和歌(やまとうた)の原則は和語(やまとことば)にあります。
『万葉集』の歌は「光儀」「乾坤」「黄葉」「慇懃」「丈夫」「猶預」等々おびただしい数の漢語を駆使して表記されていますが、それらはみな「すがた」「あめつち」「もみち」「ねもころ」「ますらを」「たゆたふ」といった和語を中国風に表意した用字でして、音読させるための表記ではないのです。
純粋に音読したと認められる語は、和語には絶対翻読できない語、すなわち「餓鬼(がき)」「布施(ふせ)」「法師(ほふし)」「壇越(だにをち)」「婆羅門(ばらもん)」あるいは「塔(たふ)」「香(かう)」など、仏教関係の語を中心とするもの少数しかありません。
例えば、「双六(すごろく)」は外来の遊戯でしたし、「過所(くわそ)」は当時の法制用語で、現代で言えばパスポートに当たるものでした。
過所なしに 関飛び越ゆる ほととぎす
都が子にも やまず通はむ
万葉集巻一五 3754
ほととぎすがパスポートなしに関所の空を越えて行くとは、ずいぶん奇抜な発想です。「過所(くわそ)」などと言う固い漢語はこのような奇抜なうたのなかでこそ使って面白がられのです。
『万葉集』の漢語は人を面白がらせるために使われたということを確かめるには、漢語の歌の集中する巻十六が絶好の資料となります。
法師らが 鬚(ひげ)の剃(そ)り杭 馬繋ぎ
痛くな引きそ 僧〈ほふし〉は泣かむ
万葉集巻十六 3846
壇越(だんをち)や しかもな言ひそ 里長が
課役(えつき)徴(はた)らば 汝(いまし)も泣かむ
万葉集巻十六 3847
前者は「戯れに僧を笑ふ歌」、後者は「法師の答ふる歌」です。お互いに相手を笑いのめして喜んでいるのです。
我妹子が 額に生ふる 双六(すぐろく)の
こと負(ひ)の牛の 鞍の上の瘡(かさ)
安倍子祖父 万葉集巻十六 3838
無心所着歌――意味の通じない歌の詠みくらべで優勝した歌だといいます。
「私の妻の、額に生えている、すごろく。荷運びの牡牛の、鞍の上のかさぶた」なんのことか意味不明です。敢えて、勘ぐれば「おらのかみさんの、丘に生える、草の茂み。丈夫なその中央の、繊細な部分を(布で)巻いて隠すんですわ」とでもいうことでしょうかね。これ以上は詮索しないことにします。
一首の中に「香、塔、厠、屎、鮒、奴」の六つを読みこんだ遊びの歌だってあります。
香(こり)塗れる 塔にな寄りそ 川隈(かはくま)の
屎鮒(くそふな)食(は)める 甚(いた)き女奴(めやっこ)
長意吉麻呂(ながのおきまろ) 『万葉集』 巻十六 3828
(お香を塗っている仏塔には近づくな。
川を曲がったところの人糞を餌にしている鮒を食うような ひどい臭いの女奴よ)
思うままにならない双六の賽は、一から六まで目が六つあります。他愛もない事とは言えその数を一つも漏らさずに賽の目の歌を見せようとすれば、相応の才気が必要です。
一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ)
四(し)さへありけり 双六の賽(さえ)
長意吉麻呂 『万葉集』 巻十六 3829
こんなそんなで、戯れに作るような歌ならば漢語の使用も許容されていたことが凡そ判ると思います。
sechin@nethome.ne.jp です。
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