瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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03e7bf0a.jpg 本日、小春日和なるも風冷たく、気温低し。ほぼ1週間ぶりの徘徊かな? 朝食後、いつも通りのルートを徘徊。10535歩、6.8km。

bc04495d.JPG 内閣支持率についてのウェヴニュースを2つ。
 内閣支持率続落64.1%、JNN調査 12/07 11:57 ―― 調査はこの土日に行いました。鳩山内閣を「支持できる」とした人は、先月から6.7ポイント減って64.1%でした。一方、「支持できない」は、7.5ポイント増えて34.8%でした。/「支持できない」理由として「鳩山総理に期待できない」と答えた人が、先月から7ポイント増えたのが目立っています。/鳩山総理が偽装献金問題で説明責任を果たしているかという質問では、「果たしていると思わない」が8割を超えました。/ただ、責任をとって鳩山氏が総理大臣を「辞任すべき」と考える人は16%で、「辞任の必要はない」が76%でした。/4日に閉幕した臨時国会で実現しなかった鳩山総理と自民党・谷垣総裁の党首討論については、「行うべきだった」がおよそ7割でした。/また、沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設問題で、政府が結論を年明け以降に先送りしたことについては、「あくまで年内決着が望ましい」という人は26%にとどまり、「先送りはやむを得ない」と理解を示す人が7割に上りました。/7兆円から8兆円規模となる見通しの第2次補正予算案については「期待できる」が39%、「期待できない」が45%と意見が分かれました。/また、先月行われた事業仕分けについては8割の人が「評価する」と答え、事業仕分けを「来年以降も続けるべきだ」も81%に達しました。/政党支持率では自民党が19.3%で、3か月連続でわずかながら支持を戻しつつあります。(07日11:21)
内閣支持続落59%、「首相指導力ない」急増 ―― 読売新聞社が4~6日に実施した全国世論調査(電話方式)で、鳩山内閣の支持率は59%となり、前回11月調査の63%から4ポイント下がった。/不支持率は29%(前回27%)だった。鳩山内閣の支持率は初めて6割を切った。内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が27%(同13%)に急増した。米軍普天間飛行場の移設問題で、鳩山首相が年内決着を先送りする方針を固めたことなどが影響したとみられる。/沖縄県名護市を移設先とする日米合意については「少しは修正する方がよい」32%(同32%)、「合意通りに進める方がよい」26%(同31%)、「大幅に見直す方がよい」26%(同19%)となった。「少しは修正」と「合意通り」を合わせ、県内移設の現行計画を軸にすべきだと思う人は6割近かった。/首相が偽装献金など自らの「政治とカネ」の問題について、説明責任を果たしているとは思わない人は85%(同73%)に達した。偽装献金問題は母親からの巨額の資金提供疑惑に発展し、首相に向けられる国民の視線は厳しさを増しているようだ。元秘書が起訴された場合の首相の対応については、「辞任する必要はない」が54%だったが、「辞任すべきだ」も37%に上った。鳩山内閣の政策に関してデフレや円高など今の経済情勢に適切に対応していると思う人は20%で、「そうは思わない」68%が大きく上回った。/行政刷新会議の事業仕分けを「評価する」は71%、「評価しない」は20%となった。ただ、今回の事業仕分けに問題があると思う人も63%いた。このうち、問題点として「仕分けにかける時間が短い」を挙げた人が39%で、「仕分け人の議論の進め方がよくない」20%、「対象とした事業が適切でない」「仕分け人の判断が適切でない」各17%が続いた。/民主党が衆院選の政権公約(マニフェスト)に掲げた内容については「必ず守るべきだ」は18%にとどまり、「守れなくても仕方がない」46%、「こだわる必要はない」34%となった。/政党支持率は民主42%(前回43%)、自民19%(同19%)などだった。    (2009年12月7日03時00分 読売新聞)

 昨夕は塾友の忘年会。恒例のことながら30数名の塾友が集まり、わいわいがやがや。楽しい会合であった。その上、今年は爺婆の金婚式だとて、花束と豪勢な旅行券を戴いた。途端に涙腺が緩んで泪がこぼれた。
39865ff2.jpg MN君がパソコンを取り替え、爺のメールアドレスが判らなくなったとのこと、今朝ほどメールを入れておいたが、すぐに返信メールが届いた。曰く、「先生/おはようございます。/早速MAILを頂き、ありがとうございます。/写真付で驚嘆しました。/そして改めて歴史を感じました。/私は、明日で49歳になります。/多分私が受精卵だった頃、「先生ご夫妻」が結ばれ、私が8~9歳くらいの時に初めて仁科で先生と知り合ったかと記憶しております。/それから約20年後、先生ご夫妻に媒酌人をお願いし、現在に至っております。/皆さまとのお付き合いの始まりは中学生になる時で、それから勉強のみならず海・山で遊ばせてもらい生活を通じ喜怒哀楽を分かち合い、本当に素敵な先輩・友人・後輩と出会うことが出来、感謝しております。/久しぶりに先生のブログを拝見しました。
時間のある時にゆっくりと読ませて頂きます。/最近ご無沙汰しておりますが、また機会を見つけ遊びに行かさせてください。/M」

 本夕は塾友の忘年会。徘徊は取り止め。
b377edbf.JPG 「普天間」越年、小沢氏の影=連立優先に首相逆らえず ―― 鳩山由紀夫首相が米軍普天間飛行場移設問題の年内決着を断念した背景には、来年の通常国会や参院選を見据え、連立相手の社民党に配慮する小沢一郎民主党幹事長の意向があった。日米関係より連立を優先し、基地問題を政局と絡めたことで、決着への道筋は一層不透明となってきた。/「政策の話のつもりかもしれないが、政局になって困るのはあんたらだ」。/先月30日午後、参院本会議散会後の国会。社民党の又市征治副党首は小沢氏に近い民主党の輿石東参院議員会長に対し、普天間問題の結論を先送りさせなければ、連立政権からの離脱も辞さないと迫った。社民党の姿勢に危機感を抱いた輿石氏は「その通り。何であんなに急ぐ必要があるのか」と、年内決着への流れをつくりつつあった政府への不満を示し、小沢氏に直接電話するよう促した。/又市氏からの電話に、小沢氏は最初「内閣の話なんだから、中で福島(瑞穂社民党党首)さんが頑張ればいい」と、政策課題からは距離を置く姿勢を示した。しかし、又市氏が「これは連立の問題なんだから、あんたがやらなきゃいかん」と調整を求めると、小沢氏は「分かった、分かった」と応じたという。/同じころ、首相官邸で開かれた基本政策閣僚委員会では、福島氏が「(名護市の)辺野古沿岸部に基地を造ることにはきっぱり反対する」と表明。国民新党の亀井静香代表も「3党連立で決めないと、社民党は離脱するよ」と加勢した。平野博文官房長官は「3党を飛び越えて決めることは絶対にありません」と約束せざるを得なかった。/この日の夜、輿石氏は同じ「参院民主党」の北沢俊美防衛相を食事に誘った。普天間問題の年内決着を目指していた北沢氏に、輿石氏は小沢氏の意向を踏まえて「年内に慌てて決めることはない。無理してもろくなことはない」とクギを刺した。/翌1日、首相は官邸に岡田克也外相と北沢氏を呼び、平野氏を交えて対応を協議した。平野氏が前日の基本政策閣僚委での福島、亀井両氏の強硬姿勢を伝えると、北沢氏は「連立政権が壊れるようなことがあってはならない」と発言。突然の方針転換の裏に小沢氏の影を感じたのか、首相は異論を挟まず、年内決着見送りが事実上決まった。/民主党は参院での単独過半数獲得に向け、通常国会で子ども手当などの重点政策を実現させた上で、参院選に臨むのが基本戦略だ。だが、社民党が連立を離脱すれば、与党は参院で過半数割れとなるばかりか、衆院での法案再可決もできなくなり、鳩山政権はたちまち窮地に陥る。/「参院選までは辛抱だ」。民主党幹部はこう語り、小沢氏が当面、そうした危険を冒すような選択をすることはないと強調した。(jijicom、2009/12/04-22:51)

 世説新語にある王戎の逸話をもう少し書き写すことにする。任誕篇第二十三に曰く、《裴成公(258~291年、裴頠)の妻は王戎の娘である。王戎は朝早く裴成公の家を訪れ、案内を請わないでそのまま入り込んだ。裴成公は寝台の南側から下り、娘は北側から下りて、王戎と向かい合って主客の挨拶をしたが、悪びれた様子は全くなかった。14》
 王戎の父・王渾(おうこん、生没年不詳)と阮籍とは共に尚書郎を務めたことがあり、友人同士だった。阮籍はしばしば王渾の所へ行ったが、王渾の所へはほんの少しだけいて「君と話すより戎君と話すほうがよい」と言い、王戎の部屋へ行ってはいつも長居して、日が暮れてから帰ったという。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。やがて王戎は阮籍と共に竹林の遊びに加わるようになった。だが、まだ若い王戎は世俗を超越することができていなかったらしい。排調篇第二十五に曰く、《嵆康、阮籍、山濤、劉伶が竹林で盛んに酒を飲んでいた。そこへ王戎が遅れてやってきた。歩兵(阮籍)はいった。「俗物めがまたぞろやってきて、人の気分をぶちこわしおる」王戎は笑っていった。「君たちの気分は、やはりぶち壊せるていどのものだったのか」4》
84a1d162.JPG 王戎の晩年ははろくなものも食べず、家計は豊かであったのに質素な生活をしていて、ありあまる財宝も使わずひたすら貯蓄にはげみ、それでもなお足りない様子だったという。しかし、王戎は根っからの吝嗇漢ではなく、他の六人と同じようにもともと財産には執着しない性質であった。その王戎が、ある時を境に突然別人のように吝嗇漢になった。今までの王戎を知る人々はその変貌ぶりに驚き戸惑ったことだろう。だが、これが王戎なりの韜晦法であり処世術であったのだともいえる。王戎は保身のためにわざと吝嗇を装ったのであろう。倹嗇篇第二十九には9つの逸話を載せるが、そのうち4つが王戎に纏わるものである。《王戎はけちんぼだった。自分の従子(おい)が結婚するとき、単(ひとえ)の着物を一枚やったが、あとで改めて代金を請求した。2》《司徒の王戎は、地位も高く家も富み、家屋敷や召使、さては美田や水碓(すいたい、精米、製粉のための水車)といったものは、都の洛陽でも比類がなかった。勘定書や証文の処理に追われ、いつも夫人と一緒に灯(ともしび)の下で、計算棒をあたり一面に撒き散らしながら勘定していた。3》《王戎の家にはよい李の木があり、いつもその実を売っていた。人がその種を手に入れることを恐れ、必ずその核(さね)に錐で穴を開けておいた。4》  《王戎は娘が裴頠(はいき)の家に嫁入りするとき、数万銭を貸してやった。娘が里帰りすると、王戎は不機嫌 そうな顔をしている。娘があわてて銭を返すと、やっと機嫌が直った。5》
 最後に、惑溺篇三十五に曰く、《王安豊(王戎)の妻は、いつも王安豊を「*君」と呼んだ。王安豊はいった。「妻が夫のことを呼ぶのは、礼の定めでは不敬にあたることだ。これからのちは、もうやめたがよい」すると妻はいった。「君に親しみ、君を愛すればこそ、君を君と呼ぶのではありませんか。もし、わたしが君を君と呼ばなければ、たれがいったい君を君と呼べばよいのですか」かくて、いつも君と呼ぶことを許すことになった。6》*原文では「卿(けい)」。六朝時代の用法としては、卿はぞんざいな呼び方で、同等もしくは以下の者にたいする二人称として用いられていた。

 Eriちゃんのブログで政府がスーダンに自衛隊を派遣することを検討していることを知ったので調べてみた。
a573445b.JPG スーダンPKO(Peacekeeping Operation)に数百人規模の部隊派遣検討 ――  国連平和維持活動(PKO)スーダン派遣団(UNMIS、United Nations Mission in Sudan)について、岡田克也外相が数百人規模の自衛隊部隊を派遣する検討を外務省に指示していることが28日、分かった。すでに外務、防衛両省などによる調整も始まっている。鳩山政権はインド洋で補給活動中の海上自衛隊を来年1月に撤収する方針で、日本の国際貢献活動が細る中、PKOへの積極参加で人的貢献の実績づくりを図る狙いがある。/外務省はこのほか平成14年から約2年間、施設部隊が参加した東ティモールPKOへの陸上自衛隊再派遣の検討も始めている。/スーダンへの派遣対象は、道路整備にあたる陸自の施設部隊や輸送部隊などが想定されている。実現すれば、PKOへの部隊の新規派遣は東ティモール以来となる。/スーダン南部は2005(平成17)年に20年以上続いた内戦が終結した。現在、米国や中国など68ヵ国約1万人からなるUNMISが、和平合意履行の監視や人道支援にあたっている。政府は昨年10月、PKO協力法に基づき、UNMIS司令部に陸上自衛官2人を派遣したが、部隊派遣は見送った。自衛官2人は首都、ハルツームにある司令部で分析情報のデータベース管理と物資補給の調整業務などを担当している。/外務省がUNMISへの部隊派遣を検討しているのは、父親が隣国ケニア出身のオバマ米大統領の誕生で、米国がスーダン和平問題に力を入れ始めたことが背景にある。大統領訪日に先立つ10月、米側は「この地域を重視しているので、何か貢献できないか」と日本側に人的貢献を求めてきたとされる。/民主党は、インド洋への海自派遣など特別措置法に基づく米国などへの支援に否定的立場をとってきた。一方で、衆院選マニフェスト(政権公約)に「PKO等に参加して平和の構築に向けた役割を果たす」と明記しており、スーダン派遣は同党の主張と一致する。/岡田外相は10月下旬の講演で、PKOへの自衛隊派遣を促進するため、紛争当事者間の受け入れ同意などの参加5原則を緩和すべきだとの認識を表明している。UNMIS参加についても「積極的に考えた方がよい」と主張してきた。/ただ、スーダンの治安は依然、不安定で、自衛隊部隊の派遣には、連立を組む社民党の反対が予想される。すんなり実現するかは不透明だ。/現在、自衛官が参加するPKOはUNMIS、中東・ゴラン高原の国連兵力引き離し監視軍(UNDOF、United Nations Disengagement Observer Force)、国連ネパール支援団(UNMIN、United Nations Mission in Nepal)の3つで、計54人。国連側の統計で派遣人数は加盟国中84位にとどまっている。(産経ニュース 2009.11.29 01:16)

 大したことはないのだけれど、どうも風邪が治まらない。明日は忘年会だという。あれやこれやと思案しているうちに徘徊は取り止めとしてしまった。
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04300a44.JPG どうやら普天間移設の決着は越年に持ち越されるようだ。本日のウェブニュースに曰く、「普天間移設「新候補地を」、首相が防衛相に指示 ―― 沖縄の米軍普天間飛行場移設問題で、鳩山首相が北沢防衛相に対し「新しい場所を探してほしい」と述べ、日米合意に基づく米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(沖縄県名護市辺野古)以外の移設先を探すよう指示していたことが3日、明らかになった。/首相の指示は、移設先の検討を事実上仕切り直すよう求めたものと受け止められている。新たな移設先を見つけるには時間がかかることから、首相は年内の決着を先送りすることにしたとみられる。/首相は3日夜、「年内に決めなきゃいけない、という議論をしているわけではない」と記者団に述べ、年内決着を見送る考えを公の場で表明した。/これに先立ち、首相は3日夕、首相官邸で平野官房長官、岡田外相、北沢防衛相と会談し、4日に都内で開く日米外務・防衛当局の閣僚級作業部会に向けた協議を行った。首相は「連立は大事だ。米国とは誠実に協議してほしい」と述べ、移設問題の決着が遅れても米側の理解を得られるよう指示した。首相はここ数日、平野氏らと連日協議を重ねており、新たな移設先の検討指示もこの中で出た。/複数の関係者によると、首相の念頭にあるのは米領グアムだという。首相は3日、普天間移設を2014年までに完了すると日米が06年に合意した米軍再編のロードマップ(行程表)について「柔軟性を持って臨むことは可能だ」と記者団に語り、移設の時期や場所などを軌道修正する可能性を示唆した。(2009年12月4日 読売新聞)」

 王戎はやがて司馬昭に仕え相国掾となり、建威将軍、安豊県侯と次々に出世し、64歳で、三公の一つ、司徒にまで登り詰める。山濤の最終位も司徒であったが、山濤が司徒になったのは78歳の時であった。仕官した年はあまり変わらないが、山濤は幼い頃の逸話などは何も残していない。この二人を比べると、山濤は大器晩成型、王戎は早熟型といえよう。
3b75a1ab.JPG 世説新語・賞譽篇第八に曰く、《鍾士季(しょうしき、鍾会、?~263年)は王安豊(王戎)を批評していった。「阿戎(王戎)は人の気持ちをすっかり理解できる人間だ」また、こういった。「裴公(裴楷、237~291年)の話は尽きるところがない。」/史部郎に欠員が出来たとき、文帝(司馬昭)が適当な人物を鍾会にたずねたところ、かれは答えた。「裴楷は万事に明快であり、王戎は簡にして要を得ております。どちらも適任です」そこで裴楷を起用することになった。5》《王濬沖(おうしゅんちゅう、王戎)と裴叔則(はいしゅくそく、裴楷)の二人は、童髪の頃鍾士季を訪れ、しばらくして帰っていった。あとで客が鍾士季にたずねた。「さきほどの二人の子供をどうおもわれるか」鍾士季は答えた。「裴楷は万事に明快であり、王戎は簡にして要を得ている。いまからのち二十年もすれば、この二人はきっと吏部尚書になるであろうが、そのときは天下に埋もれた人材がなくなるという希望が叶えられるであろう」6》《王戎は山巨源(山濤)を批評していった。「山から切り出したばかりのあら玉、手を加えぬ金の塊のようだ。たれもがこれを寶として賞(ほ)めるが、なんの器と呼んでよいかわからない」10》また、容止篇第十四に曰く、《裴令(裴楷)は王安豊(王戎)を批評していった。「目は爛爛と輝き、巌の下に閃く稲妻のようだ」6》《ある人が王戎に告げた。「嵆延祖(けいえんそ、嵆紹、嵆康の子)は高くずば抜けていて、野の鶴が鶏の群れに降り立ったようだ。」王戎は答えた。「君はまだかれの父を見ていないから、そういうのだよ」11》さらに、傷逝篇第十七に曰く、《王濬沖が尚書令であったころ、出仕の礼服を着て軺車(1頭だての小さな遊覧車)に乗り、黄公酒壚(こうこうしゅろ、黄公の酒場)の辺りを過ぎたとき、後続の車に乗っていた客を振り返っていった。「わしは昔、嵆叔屋(嵆康)や阮嗣宗(阮籍)といっしょに子の酒場で飲み明かしたことがある。竹林の遊びにも、その末席につらなっていた。嵆康が早死にし、阮公がなくなってからは、すぐ世間の俗事に縛られる身になり、今これを見ると、近くにありながら、まるで山河を望むように遥かな思いがするよ」2》《王戎は子の万子(19歳で没した)をなくした。山簡(253~312年、山濤の子)が見舞いに行くと、王戎は悲しみに耐えられない様子である。山簡はいった。「まだ乳離れもしない赤ん坊に、それほどまでにする必要はあるまい。」王戎はいった。「聖人は感情を忘れるが、最下等の人間も感情を持つだけの能力がない。感情が集まってくるのは、まさにわれわれのような人間にだよ」山簡はその言葉に感服し、あらためてかれのために慟哭した。

 朝から雨。一日中家の中に引き篭り。
 王戎は竹林の七賢の中でも最年少者で、最高齢者の山濤とは実に29歳もの開きがある。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。世説新語には多くの王戎に関する逸話が載せられている。
53d2f9e9.JPG 徳行篇第一に曰く、《王戎はいった。「嵆康(けいこう)とは二十年来の付き合いだが、私はまだ一度もかれの喜んだり怒ったりする顔を見たことがない」1》《王戎と和嶠(わきょう、?~292年)とは同時に親の喪にあったが、どちらも孝行者と誉められた。王戎は悲しみのために痩せ衰え、鶏の骨が寝台に横になっているようだったが、和嶠は礼式に定められたとおりの哭泣の作法を忠実に行った。/晋の武帝(236~90年、司馬炎)は、劉仲雄(りゅうちゅうゆう、?~285年)に言った。「お前はたびたび王戎と和嶠とを見舞ってやっているかね。聞くところによると和嶠は悲しみ方が酷いという事だが、心配になるよ」/すると劉仲雄は答えた。「和嶠は哭泣の作法を忠実に行っておりますが、元気は一向に衰えていません。王戎は、作法にこそ従っていませんが、悲しみ方がひどく、骨だけになっています。私の見るところでは和嶠は生孝を行っているのであり、王戎のほうは死孝を行っているのです。陛下におかれては、和嶠のことは心配されなくてよく、王戎のほうこそ心配せられるべきだと思います」17》《王安豊(王戎)が親の死にあったとき、その真心から出た悲しみの情は、人並みはずれたものがあった。裴令(237~291年)が弔いに出かけて、つぶやいた。「もし一度の慟哭が人間の生命を傷つけることがあるとするならば、きっと濬沖(しゅんちゅう、王戎の字)は性を滅ぼしたという誹りを免れないだろう」20》――孝経に「死を以って生を傷つくるなく、毀して性を滅ぼさざるは、これ聖人のまつりごとなり」とある。《王戎の父の王渾は名声があり、官は涼州刺史にまでなった。王渾が亡くなった時、その歴任した九郡の部下たちが彼の恩徳を慕い、うちそろって香典数百万銭をおくった。ところが王戎はこれを辞退して受け取らなかった。21》
王戎は幼少の頃から「神童」として誉れが高かったらしい。世説新語・雅量篇第六に曰く、《王戎が七歳のとき、子供たちと遊んでいたが、道端の李の木に枝もたわわに実がついているのを見つけた。他の子供たちは、我先にと走り寄ってこれを取ったが、王戎だけは動こうともしなかった。ある人が訊ねると、答えていった。「道端に木があるのに実がたくさんついているのは、きっと苦い李にちがいありません」これを取ってみると、なるほどその言葉通りであった。4》《魏の明帝(204~239年、曹叡)は宣武場で虎の爪や牙を切らせることにし、人民たちに自由に見物させた。王戎は七歳であったが、やはり見物に出かけた。虎は隙を見ておりに攀じ登って吼えたが、その声は大地を震わすほどであった。見物人は皆逃げ出したり、ひっくり返ったりしたが、王戎はじっとしたまま動かず、恐れる様子は全くなかった。6》《王戎が侍中をしていたとき、南郡太守の劉肇(りゅうちょう)が筒中の箋布五端を贈ってきた。王戎は受け取らなかったけれども、丁寧な返書を送った。》―― 晋書・王戎伝には「筒中の細布五十端」を賄賂として贈ったとある。

 風邪がぶり返したらしい。咽喉がいがいが、洟水たらたら、徘徊は取りやめる。
1c51632a.JPG 本日のウェブニュースに曰く、《「真実追求、将来に有益」沖縄密約証言の元局長 ―― 1972年の沖縄返還を巡る「密約」の存在を、当時の外務省局長が公の場で証言した。東京地裁で1日、開かれた情報公開訴訟の法廷。吉野文六・元外務省アメリカ局長(91)と、密約の存在を訴え続けていた原告の元毎日新聞記者・西山太吉さん(78)が約37年ぶりに法廷で顔を合わせた。/ 証人尋問が行われたのは同地裁の103号法廷。吉野氏がいったん法廷を出ようとしたとき、原告席にいた西山さんが立ち上がってがっちりと握手し、笑顔で吉野氏の肩をたたいた。/吉野氏は、西山さんが約37年前、国家公務員法違反に問われた同じ東京地裁の公判で証人として出廷し、密約の存在を否定していた。この日の尋問後、東京・霞が関の司法記者クラブで開かれた記者会見で西山さんは、「法廷という厳正な場所で証言してくれた。相当の覚悟があってのことで、信ぴょう性を高く評価している」と感慨深げに話した。/一方、吉野氏も尋問後の記者会見で、「西山さんがたくさんの時間をかけて裁判に挑んでおり、信念の強さに感心していた」と評価。報道機関の取材に対して密約の存在を認めてきたが、法廷で証言した理由について問われると、「過去の真実を追求することが、日本の将来のために有益と信じるようになった。歴史を忘却したり歪曲(わいきょく)したりすると、歴史を作る国民にとってマイナスになることが大きい」と話した。/この日午後開かれた口頭弁論では、吉野氏が駐日米公使との間で、沖縄返還協定などで米側が支払うとされていた米軍使用地の原状回復補償費400万ドルと米短波放送中継局の国外への移転費1600万ドルを日本側が肩代わりすると、秘密裏に合意したと証言。局長室で公使と会い、合意文書に「BY」と、イニシャルで署名したことも認めた。/補償費の合意文書の作成経緯については「公使から、米議会から追及された場合に説得するためと要請された」と説明。文書の写しは、「日本側の立場では必要はないので処分したと思う」と述べた。(2009年12月2日09時59分 読売新聞)》

 王戎(おうじゅう、234~305年)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏、晋に仕えた。字は濬沖(しゅんちゅう)。徐州瑯邪(ろうや)郡臨沂(りんぎ)県(山東省臨沂市)の出身(瑯琊王氏)。祖父は幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めた王雄(507~564年)、父は涼州刺史を務めた王渾(生没年不詳、王渾玄沖とは別人)。従弟に王衍。子に王万、王興、娘『晋書』に伝がある。幼いときはその神童ぶりに定評があり、曹叡(206or204~239年、明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父の王渾とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。涼州刺史であった父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問におとずれたが、王戎は付け届けの類をすべて受け取らず、名声を高めた。王戎は体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼にこだわることはなくなった。話し好きで知られ、酒をたしなみながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐におもむく鍾会(225~264年)に相談を持ちかけられた際に、道家の言葉を引きつつ語った発言は鍾会の運命を見通したものであったため、識者に評価された。父の爵位を継ぎ、司馬昭(211~265年、晋の太祖文帝)の招聘を受けて以降、魏、晋で官職を歴任することになる。相国の縁から吏部黄門、散騎常侍、河東太守、荊州刺史と出世を重ねたが、荊州刺史のときに役人を私的な用事に使ったために免職となりそうだったのを、罰金で済まされた。その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。279年からの呉侵攻(晋が呉を滅ぼした戦い)では、呉の武昌(現在の武漢氏武昌)に侵攻して王濬(おうしゅん、206~285年)と共に呉を滅亡に追い込む武功を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いもかけられた。武帝(236~290年、司馬炎)はそれを庇っている。『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで上ったとしている。光録大夫・吏部尚書まで官職が上ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、母に対して親孝行であったために、見る見るうちにやつれていった。その様は劉毅(?~285年)に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は王戎に薬を与え医者にかからせた。武帝の没後、外戚の楊駿(ようしゅん、?~291年)が実権を握ると、太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇((?~304年)が勝手な振る舞いをしたためこれを諌めた。司馬繇はまもなく罪を得て失脚した。王戎は光禄大夫、中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。王戎がそれでも地位を保てたのは外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。297年、官位はついに三公である司徒まで上ったが、300年に娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も政府の要職にあったに関わらず八王の乱(西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱)の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかったが、それゆえ殺害されることもなかった。305年没。子の王万は若死し、王興は庶子であったため家に入れず、縁戚の者に跡を継がせた。
70169dd8.JPG 幼い頃から「神童」と呼ばれ、回りからちやほやされて育った王戎――若い頃から阮籍らと交流をしていくうちに、彼らを理想とし、将来は自分も隠遁生活を送りたいと思っていただろう。ところが現実はそう甘いものではない。仲間の一人、嵆康が処刑されてしまった。王戎は嵆康にも強い憧れを抱いていたと思われる。その嵆康は、自分の意志を貫き通したばかりに処刑されるという憂き目に遭った。それを目の当たりにした王戎は戸惑い、同時に世の中の厳しさを改めて思い知る。そして、阮籍も嵆康の死後一年でこの世を去る。人生の師とも言うべき二人を失った王戎は、その後全く生き方を変え、自分なりの韜晦(とうかい)法として吝嗇(りんしょく)を選んだ。王戎が吝嗇という道を選んだのはなぜだろうか。古今を通じて様々な人がその理由を論じてきたらしい。
《王戎の利殖行為と極端な物惜しみについては、当時からさまざまな見方があった。/曰く、「王戎を三公として仰ぐには、どうも重みが足りない」/曰く、「わざとああやって、韜晦しているのさ」/曰く、「王戎は晋朝の危機の時代を韜晦することでやりすごした。明哲保身の道といっていい」/ 曰く、「重臣の身で、そんな態度が許されるものか」(『三国志Ⅴ 不服従の思想』に拠る)》

 今日から師走。昼食後、隅田川遊歩道を北上、瑞光橋公園・汐入公園を回って、水神大橋を渡り、東白鬚公園から墨堤通りを南下して、帰宅した。万歩計の装着を忘れ、記録が取れず。
e9486bcb.jpg
300ab753.jpg 瑞光橋の袂では鴨の群れが遊んでいたが、カメラを向けると餌がもらえるものと近寄ってくる。汐入公園から水神大橋に向う途中に、ふゆざくらが花を持っていた。こんな櫻の仲間があると言うことは今まで知らなかった。
向秀(しょうしゅう、227?~272年) 、字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。嵆康・呂安と交友した。嵆康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って嵆康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。
1d4ca9bd.JPG 思旧賦序: 嵇博綜技藝、于絲竹特妙。臨當就命、顧視日影、索琴而彈之。余逝將西邁、經其舊廬。于時日薄虞淵、寒冰凄然。鄰人有吹笛者、發音寥亮。追思曩昔游宴之好、感音而歎、故作賦云。「読み: 嵆、博(ひろ)く技芸を綜(す)べ、絲竹において特に妙なり。まさに命に就(つ)くべきときに臨み、顧みて日影を視、琴を索(もと)めてこれを弾く。逝(ゆ)きてまさに西に邁(ゆ)かんとし、その旧廬を経たり。時に日、虞淵に薄(せま)りて、寒冰凄然たり。隣人笛を吹く者あり。音を発して寥亮たり。曩昔游宴の好(よし)みを追思し、音に感じて歎ず。故に賦を作る」
世説新語・言語篇に曰く、《嵆中散(嵆康)が誅を受けた後、向子期は郡計の吏に任用されて都の洛陽にやってきた。文王はこれを引見していった。「君は箕山の志(隠遁の志)をいだいて、官には仕えないつもりだと聴いていたが、なぜこんなところへやってきたのかね」/向子期は答えた。「巣父(そうふ)や許由(きょゆう)は、固苦しくて了見の狭い人物です。敬慕するほどのことはありませんよ」/文王はひどく感嘆した。》

 阮咸(げんかん、生卒年不詳)は、竹林の七賢の一人。字は仲容。三国時代の魏および西晋の文人。陳留郡尉氏県(いしけん、河南省開封市)の人。魏の武都太守・阮熙の子であり、步兵校尉・阮籍の従子に当たる。阮瞻(げんせん)、阮孚(げんふ)の父である。竹林の七賢中では、存命中の事跡が非常に少なく、『世説新語』『新書』及び唐宋代の類書中に見えるのみである。その年齢は王戎(おうじゅう)に比較してやや年長であり、竹林の七賢中で二番目に年少である。若くして叔父の阮籍と共に飲酒宴遊した。散騎侍郎に任じられたが、西晋の時代、山濤が阮咸を吏部郎に推挙した時、武帝(司馬炎)は、その虚浮の談を尊び、飲酒の度が過ぎることを理由に用いなかった。阮咸は、その人となりが放誕で、礼法に拘らず、当時の儒士に誹謗された。また、琵琶を善くし、音律に精通していた。そこから、阮咸が亀玆(クチャ)伝来の琵琶を改造した、という説が生まれ、後世にはまた、その琵琶を阮咸と呼んだ。略称は阮。後に、荀勗(じゅんきょく、?~289年)荀に憎まれて、始平太守(しへいたいしゅ)に出されたので、後人は彼を阮始平と称した。後に長寿によって没した。楽器の阮咸は、正倉院に伝わっている。唐代の作で、通常の琵琶とは異なり、胴の部分が円形をしている。弦は4弦。秦制と漢制を併せて作られているので、秦琵琶、秦漢子の別称がある。
599a6673.JPG 世説新語・賞譽篇に曰く、《山公(山濤)は阮咸を吏部郎に推挙しようとし、評語を書いた。「清らかで真実があり、寡欲である。いかなるものも彼の心を動かすことは出来ない」》また、術解篇に曰く、《荀勗(じゅんきょく)はよく音楽を解したので、当時の人々は天才的な理解力の持ち主であると評判した。ついには律呂(十二の音階があり、これを陰陽に二分し陽の六を律、陰の六を呂という)の音階を整え、雅楽の在り方を正すまでになり、朝廷の儀式に殿庭で音楽を演奏するたびに、自分で宮商(五音のこと。宮・商・角・徴・羽であるが、ここでは宮・商で音階のすべてを代表させている)の音階をととのえたが、いずれも韻律にかなわないものはなかった。/阮咸は音楽のすぐれた鑑賞家で、当時の人々は絶妙な鑑賞力の持ち主であると評判していた。いつも朝廷の会合で音楽が演奏されるたびに、心中それが音階にかなっていないものと思っていた。しかし、それについて一言も口に出さなかったので、荀勗は内心これを憎み、そのため阮咸を始平太守に転出させてしまった。/のち一農夫が野で耕していたところ、周代の玉製の尺を発見した。これこそ天下の標準となる正尺であった。荀勗は試みに自分が調整した鐘や太鼓をはじめ、金・石・糸・竹などで作った様々な楽器について測定してみたところ、みな粟粒一つ分だけ短いことに気付いた。そこで始めて阮咸の絶妙な鑑識力に敬服した。》さらに、任誕篇には次のような逸話が載せられている。
①《阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)とは道路の南側に住み、他の阮氏は道路の北側に住んでいた。北の阮氏はみな富裕だったが、南の阮氏は貧乏だった。七月七日には、北の阮氏は盛大な衣装の虫干しをした。どれも薄絹や錦のきらびやかなものばかりである。阮仲容は竿の先に大きな布の犢鼻褌(ふんどし)をぶら下げ、家の中庭に立てた。ある人が怪しんで訊ねると、答えて言った。「未だ俗を免るる能わず、聊か復た爾るのみ(まだ俗気から抜け切ることができないので、ちょっとこうやってみたまでさ)」》 ②《阮氏の一族はみなよく酒を飲んだ。阮仲容は一族の処へ言って集会を開くときには、ありきたりの盃でやりとりせず、大きな甕(かめ)に酒を盛り、車座になって向かい合いながらぐいぐいとやった。あるとき豚の群れが酒を飲みにやってきた。阮仲容は構わず迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。》 ③《阮仲容は以前から姑(おば)の家の鮮卑(せんぴ)の侍女を寵愛していたが、そののち母の喪に服していたところ、姑が遠方へ移ることになった。初めはその侍女を残しておくといっていたが、いざ出発となると、これはしたり、連れて行くと言うのである。阮仲容は喪服をつけたまま、客の驢馬(ろば)を借りて追いかけ、馬を連ねて帰ってきたが、つぶやいた。「子だねは絶やしてはいけないよ」その鮮卑の侍女は阮遥集(阮孚)の母である。》

 朝食後、隅田川沿いに北上、汐入公園内のさくら橋を渡り、水神大橋にでる。東白鬚公園を貫けて、墨堤通りと並行する東側の道を南下、じまん草餅の仮店舗(墨堤通りの本店は現在建替え中)で、草餅を買い、桜橋を渡って帰宅した。本日の記録、10416歩、6.7kmであった。
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 本日は小春日和、気持ちよい陽気で、その上土曜日ということもあって、遊歩道は人出が多く、方々で今流行のウォーキングの集まりがあちこちに見られた。

 劉伶(りゅうれい、221? ~ 300?年)は、竹林の七賢の一人。字は伯倫。三国時代の魏および西晋の文人。沛國(江蘇省銅山県の西北)の人。反礼教的で自由奔放な思想を持ち、建威将軍の参軍をつとめたこともあるが、無作為の教化を説いて辞職し、酒びたりの気ままな一生を送った。いつも酒徳利をぶら下げ、鋤を肩にした従僕を従え、「死ねばその場で埋めよ」と言っていたという。著書に『酒徳頌』がある。
世説新語・容止篇に曰く、《劉伶は身長が六尺(140cm)どまりで、容貌はひどく醜くやつれていたが、ゆうゆうとして一切に無頓着であり、肉体を土木のようにみなしていた》また、任誕篇に曰く、《劉伶は二日酔いで咽喉がひどく渇いたので、妻に酒を求めた。妻は酒をすて、酒器を壊し、泣きながらいった。「貴方は余りにも飲みすぎです。養生の道から外れています。どうぞきっぱり酒を断ってください」劉怜は言った。「たいへん結構だ。だが、わしは自分の力では禁酒できないから、ひたすら神に祈り、誓いを立てて断つより他はない。すぐ酒と肉とを調えてくれ」妻はこたえた。「かしこまりました」神前に酒肉を供え、劉伶に願をかけるように促した。劉怜は跪いて祝詞をあげた。「天は劉伶を生みたまい、酒を以って名をなさしむ。一度飲めば一斛、五斗ならば悪酔いざまし。婦人の言は、心してきくべからず」その後すぐ酒を引き寄せ肉を食い、陶然としてすっかり酔っ払ってしまった。》さらに、《劉怜はいつも酒に酔っ払って奔放な振舞いをした。時には衣服を脱ぎ裸になって家の中にいた。ある人がこれを見て誹ると、劉怜は言った。「わしは天地をば家とし、家屋をばわが衣、わが褌と心得ている。諸君はなぜわしの褌の中にはいりこんでくるのだ」》
 『酒徳頌』: 酒徳は酒の功徳、頌は韻文の一種で褒め称える言葉すなわち賛歌である。大人先生という架空の人物に託した作者劉伶の自画像であり、老荘哲学の表白でもある。わが国の大伴旅人の「讃酒歌」などは、この作品の影響を受けたものといわれる。
1d175b86.JPG 「訳: 酒の功徳をたたえる 劉伶/大人先生という人物がいた。天地の生成をも一日のごとくみなし、一万年も瞬時、日と月とは戸口と窓、世界の果ても我が庭か往来のごとく見做していた。何処へ行くにも決まった道を通らず、何処にも決まった住まいを持たず、大空を屋根とし、大地を敷き莚(むしろ)として行きたい所へ出掛けていった。坐っていれば大盃やぐい呑みを手にし、出掛けるとき酒樽や徳利をぶら下げ、酒だけがつとめと心得、他のことは気にも掛けなかった。ある貴公子と大物の浪士が、先生の評判を聞き、そのわけを論じ合った。そこで大いに奮い立ち、勇んで出掛け、目を怒らせ歯がみして、礼法について述べ立て、鋭く論難した。先生はそのとき、酒がめをかかえますにうけ、杯をふくんで濁酒(どぶろく)を口に流し込み、ひげを捻って両足を投げ出し、こうじを枕に酒樽を敷布団にして横たわり、何の頓着もなく、陶然と楽しげであった。傲然と酔うているかと思うと、突然はっと醒めるが、*1 耳をすましているようでも、雷の音さえ耳に入らず、目を凝らしているようでも、泰山の姿さえ目に入らぬ様子、寒暑が肌を刺し、利欲が心を動かすのも気付かぬげである。万物が乱れ騒ぐのを見下ろして、まるで大河が浮き草を浮かべたほどにも気に掛けぬ。二人のおえらがたは傍に侍り、*2 ミイラ取りがミイラになった」
註 *1 雷は音の大きなものの代表、泰山は中国一の名山のひとつで形の大きなものの代表としていう。それらさえ耳に入らず、目にはいらぬ。 *2 原文は「蜾臝(から、じが蜂)の螟蛉(めいれい、桑虫)に与(お)けるが如し」とある。じが蜂は桑虫の子を育てて自分の子と化す、という言い伝えから、影響を受けて速やかに変化してしまうことをいう。
 ◎ 大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首――万葉集より
e79d88ac.JPG 験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし(3-338)/【通釈】くよくよと甲斐のない物思いに耽るよりは、一杯の濁り酒を飲む方がよいらしい。/【補記】十三首の連作。おそらく天平二年(730)頃の作と思われる。
 酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古(いにしへ)の大き聖の言(こと)の宣(よろ)しさ(3-339)/【通釈】酒の名を聖人と名付けた昔の大聖人の言葉のなんと結構なことよ。/【補記】『魏史』巻二十七、清酒を聖人、濁酒を賢人に譬えた故事に由る。
 古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあるらし(3-340)/【通釈】昔の竹林の七賢も、欲しがったものは酒であったそうな。/【補記】『世説新語』任誕篇の竹林の七賢が酒を飲み清談に耽ったとの故事に由る。
 賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするしまさりたるらし(3-341)/【通釈】かしこぶって物を言うよりは、酒を飲んで酔い泣きするようがましのようであるよ。
 言はむすべ為むすべ知らず極りて貴(たふと)き物は酒にしあるらし(3-342)/【通釈】言いようもなく、どうしようもない程に、この上もなく貴い物は酒であるらしい。
 中々に人とあらずは酒壺(さかつほ)になりてしかも酒に染(し)みなむ(3-343)/【通釈】なまじ人であるよりは、いっそ酒壺になってしまいたい。いつも酒浸りでいられようから。
 あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(3-344)/【通釈】ああみっともない。かしこぶって、酒を飲まない人をよく見れば、猿にそっくりではないか。
 価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒に豈(あに)まさめやも(3-345)/【通釈】値のつけようもない宝であっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。
 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るに豈(あに)しかめやも(3-346)/【通釈】暗い夜にも輝く宝玉であっても、酒を飲んで憂さ晴らしするのにどうして及ぼうか。
 世間(よのなか)の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべかるらし(3-347)/【通釈】世の中の遊びで一番楽しいことと言ったら、酒に酔って泣くことに決まっているようだ。
 この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも我はなりなむ(3-348)/【通釈】現世が楽しければ、来世には虫だろうと鳥だろうと、俺はなってしまおうよ。
 生まるれば遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな(3-349)/【通釈】この世に生れれば、結局は死んでしまうのだから、この世に生きている間は楽しくこそ過ごしたいものよ。
 黙然(もだ)居りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ及(し)かずけり(3-350)/【通釈】黙りこくってかしこぶっているなんてのは、酒を飲んで酔い泣きするのに、何といっても及ばないなあ。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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