瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 世説新語 方正篇第五 より
6b96f84e.JPG 59 王子敬が数歳のとき、書生たちが樗蒲〈ちょぼ〉をやっているのを見物していたが、勝負あったと見ていった。
 「南風競わず」
 書生達は彼が子供であるのを侮っていった。
 「この坊っちゃんは、管の中から豹を覗いているのだよ。偶に斑の一つを見つけるだけだ」
 すると王子敬は目を剥いて言った。
 「遠くは荀奉倩(じゅんほうせん)を辱め、近くは劉真長(りゅうしんちょう)を辱めるものだ」
 そのまま衣を払って立ち去った。

▼荀奉倩、劉真長はともに早熟の天才として知られた。

 世説新語 黜免篇第二十八 より
89f657c8.JPG 2 桓公が蜀の地に攻め入ろうとして三峡に差し掛かったとき、部隊の兵士のうちに猿の子を捕えたものがあった。その母猿は岸を伝いながら悲しげな声を上げ、百余里を行っても立ち去ろうとしない。しまいには船上に飛び込んできたが、着くと同時に息が絶えた。その腹を割いて中を見ると、腸がみなずたずたに断ち切れていた。桓公はこれを聞いて怒り、その兵士を免職するよう命じた。

 ▼桓公とは桓温(312~373年)のこと。字を元子、譙国(しょうこく)の人。庾翼(ゆよく、305~345年、東晋の大臣)の後を受けて荊州刺史となった。北方征伐に成功し、その軍事的成功によって東晋王国唯一の実力者となり、王位簒奪の寸前に病死した。

efd58bf0.JPG    古離別    韋荘
 晴れた空の下に広がる霞 長く垂れた柳の糸
 別離の情に酌み交わす酒の酔いもまわるのは半ばほど
 しかも玉の鞭をあげて雲のかなたをさせば
 断腸の思いをそそる春景色が江南の地を覆っている

 ▼韋荘(836~910年)は杜陵(長安郊外)の人。科挙に落第を続け、昭帝の乾寧元(894)年に漸く及第し、校書郎に任ぜられた。当時四川省に居た王建が反乱を起こしたので、朝廷では宣撫の使者を送り、荘もその一員として随行したが、そのまま王建に仕えて、建が後蜀王朝を樹立するのに協力し、その宰相となった。

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