瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 平家物語 二代后 より
 これも世(よ)澆季(げうき)に及んで、人梟悪(けうあく)を先とする故(ゆゑ)なり。主上(しゆしやう)、院(ゐん)の仰(おほ)せを常は申(まう)し返(かへ)させおはしましける中に、人耳目(じぼく)を驚かし、世もつて大(おほ)きに傾(かた)ぶけ申(まう)すことありけり。故近衛(こんゑ)の院の后、太皇(たいくわう)太后宮と申ししは、大炊(おほひ)の御門の右大臣公能(きんよし)公の御娘なり。先帝に遅れ奉らせ給ひて後は、九重(ここのへ)の外(ほか)、近衛(このゑ)河原(かはら)の御所にぞ移り住ませ給ひける。前(さき)の后(きさい)の宮にて、かすかなる御有様にて渡らせ給ひしが、永暦(えいりやく)の頃ほひは、御歳二十(じふ)二三にもやならせましましけん、御盛りも少し過ぎさせおはしますほどなり。されども、天下(てんが)第一の美人の聞こえましましければ、主上色にのみ染める御心にて、密かに高力士(かうりよくし)に詔(ぜうじ)て、外宮(ぐわいきう)にひき求めしむるに及んで、この大宮(おほみや)の御所へ、密かに御艶書あり。
 大宮(おほみや)敢へて聞こし召しも入れず。さればひたすら早穂に現(あらは)れて、后御入内(じゆだい)あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。このこと天下(てんが)において殊ことなる勝事なれば、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あつて、各々意見を言ふ。「先づ異朝(いてう)の先(じよう)を訪(とぶら)ふに、震旦(しんだん)の則天(そくてん)皇后(くわうごう)は、唐(たう)の太宗の后、高宗(かうそう)皇(くわう)帝(てい)の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給ふことあり。それは異朝の先規(せんぎ)たる上(うへ)、別段のことなり。しかれども我が朝には、神武天皇(てんわう)よりこの方人皇(にんわう)七十(じふ)余代にいたるまで、今だ二代の后に立たせ給ふ例を聞かず」と諸卿一同に訴へ申(まう)されたりければ、上皇(しやうくわう)もしかるべからざる由、こしらへ申(まう)させ給へども、主上(しゆしやう)仰(おほ)せなりけるは、「天子に父母(ぶも)なし。我十善の戒功(かいこう)によつて、今万乗(ばんじよう)の宝位(ほうゐ)を保つ。これほどのことなどか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、上皇も力及ばせ給はず。大宮かくと聞こし召されけるより、御涙に沈(しづ)ませおはします。

訳)世末にもなって、人は梟悪(きょうあく、[人の道に背くこと])を真っ先に追い求めるためでした。主上(二条天皇)は、院(近衛院)の命じることにいつも逆らって、人を驚かせていましたが、この世の末にあってさらに信じられないようなことを口にしました。故近衛院の后、太皇太后宮([先々代の天皇の皇后])と申すのは、大炊御門右大臣公能公(徳大寺公能)の娘でした(藤原多〈まさる〉子です)。先帝(近衛院)に先立たれて後は、九重([宮中])の外、近衛河原(今の京都市上京区)の御所に移り住みました。前の后の宮で、ひっとりと過ごしていましたが、永暦(二条天皇の御時)の頃は、二十二三歳になって、盛りも少し過ぎていました。けれども、天下第一の美人と言われていましたので、主上(二条天皇。近衛院は二条天皇の叔父にあたります)はすっかり魅了されて、密かに高力士(高力士は、唐玄宗の腹心)に命じて、外宮(太皇太后宮)を内裏に参るようにと、大宮([太皇太后宮])の御所へ、密かに艶書([ラブレター])を届けました。
 大宮(太皇太后宮。藤原多子)はあえて聞かないでいました。すると二条天皇は表立って、后を入内させるようにと、右大臣家(徳大寺公きん能よし。多子の父)に宣旨([天皇の命令])を下しました。これは天下においてめったにない勝事([異常な出来事])でしたので、公卿が話し合って、それぞれ意見を述べました。「まず異朝(中国)の前例を見ると、震旦([古代中国])の則天皇后(則天武后。後に中国史上唯一の女帝武則天となった)は、唐太宗の后(才人)で、高宗皇帝の継母でした。太宗崩御の後に、高宗の后に立ちました。これは中国の先規([先例])である上、異例のことでした。けれども我が国では、神武天皇(初代天皇)より人皇([神武天皇以後の天皇])七十代余りにいたるまで、かつて二代の后に立った例はありません」と諸卿が一同に訴え申したので、上皇(後白河院)も后にはできないと、なだめ申しましたが、主上(二条天皇)がおっしゃるには、「天子に父母なし。朕は十善([十悪を犯さないこと])の戒功([戒めを守ることによって生じる功徳])によって、今万乗([天子])の宝位([天子の位])に就いたのだ。これほどのことをなぜ叡慮([天子の考え])に任せないのか」と言って、やがて大宮入内の日を、宣下したので、後白河院も力及びませんでした。大宮はこれを聞かれてからというもの、涙に沈んでおりました。

 これは故近衛天皇の妃であった藤原多子(まさるこ)が、二条天皇に見染められて再び入内することになった際の話で、一人の女性が二人の天皇の后になるということは前代未聞の「大事件」だというのです。


 


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