瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 午前。桜橋通りを真っ直ぐに見番通り・水戸街道・小梅通り・曳舟通りを通り抜けると東武伊勢崎線が走っている。線路沿いに曳舟駅の方向に進み、路地をあっちこっちと歩いていると飛木稲荷神社にぶち当たった。隣り合って、天台宗 圓通寺があった。
飛木稲荷神社
92247710.jpg大銀杏と鳥居
7f02e357.jpg神社説明板
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 戦災にあった大銀杏
2d1868ad.jpg銀杏の説明板
a08283f2.JPG奥の院
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 飛木稲荷の名は、ご神木の銀杏の木に由来する。墨田区一の大木であり、「社前に銀杏の大樹四囲許なるものあり」と伝えている。戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、一時は樹勢が衰えたが、現在は回復しているという。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝え、都内に残る被災樹木としても希少な存在となっている。祭神は宇迦神霊命(うかのみたまのみこと)という。
圓通寺山門
8ede4827.jpg本堂
de6bf281.jpg地蔵菩薩
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 地蔵菩薩説明板f51ad24b.JPG
大東亜戦争慰霊塔
e7b59e9d.jpg小僧さんの石像
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ぬれ仏
5d751103.JPG 圓通寺の境内に入ると右手に地蔵菩薩立像が立っている。一部破損はあるものの、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏という。顔は童顔に満ちていて江戸初期の佳作にふさわしいものである。また、この石仏は寺島村新田(旧称)の、「寒念仏」を修復した記念に、結縁衆の「菩薩」を弔うために造立・奉納されたものでもあるということじゃ。直ぐ隣には、「大東亜戦争殉難者之碑」がある。元吾嬬町西一丁目連合町会会長と役員一同によって昭和43(1968)年3月10日に建立されたものという。門と庫裡のあいだを入って裏の墓地に向かうと、おびただしい数の古い墓石や地蔵が安置されている。その中に、無縁仏を守るかのように通称「ぬれ仏」と呼ばれる地蔵が立っている。空襲時、隣の飛木稲荷の大銀杏とともに炎につつまれ、無惨にも半身が削り取られてしまい、焼けこげて、大変痛ましい姿になってござらっしゃる。庫裏の入口に可愛らしい小僧さんの石像が安置されていた。
高木神社
5765edee.jpg本殿
78fb272c.jpg 飛木稲荷神社と圓通寺にお別れして、曳舟通りに出る手前に高木神社というのがあった。應仁二年の創祀と伝えられ、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されており、古くは「第六天社」と称えられ、天台宗正圓寺が別当として管理してた。明治初年、神仏分離の制度が定められ、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格したという。祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)という。
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良かったら、
目高さん、はじめまして。
飛木稲荷神社の、実話の絵本を描かせて頂いたものです。良かったら図書館にあります、詠んで見てください。
ヨシカ 2010/03/29(Mon) 編集
今後ともよろしく
どなたかよく存じませんが、そのうちその絵本拝見させていただきたいと存じます。
 【2010/04/04】
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目高 拙痴无
年齢:
92
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1932/02/04
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 sechin@nethome.ne.jp です。


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