真葛(さねかずら)を詠める歌1
モクレン科サネカズラ属の常緑つる性の真葛(さねかずら)です。花は夏に咲き、秋に赤く丸い実をつけます。写真は赤くなる前のものです。枝に粘液があり、鬢(びん)付け油の原料として使われるので、江戸時代には美男葛(びなんかずら)とも呼ばれたそうです。
万葉集には10首以上に載っています。「真葛(さなかづら)」が「後も逢ふ」などを導く枕詞(まくらことば)として使われている歌もあります。
巻2-0094:玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ
※鏡王女(かがみのおほきみ、?‐683〈天武12〉)
鏡姫王,鏡女王とも書きます。鏡王の娘、額田王の姉とも、舒明天皇の皇女、皇孫ともいわれます。天智天皇に寵(ちよう)せられ、のち藤原鎌足の嫡室となったようです。死去の前日,天武天皇の見舞を受けたといいます。《延喜諸陵式》によれば、墓は舒明天皇陵の域内にあります。《万葉集》に重出も含め短歌5首、《歌経標式》にも歌が残っています。
巻2-0101:玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
※大伴安麿(おおとものやすまろ、?~714(和銅7)年)
奈良時代の歌人。長徳(ながとこ)の第6子。旅人,坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の父でもあります。672年6月,壬申の乱に叔父の大伴馬来田(まぐた)、吹負(ふけい)、兄の御行(みゆき)とともに天武側について従軍します。708年(和銅1)元明天皇から藤原不比等らとともに子々孫々供奉し各自努むべき勅を賜わりました。710年都は平城京に移って安麻呂は佐保川畔に邸を営み,714年5月死去。時に大納言兼大将軍正三位、元明天皇はその死を悼み従二位を贈りました。
巻2-0102:玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋にあらめ我れ恋ひ思ふを
◎この歌は大伴宿禰安麿(おほとものすくねやすまろ)が贈った巻2-0101の歌に、巨勢郎女(こせのいらつめ)が返した返歌です。大伴安麿の「美しい葛のように実のならない君への恋だ」との切ない訴えに対して、「実らせてくれないのは貴方のほうでしょう。私はこんなに恋しく思っていますのに…」と、逆に安麿のほうこそ恋を実らせてくれないのでしょうと責めています。安麿が実らない恋だと嘆いていたのと同じように、郎女もまた安麿への実らない恋に心を焦がしていたわけですね。
この歌も、万葉集の時代の男女も現代人とおなじようにお互いの気持ちを推しはかりかねて恋に苦しんでいたのだということがよく分かる一首のように思います。この後、安麿と郎女の二人はめでたく結ばれて夫婦となりました。
ちなみに巨勢郎女は近江朝廷側の大納言であった巨勢臣人(こせのおみひと)の娘で壬申の乱での敗北後に臣人の一族はすべて配流となってしまいましたが、郎女だけは安麿との婚姻していたおかげで配流を免れたようです。
大伴安麿も巨勢郎女もお互いの気持ちを量りかねていた理由のひとつは、自分たちの家系が大友皇子側と大海人皇子側というやがては敵同士になるであろうと予想される複雑な関係もその原因だったのかも知れませんね。
※巨勢郎女(巨勢の郎女、生没年不明)
飛鳥(あすか)-奈良時代の女性です。巨勢人(ひと)の娘。大伴安麻呂(おおともの-やすまろ)の妻となり、大伴田主(たぬし)を生みます。「万葉集」に安麻呂の求婚歌と、郎女の返歌1首がおさめられています。
巻2-0207:天飛ぶや軽の道は我妹子が里にしあれば.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
標訓:柿本朝臣人麿の妻死(つまみまか)りし後に泣血(いさ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首并せて短歌
原文:天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 入目乎多見 真根久徃者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣淵之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使之言者 梓弓 聲尓聞而 [一云 聲耳聞而] 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴 [一云 名耳聞而有不得者]
万葉集 巻2-207
作者:柿本人麻呂
よみ:天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて [一云 音のみ聞きて] 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる [一云 名のみを聞きてありえねば]
意訳:雁飛ぶやではないが、軽の道は我が妻の里なので、幾度もじっくりと見に行きたいと思うが、しばしば行くと人目につく。幾度も行けば、人が知るところとなる。葛の蔓のように、後で逢えるからとそれを楽しみにして今はこらえている。岩に囲まれた淵のように、ひっそりと、内に秘めて恋焦がれている。大空を太陽が渡っていって日が暮れるように、照る月が雲に隠れるように、沖の藻のように靡いてきた愛しい妻が、黄葉のように散ってしまった。使いがもたらした言葉を聞いて(一に云う「知らせを聞いて」)言葉も出ず、どうしてよいやら分からない。知らせのみを聞いてすます気にはとてもなれない。千に一つも心を慰めるものはないかと、かって彼女がしょっちゅう出てきた軽の市に私は耳を澄まして彼女の声を聞こうとした。が、畝傍の山で鳴く鳥のような、かすかな声も聞こえない。道行く人を見ても一人として彼女に似た人はいない。どうしようもない気持になって、彼女の名を呼んで着物の袖を降り続ける。(一に云う「彼女の名を知らされただけではどうにも気がおさまらないので」)
◎この歌は、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)の軽(かる)の地にいた妻が亡くなった際に、人麿(人麻呂)が哀しんで詠んだ挽歌です。
この長歌と、長歌に付けられた反歌が二首の非常に長い歌となっていますが、それだけに人麿がどれほどこの軽の妻の死を哀しんだことがうかがえますね。
題詞には「泣血(いさ)ち」と、血の涙を流して哀しんだともありますが、けっして大げさな表現ではなかったように感じられます。
「軽(かる)」というのは現在の奈良県にある橿原神宮駅の東、剣池の南西に「法輪寺(軽寺跡)」や「応神天皇軽島豊明宮跡」などがあるので、その周辺に人々の集まる市がたっていたものと思われ、人麿の隠妻もこのあたりに住んでいたのでしょう。
歌の内容からも分かるようにこの妻はなんらかの理由で人に知られないように持つ「隠妻(こもりづま)」だったらしく、人に知られないようにと妻の家に頻繁に通わずにいた内に亡くなったしまったようですね。
そんな「亡くなった妻にもう一度逢いたいと軽の市に立ってはみたけれど、畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず妻によく似た人すら通らないので、妻の名を呼んで袖を振ったことです。」と、なんとも切ない思いが切実な言葉となって詠われていますね。
「袖を振る」とはこの時代の術式のようなもので、「おいでおいで」と袖を振って恋しい人の魂(生者死者にかかわらず)を自分のほうに引き寄せる行為のことです。
なんだか、隠妻の名を呼びながら涙を流して袖を振る人麿の姿が、目に浮かんでくるような哀しい一首ですよね。
ウェブニュースより
将棋・王位戦第4局1日目終了 藤井聡太王位が58手目を封じる ―― 将棋の藤井聡太王位=棋聖=に豊島将之竜王=叡王=が挑んでいる第62期王位戦七番勝負第4局は18日、大阪・関西将棋会館で2日制の1日目を終えた。
豊島が先手を生かして、対藤井に効果的な相掛かりに誘導した。藤井は28手目を1時間6分の長考で指すなど、じっくりした展開に。午後6時過ぎ、ほぼ互角で藤井が58手目を封じた。19日午前9時から指し継がれる。残り時間は▲豊島4時間26分、△藤井4時間9分。
対局場になる予定だった佐賀県嬉野市が集中豪雨の影響を受け、関西所属の両雄の本拠地に変更された。関西将棋会館での防衛戦は初体験の藤井は、昼食によく注文する会館内の「イレブン」の大好物「バターライス」に「ハンバーグ」を追加して、タイトル戦のスペシャル感を自ら演出した。豊島は「ヤキニク(白米、みそ汁)」だった。
おやつは主催の不二家提供で、午前がともに「ちひろフィナンシェ」(藤井はアイスコーヒーも)。午後もともに「ミルクとこがし蜜(カステラ)」で、飲み物は藤井がアイスティー、豊島がアップルジュースだった。 (2021年8月18日 18時19分スポーツ報知)
sechin@nethome.ne.jp です。
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