うどんの歴史をお話しする前に材料である小麦の歴史をまずお話します。
今から一万年位前の西アジアは、まだ氷河期が終わったばかりで、古代オリエントの農耕文化発祥する前は、人々は狩猟生活をしていました。
当時の人々は、狩りをするにも獲物になる動物がいないので、たいそうお腹をすかせていました。お腹をすかせた人々が目をつけたのは、広い草原に広がるたくさんの雑草でした。
その雑草の小さな種を食料に選んだのです。しかし、小さい種をいくら食べてもお腹はいっぱいになりません。そこで他のものより種が大きく、そしてたくさん実のついている雑草を探しだして、それを好んで食べるようになりました。
野生種のオオムギ、コムギをみつけたのです。それが人間と小麦との出会い。小麦はもともと単なる雑草の一種でしたが、気候の変化と、その実の豊富さから、私たちの大事な食料になっていったのです。当時は、そのままか、煎って、粥にして食べていました。
紀元前7000年ごろになると 南西アジアの肥沃な三日月地帯で コムギの栽培が始まりました。雑草だったムギを収穫しては 種をまくことが行われたのです。
今日の パレスチナ・シリア・イラク・トルコ・イラン辺りでのことです。
ユーラシア大陸を東西に走る交易路、シルクロードは、かつてシルク(絹)だけではなく、人や文化、モノが運ばれました。そんな中に、小麦や麺文化も伝わったとされています。
小麦はメソポタミア(今のイラクあたり)から栽培が始まったと言われていますが、中国にも栽培方法や小麦粉にする技術も伝わりました。青海省の4000年程前の遺跡からは麺の化石も発見されており、一説によれば、パスタの起源もシルクロードを通って、イタリアにもたらされたとか。シルクロードは、絹の道ばかりではなく、麺の道でもあったのです。
紀元前3000年には 中国でコムギの栽培が始まり、紀元前2000年には、石臼が考案され白いコムギ粉の採取が可能となります。紀元前1000年にはメソポタミア流域にマカロニコムギが出現します。これがシルクロードを渡ってイタリアのパスタとなりました。
古くからの国際都市である西安(かつての長安)は、ユーラシア大陸を通って、ローマまで通じている『シルクロード』の出発地としても知られています。『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵も、経典を求めて天竺の国(インド)へ旅立ち、そして帰り着いた地でもあります。
西安には、国際都市として様々なイスラム教を信仰する人達(回族)も暮らしています。騎馬民族スキタイ人他 様々な民族が シルクロードを介して食文化も融合したのです。まず麺類のルーツ。古代中国には小麦粉食品「餅(もち)」というのがあって、後漢の末期に小麦粉を練って煮て食べる湯餅(タンピン)が登場。ワンタンのような、羊肉等の具材で作られた餃子が入ったスープなども 当時の人々の身体を温めたことでしょう。
これら、湯餅(タンピン)のヴァリエーションの一つとして 麺類が誕生したといわれています。
三国志の時代から六朝(中国・南朝)時代には、練り粉を手で伸ばして作る麺が食べられ、さらに唐の時代には麺棒で生地をのばし、包丁で切る「切り麺」が登場し、宋の時代には大体、今の中国で食べられる麺が大成されたと言われています。
日本へのコムギの伝来は、オオムギより1世紀ほど後の4~5世紀ごろとされ、大陸の農耕文化とともに、オオムギ、ダイズ、アズキなどが 朝鮮半島を経てきました。日本では「古事記」「日本書紀」の中にも 穀物の女神が 登場します。古事記では大宜都比売(おおげつひめ)と スサノオのペアで、日本書紀では 月読尊と保食神のペアで登場します。
『日本書紀』には 推古天皇の610年に 小麦は 伝えられた とあります。
推古天皇と言えば、飛鳥時代 摂政は聖徳太子でした。この聖徳太子の側近(ブレーン)に秦河勝という人がいました。この人は、養蚕・機織・管弦.楽舞、能楽の祖の 秦一族で、聖徳太子から仏像を賜って,奈良の葛野に蜂岡寺(はちおかでら)(広隆寺)を建立し,新羅,任那の使者が拝朝したとき、新羅使者の導者を務めたとあり、この時代の交流から、小麦も 伝わったとされます。
では、小麦が いつ うどんとして 食されるようになったのでしょうか?
平安時代の『延喜式』(905~927年)には 7月7日の儀式に索餅(さくべい)(そうめんの前身)を用いたことが記されてあります。昔、宮中で七夕の節句に瘧(おこり)よけのまじないとして奉り、縁起物として貴族たちは そうめんを神に供え、無病息災を祈っていたのです。食べられた記録としては、うどんよりも そうめんの方が、古いようです。
こちらのようなもので、日本に伝わったばかりの頃のそうめんは、現在とは だいぶ違う食べ物でした。縄状の形状より 麦縄(むぎなわ)とも呼んだそうです。
では、「うどん」のような様式になったのは いつでしょうか?
調べると、聖一国師は1241年に宋より帰朝し 製めん法などの文化や技術をもたらしたと書物にあります。聖一国師は 鎌倉時代の高僧で、静岡茶の始祖と伝えられている人です。聖一国師は 宗国より仏書千余巻とともに茶の実を持ち帰り、生誕地である駿河国の地にそれを蒔いたと伝えられています。博多は、有名な八女茶の産地で うどん文化が今も根付いていますし、静岡は静岡茶が有名ですね。小麦が うどんとして食べられるようになったのと お茶が伝来した時期が 一緒だったのですね。
こうして新たな製粉技術や、平らに延ばした生地を切って 麺にするという製法が伝わり、麺文化が花開いたのです。
麺文化が 庶民にまで浸透し始めたのは、江戸時代に入ってからで かつおダシを利用したお料理も 江戸時代に大きく発展しました。
混沌とした戦国時代が終わり、平和な江戸時代の到来で、食を文化として楽しむ余裕ができたためでしょう。
sechin@nethome.ne.jp です。
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