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 昼飯前に今戸から清川、石浜辺りを徘徊した。
清川町にある本性寺
5bf1ee02.JPG境内に立つ日蓮辻説法の像
005fe23f.jpg 清川1丁目の本性寺に立ち寄った。本性寺は池波正太郎の「剣客商売」で、秋山小兵衛の亡妻で大治郎の実母・お貞と、同門の剣客・嶋岡礼蔵の墓があることになっている。法華宗の当山がなぜ秋山家の菩提寺になったのだろうか。小兵衛がまだ青年時代の頃、悪質の痔疾に苦しんだ酒問屋の主の岡田某が、剃髪して当山で唱題修行に励んだがその甲斐なく遷化、法号を「秋山(しゅうざん)自雲」とした。池波正太郎先生 がこの自雲の掲示に目をとめ、「おや、秋山(あきやま)。これもなにかの縁」と小兵衛の女房で、大治郎の実母であるお貞をこの寺に葬ったのに違いあるまい。
亀田鵬斎の詩碑
560bcd9d.jpg詩碑の拓本
f4a0ef4b.JPG 石浜神社の境内に亀田鵬斎(ぼうさい)の詩碑があるというので立ち寄った。全面に隅田渡津の歴史を詠んだ七言律詩二首と稲垣成斉による建碑の由来を刻む
 亀田鵬斎については、前にも書いたと思うが、谷文晁(1763~1841年)、酒井抱一(1761~1829年)らとともに江戸時代後期を代表する儒学者で、宝暦2(1752)年、江戸神田に生まれた(異説では群馬県上五箇村が出生地という)。名は翼(よく)といい、のち長興といった。折衷学者井上金峨(きんが、1732~1784年)に学び、山本北山(1752~1812年)とともに荻生徂徠(そらい、1666~1728年)の古文辞学を排撃し、朱子学を批判したために、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。晩年は下谷金杉に暮らし、「金杉の酔先生」と呼ばれて親しまれた。文政9(1826)年、75歳で没したということじゃ。
 

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