撫子(なでしこ)を詠める歌6
巻20-4442:我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず
※大原真人今城(おおはらのまひといまき、生没年不詳)
奈良時代の皇別氏族出身の官僚で、歌人でもあります。姓は真人。もと今城王といいました。穂積皇子と大伴坂上女郎の子です。天平11(739)年高安王らと共に大原真人の氏姓を与えられました。同20年兵部少丞正七位下などを経て、天平勝宝9(757)年、従五位下、治部少輔になります。天平宝字7(763)年左少弁に任じられましたが、藤原仲麻呂の乱に連座して官職位階を奪われたようです。宝亀2(771)年従五位下に復し兵部少輔になり、翌年駿河守に任じられたとあるのが史料にみえる官歴の最後です。『万葉集』に18首の歌を残し、大伴家持と親交のあったことが知られます。
巻20-4443:ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
巻20-4446:我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け
※丹比国人(たじひの-ときひと、生没年不詳)
奈良時代の官吏です。出雲守(いずものかみ)、播磨(はりまの)守、大宰少弐(だざいのしょうに)を歴任,天平勝宝(てんぴょうしょうほう)3年(751)従四位下にすすみます。のち摂津大夫(だいぶ),遠江(とおとうみの)守となりますが,橘奈良麻呂(たちばなの-ならまろ)の変に連座して伊豆(いず)に流されました。「万葉集」に長歌1首、短歌3首がみえます。氏は丹比ともかきます。
巻20-4447:賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに
※橘諸兄(たちばなのもろえ、684~757年)
奈良時代の政治家です。敏達(びだつ)天皇の玄孫美努(みぬ)王の子です。奈良麻呂(ならまろ)はその長男です。葛城王と称しました。母は県犬養(あがたいぬかいの)橘三千代(たちばなのみちよ)です。母と母の後の夫藤原不比等(ふひと)に引き立てられ、不比等の女多比能(むすめたひの)をめとります。736年(天平8)臣籍に降(くだ)り、母の姓橘宿禰(すくね)を賜い諸兄と称しました。710年(和銅3)従(じゅ)五位下に叙し、729年班田使に任ぜられました。この年に薩妙観(さつみょうかん)に贈った歌をはじめ和歌八首が『万葉集』に収められています。731年参議に任じ、翌年従三位(さんみ)に昇叙、737年左大臣藤原武智麻呂(むちまろ)をはじめその三弟、中納言多治比県守(ちゅうなごんたじひのあがたもり)らの高官多数が疱瘡(ほうそう)のため死ぬと、諸兄は同年大納言、翌年右大臣に任ぜられ、以来一(いち)の上(かみ)として756年(天平勝宝8)致仕するまで18年間政権の首座にありました。藤原氏はしばらく政権から離れ振るいませんでした。
740年秋、大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で大軍を率いて叛(はん)しました。その名目は僧玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を除くということにあるが、両名が諸兄政権のブレーンである点よりみて、実は諸兄排斥、藤原政権回復を意図したものと推定されます。乱中、天皇は10月末東国伊勢(いせ)に行幸、そのまま平城に還(かえ)らず、12月に山城(やましろ)国(京都府)相楽(そうらく)郡恭仁(くに)宮に入り、これを皇都としました。この地は諸兄の本貫に近く、遷都は諸兄の計画によるとされています。741年国分寺、同尼寺建立が発願され詔が降ります。また近江(おうみ)紫香楽(しがらき)宮の造営とそれへの頻繁な行幸がみられ、743年、天皇はこの地で大仏建立発願の詔を降しました。しかるに、翌年閏(うるう)正月難波(なにわ)宮行幸があり、2月に諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出たのは諸兄の政策によるのかもしれません。天皇は紫香楽に行き、大仏造立を推進しましたが、反対多くて果たさず、ついに平城に還都しました。
大仏は平城の東大寺で完成しました。この間に諸兄の実権はしだいに衰え、藤原仲麻呂が実力を伸長し、諸兄、奈良麻呂父子との対立は深まります。孝謙(こうけん)天皇時代に光明皇太后と仲麻呂が政権を掌握、諸兄は失意にあり、755年彼の祗承(しぞう)人(左右にいて仕える人)佐味宮守(さみのみやもり)に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴され、太上天皇に許されたが致仕しました。天平宝字(てんぴょうほうじ)元年正月6日没。
巻20-4449:なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも
※船王(ふなのおおきみ、生没年不詳)
奈良時代、天武天皇の孫、舎人(とねり)親王の王子です。淳仁(じゅんにん)天皇の兄です。東大寺の大仏開眼会で伎楽頭(ぎがくのかみ)をつとめました。橘奈良麻呂(たちばなの-ならまろ)の変では、関係者を拷問し、黄文(きぶみの)王、道祖(ふなどの)王らを殺害しました。天平宝字(てんぴょうほうじ)3年(759)親王となりますが、8年藤原仲麻呂(なかまろ)の乱に関係したとして隠岐(おき)に流されました。
巻20-4450:我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも
巻20-4451:うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも
ウェブニュースより
藤井聡太二冠、棋王戦挑戦者決定トーナメントで初白星 3回戦へ ―― 将棋の藤井聡太二冠(19)=王位・棋聖=が2日、東京都渋谷区の将棋会館で指された第47期棋王戦(共同通信社主催)の挑戦者決定トーナメント(挑決T)の初戦となる2回戦で、斎藤明日斗四段(23)に105手で勝ち、ベスト16に入った。棋王戦には過去4回出場しているが、挑決Tでの勝利は初めて。
対局は藤井二冠の先手で午前10時に始まった。相懸かりの戦型から藤井二冠が徐々にリードを広げ、押し切った。
https://www.youtube.com/watch?v=2B7Nw9qyok0
華々しい活躍を見せる藤井二冠だが、棋王戦ではこれまで挑戦権にからんだことがない。初参加の第43期、第44期と予選を勝ち抜いて挑決T入りしたが、いずれも初戦で敗退。第45期と第46期は予選で敗退した。今期はタイトル保持者として挑決Tから出場し、初めての対局だった。
終局後、藤井二冠は「棋王戦はこれまで上に行けていないので、厳しい戦いが続きますが、少しでも上に行けるように頑張りたい」。3回戦では斎藤慎太郎八段(28)と対戦する。「斎藤八段は一手一手、丁寧に読みを入れられる印象がある。こちらもしっかり考えて、いい内容にできればと思います」と話した。
敗れた斎藤四段は前期と同様、予選から勝ち上がりながら、挑決Tでは初戦で涙をのんだ。終局後は「予選から厳しい戦いが続いたが、(予選の)決勝で本田(奎)五段と戦っていい内容の将棋が指せた。その勢いで本戦も行けたらと思っていたが、今回は実力不足を痛感した感じの内容だった。来期はもっといい内容の将棋が指せるように頑張りたい」と話した。 (朝日新聞DIGITAL 2021年9月2日 20時40分)
業師の宇良「過去に追いついた」 再入幕2場所目へ自信 ―― 右膝の大けがを克服し、21場所ぶりの再入幕だった7月の大相撲名古屋場所で10勝を挙げた業師の宇良が2日、秋場所(12日初日・両国国技館)を前に「過去の自分に追いついたと言っていいと思う」と語った。東京都墨田区の木瀬部屋での稽古後、報道陣の電話取材に応じた。
今場所は自己最高位だった2017年名古屋場所の東前頭4枚目に迫る東6枚目。負傷前よりも体を大きくし、柔らかさや反応の良さに力強さも加わった29歳の苦労人は「あと2枚届いていないから、追いついていないとは思わない。戻ったと、僕ははっきり言いたい」と自信を示した。 (一般社団法人共同通信社 2021/9/2 17:07)
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