瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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萩を詠める歌27
133324:かけまくもあやに畏し藤原の都しみみに.......(長歌)
標題:挽歌
標訓:挽歌(ばんか)
原文:挂纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 羊緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼之秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡芽子乎 珠多次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 (一云、 者雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付叨不知 雖思 印手無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有
           万葉集 巻133324
          作者:不明
よみ:かけまくも あやに畏(かしこ)し 藤原の 都(みやこ)しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多(おほ)くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕(つか)へ来()し 君の御門(みかど)を 天のごと 仰ぎに見つつ 畏(かしこ)けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満(たたは)しけむと 我が思(おも)ふ 皇子の命(みこと)は 春されば 植(うゑ)(つき)が上(うへ)の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月(ながつき)の しぐれの秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負()ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲(しの)はし み雪降る 冬の朝(あした)は 刺()し楊(やなぎ根張り梓を 大御手(おほみて)に 取らしたまひて 遊ばしし 我が大君(おほきみ)を 霞(かすみ)立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代(よろづよ)に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我()れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりに うちにさす 宮の舎人(とねり) (一云 はく、は(たへ)のほの 麻衣(あさぎぬ)着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷(まよ)へる間(あひだ)に あさもよし 城上(きのへ)の道ゆ つのさはふ 磐余(いはれ)を見つつ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験(しるし)をなみ 嘆けども 奥処(おくか)をなみ 大御袖(おほみそで行き触れし松を 言とはぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天(あま)の原 振り放け見つつ 玉(たま)たすき 懸けて偲(しの)はな 畏(かしこ)くあれども

意訳:心にかけるのさえ恐れ多いことだが、あえて言葉に出して申し上げよう。藤原の都いっぱいに人は満ち満ち、君と呼ばれる方はたくさんいらしゃるけれど、廻り来る年月長くお仕えしてきた我が君の御殿、その御殿を、天のように仰ぎ見ながら、恐れ多いけれども行く末を頼みに思い、一刻も早くご立派になられて満月のように満ち足りてほしいと、われらが思いに思ってきたその皇子の命は、春になると、植槻の岡のほとりの松の下道を登って国見をなさり、九月の時雨降る秋には、御殿の石畳のあたりいっぱいに露を負って靡いている萩を、しみじみと心に懸けて賞でられ、雪の降る冬の朝は朝で、刺し柳が根を張るようにぴんと張った梓の弓を、大御手に振りかざして猟をなさっと、われらが頼りとするそんな皇子だったものだから、霞の立ちこめる春の長い一日をずっと見暮らしても見飽きないほどなので、いついつまでもこのように栄えてほしいと、大船に乗ったように頼みきっていた折も折、あまりな報せに泣き暮れる私は目でも狂ったのか、御殿を振り仰いで見ると、白い布でお飾り申し、宮の舎人たちもまっ白な麻の喪服を着ているので、これは夢なのかうつつなのかと、曇り夜のように何が何だかわけがわからずにいるうちに、城上の道を、磐余を目指して神として葬り申しあげるたので、道に立っても方角もわからず、どう思っても甲斐がなく、どう嘆いてもきりがなく、せめて皇子の大御袖が国見の行きずりに触れた松、あの松を、物言わぬ木ではあっても、月改まるごとに空遠く振り仰いでは、心の底からお偲び申そう。恐れ多いことではあるけれども。
15-3656:秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば

15-3677:秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば

◎引津(ひきつ)の亭(とまり)は、現在の福岡県糸島郡志摩町の湾部と考えられています。

15-3681:帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも

◎狛嶋
 『松浦拾風土記』には神功皇后が三韓征伐の折に、この島に神々を集めて軍議を謀ったことが地名の由来だと記されています。しかし、平安時代中期の『延喜式』には「肥前国柏嶋牛牧」という表記が見られ、当時は“柏嶋”という字が当てられ牛の放牧地だったことが窺えます。また、万葉集の七首の歌の説明には「狛嶋(こましま)の亭(とまり)」と書かれていますが、大方の見方では“柏”という字を誤って“狛”と記したのではないかと言われています。では、柏嶋(かしわじま)の由来は何かと調べてみると、『日本地名大事典(吉田茂樹著)』には【玄武岩の堅い岩から成り、「カタシイハシマ」】が語源とあります。「カタシ イハシマ(堅岩島)」→「カシワシマ(柏嶋)」→「神集島」の変化です。慶長5年(1600年)の『松浦家世伝』には「神集島」という表記が見られることから、江戸時代にはすでに、神功皇后の伝説とともに「神集島」になっていたのでしょう。

※秦田麻呂(はたの たまろ、生没年不詳)
 奈良時代の官吏です。遣新羅使一行のひとりで、天平8年(736)肥前松浦郡狛島(長崎県)でよんだ歌1首が「万葉集」巻15におさめられています。

ウェブニュースより
 藤井聡太三冠、台湾のアマ強豪とオンライン対戦 「好手指された」 ―― 将棋の藤井聡太三冠(19)が17日、東京都内で海外のアマチュア強豪とインターネットを通じて対局した。将棋の国際普及を目的とした日本将棋連盟主催の「国際将棋フェスティバル」の企画の一つ。ハンディありの対局だったが、終盤までどちらが勝つかわからない熱戦が繰り広げられた。

 藤井三冠と対局したのは、台湾の高校生、張京鼎さん(16)。17日までネット対局で開催された「国際将棋トーナメント」で優勝した。藤井三冠が角を落として戦う「角落ち」のハンディをつけて始まった一戦は長期戦になったが、177手で藤井三冠が勝利を収めた。
 対局後、藤井三冠と日本将棋連盟の佐藤康光会長(52)、対局の解説を務めた羽生善治九段(51)が記者会見に臨んだ。藤井三冠は対局の内容について、「こちらが気づいていない好手も指されて、素晴らしい実力を感じた」と話した。

 ネット対局の普及などに伴い、海外でも将棋を楽しむ人が増えているが、日本語以外の将棋の書籍が少ないなどの問題もある。コロナ禍で、対面での海外普及も難しくなっている。佐藤会長は、今回のフェスティバルで行った英語字幕つきの講座の配信について、「今後の普及の一助としてご覧いただければ。このフェスティバルは世界普及の柱なので、継続していきたい」と話した。
 「国際将棋トーナメント」には37の国と地域から40人が参加。「北米・中南米ゾーン」「アジア・オセアニアゾーン」「ヨーロッパ・アフリカゾーン」の3地区で予選が行われ、1517日に16人が参加する決勝トーナメントが行われた。    (朝日新聞DIGITAL 20211017 1954分)


 

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