瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
歌ことばの表記に漢籍から学んだ熟字をもって宛てる用字法は、『万葉集』の好んで行うところです。
例えば「慇懃(いんぎん)」という熟字がそうです。
原文 慇懃 憶吾妹乎 人言之 繁尓因而 不通比日可聞
訓読 ねもころに 憶(おも)ふ 吾妹(わぎも)を
人言(ひとこと)の繁きによりに淀む頃かも
作者不詳 萬葉集巻十二 3109
現代語訳 心からねんごろに懐かしく思う私の愛しい貴女よ。
貴女への人の噂話がうるさいので、
訪問が途絶えがちの今日この頃です。
後世ではネンゴロと読みますが、万葉時代の語形では「ねもころ」ですから、ここでも「ねもころ」、下に助詞の「に」を補充して初句は「ねもころに」と解読されます。「インギンニ」と読んだのではないかと疑うのは現代人の感覚で通用しません。
原文 三芳野之 真木立山尓 青生 山菅之根乃 慇懃 吾念君者……
訓読 み吉野の 真木立つ山に 青く生(お)ふる
山菅(やますげ)の根の ねもころに 我が思ふ君は……
作者不詳 万葉集巻一三 3291
現代語訳 美しい吉野の立派な木が立つ山に青く花咲く
藪蘭の根のように、
秘めやかに懇ろに私が慕う貴方は……
※ 冒頭の 部は「ねもころに」の「ね」を導き出すための序詞(じょことば)です。
この歌などは、インギンニでは、ネモコロの「ネ」を導き出す長い修飾の序詞が無用の長物と化してしまいます。
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