FacebookにMM女史からのメッセージが届いていました。最近撮ったと思われる写真もあったのでブログに転写します。
お元気でいらしゃいますか?道子先生は、如何ですか?
台風が、週末ごとにやって来ます
これから、寒くなります。ご自愛下さいませ
Facebookの使い方がよく判らないのでコメントは書きませんでしたが、私はどうやら生きています。女房も最近は手押し車を押しながら外出できるようになりました。相変わらずおさんどんは私がやっています。メッセージどうもありがとう。
元禄の江戸
江戸も次第に整備され、京阪を中心とする元禄文化の花が咲き誇る頃には、ここもまた一つの性格を持った独立都市としての面影を示してきたのです。
開幕から約百年を経た元禄の頃でした。江戸時代きっての小説家・井原西鶴の妙筆によって次のように描き出されています。
いくぶん誇張はあるでしょうが「国土万人が江戸商ひをこころがけ」て諸国より江戸に集まってくる様子は見事なものであったでしょう。町の繁盛も寶の市と表現していて、如何に江戸が活気に満ちたとかであるかが分かります。西鶴の筆はさらに続きます。
江戸は武士の都として、膨大な武士群を抱え込んだ偉大消費都市でもありました。これを相手にする町人も次第に腹が大きくなり、宵越しの金を持たぬ江戸っ子気質も作り出したのです。破魔弓一つを小判に令で買うとなると銀に直して百二十六匁です。当時、雇われ乳母の一年の給金が銀約八十五匁ですから、女中なら一年に二人も雇える勘定になります。
三河武士の総領・徳川家康は大のケチン坊であり、その家臣も控えめの人々だったということですから、かなりの変化といっていいでしょう。
ともかく「銭は水のごとく、白銀は雪のごとし」という表現に、如何に江戸が消費都市として全国的な繁栄を一つに集めてきたか伺い知ることが出来るのです。しかも日本橋を行き来する人の足音が百千万の車の轟をおもわせるほど、庶民たちの活動のはげしい天下の町人の都となってきたのです。
当時の人口ははっきりとは判りませんが、約35万はあったと思われます。城下町としての江戸の発展、経済都市としての江戸の繁盛――最早江戸は十七世紀半~十八世紀にかけて実質的にも日本の中心地としてその基礎が確立されたのです。西鶴の妙筆はさらにつづきます。
「江戸は大晦日になると雪駄(せった)が一足もなく足袋、片方もないほどの売れ行きを示し、橙(橙)一個二歩(にぶ)でも――京都、大阪の人なら高くて買わないが――買わぬことがないほど大名気分になっている。京大坂に住みなれて心の小さいものにはうかがい知れぬほど江戸はぬきんでてきたのだ」と。
sechin@nethome.ne.jp です。
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