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 太田道灌が今の皇居辺りに城を築いたのは康正三年(長禄元年・1457年)であり、山吹の一枝にまつわる武将と田舎少女とのロマンスは東京の出発語るにふさわしいエピソードです。

 しかし、東京の前身である江戸が歴史に現れるのは、これよりさらに300年も遡った治承4(1180)年9月の『吾妻鏡』の記事、「江戸太郎重長ニ仰付ラルルナリ」です。以後江戸の名が諸文書に見えますが、他にも葛西清重(今の葛飾区)・豊島清光(今の豊島園付近)の名が見えます。地名や人名からいうと、東京は江戸氏を以って約800年以上の古い歴史ということになります。

 エドは入江深く海から入り、川が海に注ぐところで江口・江尻などの江と同じく、入江の江と考えられています。戸は水戸や松戸などの戸と同じく所とか里とか入口のトであると思われます。ただ地形的名称ならば、かなり早くから命名されていたと思われますが、比較的新しいので、その点この説も疑問のあるところです。

 太田道灌は江戸城を築いて、かれこれそこに30年近くも住んでいたのですから城下町もでき、商業も盛んになったと思われます。関八州や上方からも人々がここに集まってきたことが諸書にも見られます。人間生活の営まれるところ必ずコトバがあるのですから、江戸城下町を中心にして、東国方言や関西方言が話されていたことでしょう。平安時代において全く一顧だにされなかった東国のコトバは、こうして14世紀の半ばになると鎌倉武士・東国武士の勢力の強大さとともに京都をその馬蹄の下に踏み潰すことになります。京都の貴族たちは彼らが今まで軽蔑していた東国語を習いおぼえ実力者である武士におもねるように変化していくのです。


 


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