東京の前身は江戸であり、江戸は武蔵国豊島郡江戸でした。ムサシの国名の由来を糸口に書物に現れてくる奈良時代の東京付近を考えてみましょう。武蔵国は現在の多摩川寄り、布田、深大寺付近を中心に発展したと言われますが、注目されるのは帰化人が大量に武蔵国に移住していることです。七世紀の半ばに百済の男女二千人を東国に置く由が古書に見えます。東京・埼玉には狛江とか新座など地名として今にしてそのことを伝えています。
ムサシが武蔵と書かれたのは、神護景雲の年(767年)とされ、それ以前は无邪志・牟射志・牟佐之・胸刺などと書かれ、ムサシ(ムザシ)と呼ばれていました。住民の事などからして朝鮮語のムサ+シ(麻の原料である苧〈からむし〉の種子)とか、アイヌ語のムニ+サツ+ウシ → ムサシ(草の茂っている原野)などの説があります。いずれも宛字であって命名の本意は不詳というのが本当のところでしょう。
こうしたムサシの国が中央政府の政策上、武蔵国(東京・神奈川・埼玉)として統括され、初めはその地方の豪族が国造(くにのみやつこ、今の知事)として任命され、後には政府から直接任命の国司が都から下ってきました。国司のいるところが国府であり、そこを府中と呼んで今の府中市にその名が残っています。当時最も栄えたのは現在の府中を中心とする一帯でした。東京都の地図からしてもほぼ中央部にくらいします。奈良時代は今の東京湾は埼玉辺りまでずっと入り込んでいましたから海陸ともに便利な地であったのでしょう。都市建設の地理的・政治的条件はかなり有望であったのです。天平13(741)年国ごとに国分寺を置くことになり、武蔵国も国府の近くに国分寺が建てられました。今の国分寺市にその名を留めています。
奈良時代の東国は馬と切り離しては考えられません。『万葉集』にも、馬の歌がいくつかあります。
東国人が騎馬に長けていたことや馬具(武蔵鐙)が東国の特産であった事はよく知られています。
「延喜式(平安時代中期に編纂された格式〈律令の施行細則〉、907年)」などにも東国・武蔵に牧場があった事を記録しています。現在の練馬・牛込・馬込・駒沢・駒沢など馬・駒・牛などのつく地名は、そうした名残りとも解されます。
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