ウェブニュースより
宇良 6場所ぶり復帰戦で白星「これがスタート」 ―― 大相撲の秋場所2日目は10日、東京・両国国技館で行われ、元幕内で東三段目91枚目の宇良(26=木瀬部屋)は須磨ノ海(25=高田川部屋)を寄り切りで下し、6場所ぶりの復帰戦を白星で飾った。立ち合いで左に変化すると、体を入れ替え、一気に寄り切った。
昨年の秋場所以来の土俵。「すごい緊張しました。不安しかなかったので。1年ぶりに(相撲を)取れて、自分の中ではこれがスタートだと感じてやりたい」と安どの表情を見せた。
初土俵から所要12場所で新入幕を果たしたが 昨年の名古屋場所で右膝前十字じん帯を損傷。自己最高位の西前頭4枚目で迎えた秋場所を途中休場し、全休した九州場所後には手術を受けていた。初場所、春場所、名古屋場所と全休が続き、番付は東三段目91枚目まで落ちた。この一年を「長いようで、あっという間だった。休んでいる時にできることをやってきた。これ以上やれと言われても無理なぐらいに」と振り返った。
8月中旬から相撲の稽古を始め「最初は膝より感覚の問題」で不安を覚えつつ「自分に近い番付の人と稽古して少しずつ勘を取り戻し、秋場所の出場を決めたという。今場所の目標は「ケガをしないこと」。新“技のデパート”としてファンに人気の宇良が復活への第一歩を踏み出した。 (9月10日(月)12時8分 スポーツニッポン)
大相撲秋場所2日目 横綱稀勢の里が2連勝 ―― 大相撲秋場所は、東京 両国の国技館で2日目の取組が行われ、8場所連続休場からの復活を目指す横綱 稀勢の里は小結の貴景勝に勝って2連勝です。
中入り後の勝敗です。
返り入幕の琴勇輝に千代翔馬は、千代翔馬が送り出しで勝ちました。
嘉風に石浦の初顔合わせの一番は嘉風が寄り切り。
新入幕 隆の勝に竜電の初顔合わせの一番は、竜電が押し出し。
返り入幕の貴ノ岩に千代丸は、貴ノ岩が寄り切り。
隠岐の海に佐田の海は、隠岐の海が寄り切り。
旭大星に錦木は、錦木が押し出しで勝ちました。
大栄翔に北勝富士は、北勝富士が突き落とし。
大翔丸に碧山は、大翔丸が突き落とし。
宝富士に松鳳山は、宝富士が押し出し。
栃煌山に琴奨菊は、琴奨菊が寄り切りで勝ちました。
輝に妙義龍は、妙義龍が押し出し。
朝乃山に阿武咲は、朝乃山が押し出し。
千代の国に正代は、千代の国が引き落とし。
遠藤に阿炎は、阿炎が突き出し。
千代大龍に大関昇進を目指す関脇 御嶽海は、御嶽海が押し出しで勝ちました。
玉鷲に大関 豪栄道は、豪栄道が寄り切り。
角番の大関 栃ノ心に豊山は、栃ノ心が寄り切り。
大関 高安に逸ノ城は、高安が押し出しで勝ちました。
魁聖に横綱 鶴竜は、鶴竜が送り出し。
小結 貴景勝に途中休場を含め、8場所連続休場からの復活を目指す横綱 稀勢の里は、稀勢の里が土俵際まで押し込まれましたが最後は突き落としで勝ちました。
横綱 白鵬に勢は、白鵬が上手出し投げで勝ちました。
2日目の10日は横綱・大関陣そろって白星です。
稀勢の里「集中してやった」
新入幕の隆の勝は初黒星に「立ち合いから突き放していこうと思ったが、守りに入ってしまった。体は動けているので毎日が初日だと思って臨みたい」と気持ちを切り替えていました。
先場所、初日から13連敗の嘉風は2連勝のスタートに「考えていたとおりに体が動いた。負ける気はしなかった」と口も滑らかでした。
返り入幕の貴ノ岩は2連勝にも「慌てずにいけてよかったと思う。最後までけがなくいい相撲を取ることができればよいと思う」と淡々としていました。
安定した相撲で白星の朝乃山は2連勝に「立ち合いから思い切って足を前に出せた。集中して相撲が取れているがまだ2日目、これからだ」と話していました。
阿炎は遠藤を圧倒しての2連勝に「落ち着いていて、立ち合いがよかった。差されないことを意識した。プラス思考でいきたい」とうれしそうでした。
角番の大関 栃ノ心は「きょうの内容はよかった。体調は悪くないし先場所痛めた足は大丈夫だ。勝ち越さないといけないが、少し落ち着いた」と2連勝にほっとしている様子でした。
大関昇進を目指す関脇 御嶽海は「相手の立ち合いがあまりにも遅く、しっかり合わせることができなかった。土俵際まで押し込まれて内容は危なかったが体が動いてくれた。いい緊張感だがこれからだ」と話していました。
復活を目指す横綱 稀勢の里は2連勝に「集中してやりました。またしっかり、集中してやります」と淡々と話していました。
横綱 鶴竜も2連勝、「体が本当によく動いている。ほかの横綱も白星を重ねているし、いい刺激がある」といつもどおり落ち着いた様子で話していました。
横綱 白鵬は結びを締めて2連勝とし「立ち合い、左前みつを取ったが一瞬『待った』と聞こえたので、少し力を抜いてしまった。相手の勢は、その瞬間、前に出てきたからすばらしい。体調はまずまずだ」と相手をほめる余裕を見せていました。 (NHK NEWS WEB 2018年9月10日 18時49分大相撲)
昨日から大相撲秋場所が始まりました。
ウェブニュースより
大鵬の孫・納谷、新幕下で白星発進 苦戦も豪快小手投げ ―― 元横綱大鵬(故人)の孫で東幕下60枚目の納谷(18)=大嶽=が西幕下59枚目の琴翼(26)=佐渡ケ嶽=を小手投げで破り、幕下の初陣を白星で飾った。
立ち合いで突き放したものの左を差される苦しい展開。強引な右の小手投げを2度、3度と試みるも決めきれず、呼吸を整えて再びこん身の小手投げを繰り出して豪快に転がした。
苦しんだ一番を「力相撲になってしまったんですけど、勝ててよかった。挟んで持っていこうと思ったんですけど、手が上からいっちゃって…」と振り返った納谷。観衆から大きな歓声を受けたことには「申し訳ないぐらい」と苦笑した。
前日は元日本相撲協会世話人で大鵬さんを支えた故友鵬さんの一周忌。納谷は師匠の大嶽親方から「お前らが活躍するのが一番」と言われているといい、「しっかり勝ち越そうと思います」と、天国に届く奮闘を誓った。 (デイリースポーツ2018年09月09日14時17分)
大相撲秋場所初日 横綱 稀勢の里は白星スタート ―― 大相撲秋場所は9日、東京 両国の国技館で初日を迎え、8場所連続休場からの復活を目指す横綱 稀勢の里は、安定した相撲で平幕の勢に勝って白星スタートです。
中入り後の勝敗
返り入幕の琴勇輝に石浦は、石浦が引き落とし。
千代翔馬に嘉風は、嘉風がうっちゃりで勝ちました。
新入幕・隆の勝に千代丸の初顔合わせの一番は、隆の勝が寄り切り。
竜電に返り入幕の貴ノ岩は、貴ノ岩が寄り倒し。
隠岐の海に錦木は、錦木が寄り切りで勝ちました。
佐田の海に旭大星は、佐田の海が押し出し。
碧山に大栄翔は、大栄翔が巻き落とし。
北勝富士に大翔丸は、北勝富士が押し出し。
宝富士に琴奨菊は、琴奨菊が突き落とし。
松鳳山に栃煌山は、松鳳山が突き出しで勝ちました。
輝に阿武咲は、輝が押し出し。
妙義龍に朝乃山は、朝乃山が突き落とし。
千代の国に阿炎は、阿炎がはたき込み。
遠藤に逸ノ城は、逸ノ城が上手ひねりで勝ちました。
大関昇進を目指す関脇 御嶽海に正代は、御嶽海が押し出し。
千代大龍に負け越すと大関から陥落する角番の大関 栃ノ心は、栃ノ心がつり出し。
豊山に大関 高安は高安が寄り切り。
大関 豪栄道に魁聖は、魁聖が寄り切り。
途中休場を含めて8場所連続休場からの復活を目指す横綱 稀勢の里に勢は、稀勢の里が寄り切りで勝ちました。
玉鷲に横綱 白鵬は、白鵬が寄り切り。
横綱 鶴竜に貴景勝は、鶴竜が押し倒しで勝ちました。
今場所は、稀勢の里が途中休場したことしの初場所以来、4場所ぶりに3人の横綱が初日からそろって出場し、いずれも白星スタートです。
八角理事長「稀勢の里 流れがよかった」
日本相撲協会の八角理事長は、復活をかける場所で初日に白星を挙げた横綱 稀勢の里について「左を差し勝った。相手の動きに足がついていったし、流れがよかった。開き直って、立ち合いで強く当たる気持ちが強かったと思う」と相撲内容を評価しました。
そのうえで、先場所をいずれも休場した白鵬 鶴竜を含めた3人の横綱がそろって初日に白星を挙げたことについて「横綱であっても初日は緊張するものだが、3人とも落ち着いて相撲を取れたと思う」と話していました。 (NHK NEWS WEB 2018年9月9日 18時54分大相撲)
ウェブニュースより
テニス全米オープン女子 大坂が優勝 男女通じ日本選手初 ―― テニスの四大大会最終戦、全米オープンは8日、女子シングルスの決勝が行われ、大坂なおみ選手がアメリカのセリーナ・ウィリアムズ選手にセットカウント2対0で勝って優勝を果たしました。四大大会のシングルスで日本選手が優勝するのは、男女を通じて初めてです。
世界ランキング19位、20歳の大坂選手は準決勝までの6試合で5試合をストレート勝ちして決勝に進みました。
決勝では元世界1位で、ことしのウィンブルドン選手権で準優勝のセリーナ・ウィリアムズ選手と対戦しました。
大坂選手は第1セット、安定したプレーでポイントを重ねる一方、ウィリアムズ選手にはミスが多く、このセットを6-2で取りました。
続く第2セットではサービスゲームを先に相手にブレークされましたが、大坂選手も、その後、ウィリアムズ選手のサービスゲームをブレークし、最後は6-4でこのセットを奪いました。
大坂選手はセットカウント2対0でウィリアムズ選手を破り、優勝を果たしました。
四大大会のシングルスで日本選手が優勝するのは、男女を通じて初めてです。
大坂選手「セリーナ選手と戦うのが夢だった」
初優勝を果たした大坂なおみ選手は、表彰式でのインタビューで「全米オープンの決勝でセリーナ・ウィリアムズ選手と戦うのが私の夢でした。その夢がかなって本当にうれしいです」と話しました。
そしてみずからを支えてくれた両親について「母は、これまで私のためにたくさん犠牲を払ってくれました。試合は、あまり見にこないのですが、きょうは、見に来てくれて本当にうれしいです。父は私の試合を見るとそわそわしてしまい、きょうも会場に来ていませんが、これから会おうと思います」と話していました。
大坂なおみ選手 パワーテニスが持ち味
大坂なおみ選手は20歳。
ハイチ出身の父と日本人の母を持ち、大阪市で生まれ、3歳からアメリカに移り住みました。
5年前にプロに転向し、身長1メートル80センチの体格を生かした時速200キロ近い高速サーブや力強いストロークなどパワーテニスが持ち味です。
女子ツアーに本格的に出場し始めた1年目のおととし、東京でのツアー大会で準優勝し、その年、女子ツアーで最優秀新人賞にあたる賞に日本女子で初めて選ばれるなど活躍が期待されてきました。
ことし3月には四大大会に次ぐ格付けの女子ツアーの大会で日本選手として初の優勝をつかみました。
四大大会では、ことし1月の全豪オープンで四大大会初のベスト16に入り、続く2大会でも3回戦進出を果たしていました。
セリーナ・ウィリアムズ選手 大坂選手の憧れ
アメリカのセリーナ・ウィリアムズ選手は、36歳。
元世界ランキング1位で四大大会で歴代最多の23回の優勝を誇ります。
ウィリアムズ選手は元世界1位で1歳上の姉のビーナス・ウィリアムズ選手と共に、男子選手並みの力強いサーブなどパワフルなプレースタイルで女子テニス界で長くトップ選手として活躍し、去年1月の全豪オープンで四大大会で通算23回目の優勝を果たし、プロが参加できるようになったオープン化以降の歴代最多記録を更新しました。
ウィリアムズ選手はその後はツアーに参加せず、去年9月に娘を出産し、ことし3月、アメリカ カリフォルニア州で行われたツアー大会でおよそ1年2か月ぶりにツアーに復帰して3回戦で姉のウィリアムズ選手にストレートで敗れました。
その次に出場したアメリカ フロリダ州で行われたツアー大会では、初戦で大坂なおみ選手にストレートで敗れています。
その後は元世界女王の強さを示して、復帰後最初の四大大会となる全仏オープンで4回戦進出、続く四大大会、ウィンブルドン選手権では準優勝を果たしていました。
大坂選手は自身が最も憧れて育った選手としてセリーナ・ウィリアムズ選手をあげ、幼い頃から四大大会の決勝で対戦することを夢見てきました。
サーシャ・バジンコーチ 大坂選手に精神面の成長促す
大坂なおみ選手を今シーズンから指導するドイツ人のサーシャ・バジンコーチは、元世界女王のセリーナ・ウィリアムズ選手やキャロライン・ウォズニアッキ選手など、世界のトップ選手の練習相手を長年にわたって務めてきました。
バジンコーチは去年11月、大坂選手のコーチを務めることになり、大坂選手の憧れのウィリアムズ選手などがどのような練習を行い、試合前にはどう過ごしていたかなど積極的に伝えてきました。
バジンコーチはシーズン中はフォームの変更など技術的な指導はほとんど行なわず、今シーズンは大坂選手の敗因となっていたミスを減らすために、すべてのボールを強く打つのではなく「我慢」してラリーを続け、攻撃のチャンスを待つことや、完璧主義の大坂選手が試合中、ネガティブな思考に陥らないよう、常にプラスになる言葉をかけて前向きな考えを持つよう、精神面での成長を促す指導を行ってきました。
さらにフットワークや体幹の強化が必要だと考え、専属トレーナーのアブドゥル・シラー氏とともに大坂選手がこれまでに取り組んできたことのない連続的な筋力トレーニングを下半身を中心に行うなどしてきました。
また大坂選手が今シーズン、練習が楽しくなったと話しているようにバジンコーチは、大坂選手と一緒にサーブやストロークの練習をしながら自身も同じ練習を行い、ショットにミスが出た場合は互いに罰を科し合うなどして練習に集中して取り組めるようさまざまな工夫を行ってきました。
四大大会と日本選手
テニスの四大大会のシングルスで日本選手がついに頂点の座をつかみました。
四大大会は全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、それに全米オープンの4つを指します。
四大大会のシングルスで、日本選手は戦前に活躍した時期があり、1918年、熊谷一弥さんが全米オープンでベスト4に入り、1920年には清水善造さんがウィンブルドン選手権で、1931年から1933年にかけては佐藤次郎さんが、全仏オープン、全豪オープン、それにウィンブルドンで合わせて5回、ベスト4に進出しました。
このあと、日本選手がベスト4に届かない時期が続きましたが、1973年の全豪オープンで沢松和子さんが女子シングルスでベスト4入りすると、伊達公子さんが1994年の全豪オープン、1995年の全仏オープン、それに1996年のウィンブルドン選手権でベスト4に入りました。
このあと、錦織圭選手が2014年の全米オープンで日本選手として初めてシングルスの決勝に進出し、準優勝となりました。
錦織選手はおととし、2016年とことしの全米オープンでもベスト4入りしました。
そして、この全米オープンで大坂選手が日本選手として初めて四大大会のシングルスで優勝しました。
世界メディアも速報
テニスの全米オープンで大坂なおみ選手が初優勝したことを、世界のメディアも速報で伝えました。
このうち、アメリカの新聞、ニューヨークタイムズは「彼女自身のアイドルであるセリーナ・ウィリアムズ選手をやぶって優勝した」と速報するとともに「ウィリアムズ選手と主審の言い争いで台なしにされた試合で、大坂選手は日本人最初の四大大会シングルスのチャンピオンになった」と伝えました。
また、AP通信は「大坂選手は、彼女にとってのアイドルであるウィリアムズ選手が主審を『泥棒』呼ばわりし、怒りを爆発させるなかで、四大大会を制した最初の日本人女子選手となった」と伝えました。
所属先も声援送る「優勝すると信じていた」
テニスの四大大会最終戦の全米オープンの女子シングルスで日本選手として初めて決勝に進んだ大坂なおみ選手を応援しようと、所属する大手食品メーカーの社員が集まって大型スクリーンの前で大坂選手に声援を送りました。
東京 新宿にある大坂選手の所属する大手食品メーカーでは、大坂選手を応援しようと大型スクリーンの前に社員などおよそ150人が集まりました。
集まった人たちは、大坂選手が持ち味の強力なサーブでサービスエースを奪うと大きな歓声をあげ、ピンチになると「頑張れ」と声援を送りました。
大坂選手が第1セットを奪って第2セットに入ると一段と応援に熱が入り、最後、力強いサーブで締めくくって優勝を決めると、クラッカーを鳴らして「なおみ」「なおみ」と連呼して日本選手初の快挙を祝福していました。
35歳の男性は「優勝すると信じていました。歴史が変わった瞬間を見ることができて感動しています。日本のために世界のためにこれからも頑張ってほしい」と興奮気味に話していました。
また、29歳の女性は「四大大会で日本選手が優勝するときが来るなんて夢にも思っていませんでした。20歳とまだ若いので、今後も優勝を重ねていってほしい」と話し、うれしさに涙を浮かべていました。
NY パブリックビューイング会場でも大坂選手を祝福
テニスの全米オープンが開かれているニューヨークのマンハッタンでは、大型のスクリーンで試合を観戦できるパブリックビューイングが開かれ、大坂なおみ選手の初優勝をファンが祝福していました。
ニューヨークのマンハッタンではテニスの全米オープンの期間中、大型のスクリーンで試合を観戦できるパブリックビューイングの会場が設けられています。
8日の女子シングルスの決勝では、入場券を手に入れられなかったファンなどおよそ200人が集まって観戦しました。
大坂なおみ選手がアメリカのセリーナ・ウィリアムズ選手にセットカウント2対0で勝って初めての優勝を果たすと、会場では祝福の拍手が起こっていました。
アメリカ人の男性は「大坂選手のサーブはとても速く、新たなスターの誕生だ。世代交代が起こったが、20歳の大坂選手にはこれから明るい将来が待っている」とたたえていました。
日本人の男性は「大坂選手は緊張せずに試合でも最後までぶれることなく勝ったのが印象的でした」と話していました。
この男性と一緒に観戦していた大坂選手の父親と同じ、ハイチ出身の男性は「新たな歴史を作った」と大きな声を出して喜びを表していました。 (NHK NEWS WEB 2018年9月9日 8時37分テニス)
ウェブニュースより
北海道で震度6強 全295万戸停電 ―― 六日午前三時八分ごろ北海道で、震度6強の地震があった。道警などによると、厚真(あつま)町やむかわ町などでは土砂崩れや家屋倒壊などの大規模な被害が出ている。菅義偉官房長官は二人が死亡したと発表。厚真町では三十二人が安否不明で、土砂に巻き込まれた住民がいるとの情報もある。道庁によると百二十人以上が負傷した。道内全ての約二百九十五万戸が停電した。
気象庁によると、震源地は北海道中央の胆振(いぶり)地方中東部で、震源の深さは三七キロ。安平町で震度6強、千歳市で6弱、札幌市で5強を観測した。地震の規模はマグニチュード(M)6・7と推定される。その後も震度3や4の地震が続いた。津波はなかった。気象庁は「一週間ほどは震度6強程度の地震に気を付ける必要がある」としている。
道警によると、むかわ町で八十代の男性一人が死亡し、厚真町の八十三歳の女性が心肺停止の状態。同町吉野地区では大規模な土砂崩れが発生し、複数の住宅が巻き込まれた。何らかの原因で震度データが入っていない厚真町は震度6強、むかわ町は震度6弱以上と推定される。安平町でも家屋の倒壊があった。道内で公立小中学校、高校など千三百三十二校が臨時休校を決めた。
北海道での震度6強は、震度階級が改定された一九九六年以降初めて。国内で震度6強以上の地震は二〇一六年の熊本地震以来。
高橋はるみ北海道知事は自衛隊に災害派遣を要請。政府は首相官邸の危機管理センターに対策室を設置した。安倍晋三首相は「人命第一で災害応急対応に当たっていく」と記者団に語った。
また、道内全ての火力発電所が停止したため、全戸が停電。復旧の見通しは立っていない。九五年の阪神大震災の約二百六十万戸を超える規模で、患者の受け入れを一時停止する病院もあった。
新千歳空港は、ターミナルビルの停電や天井の落下、水漏れが発生したため、終日閉鎖されることが決まり、二百便超が欠航となった。函館や旭川空港は運用されている。鉄道は北海道新幹線を含め、道内全ての路線が運転を見合わせた。
室蘭市の石油コンビナート施設で火災が起きたがほぼ消し止められた。 (東京新聞 2018年9月6日 夕刊)
塚原副会長「速見氏は宮川選手を私物化していた」 ―― パワハラが問題になっている日本体操協会の塚原光男副会長(70)が、6日放送のフジテレビ系「直撃!!シンソウ坂上」に緊急出演した。MCの坂上忍(51)の単独インタビューに応じた。インタビューは、塚原副会長の本拠地の東京・久我山の「朝日生命体操クラブ」で行われた。
先月29日に宮川選手自身が速見コーチへの処分やパワハラ疑惑に対する反論会見を開催。塚原副会長は、宮川選手の会見を「全部ウソ」と言い切って批判を浴びたが、一転して謝罪を申し入れるなど迷走していた。
今回の問題が大きな騒動になっていることに「全く予想してなかった。困っています」と戸惑いを口にした。女子強化本部長で妻の千恵子氏の状況を問われると、弱っていることを認め「2年前に大腸、肝臓、心臓を手術しているから」と説明した。
塚原副会長はリオ・オリンピック代表選手の宮川紗江選手に対する暴力行為で無期限の登録抹消処分を受けた速見佑斗コーチの行為について、資料を見せながら多数の証言があることを主張。これまで何度注意しても暴力行為が続いていたことを明かし「もっと早く問題にすべきだった」と話した。さらに宮川選手に二重契約の疑惑があり、速見コーチも関わっていると主張。「速見コーチは宮川選手を”私物化”していた」と続けた。「たたいた後に抱きしめたりと、体操界にいてはならない」と除名処分した理由も説明した。そして速見コーチへの処分は「すべて宮川選手のため」だったとした。
今回の宮川選手も含め、過去(朝日生命への)引き抜き疑惑についても否定。長年、自身が日本協会の副会長、妻の千恵子氏が女子強化本部長と要職を務め、強権と批判を浴びていることには「塚原千恵子がいなかったら女子のコーチをまとめられない。みんな自分さえ良ければいいと考えている。だからまとまらない。それをチームとしてまとめた」と妻の役割の重要性を説いた。
5日の速見コーチの会見で、塚原千恵子女子強化本部長に意見を言いづらい雰囲気があると言ったことに「それは嘘ですね」とも話した。
今後日本体操協会の委託した第三者委員会がパワハラの有無を調査する。自らのパワハラが認められた場合は「潔く進退を決めたい」と協会副会長職の辞任を示唆した。 [日刊スポーツ 2018年9月6日21時54分]
万葉の手古奈とうなひ処女 杉田久女
或日私は沈丁花の匂ふ窓辺で万葉集をひもどいてゐる中、ふと高橋虫麿の葦屋の菟名負処女(うなひをとめ)の墓の長歌に逢着して非常な興味を覚えたのである。
人も知る如く虫麿は、かの水江浦島子や、真間の手児名や、河内大橋を独り渡りゆく娘子等をよんで、集中異彩を放つ作家であるが、此うなひ処女の一篇はことにあはれ深いものである。
手を翻せば雲となり、手を覆へば雨となる、萍(うきくさ)の如き現代人はかうした古めかしい心情を鼻先で笑ふであらうが、古典ずき万葉ずきの私にとつては、まことにうなひ処女の純情がなつかしい。
吾妹子が母に語らく、倭文手纏賤しき我が故、ますらをの争ふ見れば、生けりとも逢ふべくあれや、
ししくしろ黄泉に待たむと、隠沼のしたばへおきて、打ち嘆き妹が去ぬれば――
のあたり一篇の戯曲をよむ様で、息をもつかせぬ面白さである。
葦の屋のうなひ処女のおくつきを往来(ゆきく)と見れば音のみし泣かゆ。
葛飾の真間の井見れば立ちならし水汲ましけむ、手児名し思ほゆ。
手児奈や、うなひ処女が死をえらんだ純情。青丹よし奈良の都の桜を愛し、萩の野趣をめで、梅花の清香をめづる万葉歌人の純情は、つねに私の詩魂を深くうたずにはおかない。
俳句の世界にも、手古奈をよんだ句は二三あるが、かゝるふくざつな戯曲的かつとうを、誰か優れた連作の形式でどしどし試みたら、ずゐぶん面白いものが出来はしないかと思ふ。
私の知人である、佐藤惣之助氏門下の或若い詩人から、原始時代と現代生活との交流する詩境に創作の構成をなしてゐる、原始林といふ詩集をいつか贈られて感じた事であるが、俳句も白然描写のみでなく、又煤煙と、機械との響き丈を素材にして新しがらず、日本民族の上古、原始林の壮大さ、すべて原始時代のもつ力強さを現代生活に交流させ、現代を通じて原始を見るところの重厚悠大なきぼのものが、現れるのも一つの試みではなからうか?
空しく籠り暮す事は誠に心苦しくもあり又嬉しい事でもある。
俳句を命とする私は、地上のあらゆる幸福愉悦をも場合によつてはすてゝも、狐り淋しくとも、ただ句修行の峻嶮をきはめたい。
谷深くさぐる一宇は、永遠の芸術境を求める一つの私の心境をうたつた句であり、遠賀(をんが)の長堤に青すゝきをかきわけかきわけ孤り辿りゆく句境涯も、生きゆく闘ひをこめた心の姿である。
地位なく金なく背景なく才もないたゞ瘠腕一本の一久女にとつては、永久に渦まく瀬戸の逆潮をのりきり、風雨とたゝかふ心境も、ゆくべき道もただ尽天地これ俳句の曠野あるのみである。
私は一生春蘭か白蘭か梅花の気品をもつて、俳句修業の最高の殿堂をめざして只進みたい念願を抱いてゐるものである。
(昭和九年四月八日記)
ウェブニュースより
藤井聡太七段にタイトルホルダーの壁 菅井竜也王位が圧勝 残り時間も大差 タイトル挑戦は来年度以降に持ち越し/棋王戦 挑決T2回戦 ―― 将棋の最年少棋士・藤井聡太七段(16)が9月3日、棋王戦の挑戦者決定トーナメント2回戦で菅井竜也王位(26)に敗れ、公式戦の連勝は「9」でストップ、今年度4敗目(18勝)を喫した。また、この敗戦で藤井七段が今年度中にタイトルを獲得する可能性がなくなった。
今年度も勝率8割以上を残している藤井七段だが、この日は現役タイトルホルダーと早指し戦以外では初対決。序盤から持ち時間をあまり消費せずどんどん指す菅井王位に圧倒されると、各4時間の持ち時間でも藤井七段がすべて使い切ったのに対し、菅井王位は残り1時間50分と、完璧にねじ伏せられた形となった。2人の対局は昨年8月以来2度目で、この時も菅井王位が勝っていた。
https://www.youtube.com/watch?v=iQSWcooHY-0
対局終了後、菅井王位は「終盤は苦しいかなという展開が続いていました。こっちも仕方のない展開だったので、もう少し序盤で工夫が必要だったかなと思います」と淡々と語ると、対藤井戦について「あんまりいっぱい研究しても、そういう感じには進行していかないので、自分の力が発揮できたと思います」と振り返った。また藤井七段は「仕掛けてからはまずまずの展開が続いたかなと思ったのですが…。一気に悪くなってしまった手が悔やまれます。総合的に見て、力不足だったのかなと思います。(タイトルを)目指すには、もっと力をつけていかなければと感じています」と語った。 (9月3日(月)18時24分 AbemaTIMES)
梟啼く(2) 杉田久女
やれやれと思うまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどっと寝付いて終ったのである。日本人といっても数える程しかなくやっと県庁所在地というのみで上級の官吏では家族を連れているのは私共一家のみという有様だったので、私共は県庁の内の家に這入り病弟は母が付添って市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、領台当時野戦病院にしてあったのを当り前の病院に使っているので軍医上り許りであったし外には医師も病院もなかった。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲弾の痕もあり、くずれたところもあり、病室と言っても、只の土間に粗末な土人の竹の寝台をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寝ている幾つもの室を通って一番奥の室が弟の特別室であった。隣室には中年増の淪落の女らしいのが青い顔をして一人寝ていた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くずれかけた様な高い煉瓦塀には蔓草が這いまわり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落していた。院長などは非常に一生懸命尽して下さった。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寝台を母はいたましがった。弟は台南で食べた西洋料理を思い出してしきりにほしがった。馴れぬ七月中ばの熱帯国の事故、只々氷をほしがった。枕元の金盥には重湯(おもゆ)とソップを水にひやしてあったが水は何度取り替えてもじきなまぬる湯の様になる。信光は母のすすめる重湯を嫌って
みずう、みずう
と冷たいもの許りほしがった。この離れ島へ遠く死にに連れて来た様に思われる病人の為め出来る丈の事をしてやり度いと思っても金の山を積んでもここでは仕方がなかった。父は台南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に沢山注文した。知事さんのコックに頼んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悦んだらしいけど、「信のぶやお上り?」と聞いた母に、只うんと二三度うなずいた丈けで、力ない目にじっと洋食の皿をみつめたまま、
あとで。と目をつぶってしまった。小さな体はいたいたしく痩せおとろえて、薬ももう呑んでも呑まなくてもよい様な頼みすくない容体に刻一刻おちていった。母は夜も一目も寝ず帯もとかず看護した。信のぶは体を方々いたがった。母がま夜中に、このあわれな神経のたかぶった病児の寝付かぬのを静かになでつつ
信や、くるしいかい?
と聞くと
うん。苦痛をはげしく訴えず只静かにうなずく。
じき直りますよ。直ったらあの嘉義(ここ)へ来る途中の田の中にいた白鷺を取って上げますからね。と慰めると
うん。とまた。その頃はもう衰弱がはげしくて、口をきくのも大儀げであったがしっかり返事していたそうである。子供心にも直り度かったと見えて死ぬ迄薬丈けは厭やといわずよく呑んだ。体温器も病気馴れた子でひとりでわきの下に挟んでいた。夕方になると、土人の家の樹に啼く梟の声は脅かす様な陰鬱の叫びを、此廃居に等(ひと)しいガラン堂の病院にひびかせ、その声は筒抜けに向うの城壁にこだまを返して異境に病む人々の悲しみをそそった。
病苦で夢中というよりも死ぬ迄精神のたしかであった弟は、この夕方の梟の声を大層淋しがった。見も知らぬ土地に来てすぐ侘しい病室に臥した弟は只父母をたより、姉をたより、私をたより、二人の兄達を思いつつ身も魂も日一日と、死の神の手におさめられようとして、何の抵抗もし得ず、尚お骨肉の愛惜にすがり、慈母の腕に抱かれる事を、唯一の慰めとしているのであった。不慮の災いからして遂に夭折すべき運命にとらわれてしまった不幸な弟、いたわしいこの小さな魂の所有者が我儘も病苦もさして訴えず、ギーギー鳴る竹の寝台に横たわっているのを見て、母はにじみ出る涙をかくしつつ弟を慰め、一日を十年の様な心持で愛撫しいとおしみつつ最後の日に近づいてゆくのであった。父は昼は病院から出勤し、夜は又病院で寝る為め私と姉とは淋しい県庁の中の家に召使とたった三人毎夜寝ていた。昼はムクの木の下に姉と行って木の実をひろい、淋しい時には姉と病院の方を眺めて歌をうたっていた。私の歯はその頃丁度ぬけ替る時で、グラグラに動いている歯が何本もあった。一生けんめい揺すっていた歯がガクリとわけなく抜けた或朝だった。病院から姉と私に早く来いとむかいが来た。
https://www.youtube.com/watch?v=36mNtY-0t7U
二三日前に、弟の厭やがり父母もどうせ死ぬものならといやがっていた、歯の根の膿みを持ったところを院長が切開したところが、いつ迄も出血が止らず、信(のぶ)は力ない声で、
いやあ、いやあ、切るのいやあ。
と泣いていたがとうとう死ぬ迄水の様な血が止らなかった。前日私の行った時はそれでも、私を喜んで大きく眼をあけていた。弟の病気が重いとは知りつつも死を予期しなかった私達は胸をドキドキさせてかけつけた。やっと間にあった。院長も外の軍医も皆枕元に立っていた。「それ二人とも水をおあげ」と母が出した末期の水を、夢中で信(のぶ)の唇にしめしてやった。何とも書きつくせぬ沈黙の中に、骨肉の四人の者は、次第にうわずりゆく弟の上瞼と、ハッハッハッと、幽かに外へのみつく息を見守っていた。母は静かに瞼をなでおろしてやった……
のぶさん‼ 苦しくない様に、寝られるお棺にして上げるわ。
私は、叫んだ。今迄の沈黙はせきを切って落とした様に破られて、すすり泣きの声が起った。
その時八つだった私の胸に之程大きく深く刻まれた悲しみはなかった。声いっぱい私は泣いた。
淋しいふくろが土人の家の樹で啼いていた。其の日の夕方しめやかに遺骸の柩を守って私共は県庁の官舎へ帰って来た。其当時の嘉義にはまだ本願寺の布教僧が只一人いるのみであった。十日間の病苦におもやせてはいたが信のかおにはどこか稚らしい可愛い俤が残って、大人の死の様に怖い、いやな隈はすこしもなく、蝋燭を灯して湯灌(ゆかん)し経帷子(きょうかたびら)をきせると死んだ子の様にはなく、またしてもこの小さい魂の飛び去った遺骸を悼たんだのであった。棺は私達の希望した寝棺は出来ないで、座る様に出来ていた。
お葬式は県庁の広庭であった。信光の憐れな死は嘉義の日本人の多大な同情を誘って、関係のない人々迄、日本人という日本人は殆どすべて会葬してくれた為め、大きな椋のこかげの庭はそれらの人々でうずもれた。かの病院長も来て下さった。郊外の火葬場――城門を出て半丁程も行った侘びしい草原の隅の小山でした――へは父と、極く親しい父の部下の人々が十人許りついて行ってくれた。
火をつける時の胸の中はなかった。ここ迄来てあの子をなくすとは……
と、火葬場から帰って来た父は男泣きに泣いた。母も泣いた、姉も私もないた……
信はとうとうあの異境で死んでしまった。
五寸四角位な白木の箱におさめられた遺骨は白の寒冷紗につつまれて、仏壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちゃや洋服は皆棺に入れて一処にやいてしまった。
せめて氷があったら心のこりはないのに……
と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く台南からトロで届いた。信の基隆で買ったあの汽車のおもちゃもサーベルも、あとから来た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懐の涙を流させた。
父は思出のたねとなるからとて、信のつねに着ていた、弁慶縞のキモノも水平服も帽もすべて眼につくものは皆焼き捨ててそこいらには信の遺物は何もない様にしてしまった。鍾愛おかなかった末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかった。
姉と私とは毎日草花をとって来ては信の前へさし、バナナや、竜眼(りゅうがん)肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなえした。
父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護(みと)りつかれて、半病人の様なあおい顔をしつつわずかに私達の世話をしていた。
土人の子の十五六のを召使っていたけれども友達はなし父母は悲しみに浸ってい、弟はなし、私と姉とは、竜眼の樹かげであそぶにも、学校へ行くにも門先へ出るにも姉妹キッと手をつないで一緒であった。県庁の中の村に私達四五人の日本人の子供の為めに整えられた教場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならいにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎えされていた。全くまだ物騒であった。或夜などは城外迄土匪が来て銃声をきいた事もあった。夕方など私達が門の前で遊んでいると父は自分で出て来て、
静も久も家へもうおはいり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどって下さった。厳格一方の父も気が弱った。廟をすこし修繕して畳丈け敷いたガランとした、窓只一つのくらぼったい家は子供心にも堪えられぬ淋しさをかんぜしめた。
城壁のかげの草原には草の穂が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や仏手柑や竜眼肉が町にでるころは、ここに始めての淋しい秋が来た。毎夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露っぽい空気を透してあわれっぽくきこえて来た。
遠く離れている二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が来たのは漸く初秋のころであったろう。
次兄は大空にかかっている六つの光りの強い星が一時に落ちた夢をみたそうであるし、鹿児島にいた長兄は、つねのままのゴバン縞のキモノで遊びに来たとゆめ見て非常に心痛しているところに電報が行き、いとま乞いに来たのだろうとあとで知った由。二人の兄共殊に愛していた末弟のあまりにももろい死に様に一方ならず力落とししたのであった。
それから丸一年を嘉義に過し其後台北に来、東都に帰った後も尚お暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまま棚の上に安置して、弟の子供の時の写真と共々、いつも一家のものの愛惜の種となっていたが、桜木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故国松本城の中腹にあつく先祖の碑の傍らに葬られた。
弟が死んでからもう二十二年になるが、あの様な地で憐れな死に様をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思い出されるのである。 (「ホトトギス」大正七年十一月)
梟啼く(1) 杉田久女
私には信光(のぶみつ)というたった一人の弟があった。鹿児島の平の馬場で生れた此弟が四つの年(その時は大垣にいた)の御月見の際女中が誤って三階のてすりから落し前額に四針も縫う様な大怪我をさせた上、かよわい体を大地に叩き付けた為め心臓を打ったのが原因でとうとう病身になってしまった。弟の全身には夏も冬も蚤の喰った痕の様な紫色のブチブチが出来、癇癪が非常に強くなって泣く度に歯の間から薄い水の様な血がにじみ出た。私達の髪をむしった。だけども其他の時にはほんとに聡明な優し味をもった誰にでも愛され易い好い子であった。五人の兄妹の一番すそではあったし厳格な父も信光だけは非常に愛していた。家中の者も皆此の病身ないじらしい弟をよく愛しいたわってやった。弟は私が一番好きであった。病気が非常に悪い時でも私が学校から帰るのを待ちかねていて「お久(しゃ)しゃんお久(しゃ)しゃん」と嬉しがって、其日学校で習って来た唱歌や本のお咄を聞くのを何より楽しみにしていた。鳳仙花をちぎって指を染めたり、芭蕉の花のあまい汁をすったりする事も大概弟と一処であった。
父が特命で琉球から又更に遠い、新領土に行かなければならなくなったのは明治三十年の五月末であったろうと思う。最初台湾行の命令が来た時、この病身な弟を長途の船や不便な旅路に苦しませる事の危険を父母共に案じ母は居残る事に九分九厘迄きめたのであったが信光の主治医が「御気の毒だけど坊ちゃんの御病気は内地にいらしても半年とは保つまい。万一の場合御両親共お揃いになっていらした方が」との言葉に動かされたのと、一つには父は脳病が持病で、馴れぬ熱い土地へ孤りで行ってもし突然の事でも起ってはと云う母の少からぬ心痛もあり結局母はすべてのものを擲って父の為めに新開島へ渡る事に決心したのであった。小中学校さえもない土地へ行くのである為め長兄は鹿児島の造士館へ、次兄は今迄通り沖縄の中学へ残して出立する事になった。勿論新領土行きの為め父の官職や物質上の待遇は大変よくなったわけで、大勢の男女子をかかえて一家を支えて行く上からは父母の行くべき道は苦しくともこの道を執らなくてはならなかったに違いない。私の母は非常にしっかりした行届いた婦人であったが、母たる悲しみと妻たる務めとの為めに千々に心を砕きつつあった。その苦痛は今尚お私をして記憶せしめる程深刻な苦しみであったのである。
八重山丸とか云う汽船に父母、姉、私、病弟、この五人が乗り込んで沖縄を発つ日は、この島特有の湿気と霧との多い曇り日であった。南へ下る私共の船と、鹿児島へ去る長兄を乗せた船とは殆ど同時刻に出帆すべく灰色の波に太い煤煙を吐いていた。次兄はたった孤りぼっち此島に居残るのである。
送られる人、送る人、骨肉三ヶ所にちりぢりばらばらになるのである。二人の兄の為めには此日が実に病弟を見る最後の日であった。新領土と言えば人喰い鬼が横行している様におもわれている頃だったので、見送りに来た多数の人々も皆しんから別れを惜しんでくださった。船が碇を巻き上げ、小舟の次兄の姿が次第次第に小さく成って行く時、幼い私や弟は泣き出した……
真夜中船が八重山沖を過ぎる頃は弟の病状も険悪になって来た。その上船火事が起って大騒ぎだった。大洋上に出た船、而かも真夜中の闇(くら)い潮の中で船火事などの起った場合の心細さ絶望的な悲しみは到底筆につくしがたい。
ジャンジャンなる警鐘の中にいて、病弟をしっかり抱いた母はすこしも取り乱した様もなく、色を失った姉と私とを膝下にまねきよせて、一心に神仏を祷っているらしかった。
が幸いに火事は或る一室の天井やベッドを焦したのみで大事に至らず、病弟の容体も折合って、三昼夜半の後には新領土の一角へついたのである。淋しい山に取かこまれた港は基隆(キールン)名物の濛雨におおわれて淡く、陸地にこがれて来た私達の眼前に展開され、支那のジャンクは竜頭を統べて八重山丸の舷側へ漕いで来た。
今から二十何年前のキールンの町々は誠に淋しいじめじめした灰色の町であった。とうとうこんな遠い、離れ島に来てしまったと云う心地の中に、三昼夜半の恐ろしい大洋を乗りすてて、やっと目的の島へ辿り着いたという不安ながらも一種の喜びにみたされて上陸した私達は只子供心にも珍らしい許りであったが、これからはなおさら困難な道を取って、島内深くまだまだ入らなくてはならなかった。
基隆の町で弟は汽車の玩具がほしいと言い出して聞かなかった。父と母とは雨のしょぼしょぼ降る町を負ぶって大基隆迄も探しに行ったが見当らず、遂に或店の棚の隅に、ほこりまみれになって売れずに只一つ残っている汽車のおもちゃを、負っている弟がめばしこく見つけ、それでやっと機嫌を直した事を覚えている。
基隆から再び船にのって、澎湖島を経て台南へ上陸したのであるが、澎湖島から台南迄の海路は有名の風の悪いところで此間を幾度となく引返し遂々澎湖島に十日以上滞在してしまった。澎湖島では毎日上陸して千人塚を見物し名物の西瓜を買って船へ帰ったりした。漸くの思いで台南港へ着き、河を遡って台南の税関へついた。そこで始めて日本人の税関長からあたたかい歓迎をうけ西洋料理の御馳走をうけたりパイナップルを食べたりした。心配した弟の体も却って旅馴れたせいか変った様子もなく頗る元気であった。
台南から目的地の嘉義県庁迄はまだ陸路を取って大分這入らねばならなかった。困難はそこからいよいよ始まった。汽車は勿論なし土匪は至るところに蜂起しつつあった物騒な時代で、沢山な荷物とかよわい女子供許りを連れて愈々危地へ入って行く父の苦心は如何許りで有ったろうか。私たちは土人の駕籠に乗せられて、五里ゆき三里行き村のあるところに行っては泊り朝早く出て陽のある中に城下へ辿りつくという風に様々な危ない旅をしたのであった。ある時には青田の続いた中をトロで走り、或時は一里も二里も水のない石許りのかわいた磧(かわら)を追っかけられる様に急ぎ、又時には強い色の芥子畑や、わたの様な花の咲く村を土人の子供に囃されつつ過ぎた事もあり、行っても行っても、今の様な磧の(或場所の石を積み上げてあるところなどは土匪でも隠れてはしないかと危ぶみ怖れつつ)果てに雲の峰が尽きず村も三里も五里もない様な処もあった。或時には豪雨で橋の落ちた河へ行きあわせた事もあった。両岸には奔流を空しく眺めている日本人や土人が沢山いた。郵便夫もいた。父は裸になって河をあっちこち泳いで深さを極め、私共は一人一人駕籠かきの土人に負さって矢の様に早い河を渡してもらう事もあった。奔流に足を取られまいとして、底の石を探り探り歩む土人の足が危うく辷りかけてヒヤリとした事も一度や二度ではない。竹藪の中の荒壁のままの宿屋(村で一軒しかない日本人の宿)に侘びしく寝た夜もあった。丁度新竹から先は都合よく嘉義へ行く軍隊と途中から一処になったので夜も昼も軍隊と前後して、割合危険少なく幾多の困難を忍んで漸く嘉義についたのは七月の初旬であった。(つづく)
EO様よりメールを頂きました。曰く、
日高節夫様
日高様のアドレスをN先生に教えていただきました。
いつも素敵なご本をお作り下さいましてありがとうございます。
日高様がお作り下さいましたご本は私の大切な宝物として本棚に並べまして幸せを感じております。
ご本が届きます度にお作り下さいました日高様に感謝をしつつページを開いております。
いつもありがとうございます。
日高様に心からの感謝とお礼を申し上げます。 EO
早速返信メールを出しました。曰く、
ぼけ防止を兼ねて、「新ネット俳句」の制作をお手伝いさせていただいています。
80も半ばを過ぎた爺の作業なので、パソコンの打ち間違いも多々あり、読みづらい点もあると存じますが、私奴の力の続く限り続けさせていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
皆さん方の作品を見るのを楽しみにしています。 日高節夫
瓢作り 杉田久女
今年私は瓢(ひさご)作りを楽しみに、毎朝起きるとすぐ畠へ出てゆく。
まづ門傍のポプラの枝へはひ登つて、ぶらりと下がつてゐる大瓢が一つ。これはまるでくくりのない、丁度貧乏徳利みたいにそこ肥りのした奴。私がこないだ虚子先生にお目にかかりに別府迄行つてきて、汗の単帯をときすてるとすぐ見に行つたら、ほんの二日の間に見違へるほど快よくまつ青く太つてゐた。あんまりのつぺりとくくりがないので一体瓢箪ひようたんだらうか白瓜か、もしくは信州辺でゆふごと言つてゐるかんぺうを作る瓜なのか、などと家中で評定とりどりだつたが、やはりずぼらながら瓢箪であるらしい。実に大まかな気楽げなかつかうをして、夕立雨の時などはうぶ毛の生えたまつ青な肌をポトポトと雫がつたふ。夕立晴の雲がうごく頃には、柄の長い純白な瓢の花が、涼しげに咲き出す。この外にもポプラの樹に這ひついてゐる瓢が三本。之れはアダ花が咲くのみで、まだドンな形のとも見当がつかない。
一体うちでは棚をつらうつらうと話しあつてゐる中に、樹に垣に地面にどの蔓もが青々と這ひまはり、そこら中に花が咲き出したのであつた。
さて私は、茄子や葉鶏頭の露にふれつつ径を歩むと、そこには瓢の葉をきれいにまきつけた低い垣根が、あちこちに長瓢をぶら下げてゐた。この瓢箪は頸の長い、瓢逸ないかにもごま(ママ)な呑気げなかほして、一とゝころに四つも五つもよりあひ、はては蔓が重くなつて地べたに尻を落ちつけてしまつてゐるのもある。こつちのえにしだの枝に捲きついてゐる一尺余りの長瓢は、丁度窓から見るのにころあひな長短で、かつかうよく宙ぶらになつてゐた。そしてその一つの蔓先は、隣の爺さんの畠へ垣根ごしに侵入し、そこに尻曲りの長瓢が、くびをもたげかげんに二つ。ころりと地上に露出してゐる。そこぎりで蔓先をとめてしまつたので径のへりに尻をむけたこの青瓢箪は、時々雨露をいつぱいふりため、青草を敷いて涼しげに太つてゆくのであつた。幸ひに朝夕潮あびのゆきかへりにこの畠径をぬける近所の子供らにももがれず、此の頃はむしろに敷きかへて先づ健在。
それに引かへ、垣根の方の長瓢は敷わらも吊もかけなかつたので、地面につけた尻の先がすこし黒いしみになりかけて来た。二三日前の朝、露つぽい草の間にかゞんで私は瓢を吊したり、わらをしいたりしてやつたが、今朝行つて見ると、折角きれいに捲きついた青い葉は、むざんにうらがへしに乱れ、瓢は誰かに頗るぐわんこに荒縄でうごきのとれぬ様しばりあげられてゐた。そして隣畠の南瓜の蔓が勢よく幾筋も瓢垣ねのあはひからこちらへ侵入してゐた。
旭はすでにポプラ並木を透して光り、征矢(そや)の如く輝き出し、大向日葵の濃蕊の霧がきらめく。市街の空は煤煙でにごりそめ、海上の汽笛にあはせて、所々の工場の笛がなりつゞける。私は更らに愛すべき千成瓢箪の垣へと歩を移し、きまりの様にかがみこんで眺め入る。
蔓毎にたれ下つた小瓢箪の愛らしさ。くゝり深く丸々と小肥りの青い瓢はうぶ毛が柔らかくはえてゐる。小さい蟻が這つてゐたり、時には暁雨の名残の小つぶな玉が汗をかいたやうにたまつてゐたりして一層愛着をまさしめる。子供らも毎日こゝへ必らずしやがみにきては、二十五なつてゐるとか、葉のかげにもう三つなつてたとか、数へてはたのしみにしてゐた。
更らにその横手の樹に、やせこけた一本の蔓が中位の瓢をつけてはひのぼつてゐた。沢山の瓢の中これが一番形も面白く俗ぬけがしてゐて、しかもひねくれすぎず、私の一番好きな瓢なのであるが、肥が足らぬのか木かげのせゐか一向ずば/\と成長せず、ほんとの一瓢きりなのである。
最後にもう一本。之れは子供のつくつてゐるので、二尺たらずのかはいゝ棚に小まゆ程のが、二つ三つ漸く最近になりはじめた。
此の夏や瓢作りに余念なく
青々と地を這ふ蔓や花瓢
晩涼やうぶ毛はえたる長瓢
数年前俳句をつくりはじめた頃、板櫃河畔の仮寓でも大瓢箪をつくつたが、その美事な青瓢は軒に吊るす中作りかたを知らず腐らしてしまつた。
くくりゆるくて瓢正しき形かな
梯子かけて瓢のたすきいそぎけり
今年はどうかして一つでも実が入つて、ほんとの瓢箪を得たいものである。
(昭和二年八月十日 雨の草庵にて)
ウェブニュースより
藤井七段 新人王戦で準決勝進出「次戦も全力を尽くしたい」 ―― 将棋の藤井聡太七段(16)が31日、大阪市の関西将棋会館で行われた新人王戦準々決勝で近藤誠也五段(22)を破り、準決勝に進出した。昨期は準々決勝で敗退していた。
2度目の対局となる2人。藤井七段は対局後「中盤は一手一手難しい将棋。どちらかと言うと自信のない局面が続いていた」と振り返った。
https://www.youtube.com/watch?v=HdUXX2tafiA
新人王戦は参加規定に「六段以下」などの条件があるため、七段までスピード昇段した藤井七段が同棋戦に参加するのは今期が最後となる。前期を上回るベスト4への進出を果たし、「(優勝をかけた)番勝負に出ることができるよう次戦も全力を尽くしたい」と決意を新たにした。
同棋戦は“若手登竜門”と言われる棋戦で、奨励会員や女流棋士、アマチュアも加えてトーナメントを行っている。準決勝では青嶋未来五段と対局する。
藤井七段は、今年度成績でも18勝3敗と好調を維持している。
英彦山に登る 杉田久女
私は今年英彦山に五六度登った。
或人々は彦山はつまらぬ山だという。
成程銅の大鳥居から四十二丁の上宮(しょうぐう)迄は樹海の中を登りつめるので、見はらしはなし、谿流は添わず、大英彦全体を眺める事の出来ない凹凸の多い山なので、ひととおりの登山丈では、一向変化のないつまらぬ山と思えるのもむりはない。
だが、彦山に一夏を過して、古老から彦山伝説のかずかずをきかせられ、或は絶頂の三山を高嶺づたいによじ、或は豊前坊から北岳の嶮をよじ、或は南岳の岸壁を下りて妙義にも比すべき巨岩の林立を谷間に仰ぎ等した私は、彦山というものにいつか異常な興味と親しみを見出す様になってしまった。
彦山には雲仙程の雄大も、国際的なハイカラ味も近代的な設備もない。彦山は天狗の出そうな感じ、怪奇な伝説の山である。彦山を代表するものは山伏道と、かの平民毛谷村六助とである。彦山権現の御加護によってかたき討ちの助太刀をした六助の姿。まずこんなものの古くさい匂いが英彦山のかもす空気であろう。
三千八百坊が伽藍をつらねていたという名高い霊場も今はおとろえ切って、わずかに山腹の石段町に百余坊。それは皆山伏の末えいで、旅館になり、農になり或は葛根をほってたつきとしている。山坊の跡は石段が峰々谷々に今尚みちていて、田となり畠となり、全村には筧が縦横にかけわたされてそうそうのねをたてている。
さて私は彦山へはいつも大抵一人で登るのだった。
奉幣殿の上からは奥深い樹海の道で、すぐ目の前に見えていた遍路たちもいつか木隠れに遠ざかってしまうと、全くの無人境を私は一歩々々孤りで辿るのである。
前を見ても横を見ても杉の立木ばかり。めまぐるしい文化と騒音とにとりまかれていきている息づまる様な人間界の圧迫感もここではなく、大自然の深い呼吸の中に絶対の! 孤独感を味わう。だが彦山を歩いている時の私は、何のくらさも淋しさもない。魂の静かさが、天地と共にぴたりとふれあっている。自然のふところに抱かるる和らぎ、じつに爽快な孤独の心地なのである。ただもう澄みきった心地で、霧をながめ、鳥のねをきき、或は路傍の高山植物の美しさにみとれ、或は地上の落葉のいろいろに目を転じつつ一歩々々とよじ登ってゆく。こうした山中の体験の楽しさに二度三度と案内しった同じ山へ幾度も私は魅せられるように登って見た。だがさすがに呑気な其私も、十一月はじめ只ひとりで英彦へ登った時にはいささか閉口した。
山上の紅葉はもう散ってしまっていたので、登山客は殆どなく、その日の正午大鳥居で自動車を下りたものはたった私一人だった。いつもの通り奉幣殿上のくらい杉木立にさしかかった時には、どういうものか、女一人で、人気もない山道を登ってゆくのはあんまり大胆な、とつい気後れがし出すと、坂の中途で行ったりかえったり、立ちすくんでしまった。ぶきみな無人の静寂。深山の精といった感じがひしひし私を威圧する。思わずたじたじと十歩程もと来た方へ下りかけた私は、いや待て、折角ここ迄きて、上宮へのぼらず帰るのは残念だ。登ろう! こう心中に叫んで、祈願をこめつつ重い足をひいてよじ出した。三四丁こわいまぎれにとっとと上るとふいに頭上の木立のあたりから人間の笑い声がきこえてくる。急に元気が出て歩み出すと、下りてくる若い夫婦者に出逢った。その時の路傍の人のなつかしさ嬉しさ。お互に笑顔と声をかけあって、直また上下に別れたが、不思議にそれからは元気が出て、一と息にどんどん登る事が出来たが絶頂で禰宜にあう時迄は遂に一人にもあわなかった。深い落葉の道をさっささっさと歩みつづけた。中宮附近迄はまだ紅葉がのこっていた。もう何の怖ろしさもなくいつものような澄みきった心境で深山の大気を自由に呼吸することが出来た。
絶頂にたどりつくと、禰宜が出てきて、「よくお孤りでお登りでしたね。あなたで今日は朝から十人目です」という。神前にはまだ四五枚の紅葉が残っていたが、見渡す谷も南岳も北岳も悉く枯木の眺めとなってその上に、灰色の初冬の山々がつらなり遥かに九州アルプスの盟主久住が初雪をかぶってそびえているのを見出した時、私の心は急にはちきれる程の嬉しさでおどり上った。禰宜は雲仙を指し阿蘇を教えてくれた。お台場の如き偉大なあその外輪山をその噴煙をはるかに英彦の絶頂からはじめて眺めえた時の喜び! そして根子岳も、霧島も全九州の名山を悉く今日こそはじめて完全に眺めえた興奮に、私の幽うつや不安は皆けし飛んでしまった。
上宮ではつい二三日前に初雪が降ったと、禰宜は私を霧囲いの傍の天水桶の辺につれていって残りの雪片をさし示した。
顔見知りの茶店の亭主は、すぐかまの下を焚き出した。ここから見る久住は一層すばらしい。私は禰宜さんと一緒にあつい番茶をすすり、六助餅をたべながら、霧氷の話をきいた。
日輪は曇って、まだ二時過ぎたばかりなのに山頂は夕暮のようにうそ寒く、四山は枯色をしていかにも初冬が眼の前に迫ってきたのを感じさせられる。人なつかしげに語る茶屋男と禰宜さんたった二人を山上に残して私はかけ下りる様にとっとと下山した。十一月の末にはもう山上の日子(ひこ)の宮には禰宜も登らず、茶店もとじてしまうそうな。(英彦山は天照大神のみ子天忍穂耳尊天降りの地という)
私は三時に奉幣殿に下りてきて、今年最終の英彦山詣りを無事にすました。
天狗のすむという豊前坊の窟。鷹巣原の枯すすき。とろろ汁。春は鶯谷の鶯。山ほととぎす。彦山葛。土の鈴。彦山名物はざっとこんなものである。
(附記)彦山はほんとによい山だ。山陽も、「彦山真に秀彦也」とうたっている。之は山陽の誇張丈でなく、山陽は耶馬渓から守実ごしに、彦山の紅葉を賞し、彦山の秀彦たるところをきっと感じたに違いない。南岳をよじる時私は、たしかにそう感じた。南岳の原生林をぬける時の深山らしい感じは、上宮道にはない。三山をきわめてはじめて彦山の真価はわかる。 (発表誌年月未詳)
杉田久女は文章もよくしたといいます。2・3漁ってみましょう。
朱欒の花のさく頃 杉田久女
私が生れた鹿児島の平(ヒラ)の馬場の屋敷というのは、明治十年鹿児島にわたって十七年間も住っていた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母(くねんぼ)や朱欒(ザボン)、枇杷、柿など色々植えてあったと母からよく聞かされていた。
城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、桜島の噴煙も、西郷どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只冠木門(かぶきもん)だけがうっすら頭にのこっている。
年若な官員様であった父は、母と幼い長子とを神戸に残して一足先に鹿児島へ赴任すると間もなくあの西南戦争で命からがら燃えつつある鹿児島を脱出して、桜島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらったり、山中に避難している中官軍の勝になったので、県の書類丈を身にしょっていたのをもって碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろいしたと云う。
母達も其翌春かにはるばる鹿児島に上陸した時は、只まっ暗な焼野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晩とめて貰ったが言葉はわからず怖ろしかった相である。だが十七年もすみついてすべてに豊富な桃源の様なさつまで私の兄姉達は皆鹿児島風にそだてあげられた。私は長姉の死後三年目に生れたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ長寿する様にと命名されたものだとか。三四歳迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年来一度も遊んだ事はないが、兄月蟾(げっせん)が十数年前、平の馬場の其家をたずねて見たところ今は教会に成っていて家も門もそっくり其儘残っていたのであまりの懐しさに兄は其庭には入って朱欒や柿の木の下に佇んで幹をさすったり仰いだり去りがたく覚えたという事を私に語ってきかせたことがあった。
一体私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の実を常世の国から携え帰った田道間守の、但馬の国出石(いずし)の産なので、こじつけの様ではあるが、私が南国にうまれ、其後又琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長した事も面白くおもわれる。
台北の官舎では芭蕉や仏桑花、蘭など沢山植えてあったが、私のまっ先に思い出すのは父が一番大切にしていた一株の仏手柑である。指をもつらした様な面白い形の仏手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に青磁の花瓶などと共にかざられていた。
仏手柑は香気が高くて雅致のあるものだった。
台湾では文旦という形の尖ったうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて毎日の様土人が売りにきた。
ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買って石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌いだった私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入って、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍をかじり、香りの高い鳳梨をむいたり、びろど(ママ)の様な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついているバナナの房を軒に吊しておく楽しみなど、すべて香気のつよいしたたる様な熱帯地方の果物のうまさを思い出すと今でもよだれが出る様で、実際よくもあんなにたべられたものと思うくらい。お正月など、お雑煮も御飯もたべず私は顔の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や仏手柑を思い出すと、私達の帯や布団や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色などの幅広い反物が色どりよくつみ上げられていた土人の呉服店の事や、まつりかの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繍靴などを断片的に思い起すのである。
其頃母からおちごという牛若丸のような髷にいつも結ってもらって友禅の被布をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を読みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だった私は、南国というものによほど縁があると見え、嫁して二十五年余り、小倉の町にすみ馴れて年毎に柑橘の花をめでるのである。
静かな屋敷町の塀の上から、或は富野辺の大きなわら屋根の門口から、まっ白い膚橘の花が匂ってきたり、まっ白に散りしいたりしているのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙や柚の花よりずっと大きくて花数もすくないが、膚橘の方はもみつけた様に花を咲きこぼす。もといた堺町の家の簷(のき)にも一本夏みかんの木があって年々花をつけては塀外へこぼれるのを毎朝起きて掃くのがたのしみで二、三句出来た事がある。
塀外の膚橘かげを掃きうつり
※ 「膚」は「盧」の明らかな誤植であって,正しくは「盧橘(ろきつ)の花」です。この盧橘はナツミカンあるいはキンカンの別名ですが,久女のこの文章では「夏みかん」としています。
私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公会堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいってもいいだろう。八方から支え木で支えた老樹の枝は何百という朱欒をるいるいと地に低くたれていた。
先年大阪でひらかれた関西俳句大会の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺へ行った時鐘楼の簷にかけてあった美しい橘の実の幾聯も、橘のかげをふみつつ往来し、或は時じくの香ぐの実の枝をかざして歌った万葉人と共になつかしいものの一つであった。今南国の小倉辺では深緑の葉かげにまっ青な橙がかっちり実のり垂れ、街の人々はふぐやちぬが手に入る度びに、庭のだいだいをちぎって来ては湯豆腐々々としきりにこのき酢の味をよろこぶ時候となってきた。
つい四、五日前も門司の桟橋通りの果物店の前に佇んで富有柿や林檎やバナナに交って青みかんや台湾じゃぼんが並べられているのを見ると、私の生れたあの鹿児島の家の朱欒ももうゆたかに実り垂れているのであろうと思い出されるのであった。
(大正九年十月三十一日)
sechin@nethome.ne.jp です。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |