瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  『管子(かんし)』は、管仲に仮託して書かれた法家の書物で、管仲の著書だと伝えられてはいるが、実際にはその中に管仲よりも以後のことがしばしば書かれていることからも自著でないことは確かである。管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としている。成立についても戦国から漢代の長い時期に徐々に完成されたと考えられ、戦国期の斉の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられている。
 
三計(さんけい)
管子 権修 より
 上恃龜筮、好用巫醫、則鬼神驟祟;故功之不立、名之不章、為之患者三:有獨王者、有貧賤者、有日不足者。一年之計、莫如樹穀;十年之計、莫如樹木;終身之計、莫如樹人。一樹一穫者、穀也;一樹十穫者、木也;一樹百穫者、人也。我苟種之、如神用之、舉事如神、唯王之門。
13b4793d.JPG〈訳〉
 君主が占いに頼り、呪い師を好んで用いるならば、鬼神が祟りをする。だから功績が成就せず、名声が顕れないのには、その原因が三つある。賢臣を用いず、すべて独裁するという場合がある。国が貧しく君主の値打ちがなくなるという場合がある。政治が煩雑で日も足りないという場合がある。一年の計は穀物を植えるのに及ぶものがない。十年の計は木を植えるのに及ぶものはない。終身の計は人を植えるのに及ぶものがない。一度植えて一度収穫があるのは穀物である。一度植えて十度収穫があるのは木である。一度植えて百度収穫があるのは人である。われわれがしばしば人を植えるならば、その効果は神の作用のようである。事を行って神のようであること、これぞ王者への門である。
 
虚に拠り影を搏(う)たしむ
管子 兵法 より
 利適、器之至也。用敵、教之盡也。不能致器者、不能利適。不能盡教者、不能用敵。不能用敵者窮、不能致器者困。遠用兵、則可以必勝。出入異塗、則傷其敵。深入卮之、則士自修。士自修、則同心同力。善者之為兵也、使敵若據虛、若搏景。無設無形焉、無不可以成也。無形無為焉、無不可以化也。此之謂道矣。若亡而存、若後而先、威不足以命之。
〈訳〉
 敵に勝つのは、兵器の精巧なためである。敵を我に役立てるのは、兵士の教化が行き届いているからである。兵器を精巧にすることにできないものは敵に勝つことはできない。教化をゆきとどかせることのできない者は、敵を役立てることはできない。敵を役立たせることのできない者は行き詰まり、兵器を精巧にできない者は苦しむ。
 速やかに軍隊を用いるならば、必勝することができる。出没するのにその場所を色々変えるならば、敵国に損害を与える。深く敵地に侵入して部下を危険にさらすならば、兵士はみずから備えをする。兵士が自ら備えをするならば、心を一つにして力を合わせる。じょうずな者の用兵の仕方は、敵軍を暖簾と腕押しし、影と相撲をとるような目に合わせる。こちらには何の定まった設備もなく、何の定まった形もないのであるから、何事も成功できないことはないのである。こちらは何の定まった形も泣く、何の行動も取らないのであるから、なにものも感化できないことはないのである。これを「道」という。無いようであって存在し、遅れているようであって先にいる。われわれはこれをどう名付けてよいかわからない。
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