瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
河北を平定した曹操(155~220年)は、208年7月、荊州(けいしゅう)の牧(ぼく、刺史)であった劉表(りゅうひょう、?~208年)を攻めるため兵を率いて荊州へ南下を始めた。ところが8月になると劉表が死亡し、劉表の跡を継いだ次男の劉琮(りゅうそう、生没年不明)は9月、曹操に降伏した。孤立した劉備(116~223年)は長江づたいに南下し、長坂(ちょうはん)で曹軍に追いつかれるが何とか難を逃れ、荊州の動向を探りに来ていた魯肅(ろしゅく、172~217年)と面会し、1万人余りの軍勢を率いる劉表の長男の劉琦と合流しつつ夏口へ到達した。曹操は劉表が作りあげた荊州水軍を手に入れ、そのまま南下して兵を長江沿いに布陣させた。
魯粛は劉備に孫権と同盟を結んで曹操と対抗するように説き、劉備は諸葛亮(しょかつりょう、181~234年)を使者として派遣して孫権と同盟を結び、孫権は周瑜・程普(ていふ、生没年不明)ら数万の水軍を劉備の救援に派遣した。一方の曹操軍も長江を下り、両軍は赤壁で一戦を交え、周瑜らは疫病に悩まされていた曹操軍を撃破した。曹操は後退し烏林に陣を張り、周瑜らも長江を挟んで対峙(たいじ)した。
周瑜の部将の黄蓋(こうがい、? ~215年?)は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。
以上が伝えられる所の赤壁の戦いのあらましであるが、赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江・漢水沿いに数カ所存在し、その是非については現在も議論があるが、有名なものは二箇所ある。
1.現在の湖北省蒲圻市(ほきし、現:赤壁市)西南の長江南岸に位置する赤壁山である。ここは実際の古戦場として現在最も有力視され、「三国赤壁(別名、武赤壁)」と呼ばれている。
杜牧の「赤壁」の訳: 砂に埋まって錆びていない矛。赤壁の戦いの激戦を物語る遺物。もし、東風が周瑜のために吹かなければ、二人の美人(周瑜の妻と彼女の姉)は、敵の曹操のものになってしまっていただろう。
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