瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ツツジを詠んだ歌2
巻3-0434: 風早の美穂の浦廻の白つつじ見れども寂しなき人思へば
 
※河邊宮人(かわべのみやひと、生没年未詳
 伝不詳。和銅四年(711)、姫島の松原で娘子の屍を見て作ったという歌が万葉集に六首載っています。「河辺宮人」は人名でなく、飛鳥の河辺宮の宮人の意とする説があります(萬葉集全注釋)。また物語上の作者で、架空の人物の匂いが強いとも言います(萬葉集釋注)。

巻3-0443: 天雲の向伏す国の武士といはゆる人は.......(長歌)
題詞:天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官大伴宿祢三中作謌一首并短謌
標訓:天平元年己巳、攝津國の班田(はんでん)の史生(ししやう)丈部(はせつかべの)龍麿(たつまろ)の自(みずか)ら經(わな)き死(みまか)りし時に、判官大伴宿祢三中の作れる謌一首并せて短謌
原文:天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日従 帶乳根乃 母命者 齊忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和細布奉乎 間幸座与 天地乃 神祇乞祷 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津匝来与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天
          万葉集 巻3-0443
        作者:大伴三中
よみ:天雲し 向伏(むかふ)す国し 武士(ますらを)と 云はれし人は 皇祖(すめおや)し 神(かみ)し御門(みかど)に 外(そと)し重()に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)し重()に 仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)し名も 継ぎ行くものと 母父(ははちち)に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母し命(みこと)は 斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にぎたへ)(まつ)るを ま幸(さき)くませと 天地の 神し祈()ひ祷()み いかならむ 年し月日(つきひ)か つつじ花 香(にほ)へる君し 牛留鳥(にほとり)し なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おほきみ)し 命(みこと)(かしこ)み 押し照る 難波し国に あらたまし 年経るさへに 白栲し 衣(ころも)し干()さず 朝夕(あさゆふ)に ありつる公(きみ)は いかさまに 思ひいませか 現世(うつせみ)の 惜しきこの世を 露霜し 置きて往()きけむ 時にあらずして
 
意訳:空の雲が遠く地平に連なる国の勇者と云われた人は、皇祖である神が祀られる御門の外の重なる塀に立ち警護して、内の重なる御簾の間に仕え申し上げて、美しい蘰の蔓のようにいよいよ長く、父祖の誉れの名を後世に継ぎ行くものと、母や父に妻に子供にと語らって国を旅立った日から、乳を飲ませ育てた実の母上は、祈りを捧げる斎甕を前に据えて置いて、片手には木綿の幣を取り持って、もう一方の片手には和栲を捧げて、無事に居なさいと天と地の神に祈り願う、いつの年の月日にか、ツツジの花が香るような貴方が、にほ鳥のように道中を難渋して帰って来るかと、家族が立ったままで待っていた人は、大王の御命令を承って、天と地から光が押し輝くような難波の国に、新しき年に気が改まる、そんな年を経るにくわえて、白い栲の衣も着替えて干さず、朝に夕に勤務をしていた貴方は、どのように思われたのか、人の生きる死ぬには惜しいこの世を露や霜を置くように、跡をこの世に置いて死に逝った。まだ、死ぬべき時ではないのに。
注意:原文の「和細布奉乎 間幸座与」を「乎」は「平」の誤記として、一般には「和細布奉 平 間幸座与」と表記して「和細布(にぎたへ)(まつ)り 平(たひら)けく ま幸(さき)くませと」と訓みます。ここは句調が悪いのですが原文のままとします。
◎天平元年(西暦729)、攝津国(せっつのくに:今の兵庫県と大阪府の一部)の班田史生(はんでんししょう)の役職についていた丈部龍麻呂(はせべのたつまろ)が自(みずか)ら首をくくって死んだ時に、大伴宿祢三中(おおとものみなか)が詠んだ歌です。
 斎瓮(いはひへ)は、神事用の器のことです。木綿(ゆふ)も神事用の布のことです。
 「つつじ花」は、「にほへる」を導く枕詞として使われています。
※大伴三中(おおとものみなか、生没年不明)
 奈良時代の貴族です。大納言・大伴御行の子で、名は御中とも記されます。官位は従五位下・刑部大判事でした。
 天平8年(736年)遣新羅副使に任ぜられて、同年秋頃に新羅に渡ります。往路の対馬国竹敷浦(対馬島浅茅湾内)で和歌2首を詠んでいます。しかし、当時新羅との関係は悪化しており、使節としての使命は果たせませんでした。さらに、伝染病に感染してしまい、大使の阿倍継麻呂は帰途の対馬で病死、三中は病気が回復するまで入京を許されず、翌天平9年(737年)3月になって拝朝を行っています。なお、遣新羅副使としての功労により、従六位下から三階昇進して正六位上に叙せられています。
 天平12年(740年)外従五位下に昇叙され、翌天平13年(741年)刑部少輔兼大判事に任ぜられます。兵部少輔を経て、天平17年(745年)大宰少弐に遷ると、天平18年(746年)長門守と一時地方官を務め、同年内位の従五位下に叙せられています。天平19年(747年)刑部大判事として京官に復しました。

ウェブニュースより
 焼失拡大、100ヘクタールに 栃木の山火事 ―― 栃木県足利市の両崖山(251メートル)一帯の山林で起きた火災は25日、発生から5日目を迎えた。焼失面積は午後2時時点で約100ヘクタールに拡大した。足利市の和泉聡市長は記者会見で「火の勢いは落ち着いてきた。住宅への延焼の可能性は極めて低くなった」と述べる一方、鎮火は最長で2週間程度かかるとの見解も示した。
 
 会見に同席した池沢昭副市長は、両崖山のハイキングコースにある休憩所のベンチが黒焦げとなり、火が周囲に燃え広がっているのを消防隊員が確認したと明らかにした。ハイカーの火の不始末など人為的な原因で火災が起きた可能性がある。
 和泉市長によると、25日は風が弱まり、ヘリコプターによる放水が多数行えた上、消防は住宅に迫る火の手を集中的に消火した。ただ「山火事では燃えた木が炭化し、いったん火が消えても再び燃えることがある」と長期化の可能性に触れた。
 市によると、延焼範囲は24日夜から25日にかけて主に北に拡大し、一部は北関東自動車道のトンネル北側まで及んだ。25日は市内の中高計5校が休校となった。
 山林火災は21日午後3時半ごろ、登山者からの119番で発覚した。26日も陸上自衛隊のヘリコプターや消防などが消火活動を続ける。防衛省制服組トップの山崎幸二統合幕僚長は会見で「早期鎮火に向け、自治体と連携していく」と強調した。〔共同〕   【日本經濟新聞 2021225 18:36 (2021225 23:09更新)


 

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