 二条院讃岐(にじょういんのさぬき、1141?~1217?年)は平安末期・鎌倉初期の歌人。源頼政の娘。二条天皇、後鳥羽天皇中宮任子に仕えました。
現代語訳 私の袖は、干潮の時にも海に没して見えない沖の石のように、人は知らないが、涙に濡れて乾く間もありません。
※和泉式部に「わが袖は 水の下なる石なれや 人に知られで かわく間もなし」という歌があります。今回の歌は和泉式部の歌を基にした「本歌取り」なのですが、「水の下なる石」という表現を見えない遙かな沖の石にした発想が斬新で、そのため作者は「沖の石の讃岐」と呼ばれといいます。
93.鎌倉右大臣 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも(新勅撰集)
 鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん) 源実朝(みなもとのさねとも、1192~1219年)は鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。兄頼家の死後、将軍となりましたが、実権は北条家にありました。右大臣就任の拝賀式が行われた鶴岡八幡宮で、頼家の子公暁に暗殺されました。藤原定家に和歌の指導を受ける一方で、万葉調の要素を取り入れた独自の和歌を完成させました。家集『金槐和歌集』があります。
現代語訳 世の中は不変であってほしいなあ。渚を漕ぐ漁師の小舟の引き綱を見ると、胸をしめつけられるような思いがこみ上げてくるよ。
※のんびりと平和な日常が永遠に続けばいいのに、と願う一首です。12歳で日本の武士のトップにいやおうなく立たされ、しかも繊細で感受性豊かで優しすぎる性格ならば、泥臭い政治の世界のまっただ中にいる毎日は、さぞやストレスがたまるものだったでしょう。
94.参議雅経 み吉野の 山の秋風 さ夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり(新古今集)
 参議雅経(さんぎまさつね) 藤原〔飛鳥井〕雅経(ふじわらのまさつね,あすかいまさつね、1170~1221)は鎌倉初期の歌人。九条頼経の子。蹴鞠に優れ、飛鳥井流の祖となる。『新古今和歌集』の撰者の一人。
現代語訳 奈良の吉野の山に、秋風が吹きわたる。夜がふけて(吉野という)かつての都は寒々とわびしく、衣を砧(きぬた)で叩く音が響いている。
※中国・唐の大詩人、李白の詩に 「長安一片月 万戸擣(打)衣声 秋風吹不尽 総是玉関情…」 という有名な歌があります。「擣衣(とうい)」は、砧という丸太に柄のついたような棒で衣を叩いて光沢を出す作業で、静かな秋の夜にそれぞれの家庭からこの音が聞こえてきて、風物詩となっていました。雅経のこの一首も「擣衣(とうい)」というテーマを出されて作った歌のようです。また古今集の 「み吉野の 山の白雪つもるらし ふるさと寒くなりまさるなり」(坂上是則)という歌の本歌取りにもなっています。

95.前大僧正慈円 おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖(千載集)
 前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん) 慈円(1155~1225年)は平安末期・鎌倉初期の僧・歌人・学者。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。良経の叔父。第62世、第65世、第69世、第71世天台座主。史論『愚管抄』
現代語訳 私が、身の程をわきまえずしたいと願うのは、つらい世の中で生きている人々に覆いをかけることなのだ。比叡山に住みはじめた私の墨染めの袖を。 ― 仏の力で世の中をおおって、人々を救いたいのだ。
※慈円の生きた時代は、権力を極めた藤原氏の勢力が徐々に弱まり、貴族そのものが衰退して新興勢力である武士の時代へと移り変わっていくその時でした。保元・平治の乱で都が荒れ、1192年にはついに鎌倉幕府が開かれます。激動の時代そのものでした。
96.入道前太政大臣 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり(新勅撰集)
 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん) 藤原〔西園寺〕公経 (ふじわらのきんつね,さいおんじきんつね、1171~1244年)は鎌倉前期の公卿・歌人。藤原定家の義弟。承久の乱に際して鎌倉幕府に内通し、乱後は幕府権力を背景に内大臣、太政大臣に昇進。京都北山に壮麗な西園寺(鹿苑寺[金閣寺]の前身)を建立するなど、藤原氏全盛期に匹敵する奢侈を極めた。
現代語訳 花をさそって散らす嵐の吹く庭は、雪のような桜吹雪が舞っているが、本当に古りゆくものは、雪ではなくわが身であったなあ。
※処世は卓越していましたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く 、その死にのぞんで平経高(鎌倉時代中期の公卿)も「世の奸臣」と日記に記しているそうです。
97.権中納言定家 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ(新勅撰集)
 権中納言定家(ごんちゅなごんさだいえ) 藤原定家(ふじわらのさだいえ[ていか]、1162~1241年)は鎌倉初期の歌人。俊成の子。父俊成の幽玄体を発展させた有心体を提唱し、新古今調の和歌を大成しました。『新古今和歌集』の撰者の一人であり、後に単独で『新勅撰和歌集』を撰進。『小倉百人一首』の撰者。歌論書『近代秀歌』『毎月抄』、日記『明月記』
現代語訳 いくら待っても来ない人を待ち続けて、松帆の浦の夕凪のころに焼く藻塩が焦げるように、私の身もいつまでも恋こがれています。
※この歌の主人公は、海に入ってあわびなどの海産物を採る海乙女(あまおとめ)の少女です。いつまでたっても来てはくれない、つれない恋人を待って身を焦がす少女。やるせなく、いらだつ心を抱くその姿を、松帆の浦で夕なぎ時に焼く藻塩と重ねて表しています。煙がたなびく夕方の海辺の景色と、初々しい女の子の心の揺れが読み手に伝わる、とても繊細でロマンチックな名歌といえるでしょう。
98.従二位家隆 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける(新勅撰集)
 従二位家隆(じゅにいいえたか) 藤原家隆(ふじわらのいえたか、1158~1237年)は平安末期・鎌倉初期の歌人。藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。
現代語訳 風がそよそよと楢の葉に吹く、ならの小川[上賀茂神社の御手洗川]の夕暮れは、すっかり秋めいているが、六月祓のみそぎだけが夏のしるしなのだった。
※この歌は、詞書に「寛喜元年女御入内屏風(かんぎがんねんにょうごじゅだいのびょうぶ)に」とあります。前の関白だった藤原道家の娘、竴子(しゅんし)が後堀河天皇の中宮(皇后の別名です)になって入内した時に、屏風が嫁入り道具としてあつらえられます。その屏風には宮中での年中行事が月ごとに描かれているのですが、その6月の部分に六月祓(みなづきばらえ)の絵の下に書かれたのが、この歌であったというわけです。
99.後鳥羽院 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は(続後撰集)
 後鳥羽院(ごとばいん) 後鳥羽天皇(1180~1239年、在位1183~1198年。第82代天皇)は高倉天皇の第4皇子。諸芸、とくに歌道に優れ、和歌所を設置し、『新古今和歌集』を勅撰。承久の乱で敗れて隠岐に配流され、その地で崩御。
現代語訳 人をいとおしく思うこともあれば、人を恨めしく思うこともある。思うにまかせず、苦々しくこの世を思うがゆえに、あれこれと思い煩うこの私は。
※この一首は、後鳥羽院が33歳の折りに詠んだ歌だと言われてい ます。憂鬱さが漂う歌ですが、それは貴族社会の終わりに立ち会った院の深い実感でしょう。後鳥羽院は、政治権力を奪われた立場にあり、また貴族社会の復権を強く望み、歌会など勢いが盛んだった時代を彷彿とさせるような催しを数多く執り行っています。
100.順徳院 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり(続後撰集)
 順徳院(じゅんとくいん) 順徳天皇(1197~1242年、在位1210~1221年、第84代天皇)は後鳥羽天皇の第3皇子。承久の乱で敗れて佐渡に配流され、その地で崩御。
現代語訳 宮中の古い軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないものは、昔のよき(天皇親政の)時代であるよ。
※かつての醍醐・村上天皇の時代(9世紀末から10世紀中盤)には貴族は全盛を迎え、「聖代」とまで呼ばれるほどでしたが、その栄華を武家からもう一度取り戻そうと後鳥羽院・順徳院親子が謀ったのが「承久の乱」(1221年)です。


 


 昨日は朝食後、散髪に行きました。帰りに隅田公園の桜を携帯に納めてきました。まだ、8分咲きという所ですが、公園内は朝から花見客で込み合っていました。


 横浜のIN氏より、メールが入りました。曰く、
2017/04/04 17:11 題 サッカー二浪の孫
 日高節夫様
 四月になりました。元気で桜のシーズンをお迎えのこととお察しします。
 先日は、電話で、元気な声を聴かせてくださって、とても嬉しかったです。
 数年前までは、君のご尽力のお蔭で、毎年、浅草・隅田川の桜を愛でさせてもらって改めて感謝しています。
 本当にあの頃の集まりは、今考えてみると、得難い集会だったよ。あの頃の君のご尽力に改めて御礼を申し上げます。
 さて、二浪中の孫息子は、今年、慈恵に合格し、明後日の入学式を迎えることになりました。塾長先生には遅まきながら、ご報告申しあげます。
 赤ひげみたいな貧乏人に優しい医者になってほしいと思っています。  IN 


見せばやな 雄島(をじま)の蜑(あま)の 袖だにも
     濡れにぞ濡れし 色は変はらず
          殷富門院大輔(90番) 『千載集』恋・884
 この歌は「袖の色が変わる」と語って、涙が枯れて血の涙が出る ほど激しく泣いたことを暗示しています。ちなみに「血涙」というのは、中国の古典から来た言葉です。なげく心を(やや大げさに)表現した言葉としてよく使われます。

韓非子「和氏篇」原文
 楚人和氏得玉璞楚山中 奉而獻之厲王 厲王使玉人相之 玉人曰石也。王以和為誑 而刖其左足 及厲王薨 武王即位 和又奉其璞而獻之武王  武王使玉人相之 又曰石也。王又以和為誑 而刖其右足 武王薨 文王即位  和乃抱其璞而哭於楚山之下 三日三夜 淚盡而繼之以血 王聞之 使人問其故 曰天下之刖者多矣 子奚哭之悲也 和曰吾非悲刖也 悲夫寶玉而題之以石 貞士而名之以誑 此吾所以悲也 王乃使玉人理其璞而得寶焉 遂命曰 和氏之璧
読み下し文
 楚人の和氏(かし)、玉璞(ぎょくはく)を楚山の中に得たり、奉じて之を厲王(れいおう)に献ず。 厲王、玉人をして之を相せしむ。 玉人曰く、 石なり、と。 王、和を以て誑(きょう、たぶらかし)と為し、而して其の左足を刖(き)る。 厲王の薨こうじるに及び、武王即位し、和、又た其の璞はくを奉じて之を武王に献ず。武王、玉人をして之を相せしむ。 又曰く、 石なり、と。 王、又た和を以て誑と為し、而して其の右足を刖る。武王薨じ、文王即位し、和、乃ち其の璞を抱きて楚山の下に哭し、三日三夜、泣尽きて之を継ぐに血を以てす。王、之を聞き、人をして其の故を問わせしむ。曰く、 天下の刖きせられる者多し、子なんぞ哭し之を悲しむや、と。 和曰く、 吾は刖るを悲しむに非ざるなり。悲なるは夫の宝玉にして之を題するに石を以てし、貞士にして之を名づくるに誑を以てす、此れ吾が悲しむ所以なり、と。 王、乃ち玉人をして其の璞を理おさめ、而して宝を得たり。遂に命じて曰く、 和氏の璧、と。

解釈
 楚の人で和氏(かし)という者が楚山の中で璞玉(あらたま)を見つけて厲王に献じた。 厲王は玉工に鑑定させたが、玉工曰く、 これは石です、と。 王は和氏を君を欺く者であるとして、その左足を切った。
 厲王が崩御して武王が即位すると、和氏は再びその璞玉を献じた。 武王も玉工に鑑定させてみたが、玉工は再び曰く、 石です、と。 武王も和氏を君を欺く者だとして、今度はその右足を切った。
 武王が崩御して文王が即位した。 和氏は璞玉を抱いて楚山の下で慟哭し、三日三夜、泣き続けて涙が尽きると血が継いだ。
 文王は之を聞いて、使者を遣わしてその理由を聞かせて曰く、 世間では足を切られる者は多いのに、どうしてそんなにも悲しむのか、と。 和氏が答えて曰く、 私は足を切られたことを悲しんでいるのではありません。 宝玉であるのに石とされ、忠貞の士であるのに君を欺く者とされた事を悲しんでいるのです、と。
 これを聞いた文王は玉工にその璞玉を磨かせた。すると和氏の言の通り、見事な宝玉であった。 文王はその立派さに感嘆してこう名づけた。 和氏の璧、と。

無名抄 第65話 大輔小侍従一双事
 近く女歌詠みの上手にては、大輔・小侍従とて、とりどりにいはれ侍りき。
 大輔は今少し物など知りて、根強(ねづよ)く詠む方は勝り、侍従は華やかに目驚く所詠み据うることの優れたりしなり。
 中にも歌の返しすることの優れたりとぞ。「本歌にいへることの中に、さもありぬべき所をよく見つめて、これを返す心ばせの、あふかたきもなきぞ」とて、俊恵法師は申し侍りし。
※小侍従(こじじゅう、生没年不詳、1121~1202年頃)は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人です。
 鴨長明は、当時人々の評判になっていた女流歌人として、殷富門院大輔と小侍従の両名を挙げているのです。また、落ち着いた感じの大輔に比べ、小侍従は華やかで人目を驚かすような表現を得意とし、誰よりも返歌の名手であると評したのです。
 女流歌人として二人を認めつつ、実生活に積極的で華やかな大輔と内向的であるとされた小侍従の 歌の特徴を俊恵法師の言葉も引用しながら、よくいい表した評論といえるでしょう。


 


後鳥羽院御口伝 8
 又、寂蓮・定家・家隆・雅經・秀能等なり。寂蓮はなほざりならず歌よみしものなり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞかへりていたくたかくはなかりしかども、いざたけ有歌よまむとて、たつたのおくにかゝる白雲、と三體の歌によみたりし、おそろしかりき。おりにつけて、きと歌よみ、連歌しの至狂歌までも、にはかの事も、ゆへ有樣にありしかたは眞實堪能とみえき。家隆は、若かりしおりはいときこえざりしかど、建久のころほひよりことに名譽も出きたりき。歌になりかへりたるさまかひがひしく、秀歌どもよみあつめたるおほき、誰にもまさりたり。たけもあり心もめずらしく見ゆ。雅經はことに案じ、かへりて歌よみしものなり。いたくたけ有歌などは、むねとおほくはみえざりしかども、てだりとみえき。秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。女房歌よみには、丹波やさしき歌あまたよめり。
   苔のたもとにかよふ松風       木葉くもりて
   浦こぐ船はあともなし        わすれじのことの葉
   ことのほかなる峯のあらしに
 この外も、おほくやさしき歌どもありき。人の存知よりも、愚意にことによくおぼえき。故攝政はかくよろしきよし仰くださるゝゆへに、老の後かさあがりたるよし、たびたび申されき。

現代語訳
 また寂蓮、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、藤原秀能などがすぐれた歌人である。寂蓮は歌を詠むことを決しておろそかにしなかった。あまりに歌を案じて心をくだいたために、かえって気宇の大きさなどについては極めて大きいというふうにはならなかったけれども、「それならば気宇の大きい、格調の高い歌を詠んでみよう」と思いたって、
     葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかる白雲
    (葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。)
と、三体の歌という課題に詠んだのである。おそろしいことだ。折にふれて即座に歌を詠み、あるいは連歌の遊びのすえにふざけて狂歌を詠むような(準備のできない)急場のことであっても、賞翫にたえる歌を詠んだのであるから、まことにこの道に優れていたのだと思われる。家隆は若いころは歌人としての名声はほとんど聞こえなかったけれど、建久年間ごろから特に賞翫されるような秀歌を詠みはじめた。歌の世界にその身を徹しする様子がいかにも徹底していて、秀歌をたくさん詠んだことなどは、ほかのどの歌人よりも優れていた。格調も高く、歌の内容も新味がある。雅経はたいへんよく歌を案じ、考えなおしなおしして詠んだ。主として、特に格調の高い歌などはあまり多くは見えないが、なかなかの上手であったようである。秀能はその卑賤の身分にもかかわらず歌に格調があって、それほどではない出来の歌も、読んでみると読みばえのするような感じであった。ただし実際には、詠みためておいた歌のなかにはやりすぎと思われるようなものもあった。しかしながら秀能の作については、近ごろ定家が無上の歌といったと聞く。女房の歌人のなかには丹後が優艶な歌をたくさん詠んだ。
     なにとなく聞けば涙ぞこぼれぬる苔のたもとにかよふ松風
    (聞けばわけもなく涙がこぼれてならない。この墨染の袖に吹き通う松風よ。)
     吹きはらふ嵐ののちの高嶺より木の葉くもらで月や出づらむ
    (激しい風が吹き、木々を揺すって葉を残らず散らした。この嵐の後にあって、あの高嶺から木の葉に遮られることなく月が昇ることだろうか。)
     夜もすがら浦こぐ舟は跡もなし月ぞ残れる志賀の唐崎
    (夜通し浦を漕いできた船は、もはや航跡も留めない。湖水のおもてには、ただ有明の月だけが残っている、志賀の辛崎のあけぼの。)
     忘れじのことのはいかになりにけむたのめし暮れは秋風ぞ吹く
    (「忘れない」との言葉は、どうなってしまったのだろう。期待していた今日の夕暮は、秋風が吹いているばかり。あの人の心にも「飽き風」が吹いて、約束の言葉を散らしてしまったのか。)
     山里は世の憂きよりも住みわびぬことのほかなる峰の嵐に
    (山里は、現世が辛いのに比べれば住みよいと聞くけれど、実際住んでみると、もっと住みづらく思える。峰を吹き渡る嵐は、思いもしなかったほど侘びしくて。)
 これらのほかにも優艶な歌が多くあった。世人の思う以上に、私には特にそのように(優艶な歌が多いように)思われた。主人であった良経は「このように、歌がよいということをおっしゃってくださいましたおかげで、丹後は(感激して)老年にいたって技量がさらにあがりました」とたびたび言われた。


 


西行物語 巻一(あらすじ)
 
 鳥羽院の御時、左兵衛尉藤原憲清という者がおりました。後に出家して西行と呼ばれたのがこの人です。憲清は、武士の家の生まれですから、武芸はもちろんですが、詩歌管絃の道にも優れた才能を示しました。また、和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にひけをとりません。帝も憲清をたいそう寵愛し、宮中での遊びのおりには、まず憲清を召し、側をはなしませんでした。
 ①     【憲清と妻子】ところが、憲清は、表面上は真面目に朝廷にお仕えしていましたが、心の底では、この世の無常を観じ、出家を望んでいました。(この世の栄耀栄華など、はかないもの。それに縛られて、死んでから地獄で苦を受けるとはあわれなこと。早く出家してしまいたいものだ。とはいえ帝の御恩や妻子のことを考えると……。)
 ②     【帝から剣を賜る憲清】大治二年十月、帝は鳥羽院に行幸し、御所の障子絵を御覧になりました。当時歌詠みと名高い人々を召し、障子絵を歌に詠ませました。中でも憲清の和歌はすばらしかったので、帝はその和歌を優れた手跡の者たちに書かせました。憲清は朝日丸という剣を賜りました。
 ③ 【憲清の果報を喜ぶ一族】女院からも十五の衣をいただいたので、驚き、うらやまない者はおりませんでした。夜になって憲清が宿所に帰ると、一族集って大喜びです。
 けれども憲清は、この様子を見ても、(やはり名聞利養や妻子・眷属は、この世への執着を起させるものであることよ。これもまた、わたしを仏道へ入らせようという仏のお導きかもしれない。)と、ますます出家に心を寄せるのでした。
 夜も更けたので、憲清は親しい佐藤憲康という者と二人、退出しました。道すがら、憲康は、「最近なにやらすべてが夢のような気がするのです。出家してどこかの山里に籠りたいものです。」と語ります。これを聞いた憲清は、何だか胸騒ぎがします。二人ともに涙で袂を濡らしました。憲康は、「明日は鳥羽殿へ参上する日ですね。ご一緒に参りましょう。誘ってください。」と言うと、七条大宮に帰って行きました。
 ④     【憲康の死を知る憲清】さて次の朝、憲清は約束通り、憲康を誘いにやってきました。ところが門のあたりでは人が大勢騒いでいます。家の中からも悲しむ声が聞こえます。不思議に思って中に入り、たずねてみると、「主は亡くなりました。」と言うではありませんか。(昨夜あんな話をしたのも、こうなることを分かっていたからなのか……。)と思うものの、目の前が真っ暗になったように感じます。
 すぐにでも出家しようと思うのですが、やはりもう一度帝に最後の挨拶をしてからと思い返し、御所に向かいました。
 鳥羽殿ではちょうど管絃の宴の最中でした。すぐに憲清が呼ばれます。ひとしきり盛り上がり、宴が終わると、憲清は出家の許しを乞いました。帝は大変驚き、もってのほかと聞き入れてくれません。しかし、ここで思いとどまってはいつ出家できるかわからないと、心を強く持ち、御所を退出しました。
 ⑤     【最愛の娘を蹴落とす憲清】家に帰ると、幼い愛娘が喜んで走り出てきます。「わあい、お父様のお帰りだわ。どうしてこんなに遅くなったの。きっと帝がお放しくださらなかったのね。」かわいらしい姿で憲清の袂にまとわりついて離れません。憲清は限りなく愛しく思いますが、この愛着を断ち切らねば出家できないと思い返し、娘を縁側から蹴落としました。娘はびっくりして泣き出しました。
 憲清はそれを聞かないふりで部屋の中へ入っていきます。女房や家来たちは、いつもと違う憲清の様子に驚き、騒いでいます。憲清の妻だけは、かねてから憲清の出家の志を知っていたので、驚く様子もありません。
 ⑥     【妻子を振り捨てて家を出る憲清】夜が更けると、憲清は妻にさまざま語り聞かせます。「夫婦は五百生の縁という。生まれ変わっても極楽の同じ蓮の上に生まれようではないか。」
  けれども妻は全く返事をしません。それでも憲清は、固く決心しているので、思い切って自分でもとどりを切ってしまいました。髪を持仏堂へ投げ入れると、門の外へ走り出ます。二十五年の間住み慣れた宿です。もうこれきりだと思うと胸がしめつけられるようです。妻子のことなどを思うと、いよいよ心乱れて、涙がとめどなくあふれてきます。
 ⑦     【庵室で極楽往生を祈る西行】憲清はそのまま西山のふもとの聖のもとに走っていき、そこでついに出家を遂げました。法名を西行と名付けられました。長年召し使ってきた家来もまた出家して、こちらは西住と名付けられました。西行は恩愛の絆を断ち切り、俗塵を離れて仏道に入ることが出来たことを喜び、西山のあたりに庵を結んで修行をはじめました。

『撰集抄』 巻五 第一五 「西行於高野奥造人事」(西行高野の奥に於いて人を造る事)
 「おなじき比(ころ)、高野の奥に住みて、月の夜ごろには、ある友達の聖ともろともに、橋の上に行あひ侍りてながめながめし侍りしに、此聖、「京になすべきわざの侍る」とて、情なくふり捨て登りしかば、何となう、おなじ憂き世を厭ひし花月の情をもわきまへらん友こひしく侍りしかば、思はざるほかに、鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろおろ語り侍りしかば、そのまゝにして、ひろき野に出て、骨をあみ連らねてつくりて侍りしは、人の姿には似侍れども、色も悪く、すへて心も侍らざりき。声はあれども、絃管の声の如し。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出べきはかり事ばかりをしたれば、吹き損じたる笛のごとくに侍り。
 おほかたは、是程に侍るも不思議也。さて、是をばいかがせん、破らんとすれば、殺業(せつごう)にやな侍らん。心のなければ、ただ草木と同じかるべし思へば、人の姿也。しかじ敗らざらんにはと思ひて、高野の奥に人も通はぬ所に置きぬ。もし、おのづからも人の見るよし侍らば、化物なりとやおぢ恐れん。
 さても、此事不審に覚て花洛にい出侍りし時、教へさせおはしし徳大寺へまいり侍りしかば、御参内の折節にて侍りしかば、空く帰りて、伏見の前の中納言師仲の卿のみもとに参りて、此事を問ひ奉りしかば、「なにとしけるぞ」と仰せられし時、「その事に侍り。広野に出て、人も見ぬ所にて、死人の骨をとり集めて、頭より手足の骨をたがへでつづけ置きて、砒霜(ひさう)と云ふ薬を骨に塗り、いちごとはこべとの葉を揉みあわせて後、藤もしは絲なんどにて骨をかかげて、水にてたびたび洗ひ侍りて、頭とて髪の生ゆべき所にはさいかいの葉とむくげの葉とを灰に焼きてつけ侍り。土の上に、畳をしきて、かの骨を伏せて、おもく風もすかぬようにしたためて、二七日置いて後、その所に行きて、沈と香とを焚きて、反魂(はんごん)の秘術を行ひ侍りき」と申侍りしかば、「おおかたはしかなん。反魂の術猶日あさく侍るにこそ。我は、思はざるに四条の大納言の流を受けて、人をつくり侍りき。いま卿相にて侍れど、それとあかしぬれば、つくりたる人もつくられたる物も失せぬれば、口より外には出ださぬ也。それ程まて知られたらんには教へ申さむ。香をばたかぬなり。その故は、香は魔縁をさけて聖衆をあつむる徳侍り。しかるに、聖衆生死を深くいみ給ふほどに、心の出くる事難き也。沈と乳とを焚くべきにや侍らん。又、反魂の秘術をおこなふ人も、七日物をば食ふまじき也。しかうしてつくり給へ。すこしもあひたがはじ」とぞ仰せられ侍り。しかれども、よしなしと思ひかえして、其後はつくらずなりぬ。・・・」

要約
 高野山の奥に住んでいたころ、月の夜には友人の西住上人と奥の院の橋の上へ行き、ともに月をながめたりしていたが、彼は『京に用事があるから』と、情けなくも私を捨てて都へ上ってしまった。憂き世を厭いながら花や月の情趣をともにすることができる友が恋しくなり、思いがけず、鬼が人骨を取り集めて人を作るように、人間を造ってみようとおもいたった。信頼できる人から作り方のあらましを聞いていたので、そのとおりに、野原に出て拾った骨を並べ連ねて造ったが、人の姿に似てはいても、色も悪く、なによりも心がなかった。声は出るものの絃管を鳴らすかのようだった。まこと、人はその心があればこそ、とにもかくにも声を使うことができる。声を出すだけだから吹き損じた笛のようだった。
 おおかたこんなふうだったが、さて、どう始末しようか。破壊するのは人殺しになるのだろうか。心がないから草木と同じとも思えるが、姿は人間である。
 破壊しないわけにはいかないだろうと、高野の奥の人も通わないところに捨てた。もし偶然に人が見かけたら、化け物と思って恐れるだろう。
 どうして失敗したのか不審でならなかったので、あるとき都に出向いたおり、作り方を教わった徳大寺を訪ねた。参内なさって留守のため空しく退出したが、次に伏見の前の中納言師仲の卿のところへ行き、こちらは面会して質問することができた。 「どのように造ったのかね」とおっしゃるので 「そのことですよ。広野に出て、人の見ないところで死人の骨を取り集めて、頭から手足まで間違えずに並べておいて、砒霜(ひそう)という薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉を揉み合わせた後、藤の若芽などで骨を括って、水でたびたび洗いしました。頭の髪の生えるべきところには、さいかいの葉とむくげの葉を灰に焼いて付けました。土の上に畳を敷いて骨を伏せ、風の通らないようにしつらえて27日置いてから、その場所に行って沈(じん)と香(こう)を焚いて反魂(はんごん)の秘術を行いました」。 「おおかたはそんなものでしょう。反魂の術を行うにはまだ日が浅いな。私は四条の大納言の流儀を伝授されて、人を作ってきた。大臣に出世している者もあるが誰とは明かせない。明かすと、作った者も作られたれた者も消滅してしまうから、口に出せない。あなたも人作りのことを知っているようだから、教えてあげよう。香は焚かないこと。なぜなら、香には魔縁を遠ざけて聖衆(しょうじゅ)を集める徳があるから。ところが聖衆は生死を深く忌むので、心が生じさせるのは難しい。沈(ぢん)と乳(ち)を焚くとよいだろう。また、反魂の秘術を行う人は、7日間ものを食ってはならない。そのようにして造れば、たがわずうまく作れるだろう」という。ではあるが、いろいろと思い返してみるとつまらない気がしてきて、その後は人を作ることはなかった。


 


無名抄 第14話 千鳥鶴の毛衣を着る事
 俊恵法師が家をば歌林苑と名付けて、月ごとに会し侍りしに、祐盛法師、その会衆にて、「寒夜千鳥」といふ題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」といふ歌を詠みたりければ、人々、「めづらし」など言ふほどに、素覚といひし人、度々(たびたび)これを詠じて、「面白く侍り。ただし、寸法や合はず侍らん」と言ひ出でたりけるに、とよみになりて、笑ひののしりければ、ことさめて、やみにけり。「いみじき秀句なれど、かやうになりぬれば、かひなき物なり」となん、祐盛語り侍りし。
 すべては、この歌の心得ず侍るなり。鳥はみな毛衣を衣とする物なれば、ほどにつけて、千鳥もみづから毛衣着ずやはあるべき。必ずしも、寸法、ことのほかなる借り物すべきにあらず。かの「白妙の鶴の毛衣年経(ふ)とも」といふ古歌(ふるうた)あるにこそあれ。いづれの鳥にも詠まんに憚(はばか)りあるべからず。先にや申し侍りつる、建春門院の殿上の歌合にも、「鴛鴦(をし)の毛衣」と詠める歌侍り。いささか疑ふ人ありけれど、判者、咎(とが)あるまじきやうになだめられたり。ただし、「鶴の毛衣は毛の心にはあらず。別の事なり。鶴ばかり持たるなり」と申す人侍れど、いまだその証をえ見及び侍らず。弘才の人に尋ぬべし。

現代語訳
 [千鳥が鶴の毛衣(けごろも)を着る話]
 俊恵法師の家を「歌林苑」と命名し、毎月歌会を催していましたが、祐盛法師が、その会の参加者であって、「寒い夜の千鳥」という題で、「千鳥も着ているなあ、鶴の羽の衣を」という歌を読んだそうですが、みんな、「新鮮だ」といったが、素覚(俗名:藤原家基)法師といった人が、何度もこの歌を口ずさんで、「おもしろうございます。ただし、(小さな千鳥が大きな鶴の毛衣を借りるのは)寸法が合っていないのではないでしょうか」と口に出したそうですが、(それでみんな)どっと笑ってしまったそうで、しらけて終りになったそうです。「たいそう優れた言い回しであるが、こんな(ふうに揚げ足をとられて笑いの対象)になってしまったら、(せっかく優れた歌を詠んだ)価値がないものである」と、祐盛法師が(私に)話しました。)
 (まったくもって(素覚の)いちゃもんには納得いきません。鳥(というもの)はすべて、毛を身にまとっているので、(大小問わず)身柄に応じて、千鳥(でさえ)も(毛衣を)身に着けないことはありえない。(だから)必ずしも寸法が段違いの借り物をする(などという設定で歌を受け取る)必要もない(自前の毛衣をそう見立てればいいのだから)。有名な(不詳)「真っ白な、鶴の毛衣が長年経っても」という古歌があるのではあるが、(これを証歌として「毛衣」を鶴の専売特許とする必要もなく)、どんな鳥を呼んだとしても、(「毛衣」と詠んで)遠慮する必要はない。(現に)前に申し上げました、「建春門院の殿上の歌合」でも、「オシドリの毛衣」と詠んだ歌がございました。(その言い回しを)ちょっと疑問視する人はいましたが、判者(俊成)が、問題はなさそうだと説得なさっていました。「ただし、『鶴の毛衣』(というもの)は、(他のどんな鳥も持っている)毛(すなわち「羽根」)のことではなく、特別なもの(を指すの)である」と申す人もおりますが、(私は)今に至るまで、(『鶴の毛衣』が、『鶴の羽根』以外の何かを指し示すという)例証を発見できないでおります。(誰か)博識な人に尋ねてください(私的には、『鶴の毛衣』が特別だとはどうしても思えません。)

無名抄 第8話 頼政歌俊恵撰事
 建春門女院の、殿上の歌合に、「関路落葉」といふ題に、頼政卿歌に
  都にはまた青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関
と詠まれて侍りしを、その度(たび)この題の歌をあまた詠みて、当日まで思ひ煩(わづら)ひて、俊恵を呼びて見せられければ、「この歌はかの能因が『秋風ぞ吹く白河の関』といふ歌に似て侍り。されど、これは出栄(いでば)えすべき歌なり。かの歌ならねど、かくもとりなしてんと、べしげに詠めるとこそ見えたれ。似たりとて、難とすべきさまにはあらず」と計らひければ、今、車さし寄せて乗られけるとき、「貴房の計らひを信じて、さらばこれを出だすべきにこそ。後の咎(とが)はかけ申すべし」と言ひかけて出でられにけり。
 その度、この歌、思ひのごとく出栄えして、勝ちにければ、帰りてすなはち、喜び言ひ遣はしたりけるとぞ。
 「見る所ありて、しか申たりしかど、勝負聞かざりしほどは、あひなくよそにて胸つぶれ侍りしに、いみじき高名したり」となん、心ばかりは思え侍りし」とぞ、俊恵語り侍し。

現代語訳
 建春門女院(※1)の殿上歌合(※2)で前もって「関路落葉」という歌の題が出された時に、頼政卿(※3)は、
    都には まだ青葉にて見しかども、紅葉散り敷く白河の関
   (旅立った時の都ではまだ青葉の状態で見たが、紅葉が散っているよ、ここ白河の関では)
の歌の他に同じ歌題で幾つか作り、どれを歌合で発表するかで当日まで悩んだ末に俊恵を呼んで、歌を見せて彼の意見を聞いたところ
「この『紅葉散り敷く白河の関』の歌は、かの能因(※4)の『秋風ぞ吹く白河の関』の歌に似ています。しかし、『紅葉散り敷く白河の関』は歌合の場で詠み上げれば、集まった人たちに色鮮やかな場面を思い起こさせる事が出来るという意味ではか、とても「出(い)で栄え」のする歌です。例え歌合いに集まった人たちが『紅葉散り敷く白河の関』をかの能因の歌に似ていると知っていたとしても、このように鮮烈な場面展開を詠んでいますから能因の本歌をはるかに圧倒しており、能因の歌に似ているからと誰も批判する事はないと思います」
と、俊恵が強く『紅葉散り敷く白河の関』の披露を推奨したので、差し寄せた車に乗った頼政は、「貴房のご判断を信じてこの歌を歌合にだすことにしましよう。結果に対する責任は取ってもらいますよ」と、声をかけて出かけて行った。
 さて、当の歌合で頼政の『紅葉散り敷く白河の関』は俊恵の予想通り歌合で鮮烈な印象を与えて判者の藤原俊成と参加者の評価を得て勝ちとなり、頼政は帰宅後ただちに俊恵のもとに使いを走らせ喜びの気持ちを伝えた。
「私としても頼政卿の『紅葉散り敷く白河の関』の歌は見所があったので、あのように申し上げたものの、本来自分とは直接関係のない部外者でありながら、結果を待つまで胸がつぶれるような思いであった。この事は私にとってもたいそうな手柄になったと、心中で思ったものだ」と、後に俊恵は長明に語った。
(※1)建春門女院:平滋子。康治元(1142)年~安元2(1176)年、享年35歳。平時信の娘、平清盛の妻平時子の妹。後白河院の女御、高倉天皇の母となり皇太后となって建春門院の院号を蒙る。
(※2)建春門女院の殿上歌合:建春門院北面歌合。嘉応2(1170)年10月19日(歌合本文は10月16日)に催された。題は「関路落葉」「水鳥近馴」など3題。作者は藤原実定・同隆季・同俊成・同重家・同清輔・同隆信・源頼政・同仲綱等20名。判者は藤原俊成。
(※3)頼政卿:源頼政。長治元(1104)年~治承4(1180)年。享年77歳。清和源氏、仲正の息子。仲綱・二条院讃岐の父。蔵人・兵庫頭を経て右京権太夫従三位に至る。治承4年5月後白河院皇子以仁王を戴き平家追討の兵を挙げたが宇治川の合戦で敗れ、平等院で自害した。家集『源三位頼政集』
(※4)能因(のういん):永延2年(988)生まれ、没年未詳。平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。俗名は橘永緂(ながやす)。出家前から藤原長能に和歌を学び、摂津に住み、陸奥・美濃・伊予・美作など各地に旅をした。家集『能因集』、歌学書『能因歌枕』。

無名抄 [頼政歌数寄事]
 俊恵いはく、「頼政卿はいみじかりし歌仙なり。心の底歌になりかへりて、常にこれを忘れず、心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそそと吹くにも、まして、花の散り、葉の落ち、つきの出で入り、雨・雪などの降るにつけても、立ち居起き伏しに、風情をめぐらさずといふことなし。真に秀歌の出で来る、理(ことわり)とぞおぼえ侍りし。かかれば、しかるべき時、名を上げたる歌は、多くは擬作にてありけるとかや。大方、会の座に連なりて、歌うち詠じ、よしあしき理などせられたる気色も、深く心に入りたることと見えていまじかりし。かの人のある座には、何事も映(は)えあるやうに侍りしなり」。

現代語訳
[頼政が、歌に没頭していた話]
 俊恵が、「頼政卿は、たいへんな歌の名手である。心の底まで歌になりきって、平生、歌のことを忘れず、気にかけながら、鳥がひと声鳴いたり、風がそよそよと吹くにつけても、いうまでもなく、桜が散ったり、葉が落ちたり、月が出入りしたり、雨や行くが降ったりするにつけても、居ても立っても起きても寝ても、風情に配慮しないというときはない。(それなら)優れた歌ができるのが当然だと思われました。こういうわけで、相当な歌会で、(頼政卿が)名声を上げた歌は、多くは、あらかじめ用意した歌であったとかいうことだ。総じて、歌会の場に(頼政卿が)列席して、歌を詠んだり、(歌の)良し悪しを表したりなさっている様子も、深く心に染み入っていること(を口にしているのだ)と思われてすばらしかった。かの頼政卿がいる場では、すべてに花があるようでございましたのです」といった。)


 


「長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」の原典と言われている「白氏文集(はくしもんじゅう)」の詩

詩意
 日増し容色が老けて 愉快といふものは 殆んど無い 今でさい若い時の様ではないのだから、この上年を取ったら 今ほどにも往かないであろう せめて今の中に楽しんで置くがよい 今は未だ左程の衰へたといふでもない 何事でも大抵はやつてのけられる。
 花が咲けば観に出掛けたくもあり 酒を飲めば  詩を吟じる事もできる この興味もやがて消滅するであろうと思うと実に心細い、東城の春も 老いるであろうと思って 勉強して観に来たわけだ。

奥の細道 (白川の関 元禄2年4月21日)
 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人*心をとヾむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に*、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置れしとぞ 。
   卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良

現代語訳
 ここまでは、なんとなく不安な気分が続いていたのだが、白河の関にかかった頃からようやく旅の心も定まってきた。「便あらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」の平兼盛の歌(『類字名所和歌集』)のように、親しい人に伝えたくなる気持ちがよく分かる。
 この関所は、勿来・鼠の関と共に三関の一つで、古来、多くの歌人の心を魅了してきた。能因法師の歌「都をば霞とゝもに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」からは秋風が聞こえるようだ。左大弁親宗の「もみぢ葉の皆くれなゐに散しけば名のみ成けり白川の関」からは秋の紅葉を連想し、源三位頼政は「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」と詠んだが、眼前の青葉の梢もまたすばらしい。藤原季通朝臣の歌「見て過る人しなければうの花の咲る垣根やしら河の関」に出てくる卯の花だけでなく、茨の花も咲き加わって、久我通光の歌「しらかはのせきの秋とはきゝしかどはつ雪わくる山のべの道」に出てくる雪よりも白く見える。竹田大夫国行は能因法師の歌に敬意を表し、この関を越えるにあたって衣服を改めたと、藤原清輔の『袋草紙』に書いてあるという。
   卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良
  (この関を通るとき、古人は冠を正し、衣装を改めたというが、私にはこのような用意もないので、せめて卯の花を髪にかざして関を通ることにしよう。)
※     藤原清輔著の歌学書「袋草紙」の一節
 竹田大夫国行トイウ者、陸奥に下向ノ時「白河関過グル日ハ殊ニ装束ヒキツクロイ(体裁を整えて)ムカウ」ト云ウ。人問ウ「ナンラノ故カ」答ヘテ曰ク「古ヘ曽部入道(能因法師)ノ『秋風ゾ吹ク白河ノ関』ト詠マレタル所ヲバ、イカデカ褻()ナリ(普段着)ニテハ過ギン」ト。殊勝ナルコトカナ。

 


『平家物語』巻七「忠度都落」
 薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
「忠度。」 と名のり給へば、
「落人帰り来たり。」 とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ。」 とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」 とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。
 薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。
 撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
 三位これを開けて見て、
「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」 とのたまへば、薩摩守喜んで、
「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」 とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて、立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」 と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
 そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
   さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
 その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり
※和歌の意味:志賀の都は荒れてしまいましたが、昔と変わらない山桜が咲いていることですよ


 


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現代語訳
 薩摩守忠度は、どこからお帰りになったのでしょうか、侍五騎、子ども一人、ご自身とあわせて七騎で引き返し、五条の三位である俊成卿のお屋敷にいらっしゃって(目の前を)ご覧になると、門を閉じて開かないでいます。
「忠度です。」 とお名乗りになられると、
「落人が帰ってきた。」 といって、屋敷の中は騒ぎ合っています。薩摩守は、馬からおりて、ご自身の声で高らかに申し上げることには、
「特別な理由があるわけではありません。三位殿に申し上げることがあって、忠度は返って参りました。門を開けられなくとも、(門の)側までお寄りになってください。」 とおっしゃるので、俊成卿は、
「(帰ってこられる)理由があるのでしょう。その方なら差し支えあるまい。中に入れて差し上げなさい。」
といって、門をあけてお会いになります。忠度の有り様は、これということもなくしみじみとしていらっしゃいます。
 薩摩守がおっしゃるには、
「数年来(和歌を)教えて頂いて以来、(俊成卿のことは)なおざりにしてはよくないことだと思い申し上げていましたが、ここ二、三年は、京都での騒ぎや国々の乱れ(がありました。)しかしながらこれらは平家の身の上のいざこざですので、(俊成卿のことは)粗略に思っていたわけではありませんが、日頃参上することもできませんでした。主君(安徳天皇を指す)はすでに都をお出になられました。平家一門の運命はもはやつきました。和歌の勅撰集の編纂があるだろうと伺いましたので、私の生涯の面目に、一首だけでも、ご恩を受けようと思っておりしたが、次第に世の中が乱れてきて、勅撰集の編集の命令がなくなってしまったことは、一身の嘆きと存じております。世の動乱が鎮まりましたら、勅撰集を編集する命令がございましょう。ここにある巻物の中に、(勅撰集にのせるのに)ふさわしいものがございましたら、一首だけでもご恩を受けて、(恩を受けたことを私が)死んだ後でもうれしいと存じるならば、遠いところから(あの世から)あなた様をお守り申し上げましょう。」 といって、日頃、詠みためていらっしゃった歌の中から、良作と思われる百と少しの歌をかき集められた巻物を、今はもうこれまでと思って都を立たれるときに、これを取ってお持ちになられたのですが、(その巻物を)鎧の引き合わせの部分から出して、俊成卿にお渡しになりました。
 三位俊成卿はこの巻物を開けて見て、
「このような忘れ形見を賜ったからには、少しも(この巻物を)粗略に扱うことはございません。お疑いにならないでください。それにしてもただ今ご訪問頂いたことは、風流な心もとても深く、しみじみさも格別に感じることができて、感涙を抑えることができないでいます。」 とおっしゃると、薩摩守は喜んで、
「今はもう、西海の波の底に沈んでしまうならば沈んでしまえ、山のに自分の屍をさらすならさらしてしまえ(という気持ちでいます。)この世に思い残すことはございません。それでは別れを申し上げて。」 といって、馬に乗り兜の緒をしめて、西にむかって(馬を)歩ませなさいます。
 三位俊成卿は、後ろ姿を遠くまで見送って、お立ちになっていると、忠度(のもの)と思われる声が
「前途は遠くです。思いを雁山の夕べの雲に馳せます。」 と高らかに口ずさまれたので、俊成卿は、とても名残惜しく思えて、涙をおさえて(屋敷に)お入りになりました。
 そののちに、世の中が静まって、(俊成卿が)和歌の勅撰集(に入れる歌)をお選びになったときに、忠度の有り様、言い残していった言葉を、今になって思い出してみてしみじみとお感じになりました。(忠度から渡された)あの巻物の中に、勅撰集にのせるにふさわしい歌はたくさんあったのですが、(忠度は)天皇の咎めを受けた人なので、名前を表すことができません。
 「故郷の花」 という題材で詠まれた歌一首を、 「詠み人知らず(作者不明)」 として(勅撰集の中に)入れられました。
 忠度は、朝敵となってしまったからには、(歌が勅撰集に採用されたことに対して)異議を唱えるには及ばないとはいいますが、残念で悲しく思われたことです。

無名抄 俊成自讃歌事
 俊恵(しゅんゑ)いはく、「五条三位入道(ごでうのさんみのにふどふ)のもとにまうで(詣で)たりしついでに、『御詠(ごえい)の中には、いづれをか優れ(すぐれ)たりと思す(おぼす)。よその人さまざまに定めはべれど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく 承らんと思ふ。』と聞こえしかば、
  『夕されば野辺(のべ)の秋風身にしみて鶉(うづら)鳴くなり深草の里
 これをなん、身にとりては面歌(おもてうた)と思ひ給ふる。』と言はれしを、俊恵、またいはく、『世にあまねく人の申し侍るは、
   面影(おもかげ)に花の姿を先立てて幾重(いくへ)越え来(き)ぬ峰の白雲
 これをすぐれたるやうに申し侍るはいかに。』と聞こゆれば、『いさ。よそにはさもや定め侍るらん、知り給へず。なほみづからは、 先の歌には言ひくらぶべからず。』とぞ侍りし。」と語りて、これをうちうちに申ししは、「かの歌は『身にしみて』といふ腰(こし)の句のいみじう無念におぼゆるなり。これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優に侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひあらはしたれば、むげにこと浅くなりぬる。」とて、そのついでに、「わが歌の中には、
   み吉野(みよしの)の山かき曇り雪降れば麓の里はうち時雨つつ
 これをなん、かのたぐひにせんと思う給ふる。もし世の末におぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」とぞ。

現代語訳
 鴨長明の和歌の師である俊恵法師が、わたくし鴨長明に向かって、ある時お話しなさったことには、「わたくし(俊恵)がある時、俊成(五条三位入道)様のところに出掛けました折に、たまたま俊成様に次のようなことをお聞き申し上げる機会がございました。『俊成様にはご自身が御詠みなさった多くの和歌がございますが、その中で俊成様はどの和歌が俊成様自身、最も優れた和歌であるとお思いなさっていますか。俊成様の代表歌(おもて歌)について、これまで他の人々があれこれと推測し、勝手に俊成様の和歌で一番はあれだとか、これだとか申し上げていますが、そんなことはご本人が最もよく存じ上げていらっしゃることですから、わたくしはご本人以外の意見を採用することはできません。この機会に是非わたくしにお聞かせ下さい。』と申し上げたところ、俊成様は、『わたくし自身は、
      夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
     (夕方になると、野原の秋風が身にしみて、うづらが鳴いているようだよ、この深草の里では。)
というわたくしの和歌が、わたくし自身にとってわたくしの代表歌(おもて歌)であると思っております。』とおっしゃったのですが、わたくし(俊恵法師)はそれで納得することができずに、更に重ねて尋ねてみましたことには、『世間では広く俊成様の代表歌(おもて歌)として、
      おもかげに花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲
     (桜の姿を思い浮かべて、いくつもの山を超えて来たことだ。(桜のように見える)峰の白雲よ。)
      ※     山の頂にかかる白雲が桜のように見えるので、桜の姿を頭に思い浮かべて山をいくつも越えて来たということ。
という和歌を推すものが多いのですが、その点についてはいかがお考えでしょうか。』と申し上げたところ、『さあ、どうでしょうか。他の人々はそのように言っているかもしれません。わたくしにはよく分かりません。しかし、やはりわたくし自身は先ほどの「夕されば」の和歌が何と言ってもわたくしの代表歌であると思っております。』と俊成様はわたくし(俊恵法師)にお答えになりました。」とお話し下さって、その後、わたくし(鴨長明)に向かって内々に俊恵法師がお話しなさることには、「わたくし(俊恵)が思うことには、俊成様の『夕されば』の和歌はたいへん優れた和歌ではありますが、『身にしみて』という第三句の部分がたいそう残念に思われるのです。これほどの高い水準においては、『身にしみて』などと、景色などの眼前の事柄や具体的な気持ちなどをはっきり表現すべきではなく、自然に何となく身にしみたことであったよと思わせるようにすることが奥ゆかしいことであるし、上品で優れている表現であると思われます。この『夕されば』の和歌のように言葉で何でもすべてを表現してしまって、和歌の中心命題となる『身にしみて』をそのまま表現したのでは、はなはだしく和歌としてはつまらない底の浅いものになってしまいます。」とお話しになり、続けて、「ちなみにわたくし俊恵自身の和歌の中では、
      み吉野の山かき曇り雪降ればふもとの里はうちしぐれつつ
     (吉野の山が一面に曇って雪が降ると、麓の里は時雨が降っていることだ。)
 この和歌を、わたくしの代表歌にしたいと思っています。かりに将来わたくしの代表歌について変に言及するようなことがあった場合は『本人がこう言いました』とお話し下さい。」ということでした。


 


 昨日は買い物の前に隅田公園を歩いてみました。築山には枝垂桜が見事に花をつけていました。「三春滝桜」というのだそうです。


無名抄 道因歌に志深事
 この道に心ざし深かりしことは、道因入道並びなき者なり。七、八十になるまで、「秀歌よませ給へ」と祈らんために、かちより住吉へ月詣でしたる、いとありがたき事なり。
 ある歌合に、清輔判者にて、道因が歌を負かしたりければ、わざと判者のもとへ向ひて、まめやかに涙を流しつつ泣き恨みければ、亭主もいはん方なく、「かばかりの大事にこそ逢はざりつれ」とぞ語られける。
 九十ばかりになりては、耳などもおぼろなりけるにや、会の時には、ことさらに講師の座に分け寄りて、脇もとにつぶとそひゐて、みづはさせる姿に耳を傾けつつ、他事なく聞ける気色など、なほざりの事と見えざりけり。
 千載集撰ばれし事は、かの入道失せてのちの事なり。亡き跡にも、さしも道に心ざし深かりし者なればとて、優(いう)して十八首を入れられたりければ、夢の中に来て涙を落としつつ、よろこびを云ふと見給ひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて二十首になされにけるとぞ。しかるべかりける事にこそ。

現代語訳 [道因が、歌に思い入れが深かった話]
 歌道に思い入れが深かったということでは、道因入道が比類ない人である。七、八十歳になるまで、「すぐれた歌を読ませて下さい」と祈らんがために、(和歌の神)住吉神社に月参していたのは、本当に殊勝なことである。
 ある歌合で、清輔が判者として、道因の歌を負けにしたという話だが、わざわざ判者である清輔の方へ向けて、本気で涙を流しては泣いて恨み言を言ったそうで、主催者もなんともいいようもなく、「これほどの大事件に出くわしたことはなかったのに」とおっしゃったそうだ。
 九十歳ぐらいになっては、耳なども遠かったのだろうか、歌会の時には、わざわざ講師(歌を詠み上げる係)の座に、人を掻き分けて寄っていって、講師のすぐ脇にぴたりと寄り添って坐って、年老いた姿で耳を傾けては、一心に聞いている様子など、(歌に対する思い入れが)なみなみではないことだと思われたという。
 (俊成卿が)『千載集』をお撰びになったのは、その道因入道が亡くなってからのことである。(俊成卿が)「没後でも、あんなにも歌道に思い入れが深かった人だから」といって、優遇して十八首をお入れになったそうだが、(俊成卿の)夢の中に(道因が)現れて涙を落としては、感謝を繰り返している、という夢を(俊成卿が)御覧になったので、(俊成卿は)格別に感心して、もう二首を加えて都合二十首になさったという話である。(俊成卿がそうなさったのも)当然のことだろう。)


 春休みで上京したので、ということで福岡在住の甥の長男一家が訪ねてくれました。婆様はサービス・デーの日で留守でしたので何のお構いも出来なく小一時間程近況などを話して、一家はスカイツリーに行くというので、言問橋西詰まで送って行きました。




徒然草 第十段 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ
 家居(いえい)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
 よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一(ひと)きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)・透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 多くの工(たくみ)の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。
 さてもやは、ながらへ住むべき。又、時のまの烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心(みこころ)、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮(あやのこうじのみや)のおはします小坂殿(こさかどの)の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙(かえる)をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。
 


https://www.youtube.com/watch?v=dbTavyCmSjQ


現代語訳
 住居がその人にふさわしく、あるべき姿であるのは、生きている間だけの仮の宿だとは思っても、興が深いものだ。
 身分・知識・品格などが立派な人が、のどかに住みなしている所は、さし入る月の色も、ひときわしみじみと見えるものだ。
 現代ふうにきらびやかではないけれど、木立が何となく昔めいた感じで、手を加えない自然な感じの庭の草も心ある様子で、簀子(すのこ)・透垣(すいがい)の配置も趣深く、何気なく置いてある道具類も古風に思われて心が安らぐのは、奥ゆかしいものと思われる。
 多くの職人が心をつくして磨き立て、中国の、日本の珍しく、並大抵でない道具類を並べ置き、庭の植え込みまで自然のままでなく人工的に作っているのは、見た目にも苦しく、たいそうわびしい。
 そんな状態のままで、いつまでも住んでいれようか。住んでいれるわけがない。また、火事
によって焼けてしまい、烟ともなるだろうと、見るとすぐに思われる。
 だいたいは、住居にこそ、人となりは推し量られるものだ。
 後徳大寺左大臣が、屋敷の正殿に鳶をおらせないとして縄をお張りになったのを、西行が見て、「鳶がいるのが、どうして不都合があろうか。この殿の御心はこの程度か」といって、それ以後参上しなかったと聞いていましたので、綾小路宮(あやのこうじのみや)性恵法親王がお住まいの小坂殿の棟に、いつだったか縄をお引きになっていたので、西行の例を思い出してありましたら、まあ、なんということでしょう。
 「烏が群をなして池の蛙を取るので、宮さまは御覧になって悲しまれたからなのです」と人が語ったのこそ、何と素晴らしいと思ったことでした。徳大寺のお屋敷に縄を張っていたのも、どんな理由があったのでしょうか。


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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