瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
史記 世家 孔子世家 第十七 より
孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其后頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。
景公問政孔子、孔子曰:“君君、臣臣、父父、子子。”景公曰:“善哉! 信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸!”他日又復問政於孔子、孔子曰:“政在節財。”景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:“夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順、不可以為下;崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗;游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有閒。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。”后景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰:“奉子以季氏、吾不能。”以季孟之閒待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰:“吾老矣、弗能用也。”孔子遂行、反乎魯。
〈訳〉
孔子が三十五歳のときに、季平子(魯の大夫、?~BC505年)が郈昭伯(魯の大夫、生没年不詳)と闘鶏を行ったために、魯の昭公に罰せられた。昭公は軍を率いて平子を撃った。平子は孟氏・叔孫氏と組んで、三家そろって昭公を攻めた。昭公は軍敗れて斉に出奔した。斉は昭公を乾侯(河北省)に居住させた。その後しばらく経って、魯が乱れた。孔子は斉におもむいて、斉の大夫の高昭子の家臣となり、意を景公に通じようと望んだ。斉の太師(音楽官)と音楽を語り、韶(しょう、帝舜の音楽)の音を聞いて、これを学び、その盛美にうたれて、三ヶ月のあいだ肉の味も知らなかった。斉の人々はこのことを称揚した。
景公が政治を景公に問うた。孔子は答えた。
「君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです」
景公は言った。
「よろしい! まことに、もし君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなかったら、いくら米粟があったところで、わしは安閑とそれを食っておれようか」
後日、また政治を孔子に問うた。孔子は答えた。
「政治の要諦は材用を節約することです」
景公は喜んで、尼谿(じけい、斉の地)の田を与えて孔子を封じようとした。すると晏嬰がすすみでていった。
「儒者というものは多弁でありまして、そのいうところを法則とすることはできません。また、傲慢不遜で自らの意に沿いますので、下位につけることはできません。喪に服することを崇び、どこまでも悲哀の情をとげ、家産をやぶってまでも葬儀を手厚くしますから、人民の風俗とすることは出来ません。大賢(文王・周公など)が絶えてから、周室はすでに衰え、礼楽が不完全なものになって久しく経ちました。ところが、いま、孔子は、義容の修飾を盛大にし、登降・歩行の礼節を煩雑に致しました。世を重ねてもその学を究めつくすことは出来ず、当今、その礼を究めることもできません。わが君がこれを用いて斉の風俗を改めようとのぞまれることは、細民の先頭に立って、民を指導する所以ではございません」
その後、景公はなお敬意を以って孔子に会ったが、礼を問うことはなかった。また、後日景公が孔子を引き止めていった。
「そなたに季氏(魯の上卿)と同等の俸禄を与えることは出来ない。季氏と孟氏(魯の下卿)の中間で待遇しよう」
また、斉の大夫が孔子を殺害しようとした。孔子はこのことを聞き知った。
景公が言った。
「わしは老いた。そなたを登用することはできない」
孔子は、ついに斉を去って魯に帰った。
孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其后頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。
景公問政孔子、孔子曰:“君君、臣臣、父父、子子。”景公曰:“善哉! 信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸!”他日又復問政於孔子、孔子曰:“政在節財。”景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:“夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順、不可以為下;崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗;游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有閒。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。”后景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰:“奉子以季氏、吾不能。”以季孟之閒待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰:“吾老矣、弗能用也。”孔子遂行、反乎魯。
〈訳〉
孔子が三十五歳のときに、季平子(魯の大夫、?~BC505年)が郈昭伯(魯の大夫、生没年不詳)と闘鶏を行ったために、魯の昭公に罰せられた。昭公は軍を率いて平子を撃った。平子は孟氏・叔孫氏と組んで、三家そろって昭公を攻めた。昭公は軍敗れて斉に出奔した。斉は昭公を乾侯(河北省)に居住させた。その後しばらく経って、魯が乱れた。孔子は斉におもむいて、斉の大夫の高昭子の家臣となり、意を景公に通じようと望んだ。斉の太師(音楽官)と音楽を語り、韶(しょう、帝舜の音楽)の音を聞いて、これを学び、その盛美にうたれて、三ヶ月のあいだ肉の味も知らなかった。斉の人々はこのことを称揚した。
景公が政治を景公に問うた。孔子は答えた。
「君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです」
景公は言った。
「よろしい! まことに、もし君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなかったら、いくら米粟があったところで、わしは安閑とそれを食っておれようか」
後日、また政治を孔子に問うた。孔子は答えた。
「政治の要諦は材用を節約することです」
景公は喜んで、尼谿(じけい、斉の地)の田を与えて孔子を封じようとした。すると晏嬰がすすみでていった。
「儒者というものは多弁でありまして、そのいうところを法則とすることはできません。また、傲慢不遜で自らの意に沿いますので、下位につけることはできません。喪に服することを崇び、どこまでも悲哀の情をとげ、家産をやぶってまでも葬儀を手厚くしますから、人民の風俗とすることは出来ません。大賢(文王・周公など)が絶えてから、周室はすでに衰え、礼楽が不完全なものになって久しく経ちました。ところが、いま、孔子は、義容の修飾を盛大にし、登降・歩行の礼節を煩雑に致しました。世を重ねてもその学を究めつくすことは出来ず、当今、その礼を究めることもできません。わが君がこれを用いて斉の風俗を改めようとのぞまれることは、細民の先頭に立って、民を指導する所以ではございません」
その後、景公はなお敬意を以って孔子に会ったが、礼を問うことはなかった。また、後日景公が孔子を引き止めていった。
「そなたに季氏(魯の上卿)と同等の俸禄を与えることは出来ない。季氏と孟氏(魯の下卿)の中間で待遇しよう」
また、斉の大夫が孔子を殺害しようとした。孔子はこのことを聞き知った。
景公が言った。
「わしは老いた。そなたを登用することはできない」
孔子は、ついに斉を去って魯に帰った。
この記事にコメントする
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
11 | 2024/12 | 01 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
最新記事
(10/07)
(10/01)
(09/07)
(09/05)
(08/29)
最新コメント
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[爺 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター