瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
荀子 性悪篇 第二十三 より
問者曰:「禮義積偽者、是人之性、故聖人能生之也。」
應之曰:是不然。夫陶人埏埴而生瓦、然則瓦埴豈陶人之性也哉?工人斲木而生器、然則器木豈工人之性也哉?夫聖人之於禮義也、辟則陶埏而生之也。然則禮義積偽者、豈人之本性也哉!凡人之性者、堯舜之與桀跖、其性一也;君子之與小人、其性一也。今將以禮義積偽為人之性邪?然則有曷貴堯禹、曷貴君子矣哉!凡貴堯禹君子者、能化性、能起偽、偽起而生禮義。然則聖人之於禮義積偽也、亦猶陶埏而為之也。用此觀之、然則禮義積偽者、豈人之性也哉!所賤於桀跖小人者、從其性、順其情、安恣孳、以出乎貪利爭奪。故人之性惡明矣、其善者偽也。天非私曾騫孝己而外眾人也、然而曾騫孝己獨厚於孝之實、而全於孝之名者、何也?以綦於禮義故也。天非私齊魯之民而外秦人也、然而於父子之義、夫婦之別、不如齊魯之孝具敬文者、何也?以秦人從情性、安恣孳、慢於禮義故也、豈其性異矣哉!
〔訳〕
「礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性である。だからこそ聖人もこれを作り出すことができたのである」と反論するものがいる。しかし、これに対しては、そうではないのだと答える。あの陶工は粘土をこねて瓦をつくるが、粘土をこねて瓦とするのは、陶工の生まれながらの性であるとどうして言えるだろうか? 細工師は木を削って器物をつくるのであるが、木を切って器物を作るのは細工師の生まれながらの性であるとどうしていえようか? 聖人が礼義を作るのも、たとえば陶工が粘土をこねて瓦を作るようなものである。そうすると礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性であるとどうしていえようか。人の生まれながらの性について言えば、聖天子である尭や舜と、暴君の桀や大盗賊の盗跖(とうせき)とすべてその生まれながらの性は同じである。君子と小人との区別はあっても、生まれながらの性は同じである。今仮に礼義や努力してて修得する偽が人の生まれながらの性であるとするならば、どうしてまた尭や禹を尊敬する理由があろうか、どうして君子を尊敬するひつようがあろうか。尭や禹や君子を尊重するわけは、生まれつきの性を変化させ、努力して修得する偽を実行するからであり、偽を実行してその結果礼義が作られるからである。そうすると聖人が礼義や努力して修得した偽を実行するのは、やはり陶工が粘土をこねて瓦をつくるようなものである。このように見てくると、礼義や努力して得た偽は、どうして人の性であると言えようか。暴君の桀や大盗賊の盗跖や小人を蔑むわけは、生まれながら持っている性や情のままに行動し、ほしいままに振る舞い、利を貪り、争い奪い合うからである。だから人の生まれながらの性は、悪い傾向性を持っていることは明らかであり、その善いというものは、努力して修得した偽なのである。
天は、孝行で有名な曾参(そうしん)、閔子騫(びんしけん)、孝己(こうき)の三人を特別に寵愛して、その他の人々には不親切であったというわけではない。そうであるのにこの三人だけが、親孝行を十分実践したものとして、孝行の名声を得ているのはどうしてであろうか。それは礼義を修め尽くしたからである。天は斉と魯の国の人々を特別に愛して、秦の国の人々を憎んだわけではない。そうであるのに、父子の間の道義や夫婦の礼義において、秦の国の人々は斉や魯の人々が孝行で慎み深く、よく礼儀作法にかなっているのに及ばないのは、どうしてであろうか。それは秦の国の人々が生まれながらの性情のままに、ほしいままな行いをし、礼義を無視下からである。どうして生まれつきの性に違いがあろうか。
問者曰:「禮義積偽者、是人之性、故聖人能生之也。」
應之曰:是不然。夫陶人埏埴而生瓦、然則瓦埴豈陶人之性也哉?工人斲木而生器、然則器木豈工人之性也哉?夫聖人之於禮義也、辟則陶埏而生之也。然則禮義積偽者、豈人之本性也哉!凡人之性者、堯舜之與桀跖、其性一也;君子之與小人、其性一也。今將以禮義積偽為人之性邪?然則有曷貴堯禹、曷貴君子矣哉!凡貴堯禹君子者、能化性、能起偽、偽起而生禮義。然則聖人之於禮義積偽也、亦猶陶埏而為之也。用此觀之、然則禮義積偽者、豈人之性也哉!所賤於桀跖小人者、從其性、順其情、安恣孳、以出乎貪利爭奪。故人之性惡明矣、其善者偽也。天非私曾騫孝己而外眾人也、然而曾騫孝己獨厚於孝之實、而全於孝之名者、何也?以綦於禮義故也。天非私齊魯之民而外秦人也、然而於父子之義、夫婦之別、不如齊魯之孝具敬文者、何也?以秦人從情性、安恣孳、慢於禮義故也、豈其性異矣哉!
〔訳〕
「礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性である。だからこそ聖人もこれを作り出すことができたのである」と反論するものがいる。しかし、これに対しては、そうではないのだと答える。あの陶工は粘土をこねて瓦をつくるが、粘土をこねて瓦とするのは、陶工の生まれながらの性であるとどうして言えるだろうか? 細工師は木を削って器物をつくるのであるが、木を切って器物を作るのは細工師の生まれながらの性であるとどうしていえようか? 聖人が礼義を作るのも、たとえば陶工が粘土をこねて瓦を作るようなものである。そうすると礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性であるとどうしていえようか。人の生まれながらの性について言えば、聖天子である尭や舜と、暴君の桀や大盗賊の盗跖(とうせき)とすべてその生まれながらの性は同じである。君子と小人との区別はあっても、生まれながらの性は同じである。今仮に礼義や努力してて修得する偽が人の生まれながらの性であるとするならば、どうしてまた尭や禹を尊敬する理由があろうか、どうして君子を尊敬するひつようがあろうか。尭や禹や君子を尊重するわけは、生まれつきの性を変化させ、努力して修得する偽を実行するからであり、偽を実行してその結果礼義が作られるからである。そうすると聖人が礼義や努力して修得した偽を実行するのは、やはり陶工が粘土をこねて瓦をつくるようなものである。このように見てくると、礼義や努力して得た偽は、どうして人の性であると言えようか。暴君の桀や大盗賊の盗跖や小人を蔑むわけは、生まれながら持っている性や情のままに行動し、ほしいままに振る舞い、利を貪り、争い奪い合うからである。だから人の生まれながらの性は、悪い傾向性を持っていることは明らかであり、その善いというものは、努力して修得した偽なのである。
天は、孝行で有名な曾参(そうしん)、閔子騫(びんしけん)、孝己(こうき)の三人を特別に寵愛して、その他の人々には不親切であったというわけではない。そうであるのにこの三人だけが、親孝行を十分実践したものとして、孝行の名声を得ているのはどうしてであろうか。それは礼義を修め尽くしたからである。天は斉と魯の国の人々を特別に愛して、秦の国の人々を憎んだわけではない。そうであるのに、父子の間の道義や夫婦の礼義において、秦の国の人々は斉や魯の人々が孝行で慎み深く、よく礼儀作法にかなっているのに及ばないのは、どうしてであろうか。それは秦の国の人々が生まれながらの性情のままに、ほしいままな行いをし、礼義を無視下からである。どうして生まれつきの性に違いがあろうか。
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