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 家康が始めて江戸に入ったのは天正18(1590)年でした。そして江戸幕府の開かれる頃には次のように異国人の目を見張らせるような立派な都市が作り上げられたのです。

 結果において家康が江戸に居城を構えたことは成功だったわけです。もっとも日本全体から見れば中心は京都であり、生活水準も文化程度も到底江戸の及ぶところではありません。参考までに当時の諸国産物から、京都(畿内)と江戸の分を抜き出してみます。

 図版の下の図では武蔵はすべてを挙げてありますが、京都(畿内)の産物は初めの部分のみで後七・八ページは続きます。京都は薬や白粉をはじめ酒類から遊び道具まで何一つ整わぬものはない有様です。南蛮渡りの酒や菓子まである文化生活に明け暮れている様子です。
 一方江戸はどうでしょう。海のものか川のものか、せいぜい磯くさい魚介類で満足している状態です。これだけでも初期の江戸は、文化的に経済的に、京・大阪の植民地的存在であったと言ってもよいでしょう。このことは逆に、家康が江戸に入ってから如何に開発に心を用いたかを証するものであります。
 江戸は山を切り崩して埋め立てた土地柄であり、武蔵野台地特有の土質は、人馬の往来は勿論、少し風のある日はもうもうと土埃を空高く舞い上げました。それがまた雨でも降れば泥沼と化し、道路もなくなる有様で、悪路問題も300年の伝統を背負っている訳です。
 『慶長見聞集』に、日本橋の繁華ぶりが目覚ましいものであると記述している反面、江戸近辺神田の原より板橋まで見渡すと、竹木は一本もなく全くの野原だったと描いています。

 土地の整備が終わると人の問題になります。江戸初期の慶長~寛永年間には、紀伊・摂津から多くの人々が江戸に来ています。佃島を開いたのも摂津西成郡佃村の森孫右衛門であり、醤油のヤマサも紀伊から移ったと言います。デパート・三越の祖、三井氏は伊勢松坂の出身で寛永12(1636)年江戸にくだっています。「一丁のうち半分は伊勢屋と申すのれん見え候と也」と『慶長見聞記』は記しています。「江戸に多いは伊勢屋稲荷に犬の糞」俚諺もこのことを示しています。

 同じくデパートの白木屋の操業も古く、その祖は近江長浜の人といいます。堅実型として名の高い近江商人の出てす。その他ポマードで名高い柳屋も、その祖・呂一官(中国人)が家康とともに江戸に入り、饅頭の塩瀬(中国人)も同時でした。

 三河屋とか駿河屋とかの屋号は家康と一緒にやってきた三河・駿河の商人たちだったのでしょう。相模屋・上州屋などにしても出身地方を背に受けてのことと解されています。いうなれば上方商人や上方商人の各地から新耕地江戸へと続々と人々が押し寄せたのです。


 


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