ウェブニュースより
和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに ―― 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。
発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。
和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。
ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。
■解読案
われによりおも
ひくゝ(または「る」)らむしけい
とのあはすや(み)
なはふくる
はかりそ
※(み)は欠損部分のため推定 (朝日新聞DIGITAL 2017年8月25日21時25分)
Facebookに、塾友のMN女史が仁科の写真を投稿していました。
ここは、20数年前まで、毎年七月下旬から八月上旬にかけて、兼愛塾が2週間の臨海学校を行っていたところです。懐かしがって今でも何人かの塾友が訪ねているようです。
懐かしいので、みんなで泳いだ大浜海岸と宿舎であった長松寺の写真を転写させていただきました。
今年は友人達と一緒に西伊豆仁科へ。
30年も前に(もっと前からかな)毎年二週間以上も過ごしていた場所を訪れ、みんなで懐かしんで参りました
やっぱり仁科はいいなぁ Facebookより
sechin@nethome.ne.jp です。
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