今日は一の酉、昨夜来から生憎の雨です。
ハローウィンが終わって、街は12月末のクリスマスに向かって慌ただしく、やや忘れ気味の酉の市ですが、11月には関東地方を中心に昔から行われてきた晩秋の風物詩ともいわれているものです。今年は11日の丁酉(ひのととり)の日と23日の己酉(つちのととり)の日の二の酉までです。
酉の市の由来は、神道と仏教の双方から、それぞれ異なる解説がされています。
神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源としています。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行いました。これにちなんで、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)には大酉祭が行われます。また、浅草・鷲神社の社伝によると、天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命(たぢからおのみこと)が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命(あめのひわしのみこと)と称される様になりました。天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。
江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物としたと記されています。
仏教(浅草酉の寺・長國寺)の解説では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とします。1265(文永2)年11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、明星(金星)が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が鷲の背に乗り現れ出たといいます。これにちなみ、浅草の長國寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われました。その後1771年(明和8年)長國寺に鷲妙見大菩薩(鷲大明神)が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになったのだといいます。
実際の祭りは、花又(現・東京都足立区 花畑)の鷲大明神の近在農民による収穫祭が発端といわれます。鷲大明神は鶏大明神とも呼ばれ当時氏子は鶏肉を食べる事を忌み、社家は鶏卵さえ食べませんでした。近郷農民は生きた鶏を奉納し祭が終わると浅草寺観音堂前に放ったのです。このように鶏を神とも祀った社は、綾瀬川に面しているため水運による人、物の集合に好適でした。そのため酉の日に立つ市には江戸市中からの参詣者も次第に多くなり、そこでは社前で辻賭博が盛大に開帳されましたが安永年間に出された禁止令により賑わいは衰微します。
かわって、酉の市の盛況ぶりは浅草の鷲大明神へと移り、最も賑わう酉の市として現在に至るのであります。また浅草鷲大明神の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因でした。時代が下るにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになり、今では関東の多くの寺社で開催されるようになりました。
このように酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が江戸市中へと移行するに従い、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたのでした。
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