瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
昼飯前に昨日と同じ道筋をもう1度歩いてみた。
ゲゲさんの整骨院
ゲゲさんの整骨院
本性寺を過ぎて、間もなく出山寺がある。この寺は義弟の眠る寺であるが、境内に采女塚がある。門扉が閉ざされていたので、そのまま素通りして、清川1丁目と2丁目の堺の通りを渡って、ふと見ると塾友のゲゲさんがやっている整骨院が目に入った。先日の忘年会でちらりと聞いてはいたが、はじめてゲゲさんの店を確かめることが出来た。丁度忙しい時刻だと思ったので、訪ねることはせずにそのまま素通りした。
平賀源内の墓を示す碑
平賀源内の墓所
源内の墓所の説明板
源内の墓と肖像画
一旦明治通りに出て白鬚橋方向に歩くと、「史蹟平賀源内先生之墓」という碑が目に入った。ここから再び南に路地を入ったところに、墓所があったが、ここも門が閉ざされていて中に入ることは出来なかった。ここは、総泉寺といい室町以来、江戸絵図にも出てくる禅宗の古刹であったが、昭和4年に板橋区に移転して今はない。この寺は当初浅草橋場にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(1555~1558年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣(1570~1633年)によって再興され、江戸時代には青松寺、泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。1923年の関東大震災で罹災したため、昭和3年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至っている。
平賀源内(ひらがげんない、1728~1780年)については、承知のように天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼などの焼き物を作成したり、多彩な分野で活躍した。男色家であった為、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名。『解体新書』を翻訳した杉田玄白(1733~1817年)をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや(貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬとき位は畳の上で普通に死んで欲しかった。)とあるそうで、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。酔って記憶があいまいだったとは言え、勘違いで人を殺してしまった源内、安永8(1779)年11月21日、小伝馬町の牢獄につながれ、刑が確定しないまま、12月18日に死亡してしまったそうじゃ。破傷風だったとも、自殺だったとも言われているそうじゃ。有名人の源内が殺人を犯し、牢獄で死亡… しばらくの間、江戸ではこの話で持ちきりだったそうじゃ。田沼意次が事件の黒幕だという小説が出たり、牢を抜け出し蝦夷に渡ってアイヌの英雄になったという噂がでたりもしたということじゃ。科学者としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。『エレキテル』は、故障していたオランダ製のものを修復したものであり、その原理については源内自身はよくわかっていなかったとする説が有力である。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告が元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4(1775)年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらを以て日本におけるコピーライターのはしりとも評される。浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝(1749~1823年)の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年) に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。鈴木春信(1725?~1770年)と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会『東都薬品会』が開催されたということじゃ。爺達が文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」の作者は源内である聞いたことがある。平賀源内の墓所
源内の墓所の説明板
源内の墓と肖像画
一旦明治通りに出て白鬚橋方向に歩くと、「史蹟平賀源内先生之墓」という碑が目に入った。ここから再び南に路地を入ったところに、墓所があったが、ここも門が閉ざされていて中に入ることは出来なかった。ここは、総泉寺といい室町以来、江戸絵図にも出てくる禅宗の古刹であったが、昭和4年に板橋区に移転して今はない。この寺は当初浅草橋場にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(1555~1558年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣(1570~1633年)によって再興され、江戸時代には青松寺、泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。1923年の関東大震災で罹災したため、昭和3年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至っている。
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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