瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 百人一首1120についても調べてみました。

11. 参議篁  わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(古今集)
 参議篁 小野篁(おののたかむら、802~852年)は文人官僚。令義解を編纂。遣唐副使となるも、二度の渡航に失敗した後、三度目は大使藤原常嗣と乗船の選定で衝突して渡航拒否。嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に配流。後に許されて参議となります。『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しに よって蘇生したという逸話が見られます。
 現代語訳 大海原のたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと都にいる人に伝えてくれ。漁師の釣舟よ。
※この歌は、篁が隠岐に流された時に詠んだもので、高官であった作者が、漁師の釣舟(身分は低くとも自由にどこへでも行ける漁師)に懇願しなければならない苦悩を表しています。
12. 僧正遍照 天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ(古今集)
 僧正遍照 (そうじょうへんじょう) 遍照(遍昭) 俗名良岑宗貞(よしみねのむねさだ、816~890年)六歌仙・三十六歌仙の一人。桓武天皇の孫。素性の父。仁明天皇に仕え、左近衛少将、蔵人頭を歴任したが、天皇の崩御により出家。
 現代語訳 天の風よ。雲間の通り道を閉ざしてくれ。天女の舞い姿をしばらくとどめておきたいのだ。
※桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物でした。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されています。
13.陽成院 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる(後撰集)
 陽成院 陽成天皇(868~949年、在位876~884年、第57代天皇)は9才で清和天皇から譲位されて即位しましたが、藤原基経によって廃位されました。
 現代語訳 筑波山の峰から落ちる男女川の水かさが増えるように、私の恋心も積もりに積もって淵のように深くなってしまった。
14.  河原左大臣 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに(古今集)
 河原左大臣 源融 (みなもとのとおる、822~895)は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下し、源の姓を賜る。六条河原に住んだことから河原左大臣とよばれた。宇治の別邸は後に平等院となる。贈正一位。
 現代語訳 陸奥のしのぶずりの模様のように心が乱れはじめたのは誰のせいか。私のせいではないのに。
※紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれています。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となりました。融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見えます。現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。
15. 光孝天皇 君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ(古今集)
 光孝天皇(こうこうてんのう、830~887年、在位884~887年 第58代天皇)は藤原基経により廃位された陽成天皇に代わって55歳で即位。
 現代語訳 あなたのために春の野に出かけて若菜をつんでいる私の衣の袖に、次々と雪が降りかかってくる。
※『徒然草』176段には即位後も不遇だったころを忘れないように、かつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があり、『古事談』にも似たような逸話があります。
16.  中納言行平 たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む(古今集)
 中納言行平(ちゅうなごんゆきひら) 在原行平(ありわらのゆきひら、818~893年)平城天皇の孫。業平の兄。一門の子弟を教育するため、奨学院を設立。因幡守・太宰権帥・民部卿などを歴任。
 現代語訳 あなたと別れて因幡へ赴任して行っても、稲葉山の峰に生えている松ではないが、待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう。
※この歌は「別れた人や動物が戻って来るように」と願掛けをするときに使われる有名な歌だそうです。ユーモアエッセイの名手、内田百閒の本に「ノラや」という連作エッセイがありますが、その中でいなくなった愛猫、ノラが戻って来るように、このおまじないをするシーンがあります。この歌を短冊に書いて、猫の皿を伏せてその下に置いておくというものです。本当かな?
17.  在原業平朝臣 千早ぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは(古今集)
 在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん) 在原業平(825~880年)は平城天皇の孫で行平の弟。六歌仙・三十六歌仙の一人。美男で、『伊勢物語』の主人公とされる。
 現代語訳 神代にすら聞いたことがない。竜田川が紅葉によって水を真っ赤に染め上げているとは。
※この歌は「屏風歌」です。屏風歌とは、屏風に描かれた絵に合わせて、その脇に和歌を付けたものです。古今集の詞書には「二条(にでう)の后(きさい)の春宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風(みびゃうぶ)に龍田川に紅葉流れたる形(かた)を描きけるを」とあります。二条の后とは、藤原長良(ながら)の娘の高子(たかいこ)のことで、清和天皇の女御(にょうご=天皇の側室)でした。その二条の后が、春宮(皇太子)の御息所(=皇子を生んだ女御)だった頃、后の屏風に竜田川に紅葉が流れている絵が描かれているのを、作者の在原業平が見て、付けた歌だということです。 在原業平は平安時代を代表する美男子で、恋多き人でした。「伊勢物語」の主人公のモデルとされ、この歌を捧げた天皇の女御・二条の后とも実は恋愛関係にあったそうです。
18. 藤原敏行朝臣 住の江の岸による波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ(古今集)
 藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん) 藤原敏行(?~901?年)は平安前期の歌人、能書家。三十六歌仙の一人。
 現代語訳 住の江の岸には昼夜を問わず波が打ち寄せてくる。夜に見る夢の中でさえ、あなたが私のところに通ってくれないのは、人目を避けているからだろうか。
※有名な「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」の歌も藤原敏行の歌です。『宇治拾遺物語』によれば、敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたといいます。19. 伊勢 難波潟みじかき芦のふしの間も あはでこの世を過ぐしてよとや(新古今集)
 伊勢(いせ、872?~938?年)は平安前期の女流歌人。伊勢守藤原継蔭の娘。宇多天皇の寵愛を受け、伊勢の御とよばれた。
 現代語訳 難波潟に生えている芦の短い節の間のような、ほんの短い時間も逢わないまま、一生を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。
20. 元良親王 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(後撰集)
 元良親王(もとよししんのう、890~943年)は陽成天皇の皇子。『大和物語』などでは、色好みとして描かれている。
 現代語訳 思いどおりにいかなくなってしまったのだから、今となっては同じことだ。難波にある航行の目印、澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。
※ 元良親王は色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残りますが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られます。百人一首のこの歌は、作者元良親王が時の宇多天皇の愛妃、京極御息所との不倫が発覚したときに詠んだ歌のようです。「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」と書かれているということです。


 


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