明治10(1877)年、当時帝国大学で動物生物学の講義を受け持っていたアメリカ人Edward S.Morse(エドワード・モールス)は、国電大森駅を過ぎる時、車窓から貝塚らしいもののあるのを発見、すぐに発掘に取り掛かりました。その貝塚からは石器・土岐・人骨などが多数発見され、地名にちなんで『大森貝塚』と名付けられました。これこそ日本の考古学の夜明けを告げる永遠の記念碑であり、昭和の登呂遺跡の発見に勝るとも劣らない重要な事件でした。謎に包まれた太古日本の姿はその1ページを異国の学者の手によって開かれたのです。大森貝塚の発見によって、太古東京近辺にも人間の住んでいたことが実証されたのです。
次いで、明治17年3月、当時帝国大学の学生であった有坂鉊蔵によって、本郷弥生町の発見されました。いわゆる弥生土器というのはこの町名に由来しているのです。この発掘により、大森貝塚の場合と同様に昔から東京付近は人間が住み、特に弥生文化は米作農業を基盤としたかなり程度の高い文化の営みであると想定されたのです。
現在の板橋区・練馬区を始め国分寺付近からは昔の人々の生活を支えた色々な道具が掘り出されています。遠く富士山の噴煙を望み、多島海的な入り江に富んだ東京湾は、昔の人々にとってはかなり海産物に恵まれた住みよい所だったのでしょう。人間の生活が営まれるところには必ずコトバが存在します。野山で狩りをし、木の実を集め、川や海で魚介類を採る時、人々はコトバとコトバを交わし、誘い合いながら共同労働に励んだことでしょう。思わぬ獲物の大漁に人の和を輪を作り、火を焚いて一晩中踊りあかし、歓喜の歌声を張り上げたことでしょう。もっとも今となってはそうした人々のコトバの実態をつかむことは出来ません。 弥生時代を受けた古墳時代になると、中央では所謂大和国家が形成され、世界最大と言われる仁徳陵も出来上がります。そろそろ『古事記』や『万葉集』に画かれた世界に近づいてくるのです。当時の東京付近は中央と同じく、一定の水準文化を持った土地でした。埼玉県行田市にある古墳群もかなり有力にこのことを示しています。同所にある『丸墓山古墳』は平地における我が国最大の円形古墳だと言われます。
東京都内でも、芝公園内の丸山はをはじめ、田園調布や狛江には当時の豪族の古墳が残っているのです。しかし、以上はいずれにせよ書物以前の話で、確実な文字資料があるわけではありません。
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