瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
北十間川に架かる5番めの橋「京成橋」は業平3丁目と押上1丁目を結ぶ橋で、この橋は昭和4年に架けられたが、現在の橋は昭和37年に架けられたそうじゃ。 名前は京成電鉄の本社があることから付けられたものじゃろな。京成線が都営地下鉄と連絡する前は、押上が終点で浅草方面へ歩いて行く人が多く、浅草通りの商店街も栄えたのじゃが、地下鉄が出来て以来芳しくない状態が続いているが、東京スカイタワー誘致に伴って明るい兆しが見え始めたと住民達は沸きかえっているようじゃ。
京成橋全体像
京成橋南詰
橋上より隅田川方面を望む右側がタワー建設地
京成橋北詰
橋上より亀戸方向をのぞむ
京成橋方向から工事現場を望む
11月から交通止めになる標示
京成橋と東武橋の中間点で
塀には完成予想図が
朝まだきの真っ暗な隅田公園を抜け、吾妻橋を渡り、墨堤通と浅草通が出会う付近で明るくなる。浅草通を亀戸方面に向けて暫く歩く。業平橋を渡り、三つ目通を横切り、四つ目通まで来ると右手に京成橋が見える。京成橋の西側にかつては押上橋という橋があったというが、戦災で焼け落ちてしまったそうじゃ。今はきれいに整備されて跡形もない。大横川から中川までの北十間川は、掘削時には橋は3本しかなく、押上橋、堺橋、慈光院橋という3つの橋だけであったそうじゃ。なお、「押上」という地名は、京成橋の下を流れる北十間川から舟運の舟を「押し上げ」て、お隣の曳舟川へと移らせた事に由来するそうじゃ。
北十間川の北側沿いの道を引き返し隅田川に向けて歩く。工事現場とこの道は今のところ板1枚の防御柵で囲まれているが、11月1日からはどうやらこの道は平成24年4月まで通せんぼになるらしい。塀に描いてある東京スカイツリーの完成予想図も見られなくなるわけじゃ。ここから浅草方面を見るとかの有名な金色に輝く「???塔」が垣間見える。源森橋から三つ目通りを北上し言問通りに出ると、昨日の「詩仏三碑」の最後の一つ三囲神社にある「本松齋一得翁之碑」を探しに行くことにした。境内で目的の石碑を探すがなかなか見当たらない。それにどの石碑も古いもので、表面が風化していてよく読めない。本殿を清掃している宮司?さんに「ここに、大窪詩仏の篆書の碑があると聞いてきたのですが?」と訊ねると、「ああ、それは百花園にあります」という、素気ない返事。最後に半分諦め気分で大国神・恵比寿神の社の左手にあった石碑群の中に辛うじて「本松斎一得翁之碑」と読み取れる碑を見つけた。読み取れない文面の最後にかすかに「天保三年 開溝南篆額 大窪行撰并書 廣群鶴刻」と読みとれた。はてさて、この「本松斎一得」とは如何なる人物なるや。帰宅後調べてみた。
本松斎一得之碑
現代も続く遠州流
江戸後期に京都で創められた遠州流挿花はやがて江戸下谷常林寺の住職日寛(花号、本松斎一得)に伝えられ優美華麗な花形が浅草遠州ともてはやされ明治大正昭和と全国に流行し、人々は紳士の嗜みとして修得し、家を飾り又集って技を競いました。艶麗、清潔感、凛とした強さと気品等江戸前の「粋」が彼等の美意識でした。昨今の風潮や嗜好を考えると、往時の繁栄は望むべくもないが、現代も孤蓬遠州流生花としてつづいているということじゃ。
ここから、桜橋を渡って帰宅した。今日も爽やかな秋晴れの一日になりそうだ。
アラリンの歓迎の日取りが決まった。K嬢にメールで連絡しておいた。アラリンはもう日本へ着いているはずだが、携帯に電話しても電源がとどかなかったり、切れたりしていてなかなか通じない。今日明日は海へ(サーフィン?に)行っているのだろう。まあ、月曜日にでもまた電話してみるか。
京成橋全体像
京成橋南詰
橋上より隅田川方面を望む右側がタワー建設地
京成橋北詰
橋上より亀戸方向をのぞむ
京成橋方向から工事現場を望む
11月から交通止めになる標示
京成橋と東武橋の中間点で
塀には完成予想図が
朝まだきの真っ暗な隅田公園を抜け、吾妻橋を渡り、墨堤通と浅草通が出会う付近で明るくなる。浅草通を亀戸方面に向けて暫く歩く。業平橋を渡り、三つ目通を横切り、四つ目通まで来ると右手に京成橋が見える。京成橋の西側にかつては押上橋という橋があったというが、戦災で焼け落ちてしまったそうじゃ。今はきれいに整備されて跡形もない。大横川から中川までの北十間川は、掘削時には橋は3本しかなく、押上橋、堺橋、慈光院橋という3つの橋だけであったそうじゃ。なお、「押上」という地名は、京成橋の下を流れる北十間川から舟運の舟を「押し上げ」て、お隣の曳舟川へと移らせた事に由来するそうじゃ。
北十間川の北側沿いの道を引き返し隅田川に向けて歩く。工事現場とこの道は今のところ板1枚の防御柵で囲まれているが、11月1日からはどうやらこの道は平成24年4月まで通せんぼになるらしい。塀に描いてある東京スカイツリーの完成予想図も見られなくなるわけじゃ。ここから浅草方面を見るとかの有名な金色に輝く「???塔」が垣間見える。源森橋から三つ目通りを北上し言問通りに出ると、昨日の「詩仏三碑」の最後の一つ三囲神社にある「本松齋一得翁之碑」を探しに行くことにした。境内で目的の石碑を探すがなかなか見当たらない。それにどの石碑も古いもので、表面が風化していてよく読めない。本殿を清掃している宮司?さんに「ここに、大窪詩仏の篆書の碑があると聞いてきたのですが?」と訊ねると、「ああ、それは百花園にあります」という、素気ない返事。最後に半分諦め気分で大国神・恵比寿神の社の左手にあった石碑群の中に辛うじて「本松斎一得翁之碑」と読み取れる碑を見つけた。読み取れない文面の最後にかすかに「天保三年 開溝南篆額 大窪行撰并書 廣群鶴刻」と読みとれた。はてさて、この「本松斎一得」とは如何なる人物なるや。帰宅後調べてみた。
本松斎一得之碑
現代も続く遠州流
江戸後期に京都で創められた遠州流挿花はやがて江戸下谷常林寺の住職日寛(花号、本松斎一得)に伝えられ優美華麗な花形が浅草遠州ともてはやされ明治大正昭和と全国に流行し、人々は紳士の嗜みとして修得し、家を飾り又集って技を競いました。艶麗、清潔感、凛とした強さと気品等江戸前の「粋」が彼等の美意識でした。昨今の風潮や嗜好を考えると、往時の繁栄は望むべくもないが、現代も孤蓬遠州流生花としてつづいているということじゃ。
ここから、桜橋を渡って帰宅した。今日も爽やかな秋晴れの一日になりそうだ。
アラリンの歓迎の日取りが決まった。K嬢にメールで連絡しておいた。アラリンはもう日本へ着いているはずだが、携帯に電話しても電源がとどかなかったり、切れたりしていてなかなか通じない。今日明日は海へ(サーフィン?に)行っているのだろう。まあ、月曜日にでもまた電話してみるか。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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