瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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松を詠める歌9
巻9-1674:我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ

◎ここにいう太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇です。
巻9-1687:白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も更けゆくを

◎「白鳥(しらとり)の」から「鷺坂山(さぎさかやま)」を導いていますね。「鷺坂山(さぎさかやま)」は、現在の京都府城陽市久世にある丘といわれています。

巻9-1716:白波の浜松の木の手向けくさ幾代までにか年は経ぬらむ

◎この歌の「手()向けくさ」は、旅の無事を神様に祈って、ささげ物として布か何かを松に結びつけたものと思われます。
※川嶋皇子(かわしまのみこ 斉明三~持統五〈657691年〉)
 天智天皇の皇子(『懐風藻』によれば第二子)です。母は忍海造小竜女、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)。泊瀬部皇女(天武天皇の皇女)を妻としました。『新撰姓氏録』によれば春原朝臣・淡海朝臣の祖。志貴皇子の異母兄です。
 天武八年(679)、吉野での六皇子の盟約に参加。同十年、忍壁皇子らと「帝紀及び上古の諸事」を記し定め、同十四年、浄大参位を授けられます。朱鳥元年(686)、大津皇子の謀反を密告します。持統四年(690)、紀伊・伊勢行幸に従駕しています。この時の歌が万葉集に残り(1-34)、新古今集にも採られています。同五年九月九日薨去し、越智野に葬られました。三十五歳。『懐風藻』に漢詩一首が見えます。
巻9-1783:松返りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴

◎栗は、中に実が三つ入っています。そこで、「三栗(みつぐり)の」で「なか」を導いています。
巻9-1795:妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ

※菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生没年不詳))
 応神(おうじん)天皇の皇太子です。母は和珥臣(わにのおみ)の祖日触使主(ひふれのおみ)の女宮主宅媛(むすめみやぬしやかひめ)(『古事記』では矢河枝比売(やかわえひめ))です。百済(くだら)から来朝した阿直岐(あちき)、ついで渡来した王仁(わに)についてもろもろの典籍を学び、通達せざるなしといわれました。天皇は長子大山守命(おおやまもりのみこと)、中子大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)よりも弟の菟道を愛し、後嗣(こうし)にしようとしました。天皇の崩後、菟道は大鷦鷯に位を譲ろうとし、互いに譲り合い、その間、位をねらう大山守を大鷦鷯が殺しました。菟道は自殺して大鷦鷯に譲ったため、大鷦鷯が仁徳(にんとく)天皇として即位しました。「古事記」では宇遅能和紀郎子。宇治若郎子とも書きます。

ウェブニュースより
 新大関・御嶽海が誕生「感謝を大切に持ち味を生かす」 長野県出身は雷電以来227年ぶり ―― 日本相撲協会は26日、東京都墨田区の両国国技館で大相撲春場所(3月13日初日・エディオンアリーナ大阪)の番付編成会議と臨時理事会を開き、東関脇御嶽海(29)=本名大道久司、長野県出身、出羽海部屋=の大関昇進を正式に決めた。
 協会は使者として春日野理事(元関脇栃乃和歌)と大鳴戸審判委員(元大関出島)を墨田区の出羽海部屋に派遣。御嶽海は伝達式で「大関の地位を汚さぬよう、感謝の気持ちを大切にし、自分の持ち味を生かし、相撲道にまい進してまいります」と力強い口調で口上を述べた。

 会によると、長野県出身力士の大関誕生は江戸時代の1795(寛政7)年、伝説的な強豪の雷電以来で227年ぶりとなる。御嶽海は13勝2敗の初場所で13場所ぶり3度目の優勝。昇進目安とされる直近3場所合計33勝に到達した。
 29歳1カ月での大関昇進は年6場所制となった1958年以降初土俵で6番目の年長記録。新大関誕生は2020年秋場所後の正代以来。来場所は1横綱3大関となる。(共同)    (東京新聞 2022126 1053分)


角界入りする気はなかった御嶽海 内定していた県庁就職を撤回したきっかけ、2つの出会いとは ―― 日本相撲協会は26日、東京都墨田区の両国国技館で、大相撲春場所の番付編成会議と臨時理事会を開き、初場所で3度目の優勝を果たした関脇御嶽海(29)=出羽海部屋=の大関昇進を正式に決めた。

 御嶽海が所属する出羽海部屋は明治中期に興され、横綱を9人輩出した名門。ただ大関誕生は1975年の三重ノ海以来途絶え、2010年には100年以上続いていた関取がゼロとなる時期も。新大関が救世主となり、名門の看板を背負う。
「遠藤さんがいけるなら俺も」
 
「部屋を再興したい。力を貸してほしい」。東洋大時代の御嶽海に出羽海親方(元幕内小城ノ花)はこう声をかけて勧誘した。本人は角界入りするつもりはなかった。あきらめが早くあきっぽい性格。「厳しい世界だから」。アマチュア相撲の名門、和歌山県庁への就職を決め、内定も得た。
 だが、ある力士の存在に闘争心をくすぐられた。2学年上の遠藤。ざんばら髪で番付を駆け上がり、幕内で人気を得ていた。学生時代に対戦しても対等に渡り合え、自らも大学4年の12月に遠藤と同じ全日本選手権のタイトルを手にした。「遠藤さんがいけるなら俺も」。卒業間近の15年1月、悩んだ末に入門の意志を親方に伝えた。
 「出羽海部屋の上に必ず『名門』とつけられる。そのプレッシャーは本当にありました」と出羽海親方。それでいて、稽古は強制しない。自主性に任せる部屋の雰囲気を御嶽海は気に入った。威張り散らす理不尽な兄弟子もいなかった。
「名門再興」、無言で託した師匠
 「これぐらいでいいっていうのは自分が一番分かりますから。人が決めるもんじゃない」。稽古量は決して多くなく質を重視するのが御嶽海。「稽古嫌い」とも称されるが、自らの流儀は変えず、師匠もそれを見守り、口は出さなかった。
 御嶽海は「ほかの部屋だったらあり得ない」と親方に感謝する。「この部屋が合っていた。合っていると思ったからこの部屋に入ったんです」
 口上で述べた「自分の持ち味を生かす」とは、出羽海部屋に所属していた行司、第28代木村庄之助の言葉という。「絶対にそれを使いたい。同じ部屋なんで」と御嶽海。名門の再興を託した弟子の出世に、出羽海親方は「こういう日が来るとは夢にも思わなかった」と言葉を詰まらせ、感慨に浸った。    (東京新聞 2022126 1200分)


 

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