藻(も)を詠める歌18
巻19-4211:古にありけるわざのくすばしき事と言ひ継ぐ.......(長歌)
標題:追同處女墓謌一首并短謌
標訓:追ひて處女(をとめ)の墓(つか)の謌に同(こた)へる一首并せて短謌
原文:古尓 有家流和射乃 久須婆之伎 事跡言継 知努乎登古 宇奈比牡子乃 宇都勢美能 名乎競争等 玉剋 壽毛須底弖 相争尓 嬬問為家留嬬等之 聞者悲左 春花乃 尓太要盛而 秋葉之 尓保比尓照有 惜 身之壮尚 大夫之 語勞美 父母尓 啓別而 離家 海邊尓出立 朝暮尓 満来潮之 八隔浪尓 靡珠藻乃 節間毛 惜命乎 露霜之 過麻之尓家礼 奥墓乎 此間定而 後代之 聞継人毛 伊也遠尓 思努比尓勢餘等 黄楊小櫛 之賀左志家良之 生而靡有
万葉集 巻19-4211
作者:大伴家持
よみ:古(いにしへ)に ありける業(わざ)の 竒(くす)ばしき 事と言ひ継ぐ 智渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 現世(うつせみ)の 名を争ふと たまきはる 命(いのち)も捨てて 争ひに 嬬問(つまと)ひしける 処女(をとめ)らし 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて 秋し葉し にほひに照れる 惜しき 身し盛りすら 大夫(ますらを)し 語(い)いたはしみ 父母に 申し別れて 家(いえ)離(さか)り 海辺に出で立ち 朝夕(あさよひ)に 満ち来る潮し 八重波に 靡く玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜し 過ぎましにけれ 奥墓(おくつき)を ここと定めて 後し代し 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと 黄楊(つげ)小櫛(をぐし) しか刺しけらし 生(お)ひて靡けり
意訳:昔にあった出来事で、不思議なことと語り継がれて来た、智渟壮士と菟原壮士との世間の評判を競うとして、寿命を刻む、その命をも捨てて争うのに、二人が妻問いした乙女の話を聞けば悲しい事です。春の花が咲き誇り、秋には葉が黄葉して輝く、そのように輝く、惜しい身の盛りすら、立派な大夫たちの言葉を悲しんで、父母にこの世の暇を乞い、家を離れて海辺に出で立ち、朝夕に満ち来る潮の、たくさんの打ち寄せる波に靡く美しい藻の、その短い節のようなわずかのこの世の間も、惜しい命を、はかない露霜のように、乙女はこの世を過ぎ去ってしまったけれど、墓をここと定めて、後年に物語を聞き継ぐ人も、一層遠く、偲ぶよすがにしなさいと、黄楊の小さい櫛をこのように墓に捧げて手向けたらしい。それが育ってこのように葉を風に靡かせている。
左注:右、五月六日、依興大伴宿祢家持作之
注訓:右は、五月六日に、興に依りて大伴宿祢家持の之を作れり。
巻19-4214:天地の初めの時ゆうつそみの八十伴の男は.......(長歌)
標題:挽謌一首并短謌
標訓:挽謌一首并せて短謌
原文:天地之 初時従 宇都曽美能 八十伴男者 大王尓 麻都呂布物跡 定有 官尓之在者 天皇之 命恐 夷放 國乎治等 足日木 山河阻 風雲尓 言者雖通 正不遇 日之累者 思戀 氣衝居尓 玉桙之 道来人之 傳言尓 吾尓語良久 波之伎餘之 君者比来 宇良佐備弖 嘆息伊麻須 世間之 厭家口都良家苦 開花毛 時尓宇都呂布 宇都勢美毛 無常阿里家利 足千根之 御母之命 何如可毛 時之波将有乎 真鏡 見礼杼母不飽 珠緒之 惜盛尓 立霧之 失去如久 置露之 消去之如 玉藻成 靡許伊臥 逝水之 留不得常 枉言哉 人之云都流 逆言乎 人之告都流 梓弧 爪夜音之 遠音尓毛 聞者悲弥 庭多豆水 流涕 留可祢都母
万葉集 巻19-4214
作者:大伴家持
よみ:天地の 初めの時ゆ うつそみの 八十伴の男は 大君に まつろふものと 定まれる 官にしあれば 大君の 命畏み 鄙離る 国を治むと あしひきの 山川へだて 風雲に 言は通へど 直に逢はず 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに 玉桙の 道来る人の 伝て言に 我れに語らく はしきよし 君はこのころ うらさびて 嘆かひいます 世間の 憂けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ うつせみも 常なくありけり たらちねの 母の命 何しかも 時しはあらむを まそ鏡 見れども飽かず 玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく 置く露の 消ぬるがごとく 玉藻なす 靡き臥い伏し 行く水の 留めかねつと たはことか 人の言ひつる およづれか 人の告げつる 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙 留めかねつも
意訳:天地が初めてひらけた時から、この世の中の多くの官人たちは、大君に服従すると定まっている。そういう官人の身なので、大君の仰せにしたがって、都から遠く離れた国を治めるためにやってきた。山川を隔て、風や雲の便りに消息は流れてくるものの、直接逢うことはかなわない。かくて日が重なれば、恋しくなるばかり。ため息ばかり増します。そんな折りに都からやってきた人が私に告げて申します。「ああ、愛しいあの方はこのごろ心寂しく嘆いておいででしょうか。人の世にあって厭わしく辛いのは、咲く花も時と共にうつろうように、人の世も変わらずにいられないことです。母上様はどう思っておいででしょう。ほかに時はいくらもありましょうに、今、ここに来られる定めとは。鏡のように、お美しく、まだまだ惜しい年の盛りでいらっしゃるのに、立った霧が消え失せてしまうように、降りた露が消えてしまうように、玉藻のように床に靡き伏せっていらっしゃるとは。流れゆく水をお止めできませんでした」と・・・。戯言に申したのでしょうか。それとも、人惑わしの言葉を告げたのでしょうか。梓弓(あづさゆみ)を爪弾く夜の音のように、遠音にも聞けば悲しく、流れ出してくる涙は留めようがありません。
左注:右大伴宿祢家持弔右大臣家藤原二郎之喪慈母患也 五月廿七日
注訓:右は、大伴の宿禰家持、聟南の右大臣の家の藤原二郎(なかちこ)が慈母を喪(うしな)へる患を弔(とむら)へるなり。五月二十七日
◎左注に聟南右大臣家藤原二郎(なかちこ)とあるのは継縄を指します。これを久須麻呂とする説もありりますが、『尊卑分脉』『公卿補任』ともに久須麻呂の母は藤原房前の女(袁比良おひら)と伝え、「藤原二郎の慈母」とは没年が異なります。
※藤原継縄(ふじわらのつぐただ、727-796年)
奈良時代の公卿(くぎょう)です。神亀(じんき)4年生まれ。南家藤原豊成の次男です。天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)参議。
延暦(えんりゃく)9年右大臣となり中衛(ちゅうえの)大将,東宮傅(ふ)を兼任します。13年正二位。桃園右大臣とよばれました。妻の百済明信(くだらのみょうしん)とともに桓武(かんむ)天皇の寵遇(ちょうぐう)をうけました。「続日本紀」の編修を主宰しました。延暦15年7月16日死去、70歳。贈従一位。
sechin@nethome.ne.jp です。
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