瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 起き抜け5時に家を出る。東白鬚公園を抜けて水神大橋を渡り、隅田川一巡して帰宅する。今日の東京の日の出は6時43分。帰宅は7時であるから、徘徊の大部分は夜道である。瑞光橋を渡り、明治通りを横切る頃、隅田川の東岸が白み始める。今日は曇り空で朝焼けは見られない。今戸遊歩道にかかる頃やっと夜が明ける。
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b738d7d1.JPG 訳)隅田川の景色は、繁華で有名な揚州に似ている。/橋の畔(ほとり)には更に長い橋、高楼の向こうに更に高い楼。/岸の荻はさびしくまばらで、雲のかなたで雁が悲しげに叫ぶ。/しかし、ここではそんな秋の愁いを感じる人などはいないのだ。

fc5fa625.JPG 因みに、古賀侗庵(1788~1847年)は寛政の三博士の一人である古賀精里(1750~1817年)の三男であり、字は季曄、号を侗庵・古心堂などと称し、父精里に随い江戸で勉学して幕府儒者見習いとなって昌平黌に出仕し、佐賀藩江戸屋敷で藩士に教授した儒者である。古賀氏は本姓は劉、帰化人の後裔で、代々が肥前に住み佐賀藩士であった。/また侗庵は詩会「如蘭社」を主宰した。メンバーには江木鰐水、関藤藤陰、頼杏坪、頼山陽、宮原龍、津田終吉(津田賁)など約50名がいた。/著書の『海防臆測』(上・下 天保10年頃 (1839頃))は、ロシア問題に深い関心をもっていた侗庵が、わが国の海防とくにロシアに対する備えの必要とその方法を漢文で記したもの。また、『水虎考略』(天保7年(1836) 霊槐書写)は、水虎=河童の関する著述で、原本を侗庵が文政3年 (1820) にまとめた。天保10年(1839)に再び侗庵によって、より多くの文献から河童譚を集めた『後篇』2冊も編まれた。

 高校時代に親しく付き合っていた友人に古賀精里というのがいた。一緒に上京し、暫く同じ下宿に同居したことがある。風の噂に朝日新聞西部本社に勤務したということを聞いたが、生きているのやら、何処に住んでいるのやら全く消息が掴めぬ。まだ平成にならぬ1980年代に砂津の住いに訪ねたが留守で会えなかった。以後折あるごとに方々で訊ねているのではあるが、まったく行方がわからぬ。
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