瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 百人一首1~10について調べました。

1. 天智天皇  秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(後撰集)
 天智天皇(てんじてんのう、626~671年、在位668~671年)は第38代天皇。中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳〈いっし〉の変)、大化の改新を断行しました。近江大津宮に遷都の後、即位。庚午年籍を作成し、近江令を制定しました。
 現代語訳 秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。
※実際の作者は、天智天皇ではないというのが定説です。万葉集(巻10・2174)「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露ぞ置きにける」(詠み人知らず)の歌が変遷して御製となったものといいます。天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出しているのだと言われています。大化の改新以降の社会の基盤を構築した偉大な天皇である天智天皇の御製が、百人一首の第一首とされました。
2. 持統天皇  春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山(新古今集)
 持統天皇(じとうてんのう、645~702年、在位690~697年)第41代天皇。天智天皇の第2皇女。天武天皇の皇后。飛鳥浄御原宮で即位し、飛鳥浄御原令の施行や藤原京遷都などを行い律令体制の基礎を構築しました。
 現代語訳 春が過ぎて夏が来たらしい。夏に純白の衣を干すという天の香具山なのだから。
※万葉集では、この歌は「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」になっています。「干したり」は「干している」で、原歌が歌われた頃はちゃんと干していたのでしょうが、藤原定家の時代には、もう行われていなかったのでしょう。「衣ほすてふ」と伝え聞く「伝聞」の形をとることで、天の香具山に衣を干した当時の風俗を取り込む趣になっています。
 この歌の舞台となった橿原市は万葉の都。大和三山の畝傍山(199m)、香具山(152m)、耳成山(140m)がちょうど正三角形をなして、持統天皇のいた藤原京跡を取り囲んでいます。神話では、香具山が天から降りてきたという話の他に、畝傍山を女性に見立て、耳成山と香具山が奪い合ったという話も残っているそうです。万葉集に
 香具山は 畝傍(うねび)を愛(を)しと
 耳梨(みみなし)と 相あらそひき
 神世より かくにあるらし
 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
 うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき
      ~中大兄皇子 万葉集 巻1-0013~

訳 香具山は畝傍山を愛しい人だと思って
  ライバルの耳梨山と争ったそうだ
  神代からそのようであったらしい
  そんな昔からそうであったからこそ
  現実でも妻取りというものは争うものであるらし
と言う歌があり、持統天皇の歌の背景には、額田王をめぐって争った天智天皇(持統天皇の父)とその弟、天武天皇(持統天皇の夫)の関係が連想されます。
3. 柿本人麻呂 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む(拾遺集)
 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、生没年不詳)は白鳳時代を代表する歌人。歌聖。三十六歌仙の一人。雄大で力強い歌風に特徴があり、長歌の完成度は比類がない。下級官吏という説があるものの詳細は不明。
 現代語訳 山鳥の尾の垂れ下がった尾が長々と伸びているように、秋の長々しい夜を一人で寝ることになるのだろうか。
※拾遺集・巻13・恋3(778)「題知らず 人麿」より、選出されたもです。実際に人麻呂の歌ということではなく、「こんなに見事な歌だから人麻呂の歌といっても不自然ではない」ということで、いつのまにか人麻呂作になったと思われます。
4.  山部赤人 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(新古今集)
 山部赤人(やまべのあかひと、生没年不詳)奈良前期の歌人。柿本人麻呂と並ぶ歌聖。三十六歌仙の一人。自然を題材とする歌が多い。下級官吏であったという説があるものの詳細は不明です。
 現代語訳 田子の浦に出てみると、まっ白な富士の高嶺に今も雪は降り続いていることだ。
※「万葉集」では「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」となっています。「白妙の」は布の白さにたとえた表現ですが、こちらは「真白にそ」となっていて、より直接的な言い方になっています。最後の「ける」も「降ってるなあ」というような、今初めて気が付いた感動を示す表現になっていて、百人一首の歌よりずっと素朴であることが分かります。
5.猿丸太夫  奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき(古今集)
 猿丸太夫(さるまるだゆう、生没年不詳)は8世紀後半から9世紀前半頃の歌人と推定されるも詳細は不明。三十六歌仙の一人。古今集の真名序にその名が記されています。
 現代語訳 奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋の悲しさを感じるものだ。
※ この歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっています。菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られていますが、これも作者名はありません。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているそうですが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっているそうです。
6.  中納言家持 かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける(新古今集)
 中納言家持は大伴家持((おおともやかもち、718?~785年)のことで、大伴旅人の子。奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。万葉集の編者とされ、収録数は最多。越中守をはじめ地方・中央の官職を歴任。中納言。
 現代語訳 かささぎが連なって渡したという橋、つまり、宮中の階段におりる霜が白いのをみると、もう夜もふけてしまったのだなあ。
※この歌には、2つの読み方があります。唐詩選の張継(ちょうけい)「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の一節「月落ち烏(からす)啼いて、霜天に満つ」を元にしたもので、冬の冴えわたる夜空の星を、白い霜に見立てたもので、冬の夜空を見上げて、天の川に輝く夜空の星が美しいなあ、冬の夜がふけていくなあ、と感じ入っている歌です。「かささぎの橋」というのは、七夕の織り姫と彦星の話のことです。中国では七夕の一日だけ、たくさんのかささぎが天の川に翼を広げて織り姫の元へ彦星が渡って行けるようにしたわけです。

 もうひとつは、「かささぎの橋」を奈良は平城京の御殿の階段になぞらえたもの。宮中はよく「天上界」になぞらえられ、「橋」と「階(はし)」の音が同じことからきたものです。宮中の夜の見張り番「宿直(とのい)」をしている深夜に、紫宸殿の階段に霜が降り積もっているのを見て、「天上をつなぐ階段に霜が積もり、白々と輝いている。冬の夜も更けたものだ」と感じているというのです。
7.安倍仲麿  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(古今集)
 安倍仲麻呂 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698?~770?年)は717年の遣唐使に随行し、留学生として入唐。科挙に合格して玄宗に重用されるとともに、李白・王維らと交流するなど幅広く活躍。海難により帰国は果たせず、唐で没する。中国名、朝衡(ちょうこう)。
 現代語訳 長安の天空をふり仰いで眺めると、今見ている月は、むかし奈良の春日にある三笠山に出ていた月と同じ月なのだなあ。
※ 天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説ですが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべて詠んだとする説もあります。現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれているといいます。

8. 喜撰法師 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり(古今集)
 喜撰法師(きせんほうし、生没年不詳)平安初期の歌人。六歌仙の一人。
 現代語訳 私の庵は都の東南にあり、このように心静かに暮らしている。それにもかかわらず、私が世を憂いて宇治山に引きこもったと世間の人は言っているようだ。
※ 六歌仙の一人。紀貫之が『古今集』序でその名をあげて論じていますが,出自,伝記ともに未詳。出家して宇治に住んだことがわずかに推定されます。確実な作は『古今集』雑下の「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」の1首だけです。
9. 小野小町  花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(古今集)
 小野小町(おののこまち、生没年不詳)は平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。絶世の美人とされ、数多くの伝説を残します。
 現代語訳 桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に。(私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。)
※ 父母,経歴などに諸説があり、たしかなことは不明です。絶世の美女として語り継がれ、歌舞伎、義太夫、謡曲などの題材となりました。歌は「古今和歌集」「後撰和歌集」などの勅撰集に六十余首おさめられ,そのなかに文屋康秀(ふんやのやすひで)らとの贈答歌もあります。
10.蝉丸 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関(後撰集)
 蝉丸  (せみまる、生没年不詳)は平安前期の歌人。盲目の琵琶の名手との説があり、敦実親王に仕えたとも、醍醐天皇の第四皇子とも伝えられるものの、詳しい経歴は不明。
 現代語訳 これが例の、都から離れて行く人も都へ帰る人も、知っている人も知らない人も、出逢いと別れをくり返す逢坂の関なのです。
※ 蝉丸は平安前期の伝説的歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつざね)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第4皇子とも伝えられます。盲目で琵琶に長じ、逢坂(おうさか)山に住んで源博雅(みなもとのひろまさ)に秘曲を授けたといいます〔今昔物語巻2423〕。


 


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