俳句の近代は、正岡子規によって開かれました。
とはいえ、子規は、俳人として生きていくという積りは、もっていなかったようです。明治の青年らしく立身を望んでいたし――実際、帝大を中退しなければ、官吏か財界人になっていたかもしれません――、文学を志した後も、幸田露伴のような小説家になりたいと願い――露伴に倣った『月の都』という長編小説を書きましたが、評判は呼びませんでした――、健康上、経済上の問題もあって、じりじりと俳句を生涯の仕事と認めるにいたったのです。
よく知られているように子規は「写生」を文芸の根本に置いていました。使いつくされた、月並みのマンネリズムを脱して、眼前にある、事物を凝視する、日本的リアリズムとしての「写生」を重んじたのです。
俳句のみならず、和歌から小説に至るまでが、今日まで、子規が開いた地平において書き続けられてきた事は否定できません。その点で、子規は近代日本文学の出発点をも画しているのです。
余命いくばくかある夜短し
犬が来て水のむ音の夜寒哉
一群の鮎眼を過ぎぬ水の色
鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな
和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男
芭蕉忌や我俳諧の奈良茶飯
絶筆三句
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
秋の彼岸を迎える時期の9月19日。この日は明治期に俳壇・歌壇に大きな改革と足跡を残した正岡子規の命日に当たります。享年34歳。明治35 (1902)年、結核による夭折でした。「獺祭忌」という変わった名前は、子規の数多い俳号の一つ「獺祭書屋 主人」から、また子規初の単行本「獺祭書屋俳話」から来てい ます。獺祭魚とは、獺(かわうそ)が獲物の魚を土手などに並べる習性が、獺が神に獲物を捧げ祭っているととらえた「礼記」にも記載のある中国の故事で、宣明暦七十二候の雨水初候にもなっています。後に転じて、知識人が書籍を部屋中に広げて思索にふけるさまを獺祭と呼び習わすようになり、子規も自らをそれになぞらえたわけです。
子規は松尾芭蕉を俳聖と神格化してあがめる当時の俳壇の改革をもくろみ、「写生主義」の観点から芭蕉俳句への批判を展開しました。
慶応3(1867)年、四国松山藩の藩士の家系に生を受けた正岡子規は、当初哲学を志し帝国大学文科大学哲学科に入学しますが国文科に転科し、文学の道を本格的に歩み始めます。
当時の俳壇の句会は「月並俳壇」と称されました。そこでは江戸期の諧謔的で俗なものとされた俳諧(連句)を芸術性のきわめて高いジャンルに確立した俳聖・松尾芭蕉が崇拝され、次元の低い芭蕉風のエピゴーネン、子規が言うところの「芭蕉俳諧宗信者」によって占められている状況でした。芭蕉は「俳諧あながち口にばかり唱ふるものにあらず、心より道に達し、今日の人情に通達して是非変化自在ならば一句の作あらずとも我が高弟」(「俳諧一葉集」)と記したように、句作そのものよりもそれに向かう「心」が何より大切だ、という姿勢の俳人でした。
これはいわば、句に真摯に向き合わず、精進せずとも心さえ叶っていれば自称一流俳人、といううぬぼれや偽者、名人気取りを生みやすく、そうした誤った芭蕉精神の横行が俳句・俳諧の世界を腐らせ停滞させている、と子規は感じたのでした。
そして、こうした「月並俳壇」に出入りする俳人たちを「月並み俳諧人」と軽蔑し(この子規の発言から、当時は「月例」「恒例」と言った程度の意味だった「月並」が、今では平凡でありきたりで長所がない作品の意味で使われるようになりました)、彼等の神であり「神秘にして説くべからず」と、その作品についての批評検証すら禁じられていた芭蕉について、
「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者はその何十分の一たる少数に過ぎず、否僅かに可なる者を求むるも寥々星辰の如し」
と、正面切ってこきおろしはじめたのでした。
(芭蕉は)只々自己を離れたる純客観の事物は全くこれを放擲し、只々自己を本とし之に関連する事物の実際を詠ずるにとどまれり、今日より見ればその見識の卑しきこと笑ふに堪へたり。(「俳人蕪村」)
芭蕉は客観的にわかりすい描写を心がけず、ただ主観にたよって耽溺しているにすぎず、世界性のない卑小な作風である、としています。
「道のへの木槿(むくげ)は馬に喰はれたり」
については、何と添削を行っています。そんな子規が尊敬した俳人が、当時はほとんど知る者のなかった与謝蕪村でした。
若くして哲学を志した子規は、曖昧模糊として感性や人格重視の旧来の日本の芸術観に満足できず、「心の持ちようとか人柄とか関係ない。芸術は芸術のみの純粋価値を問われねばならない」ということを主張しました。誰が見ても明瞭にその意図が汲み取れる平明で客観的、精緻で無駄のない表現こそが最高の芸術である、として、事物をそのまま写し取る「写生主義」を唱えたのです。それは、西洋文明を取り入れて合理的な精神を吸収しはじめた当時の日本のありようと合致したテーゼでした。
絵画は厳冬の候に当りて盛夏の事物を見せ得べく、一室の中にありて山野の光景をも見せ得べし。曾て見たる者を何時にても見せしむるも絵画の力なり。未だ見ざる所を実に見る如く明瞭に見せしむるも、絵画の力なり。写生の一点より論ずるも絵画にして幾多の変化せる天然の美を容易に現出するの功あらば猶一美術して存すべきにあらずや。(「明治二十九年の俳句界」)
こうして子規は、与謝蕪村に邂逅します。著書「俳人蕪村」においては「咳唾珠をなし句句吟唱するに堪へる」「只々驚くべきは蕪村の作が千句尽(ことごと)く佳句なることなり」
と、絶賛しています。子規の芸術論において肝要とされた客観的美、複雑美、精緻美、理想美、人事的美の条項すべてを満たす最高の俳人が与謝蕪村で、その描き出す句は絵画的に明瞭に映像を結び、かつ複雑で変化極まりない斬新な句題を扱い、「僅僅十七文字の中に包含せしめた」と偉大さを強調しています。
現代では、芭蕉や一茶に並びメジャーな存在の蕪村ですが、蕪村を有名にしたのは子規の推しメンアピールによるものでした。
こうして子規は自身の「写生主義」にのっとり、数多くの俳句を作出していきました。
木の末を たわめて藤の 下りけり
立ちよれば 木の下涼し 道祖神
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
風呂敷をほどけば柿のころげけり
三日月の 重みをしなふ すゝきかな
これらの句は、写生主義の典型的成果といえるでしょう。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
これは、子規の代表作であるにとどまらず、歴代の全俳句の中でも五指に入る有名な句でしょう。それと並んで子規のもっとも有名な句がこちら。
鶏頭の十四五本もありぬべし
子規の生涯で最後から三番目、長い闘病の続いていた1900年9月の句会で詠まれた句で、後に戦後まで続く論争の種となりました。写生を旨とする子規の句風の中で、異様な主観的感慨に満ちた句で、当時凡作として注目はされませんでした。しかし、歌人で小説「土」の作者の長塚節が、「これほどの作品を書く者は今の短歌界には皆無」と絶賛、斉藤茂吉が「芭蕉も蕪村も到達しえなかった大傑作」だと評したことから有名となりました。
これに対し、子規の一の弟子である高濱虚子はこの句を名句と認めず選集からもはずし、多くの俳人たちも「単なる報告だし言い換えも簡単だ」とくだらない句だという評価を下します。山口誓子は、この句は病床にある子規が「生の深い部分に触れた」句であるとしました。
つまり、ここで鶏頭の句を評価する者は、子規の人生や命がこもった魂を感じるものとして評価し、批判者は「ただのつまらない主観だ」と切り捨てているのです。批判者の批判は、若き子規の芭蕉への批判そのものであり、評価するものは、まさに子規が否定してきたものがゆえに句を評価しているのです。
「脳花」ともいわれる鶏頭の異様な姿の群生が、「ありぬべし」という強い言い切りにより、燃えるような、それでいて静謐な絶唱として読むものにせまってきます。これは、芭蕉が目指した、物事事物の背景にある、命・存在の本質にふれようとする作風とぴたりと一致します。人生の終わり、子規は戦い続けた芭蕉と、ついに出会い、その領域に踏み込めたのかもしれません。
をとゝひのへちまの水も取らざりき
絶筆三句と呼ばれるうちのこの一句にも、かつてなら「ただ自己を本とし之に関連する事物の実際を詠ずるにとどまれり」と子規自身が評するような内容ですが、へちまや鶏頭といった事物の「かたち」の奥にある命の本源に、主観を通して触れている名句です。
子規の熱い情熱と鋭く峻烈な文学は、弟子である高濱虚子、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らにより受け継がれ、現代俳句興隆の礎となりました。北区田端の大龍寺は、子規が埋葬されたお寺で別名子規寺と呼ばれています。
sechin@nethome.ne.jp です。
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