瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 東京の日の出は5時30分頃である。まだ暗い隅田公園を抜け、吾妻橋にかかる頃からようよう白け始め、都営浅草線の本所吾妻橋駅手前の浅草通りに入る頃になって、あたり一面が明るくなり、東の空が朝焼けに染まり始める。
 浅草通りが大横川を渡るところが業平橋(なりひらばしである。業平橋)は『伊勢物語』の主人公であるとされている平安時代の歌人・在原業平に因んでいる。川は橋のある部分も含めて部分的に埋め立てられたが、橋は残っている。また、隅田川に架かる吾妻橋の別称とも言われているということじゃ。この橋のこの辺いったいの地域も業平と呼ばれている。おなじ名前の橋が埼玉県にもあるが、奈良県・兵庫県にもある。埼玉県の業平橋は同じ由来を持つものであるが、兵庫県のものは在原業平が芦屋市に住んでいたことから、また奈良県のものは八尾市に伝わる『業平の高安通い』に因むものであるそうじゃ。
業平橋
bd384776.jpg東武橋
4f4537a1.jpg業平駅
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東武橋と東部ビル
84bf12d4.jpg東武橋上より亀戸方向を撮る
80f7114e.jpg東京スカイツリーの工事現場
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 業平橋を渡って直ぐの通りの左手に東武橋がある。北十間川の4番目の橋が「東武橋」で、かつて、源森川(現・北十間川の隅田川から東武橋の間)は、ここで南に曲がり「業平橋(なりひらばし)」を経て大横川(現・大横川親水公園)に流れていたという。また、歌川広重の「小梅堤」(9月29日のブログ「小梅橋」参照)の題材になった曳舟川(現・曳舟川通り)も、ここから流れていたということじゃ。東武橋を渡ると東武伊勢崎線のガードがあり、その右手に業平橋駅がある。ちょうど、上り浅草行きの電車が出発するところであったので、カメラに収めた。この東武橋と次の京成橋の間に東京スカイツリー(新東京タワー)が出来るのだという。事業主体は、東武鉄道が出資する「東武タワースカイツリー株式会社」。2008年7月14日すでに着工しており、順調に進めば2011年12月竣工の予定という。
桜橋を潜る達磨船
f3e35674.jpg 東武橋から引き返し、北十間川の北側を源森橋迄進み、三つ目通りを北上、途中から水戸庭園を抜けて何時もの隅田川の遊歩道に出た。桜橋手前で、親船に曳かれて行く達磨船が桜橋を通過するところであった。桜橋を渡ると、言問橋までの遊歩道を南下し、隅田公園を抜けて、帰宅した。

 インターネットの毎日jpから次の記事を見つけた。
 卒業証書:戦後63年目の卒業式、7人が出席へ 門司高「最後の機会」
 ◇「右ハ昭和二十年三月三十一日本校ノ課程ヲ卒ヘタリ仍テ之ヲ證ス」
 戦時中、学徒動員などで卒業式に出席できなかった旧制門司中学校(北九州市門司区、現在の県立門司高校)の卒業生に来月7日、卒業証書が手渡される。「右ハ昭和二十年三月三十一日 本校ノ課程ヲ卒ヘタリ 仍テ之ヲ證ス」。戦後63年目にして初めて手にする卒業証書。大半が80代の卒業生たちは「証しがほしかった」と感慨を深くしている。
 門司高80年史によると、戦況の切迫で1944年5月から同校生徒も通年動員となり、8月からは1年生を除き軍需工場に動員された。翌45年3月に卒業式は開かれたが、多くが出席できなかった。
93650dca.JPG 同窓会などで卒業証書を受け取っていない人の話題が度々出る中、門司北高との統合で今年度で閉校となる門司高が「最後の機会」と企画。連絡可能な167人に案内状を送ったところ7人が出席することになった。
 柳田豊さん(80)=福岡県福津市=は40年に門司中に入学。4年生のころから飛行場建設などに駆り出され、5年生になってからは小倉の陸軍造兵廠で働き、一度も登校しなかった。その後、海軍に入り、終戦は神奈川県横須賀市で迎えた。
 卒業証書のことはずっと心残りだった。「お国のために働き、学校に行かなかったのではなく、行けなかった。あきらめていたが、門司中を出たんだという証しがほしかった」。既に亡くなった友人も多い。「代表という気持ちで受け取りたい」と語る。
 10月7日の「卒業式」には、最後の在校生となる3年生195人も列席する。出席者の一人で、戦後は母校・門司高教員として12年間勤めた久木田益さん(81)=山口県下関市=は「戦争末期は本当に悲惨だった。平和に勉学できる素晴らしさを今の子が分かってくれればいい」と話している。【佐藤敬一】(毎日新聞 2008年9月27日 西部夕刊)
 この記事の久木田益(すすむ)はこの爺の実兄なのじゃ。写真は海兵合格記念にとったもので、旧制の中学5年生(今でいえば高校2年生)のもの。
 

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無題
次兄の話が出ているね。ここのところ、当て逃げされたマイカーの修理やら、私の免許更新やら、宮崎との連絡がいろいろあって、君のブログを見ていなかった。
えてして、こういう時に、このような戦時動員中のニュースが出る。
この人たちは、いちばん、戦争のとばっちりを受けた年代の人たちだね。

君といっしょに、靖国神社の記念館で、回天の実物を見たことがあったね。その回天の前で、君が、この次兄に噛みついたという話を聞いたね。

確かに、海軍に囲い込まれた年代の階層だっただろうが、おれたちよりも、はるかに苦労をしたと思うから
噛みつくのはおやめよといったことがあるね。

いろいろ調べてみると、確かに、海軍は給与がよくて、
ニューギニアの戦史を読んでみると、同じ友軍でも、陸軍の兵隊が飢えていても、決して分けてやらなかったのはもちろん、盗みに入った陸軍の兵隊に、発砲したという記事があった。

省益あって、国益なしの見本みたいな話だけど、餓鬼道、修羅の世界に堕すると、日本軍同士で、食料をめぐって発砲が起るんだね。

でも、「たかが門司中学の卒業証書をなんで、そんなにほしがるんだい」と言ってはいけないね。卒業証書は
この人にとっては、生きてきた証なんだよね。

なんだか、泣けてくる。
ワン・ノブ三馬鹿 2008/10/05(Sun) 編集
Re:無題
俺なんか小学校も、中学(卒業式あったかな)も、高校も卒業証書何処に行ったか行方不明。多分あちゃこちゃ転々とするうちに紛失したのだろう。君もご存知の通り、高校の卒業記念アルバムの名簿欄にも名前も載せてもらえなかった。生きていた証なんていうのは善きつけ、悪しきにつけそんなこたぁ後期高齢者にとっては何の役にも立たん。まあまあ、「俺は海軍兵学校に行っていたから卒業証書がもらえなかった」と自慢して歩くがよかろう。ほんとに浅ましさに泣けてきますわなぁ。
 【2008/10/06】
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