瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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(あずさ)を詠んだ歌15
19-4214: 天地の初めの時ゆうつそみの八十伴の男は.......(長歌)
標題:挽謌一首并短謌
標訓:挽謌一首并せて短謌
原文:天地之 初時従 宇都曽美能 八十伴男者 大王尓 麻都呂布物跡 定有 官尓之在者 天皇之 命恐 夷放 國乎治等 足日木 山河阻 風雲尓 言者雖通 正不遇 日之累者 思戀 氣衝居尓 玉桙之 道来人之 傳言尓 吾尓語良久 波之伎餘之 君者比来 宇良佐備弖 嘆息伊麻須 世間之 厭家口都良家苦 開花毛 時尓宇都呂布 宇都勢美毛 無常阿里家利 足千根之 御母之命 何如可毛 時之波将有乎 真鏡 見礼杼母不飽 珠緒之 惜盛尓 立霧之 失去如久 置露之 消去之如 玉藻成 靡許伊臥 逝水之 留不得常 枉言哉 人之云都流 逆言乎 人之告都流 梓弧 爪夜音之 遠音尓毛 聞者悲弥 庭多豆水 流涕 留可祢都母
              万葉集 巻19-4214
           作者:大伴家持
よみ:天地の 初めの時ゆ うつそみの 八十(やそ)(とも)の男()は 大君(おほきみ)に まつろふものと 定まれる 官(つかさ)にしあれば 大君(おほきみ)の 命(みこと)(かしこ)み 鄙離る 国を治むと あしひきの 山川隔(へだ)て 風雲に 言(こと)は通へど 直(ただ)に逢はず 日の重(かさな)れば 思ひ恋ひ 息(いき)づき居()るに 玉桙の 道来る人の 伝()て言(こと)に 我れに語(かた)らく はしきよし 君はこのころ うらさびて 嘆かひいます 世間(よのなか)の 憂()けく辛(つら)けく 咲く花も 時にうつろふ うつせみも 常なくありけり たらちねの 御母(みはは)の命(みこと) 何しかも 時しはあらむを まそ鏡 見れども飽かず 玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく 置く露の 消()ぬるがごとく 玉藻なす 靡き臥い伏し 行く水の 留めかねつと たはことか 人の言ひつる およづれか 人の告げつる 梓弓 爪(つま)()く夜()(おと)し 遠音(とほと)にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙 留めかねつも
 
意訳:天地の初めて開けた時から、世の中の多くの官人たる者は、大君に従うものと定まっている、その職にあるので、大君の仰せを畏んで、都を遠く離れた鄙の国を治めるためと、山や川を遠く隔てていて、風や雲につけて便りは通うとはいえ、じかにお逢いできないままに日が重なるので、慕わしく思い恋い焦がれては溜息ついているその矢先に、玉梓の道をやって来る人が言伝てとて私に語り告げたこと、そのことが、「ああ、おいたわしくも、あの方は近頃萎れ返って嘆きつづけておいでです。人の世の何よりも厭わしくつらいのは、咲く花も時が経てば散り失せ、人の身も常ならぬものであることです。たらちねの母上様には、いったいどんなおつもりか、ほかの時はいくらでもありましょうに、お見受けしても見飽きることがなく、まだまだ惜しい盛りのお年なのに、立つ霧の消え失せてしまうように、置く露の消え去ってしまうように、玉藻のように床に靡き伏されて、流れ行く水のようにお引き留めもかないませんでした」であったとは。でたらめ言を火が口走ったのでしょうか、惑わし言を人が告げたのでしょうか。梓弓を爪で弾き鳴らす夜音のように、遠く遥かなる報せとは言え、お伺いするとやたらに悲しくて、にわたずみのように流れる涙は、留めようにも留めることができません。
左注:右大伴宿禰家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也 五月廿七日
注訓:右は、大伴宿禰持、婿南の右大臣の家の藤原二郎(なかちこ)が慈母を喪(うしな)へる患いを弔(とぶら)へるなり。五月二十七日
※万葉巻19-4216左注に聟南右大臣家藤原二郎(なかちこ)とあるのは継縄を指します。これを久須麻呂とする説もありますが、『尊卑分脉』『公卿補任』ともに久須麻呂の母は藤原房前の女(袁比良おひら)と伝え、「藤原二郎の慈母」とは没年が異なります。
※藤原朝臣継縄(ふじわらのあそみつぐただ、727796)
 奈良時代の公卿(くぎょう)。神亀(じんき)4年生まれ。南家藤原豊成の次男。天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)参議。延暦(えんりゃく)9年後右大臣となり中衛(ちゅうえの)大将,東宮傅()を兼任。13年正二位。桃園右大臣とよばれる。妻の百済明信(くだらの-みょうしん)とともに桓武(かんむ)天皇の寵遇(ちょうぐう)をうけた。「続日本紀」の編修を主宰。延暦15年7月16日死去。70歳。贈従一位。
 750(天平勝宝2)年以前、大伴家持の妹留女之女郎を娶ります。天平勝宝2年夏頃、母を失い、越中でその報に接した家持より亡母を弔う挽歌を贈られます(19-42144216)763(天平宝字7)年、正六位上より従五位下に昇叙されます。この時37歳でした。

ウェブニュースより
 「由美かおるがいねえ」平成の黄門・渡部恒三氏死去 ――会津なまりの独特の“恒三節”で「平成の黄門さま」と親しまれた元衆院副議長の渡部恒三(わたなべ・こうぞう)氏が23日午前28分、老衰のため、福島県会津若松市の病院で死去した。88歳。告別式は近親者のみの家族葬で行い、後日お別れの会を開く。
 「会津のケネディ」を称して1969年(昭44)、福島県議から衆院選に挑戦。無所属で初当選。83年、厚相として初入閣。自治相、通産相を歴任した。竹下派では小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、羽田孜、梶山静六、奥田敬和の各氏とともに「七奉行」と呼ばれた。当選同期で誕生日が同じ524日の小沢氏とは盟友関係で、93年の自民党離党、新生党結成で行動を共にした。
 96年に衆院副議長に就任し03年まで歴代最長の2498日、務めた。05年に民主党に入党。06年、「偽メール事件」で党が窮地に陥ると、国対委員長として事態収拾にあたった。「黄門さま」の愛称は国対委員長代理の川端達夫、平野博文両氏が「私たちが『助』『格』になってお仕えします」と話したことに、渡部氏が「由美かおるがいねえじゃないか」と言ったことが発端。倒れても起き上がる地元の伝統工芸品「起き上がり小法師(こぼし)」を後輩議員に送り激励するのが常で、岡田克也、野田佳彦、前原誠司、枝野幸男各氏らを「民主党七奉行」と呼び、後見役を務めた。
 小沢氏とは新進党解党を機に決別。民主党でも「反小沢」の立場だったが、115月に開いた小沢氏との合同誕生会では「私に何かあれば、小沢くんに弔辞をお願いしたい」と語った。12年の衆院選に出馬せず政界を引退。その後も「ご意見番」として活動した。
   
[日刊スポーツ 2020824221]


 

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1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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