瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 庶民階級の生活表現であるコトワザが表面に出てきたことは、とりもなおさず庶民の時代になってきたことの証ででもあります。金と色と女を描いて並ぶことの者のない井原西鶴の浮世草子には訳300のコトワザが用いられているということですが、これも浮世草子の性格につながるものです。いわゆる町人物といわれる作品類にはコトワザが多く、次に西鶴の作品から二、三拾ってみました。

 図版の四つの例は、近世町人階級の抬頭とその富を理解せずには真の意味を汲み取ることは難しいようです。いずれも現代にまで続いていることは暗示的でもあります。封建時代は、多くの点で〈忍(しのぶ)〉の一字が重んじられました。世間の冷たさは言うまでもなく、やっとかちえた職場も、決して百%居心地のいいものではありません。石のように堅くて冷たいのです。しかし、ここで短気を起こすと、それこそ〈短気は損気〉というわけで、あたら一生を台無しにしてしまうのです。
 石の上での三年間は、こうした苦しみから言えば最短期間かも知れません。三年どころか、五年、十年と忍耐が要求されるのです。そうした戒めがこの短句の中に込められているわけです。誰がいつ言い始めたかは知る由もありませんが、生活表現としての本質をよく言いおおせているコトワザです。形式的にも、短句であり、即物的であり、三という数字を以って示すなどコトワザの典型を示しています。名詞止になっている点も日本語の本質を生かした表現です。ここでコトワザの事を俗言と言っていることも注意されます。俗は世俗のことであり、ほかに下世話とか世話、たとえとも呼称されています。


 2で、〈世中に……〉といっているのも〈下戸の建てたる蔵もなし〉がコトワザとして当時よく用いられたことを語っています。蔵は江戸時代においては富のシンボルでした。下戸は上戸の対で酒の飲めない者のことです。

 酒を飲みすぎると、財を貯えるどころか、身の破滅もまぬかれないでしょう。『古事記中』(応神天皇の条)にも〈堅石(カタシハ)も酔人(ヱヒビト)を避く〉というコトワザがあるくらい、酒に関するコトワザは多いのです。――しかし、酒を飲まぬからと言って金がたまるわけでもありません。一杯ひっかけた方が活力が湧く人もいます。西鶴のコトワザでは〈八文ずつのはした酒を一日に三度ずつ買い、四十五年間も飲んでいた鍛冶屋〉が主人公になっています。その結果貧乏な生活をしているので世間の人が、酒を飲まねばと笑ったのです。鍛冶屋が〈下戸の……〉のコトワザを用いたのは自嘲にも近いものなのです。酒を飲む飲まぬというのではなく、ひたすら仕事に励んで積極的に富の蓄積を心がければ、下戸も上戸も蔵は建つわけです。抽象的なコトバの羅列をしないで、個別的な事物を素材にして、意味深長な内容を具体的に表現しているのです。これもコトワザの大きな特色なのです。〈弘法筆をえらばす〉とか〈めくら蛇をおじず〉というような類です。断定的な言い方も、コトワザの簡潔性や教訓性と関連しているのです。
 3の金銀はまはり持というのも、江戸初期の世相を反映している名句であり、普遍性も十分含んでいます。現在でもよく聞かれるコトワザです。〈そうくよくよするな、金は天下のまわりもの〉――というのも同じ意味です。くよくよしなくても、何時かは自分のところへ廻ってくる代物という訳です。同じ西鶴作品にある〈生あれば食あり世に住からは何事も案じたるがそんなリ――日本永代蔵〉と相通じる表現です。

 この時代はちょっとした工夫――例えば懐炉灰の発見――によっても金儲けは出来たので、〈果報は寝て待つ〉てもよかったわけです。案じなくてもやがては金に恵まれることもあったのです。〈金〉に関するコトワザは多く〈金が敵、金が金をもうける、木は木銀(かね)は銀、地獄の沙汰も金次第〉など数々あらわれています。大阪の流行語チョロマカスがはやった時代です。がめつい人間どもがうようよしていたわけです。〈死がな目くじろ(死ンダラ目玉まデクリヌク)〉、〈爪に火をともす(最高ノケチン坊)〉という状態であり、ついには〈鰯の頭も信心心〉となるのです。
 こうして、ごく少数の西鶴作品の諺を考えてみただけでもコトワザがどんなに生活に密着したものかが了解されます。しかも現代はそうした封建時代のコトワザがなおかつ実感を以って迫ってくるのです。それだけに今日に残るコトワザが日本語のエスプリを巧みに表現していると言えるのではないでしょうか。
 4の鬼に金棒は、例文で分かるように、鬼に金を持たせる意に転用しています。一種のもじりです。〈悪事千里万太郎が仕業――本朝二十不孝四〉なども悪事ハ千里ヲ走ル(漢籍より出る)のコトバをふまえてのもじりです。

 こうなると本来のコトワザからずれて、単にコトバの遊戯になってしまうものです。〈嘘八百〉をふまえた〈嘘八百銭をとらぬと云事なし――本朝二十不孝三〉という表現も同様です。ここには日本語の表現形式として、古くから和歌などに用いられる縁語〈千里と万里〉や懸詞〈嘘八百と八百銭〉の技巧が用いられています。


 


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