ウェブニュースより
藤井四段 中学生タイトル獲得消滅「まだまだ実力不足」と淡々 ―― 中学3年生の最年少棋士・藤井聡太四段(15)が24日、関西将棋会館で指された棋王戦本戦で豊島将之(27)八段に敗れた。同棋戦の敗退により、藤井四段が中学生でタイトルを獲得する可能性は事実上なくなった。通算成績は38勝4敗。局後「まだまだタイトルには実力不足。一歩一歩強くなっていきたい」と淡々と語った。
藤井四段は中学生での獲得の可能性があった竜王戦、王将戦でもすでに敗退。さまざまな記録を打ち立て、今期の勝率でも独走状態だが、A級棋士の壁は高かった。対局した豊島八段は順位戦で最上位のA級に羽生善治三冠、渡辺明竜王らとともに在籍するトップ棋士。藤井四段が公式戦でA級棋士と対局するのは初めて。藤井四段は差を広げられ「読みの深さ、実力の差というかA級の壁を改めて感じました」といつも通り、淡々とした様子で振り返った。現在勝ち進んでいる叡王戦はタイトル戦の七番勝負が来年3月から5月にかけて予定されており、中学生でタイトルに挑戦する可能性は残されているとはいるが、叡王戦の七番勝負が本年度中には終わらない見通しのため、中学生でのタイトル獲得の可能性は事実上なくなった。
https://www.youtube.com/watch?v=rl6Z5zBOkPQ
https://www.youtube.com/watch?v=FotJ9aJ5C6I
この日は夏休み最後の公式戦。将棋に打ち込んだ夏を「トップの先生に教わることができて、トップの強さと自分の実力不足を痛感した」と総括した。次回は9月2日に井出隼平四段(26)と加古川青流戦で対局する。 (デイリースポーツ 2017年8月24日 21時58分)
ウェブニュースより
藤井聡太四段、朝日杯で熱戦制し連勝「粘りが奏功した」 公式戦38勝目 ―― 将棋界最多の29連勝を達成した最年少棋士、藤井聡太四段(15)は22日、大阪市福島区の関西将棋会館で行われた朝日杯将棋オープン戦1次予選で、大石直嗣六段(27)、竹内雄悟四段(29)を連破し、ブロック別トーナメント進出を決めた。公式戦通算38勝(3敗)となった。
1局目の大石戦を166手で制した藤井四段。
https://www.youtube.com/watch?v=WhGZ5kJvc9s
2局目の竹内四段戦も接戦となり、藤井四段が巧みに差し回して146手で制した。
https://www.youtube.com/watch?v=wcoGermUPeA
終局後、藤井四段は「苦しい将棋でかなり負けに近づいた局面もあったが、勝てたのは非常に幸運だった。粘りが奏功した」と振り返った。
また、1局目の大石戦については「序盤から難しく、途中で良くなったと感じたが、また難しくなってしまい、(勝敗は)最後まで分からなかった」と語った。
藤井四段は24日、タイトル戦の棋王戦本戦で豊島将之八段(27)と対局する。豊島八段は5クラスある順位戦で最上位のA級に属し、藤井四段が公式戦でA級の棋士と対戦するのは初めて。今後を占う重要な一局となりそうだ。
藤井四段は「A級の先生に公式戦で教わるのは楽しみ。いい将棋にできるよう、全力でいきたい」と意気込んでいた。
和歌(やまとうた)の原則は和語(やまとことば)にあります。
『万葉集』の歌は「光儀」「乾坤」「黄葉」「慇懃」「丈夫」「猶預」等々おびただしい数の漢語を駆使して表記されていますが、それらはみな「すがた」「あめつち」「もみち」「ねもころ」「ますらを」「たゆたふ」といった和語を中国風に表意した用字でして、音読させるための表記ではないのです。
純粋に音読したと認められる語は、和語には絶対翻読できない語、すなわち「餓鬼(がき)」「布施(ふせ)」「法師(ほふし)」「壇越(だにをち)」「婆羅門(ばらもん)」あるいは「塔(たふ)」「香(かう)」など、仏教関係の語を中心とするもの少数しかありません。
例えば、「双六(すごろく)」は外来の遊戯でしたし、「過所(くわそ)」は当時の法制用語で、現代で言えばパスポートに当たるものでした。
過所なしに 関飛び越ゆる ほととぎす
都が子にも やまず通はむ
万葉集巻一五 3754
ほととぎすがパスポートなしに関所の空を越えて行くとは、ずいぶん奇抜な発想です。「過所(くわそ)」などと言う固い漢語はこのような奇抜なうたのなかでこそ使って面白がられのです。
『万葉集』の漢語は人を面白がらせるために使われたということを確かめるには、漢語の歌の集中する巻十六が絶好の資料となります。
法師らが 鬚(ひげ)の剃(そ)り杭 馬繋ぎ
痛くな引きそ 僧〈ほふし〉は泣かむ
万葉集巻十六 3846
壇越(だんをち)や しかもな言ひそ 里長が
課役(えつき)徴(はた)らば 汝(いまし)も泣かむ
万葉集巻十六 3847
前者は「戯れに僧を笑ふ歌」、後者は「法師の答ふる歌」です。お互いに相手を笑いのめして喜んでいるのです。
我妹子が 額に生ふる 双六(すぐろく)の
こと負(ひ)の牛の 鞍の上の瘡(かさ)
安倍子祖父 万葉集巻十六 3838
無心所着歌――意味の通じない歌の詠みくらべで優勝した歌だといいます。
「私の妻の、額に生えている、すごろく。荷運びの牡牛の、鞍の上のかさぶた」なんのことか意味不明です。敢えて、勘ぐれば「おらのかみさんの、丘に生える、草の茂み。丈夫なその中央の、繊細な部分を(布で)巻いて隠すんですわ」とでもいうことでしょうかね。これ以上は詮索しないことにします。
一首の中に「香、塔、厠、屎、鮒、奴」の六つを読みこんだ遊びの歌だってあります。
香(こり)塗れる 塔にな寄りそ 川隈(かはくま)の
屎鮒(くそふな)食(は)める 甚(いた)き女奴(めやっこ)
長意吉麻呂(ながのおきまろ) 『万葉集』 巻十六 3828
(お香を塗っている仏塔には近づくな。
川を曲がったところの人糞を餌にしている鮒を食うような ひどい臭いの女奴よ)
思うままにならない双六の賽は、一から六まで目が六つあります。他愛もない事とは言えその数を一つも漏らさずに賽の目の歌を見せようとすれば、相応の才気が必要です。
一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ)
四(し)さへありけり 双六の賽(さえ)
長意吉麻呂 『万葉集』 巻十六 3829
こんなそんなで、戯れに作るような歌ならば漢語の使用も許容されていたことが凡そ判ると思います。
歌ことばの表記に漢籍から学んだ熟字をもって宛てる用字法は、『万葉集』の好んで行うところです。
例えば「慇懃(いんぎん)」という熟字がそうです。
原文 慇懃 憶吾妹乎 人言之 繁尓因而 不通比日可聞
訓読 ねもころに 憶(おも)ふ 吾妹(わぎも)を
人言(ひとこと)の繁きによりに淀む頃かも
作者不詳 萬葉集巻十二 3109
現代語訳 心からねんごろに懐かしく思う私の愛しい貴女よ。
貴女への人の噂話がうるさいので、
訪問が途絶えがちの今日この頃です。
後世ではネンゴロと読みますが、万葉時代の語形では「ねもころ」ですから、ここでも「ねもころ」、下に助詞の「に」を補充して初句は「ねもころに」と解読されます。「インギンニ」と読んだのではないかと疑うのは現代人の感覚で通用しません。
原文 三芳野之 真木立山尓 青生 山菅之根乃 慇懃 吾念君者……
訓読 み吉野の 真木立つ山に 青く生(お)ふる
山菅(やますげ)の根の ねもころに 我が思ふ君は……
作者不詳 万葉集巻一三 3291
現代語訳 美しい吉野の立派な木が立つ山に青く花咲く
藪蘭の根のように、
秘めやかに懇ろに私が慕う貴方は……
※ 冒頭の 部は「ねもころに」の「ね」を導き出すための序詞(じょことば)です。
この歌などは、インギンニでは、ネモコロの「ネ」を導き出す長い修飾の序詞が無用の長物と化してしまいます。
万葉集巻五に「松浦河に遊ぶ序」という一文があります。
序も後続の歌も大伴旅人か山上憶良の作と言われていますが、いずれにせよ、作者は肥前国東松浦郡玉島川の景勝を仙境に見立て、そこの美女と相聞歌を交わすという『遊仙窟』模倣の跡著しい趣向を試みています。
歌序、続いて歌という形式においては、歌序の詞句を踏まえて歌が作られます。
松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ
萬葉集巻五 855
(松浦川 川瀬光り輝き 鮎を釣る 乙女子の裳裾が 濡れいる)
佐々木信綱(1872~1963年、日本の歌人・国文学者)の『評釈』に「清らかな松浦川の瀬は、娘子の姿をうつして光るばかりである。娘子は赤裳の裾の水に濡れるのも忘れて釣りを垂れてをる。まさに一幅の画である」と言います。
川の瀬が光っているのは、「河水が早く流れて波立つので光るのではありません。「鮎のさ走る光」でもありません。歌序に示された美女の「光るばかりの容姿」を映して光っているのです。「光るばかりの容姿」、漢文の序には「光儀」と書いてあります。
「光儀」は中国の詩文に典拠を持つ熟字です。「松浦河に遊ぶ序」の作者はこの熟字を使って美女の容姿を「光儀無匹(たぐひなし)」と表現したのです。「松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると……」という歌詞の方から逆に推測を加えますと、作者は歌序の「光儀」をヒカルスガタと翻読していたとも考えられるのです。「儀」一字で十分スガタと読めるのです。院政期の辞書「類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)」に明記されている古訓であり、『万葉集』にもスガタと読まねばならない「儀」が数例あります。
同時に『万葉集』には。「光儀」二字をもってスガタとよまれた例が、十一例あると言います。
原文 外目毛 君之光儀乎 見而者社
吾戀山目 命不死者
[一云 壽向 吾戀止目]
訓読 外目にも 君が姿を 見てばこそ
我が恋やまめ 命死なずは
[一云 命に向ふ 我が恋やまめ]
作者不詳 万葉集巻十二 2883
現代語訳
遠目にでもあなたの姿を見たならば私の恋も静まるでしょう。
それまでにこの命が絶えていなかったら・・。
※一説に、下の句は「命に向かふ我が恋止まめ」で、命がけの私の恋もおさまるだろう、の意となります。
原文 吾妹子之 夜戸出乃光儀 見而之従
情空有 地者雖踐
訓読 我妹子が 夜戸出の姿 見てしより
心空なり地は踏めども
作者不詳 萬葉集巻十二 2950
現代語訳
妻がこそこそと夜に外出する姿を偶然見てしまった
それからというもの私の気持ちは上の空で足は地につかなくなった
かつて、『万葉集』の「光儀」について、「儀」一字だけでは姿の美しさを表すの物足りないと感じた万葉人が特にその美しさを「光」ていう文字によって捕そくした、多分に意識的な「文学的用法」なのだと説明されたこともありました。姿の美しさを「光」の字で示したかったという心理はわかるのような気がしますが、「光儀」という字面自体は中国の熟字であって、万葉人の着想とは言い得ないのであります。
一昨日は、8月15日は72回目の『敗戦の日』でした。
昭和天皇の「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」の声を、テレビやラジオで何度も耳にしていますが、よく考えてみると、全文がどんな内容であるのか、聞かされた事もないし、習った記憶もないという人が多いのではないでしょうか。
あの敗戦が決定した日に、当時の日本人の耳に届いた昭和天皇の声(玉音放送)が、何を語っていたのか、よく理解できますよう、全文を掲載したいと思います。この詔勅を読めば、何故この終戦の詔(みことのり)が「昭和の聖断」と呼ばれたか、初めて納得が行くことでしょう。分量にして、一二〇〇字足らず、四百字詰め原稿用紙で三枚程度でありますが、それだけの短い文脈に込められた心は、あたかも今日の日本の有様を、既に七十年以上も前に予期していたかのようです。声涙くだる苦難に満ちた、やるせない痛みに縁取られた詔勅ではあります。
『大東亜戦争終結ノ詔書』原文(昭和20年8月14日)
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ (御名御璽)
*現代語訳
『余は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。 余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれをつねづね心がけてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより余の志すところではない。
しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余のすべての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。そのようになったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。
思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
https://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo
ウェブニュースより
藤井四段、王位戦予選で初戦突破 小林九段を破る ―― 公式戦29連勝の新記録をつくった将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が15日、8大タイトル戦の一つ、王位戦の予選トーナメント1回戦で小林健二九段(60)に勝ち、2回戦進出を決めた。通算成績は36勝3敗となった。
来年夏の七番勝負の挑戦者を決める戦いの初戦で、大阪市福島区の関西将棋会館で対局があった。今年の七番勝負は現在、羽生善治王位(46)と挑戦者・菅井竜也七段(25)で争われている。
この日、藤井四段は序盤から巧みな指し回しをみせ、故・板谷進九段一門の先輩にあたる小林九段を押し切った。終局後のインタビューで「序盤に一歩得になったが手損も大きく、中盤は難しかった。最後になって勝ちが見えた。王位を目指して一局一局がんばりたい」と話した。気合を入れようと和服で対局に臨んだ小林九段は「途中盛り返せるかとも思ったが……強いですね。来月も対局があるので、次は勝ちたい」と語った。
藤井四段は昨年12月のデビュー戦から今年6月まで公式戦負けなしの29連勝を達成。新人ながら30年ぶりに歴代1位の連勝記録を塗り替えた。
次の対局は22日。朝日杯将棋オープン戦の1次予選2回戦で、大石直嗣六段(27)と対戦する。勝てば午後2時からの3回戦で竹内雄悟四段(29)と戦う。 (朝日新聞DIGITAL 2017年8月15日18時51分)
https://www.youtube.com/watch?v=84sEvS2_v-o
サツマイモ(薩摩芋)は、ヒルガオ科サツマイモ属の植物です。あるいはその食用部分である塊根(養分を蓄えている肥大した根)をいいます。別名に、甘藷(かんしょ)、唐芋(からいも、とういも)、琉球薯(りゅうきゅういも)、とん、はぬす等があります。近縁の植物に、アサガオやヨウサイ(アサガオ菜)があります。
原産地は南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方とされます。大航海時代にコロンブスが1498年にベネズエラを訪れて以降、1519年にはポルトガルのマゼランがスペイン船隊を率いて南端のマゼラン海峡を発見し、16世紀に頻繁に南アメリカ大陸にやってきたスペイン人或いはポルトガル人により東南アジアに導入され、ルソン島(フィリピン)から中国を経て1597年に宮古島へ伝わり、17世紀の初め頃に琉球、九州、その後八丈島、本州と伝わった。アジアにおいては外来植物である。中国(唐)から伝来した由来により、特に九州では唐芋とも呼ばれる場合が多い。
サツマイモがフィリピンから中国に伝来したのは1594年です。同年、宮古島の村役人、長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が首里王府への帰途に逆風で中国に漂着し、1597年に中国を出発したが今度は九州に流れ着き、それからようやく帰島しました。この時に宮古島へ苗を持ち帰ったのが日本最初の伝来となります。旨屋は栽培の普及に努め、島では主食となるほどに広まりました。死後はンーヌ主(芋の神様)として御獄に祀られています。ただし伝承の考察から、実際には1618年ではないかという推測もあります。宮古島から沖縄本島へは伝播しなかった。沖縄では1612年の与那国島、1694年の石垣島など、それぞれの島ごとに中国から、本島とは関係なくばらばらに伝来し、その島内では急速に普及が図られるものの、他の島へ伝えるのは消極的でした。2013年現在、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神を祭っています。
1604年、当時の琉球王国(現在の沖縄県)沖縄本島に伝わります。明への進貢船の事務職長(総管)であった野國総管(与那覇 松)という人物が明(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まりました。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統であるといいます。
1698年(元禄11年)3月、種子島に伝わります。領主種子島久基(種子島氏第19代当主、栖林〈せいりん〉公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じました。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したといいます。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建っています。
1705年(1709年とするものもあり)、薩摩山川の前田利右衛門は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになりました。前田利右衛門を祀る徳光神社には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられています。
1711年、薩摩を訪れた下見吉十郎が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の伊予国瀬戸内海の大三島での栽培を開始しました。1732年、享保の大飢饉により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなりました。
八代将軍・徳川吉宗の当時、儒学者として知られていた青木昆陽が、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直により町奉行・大岡忠相に推挙され、幕府の書物を自由に閲覧できるようになりました。昆陽は同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上しました。
1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の馬加村(現千葉市花見川区幕張町)、上総の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培し、1735年栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようになります。ただしサツマイモの普及イコール甘藷先生(青木昆陽)の手柄、とするには異説もありますが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実です。
ジャガイモ(馬鈴薯〈ばれいしょ〉、英: potato)は、ナス科ナス属の多年草の植物で、デンプンが多く蓄えられている地下茎を食品として利用します。
ジャガイモの原産は南米アンデス山脈の高地といわれ、16世紀には、スペイン人によりヨーロッパにもたらされました。この時、運搬中の船内で芽が出たものを食べて、毒にあたったため「悪魔の植物」と呼ばれたといいます。
日本へは諸説ありますが、オランダ人やオランダ造船によって1598年に持ち込まれたとの説があります。オランダ領ジャワ島の現ジャカルタ(当時、ジャカトラ(Jacatra))を経由して伝来したため、ジャガタライモと呼称されたといいます。江戸時代後期の18世紀末にはロシア人の影響で北海道・東北地方に移入され、飢饉対策として栽培されたといいます。蘭学者の高野長英はジャガイモ栽培を奨励しているといいます。また、江戸後期には甲斐国の代官であった中井清太夫がジャガイモ栽培を奨励したとされ、享和元年(1801年)には小野蘭山が甲斐国黒平村(甲府市)においてジャガイモの栽培を記録しています(『甲駿豆相採薬記』)。また、アイヌの人々もジャガイモを栽培していたといいます。
本格的に導入されたのは明治維新後で、北海道の開拓に利用された。当初は西洋料理の素材としての需要であったが、洋食の普及とともに、徐々に日本の家庭料理にも取り入れられるようになっていった。
北海道が最大の生産地で、春に植え付けて夏の終わりから秋にかけて収穫されます。北海道に次ぐ大産地である九州の長崎では、秋に植え付けて冬に収穫するのに加えて、冬に植え付けて春に収穫する二期作が行われています。
「ジャガイモ」という呼び名は、これが16世紀末、オランダ人によって日本にもたらされた当時のジャカルタが「ジャガタラ」と呼ばれていたため、「ジャガタライモ」と呼ばれたことに起因する。これが変化して現在のジャガイモという呼び名になった。その他の説としてはジャワ島の芋の意味のジャワイモが変化した、天保の大飢饉で、ジャガイモのおかげで餓死を免れた事から呼称された「御助芋」が転じたものなど諸説があります。
「馬鈴薯」(ばれいしょ)という呼び名もよく用いられますが、これは中国での呼び名のひとつと漢字が同じで、中国語で読むとマーリンシュー(ピン音 mǎlíngshǔ)となります。18世紀に日本人の小野蘭山が命名したといわれていますが、中国名をそのまま輸入したものなのか、新しく付けた名前がたまたま中国名と同じだったのか、それとも小野蘭山の命名が中国に伝わったのかは明らかではありません。一説には、ジャガイモの形が馬につける鈴に似ているという事からこの名前になったといいます。また、「マレーの芋」という意味からこの名前が付けられたという説もあります。なお、中国ではほかに「土豆」(トゥードウ)、「洋芋」(ヤンユー)、「薯仔」(シューザイ)などの呼び方もあります。
※最後に原寸大の図解があります。
地方名として、「きんかいも」とも呼ばれます(「きんか」とは金柑転じて禿げのこと)。また、1年に2~3回収穫できることから「にどいも(二度芋)」「さんどいも(三度芋)」とも呼ばれます。「南京イモ」「ごしょいも」と呼ばれる事もあります。
痩せた土壌でも栽培しやすく、ビタミンやデンプンが豊富に含まれている上に、茹でる等の簡単な調理で食べられ、加熱してもビタミンが壊れにくいジャガイモは、江戸時代に幾度となく発生した飢饉の際に、サツマイモと同じく主食である米等の穀物の代用品として食べられ、ジャガイモによって飢餓から救われたという記録が残っています。このために「お助けイモ」と呼ばれた事があります。また、飢饉の際にジャガイモ活用を勧めた代官の名を取って、「善太夫芋」「清太夫芋」と呼んだ地方もありました。
このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされています。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシではないかと伝えられていましたが、ワマン・ポマ(1550?~ 1616年?、インカ帝国出身のインディオ)が1615年に残した記録やマチュ・ピチュ(15世紀のインカ帝国の遺跡)の段々畑の史跡研究、気象地理条件、食生活の解析など、複数方面からの結果が、食基盤がジャガイモであったことを示しており、近年見直しが図られているということです。しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っておらず、スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測付けられています。さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播しますが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していません。
いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが普及するのは、さらに時を待たねばなりませんでした。普及は、プロイセン王国で三十年戦争により荒廃し、飢饉が頻発した際に作付け(栽培)が国王の勅命により強制、奨励されたことや、踏み荒らされると収穫が著しく減少するムギに代わり、地下に実るため踏み荒らしの影響を受け難い作物として、農民に容易に受け入れられた結果であるとされています。さらにジャガイモは18世紀には、アイルランド移民の手により北アメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となりました。
ウェブニュースより
藤井四段、公式戦35勝目で“連敗”脱出…順位戦3連勝でC級2組トップタイに並ぶ ―― 歴代新記録の公式戦29連勝を樹立した将棋の史上最年少棋士・中学3年生の藤井聡太四段(15)が10日、東京都渋谷区の将棋会館で行われた第76期順位戦C級2組で高見泰地五段(24)に勝ち、公式戦35勝目(3敗)を挙げた。
藤井四段は4日の第67期王将戦一次予選決勝で菅井竜也七段(25)に敗れ、公式戦通算3敗目を喫していた。翌5日には愛知県春日井市でのイベント「かすがいキッズ将棋フェスタ」の公開対局(非公式戦)で都成竜馬四段(27)にも屈しており、本局で“連敗”を脱出した形となった。
高見五段は2011年、棋士養成機関「奨励会」を弱冠18歳で突破し、四段(棋士)昇段。昨年度には、今年度の名人挑戦者となった稲葉陽八段(29)に勝利するなど若手の実力者として知られるが、藤井四段は危なげない指し回しで中盤以降は優位を拡大し、粘る高見五段を振り切った。
順位戦は「名人」のタイトルを目指す棋戦で、各棋士は「C級2組」「C級1組」「B級2組」「B級1組」「A級」のいずれかに属する。年間の各リーグ戦で上位に入った者が上のクラスに昇級するシステムで、トップ10人によって構成される「A級」で優勝した者が名人挑戦者となる。現在のタイトル在位者は佐藤天彦名人(29)。今年度から順位戦に参加している藤井四段が挑戦者になるには最低でも5年を要する。
最低位となる「C級2組」には今期50人の棋士が属しているが、今年度のリーグ戦終了時に「C級1組」に昇級出来るのは上位3人のみ。藤井四段は3勝0敗とし、トップタイに並んだ。 (2017年8月10日21時29分 スポーツ報知)
https://www.youtube.com/watch?v=A-C38dbs8b8
藤井聡太四段は次回は15日、王位戦予選で小林健二・九段(60)と対戦するそうです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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