瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
山濤(さんとう、205~283年)は、三国時代の魏及び西晋の文人。 姓は山、字は巨源。河内郡懐県(現在の河南省)の人。幼時に父の山曜を亡くしたために貧窮した生活を送った。老荘思想に耽って阮籍、嵆康らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。40歳を過ぎて官途について司馬氏に属したため、嵆康を朝廷に推薦したときに「與山巨源絶交書」(山巨源に与える絶交書)を突きつけられた。しかし、嵆康の刑死の際には後に残す息子の行く末を託されたことからみても、彼らの友情は変わらなかったものと思われる。曹爽(そう そう、? ~249年)の台頭により隠棲するが、曹爽が司馬懿(しばい、179~251年)のクーデターで粛清されると再び出仕。264年、司馬昭が鍾会(しょうかい、225~264年)の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、山濤を行軍司馬に任じ、鄴の警護をさせた。簒奪を目前に控えた司馬昭は、曹子一族を鄴(ぎょう、大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県)に軟禁していた。山濤はその監視を任された(これは司馬昭の母方の祖母山氏が山濤の大叔母に当たったため、親戚として任命されたからである)。西晋代になって吏部尚書、太子少傅を歴任するなど栄達し、79歳のとき司徒になった。また、鍾会の讒言により殺された、嵆康の遺児である嵆紹(けいしょう、253~304年)らを推挙している。
世説新語・賢媛篇に曰く、《山公は嵆康・阮籍と一度あっただけで、金蘭のような交わりを結んだ。山公の妻の韓氏は、公と二人が尋常の交わりでないことをさとり、公に訊ねた。公は言った。「わしが一生のうちで友としてよいものは、ただこの二人だけだ」妻は言った。「*1負羈(ふき)の妻も、自分の目で狐偃(こえん)と趙衰(ちょうし)とを確かめたといいます。私もそっと見たいのですが、宜しいでしょうか?」/他日、二人がやって来た。妻は二人を泊めるように勧め、酒肉を調えた。夜になって、墉(かき)に穴を開け覗き込み、朝になるまで帰るのを忘れる有様であった。公は部屋に入ってきて訊ねた。「ふたりはどうだね」「あなたは、才能ではとても太刀打ちできません。もっぱら見識と度量とでつきあいなさいませ」/公は言った。「あの連中も、いつもわしの度量が勝れているのを認めているよ」》
註 *1 春秋時代の曹の国に、僖負羈(きふき)という者がいたが、諸国を放浪していた重耳(ちょうじ、後の晋の文公)が、臣下の狐偃と趙衰とを連れてその国を訪れた。そのとき僖負羈の妻は2人の従者を見て、公子を助けて天下の覇者にするであろうと予言した。
嵆康(けいこう、224~262or263年)は、三国時代の魏の文人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。字は叔夜(しゅくや)。譙国銍(しょうこくちつ、現在の安徽省宿州市)の人。曹操(155~220年)の曽孫の長楽亭を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。子に嵆紹(253~304年)がいる。非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めず、友人の山濤(205~283年)が自分の後任に嵆康を吏部郎に推薦した時には「与山巨源絶交書」(『文選』所収)を書いて彼との絶交を申し渡し、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前に息子の嵇紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものである。
世説新語・簡傲篇に曰く、《嵆康と呂安とは仲がよかった。ひとたび相手のことを思い出すと、たとえ千里の道を隔てていても車を命ずるという有様であった。呂安がその後訪れたとき、たまたま嵆康は不在であった。兄の嵆喜が戸口から出て来て招き入れようとしたが、呂安は内に入らず、門の上に「鳳」という字を書いて帰った。嵆喜はその意味をさとらず、それを喜んでいた。/もともと鳳(凡+鳥)という字を書いた本意は、凡鳥ということである。――平凡社刊、中国湖と无文学大系に拠る》
後に呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。嵆康は友人のために弁護したが、彼が魏の宗室と婚姻関係にあったこと、たびたび不遜の言動をしたこと、当時の権臣鍾会(しょうかい、225~264年)の怨みを買っていたことなどが併合されて、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件に連座して入獄しているときに作られたという。彼が詩を予知していたか否かははっきりしないが、四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。
世説新語・雅量篇に曰く、《嵆中散は洛陽の東市場で死刑になるとき、顔色ひとつ変えず、琴を引き寄せてつまびき、広陵散の曲をかなでた。曲が終わると言った。/「袁孝尼(えんこうじ、生没年不詳)が以前にこの曲を習いたいとねだったことがあるが、わしは固く秘密にして教えてやらなかった。広陵散も之で最後だ」/大学生三千人が朝廷に上書して嵆中散を師としたいと請願したが、ゆるされなかった。/文王(司馬昭)もやがてまた後悔した。》
嵆康は「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」のほか「贈秀才入軍五首」などがある。
「訳:幽憤の詩 嵆康/ああ、私は倖(しあわ)せうすく 幼い時に父を失い 憂い悲しむことを知らず 褓繦(むつき)の中にくるまっていた 母と兄とに養い育てられ 慈(いつく)しまれるも厳しさを知らず 愛に甘えて傲(おご)り高ぶり 訓(さと)されず師にもつかなかった/成人して出仕するに及んでも 恩寵を頼んで恣(ほしいまま)に振舞い 心を高ぶらせて元古の世を慕い よしと思う道をひたすらに追い求めた 老荘の教えをこよなく愛し 外物をいやしんでおのれ一身を尊び 自然のまま飾らぬを志し 本質をつちかい真実を貫こうとした/だが私は愚かであったため 善意ばかりで世事に疎く *1子文(しぶん)が子玉(しぎょく)の失敗を責められたように 窮地に陥ったこともしばしばであった 大人物は度量が広く 清濁をあわせのむものだが 悪事を働く人民が多い時に 責任のない地位にありながら 狭い心を持ったばかりに さしでがましくも事の善悪を弁別した それを過失(あやまち)と悟った時には 打身のように胸は疼(うず)き 過失(あやまち)を犯すまいと努めても 非難の声はすでに沸きあがる 人を傷つけようとは思わなかったのに しきりに怨みと憎しみを招いてしまった 昔の人では*2柳下恵(りゅうかけい)に面目なく 今の人では*3孫登(そんとう)に会わす顔なく 内にかえりみてはかねての志に背(そむ)き 外に対しては良友に恥ずかしく思う かくして*4厳君平(げんくんぺい)や鄭子真(ていししん)のように 道を楽しみひっそりと暮らし 世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた/ああ私がいたらぬばかりに 煩(わずら)わしい事に巻きこまれ心配が絶えぬ それは天のなせる業ではなく 実にかたくなで疎漏(そろう)な性格(さが)による 道理は崩れ災禍(わざわい)は動かぬものとなって ついに囚獄(ひとや)につながれる身となり いやしい獄吏の訊問に答えつつ 奥深く隔てられ捕らわれている 訴えが理由(わけ)なくとも恥ずかしいことだが 時勢は私にみかたせぬようだ 真実はこちらにあるとはいえ 魂は屈辱にまみれ 志は挫(くじ)け 蹌踉(そうろう)の水に身を清めても もはや汚濁(おじょく)はぬぐいきれぬ/雁はなごやかに鳴きかわし 大きく羽ばたいて北に飛び 季節に従って移り行き 満ち足りて思いわずらうこともない ああ私は嘆きまた憤(いきどお)る まったく雁とはくらべられぬ 事態は願望とくい違い 囚人としてここに留めおかれている 人生が天命に左右されるものであれば 何を求めようと詮無いことだ 古人も言ったではないか 「善行はつむとも名声をえてはならぬ」と 時の流れに従いつつましく生きれば 後悔などしなくともすむ *5万石君(ばんせきくん)父子は慎み深かったゆえ 親は安らかで繁栄を保ったのだ 世の中はごたごたと用務が多く わが心をひたすらに乱すが 安楽であっても警戒を怠らなければ 順調にまた正しく生き抜けよう/光り輝く霊芝(れいし)は 一年に三度花開く この私だけが何ゆえに 志を抱くも遂げられぬか 災禍(わざわい)に懲り本来に戻ろうと思うが 遅きを恐れ心ひそかに憂慮する 願わくは望みを将来に託し 名誉もなく非難もなく 薇(のえんどう)を山かげに摘み ざんばら髪のまま岩山に隠れ 口笛を長く吹き詩を長閑(のどか)に吟じ 天性を養い寿命を永く保ちたいものだ ―― 平凡社刊、中国古典文学大系に拠る」
註:*1 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の蔿賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。/*2 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。/*3 孫登は嵆康と同時代の隠者。中山の北に居り、嵆康も修業を志して共にいたが、嵆康にはものも言わず、嵆康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免るること難し」と言った。/*4 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。/*5 万石君は漢の石奮(せきふん、?~BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。
世説新語・簡傲篇に曰く、《嵆康と呂安とは仲がよかった。ひとたび相手のことを思い出すと、たとえ千里の道を隔てていても車を命ずるという有様であった。呂安がその後訪れたとき、たまたま嵆康は不在であった。兄の嵆喜が戸口から出て来て招き入れようとしたが、呂安は内に入らず、門の上に「鳳」という字を書いて帰った。嵆喜はその意味をさとらず、それを喜んでいた。/もともと鳳(凡+鳥)という字を書いた本意は、凡鳥ということである。――平凡社刊、中国湖と无文学大系に拠る》
後に呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。嵆康は友人のために弁護したが、彼が魏の宗室と婚姻関係にあったこと、たびたび不遜の言動をしたこと、当時の権臣鍾会(しょうかい、225~264年)の怨みを買っていたことなどが併合されて、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件に連座して入獄しているときに作られたという。彼が詩を予知していたか否かははっきりしないが、四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。
世説新語・雅量篇に曰く、《嵆中散は洛陽の東市場で死刑になるとき、顔色ひとつ変えず、琴を引き寄せてつまびき、広陵散の曲をかなでた。曲が終わると言った。/「袁孝尼(えんこうじ、生没年不詳)が以前にこの曲を習いたいとねだったことがあるが、わしは固く秘密にして教えてやらなかった。広陵散も之で最後だ」/大学生三千人が朝廷に上書して嵆中散を師としたいと請願したが、ゆるされなかった。/文王(司馬昭)もやがてまた後悔した。》
嵆康は「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」のほか「贈秀才入軍五首」などがある。
註:*1 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の蔿賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。/*2 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。/*3 孫登は嵆康と同時代の隠者。中山の北に居り、嵆康も修業を志して共にいたが、嵆康にはものも言わず、嵆康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免るること難し」と言った。/*4 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。/*5 万石君は漢の石奮(せきふん、?~BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。
昨日に続いて、阮籍の「詠懐」を2首。その1つは精神の遍歴を語る1首である。
「訳:かつて 十四五歳の頃には/志操高く『書経』『詩経』を愛読し/粗衣をまとうも 珠玉の心をいだき/やがては顔淵(がんえん)か閔子騫(びんしけん)にもと思い/窓を開け放って 四方の曠野を眺め/髙処(たかみ)に登って 賢人たちを思いえがいたが/山や岡をおおいつくす 数知れぬ墳墓/万代の生き死にも 塚のうちに埋もれ/千秋万歳の 後にあっては/在りし日の栄誉も まこと夢か幻か/かくて悟ったは 羨門子(古の仙人)の道/からからと わが愚かしさを笑うのみである(平凡社刊、中国古典文学大系に拠る)」
もう1つは生き難い世を生き抜いた1知識人の告白の1首である。「竹林の七賢」の代表的な1人として、自由奔放に生きたように思われる阮籍の一面が描き出されている。
「訳:今日モマタ、夜ガ来タ/夜ガ明ケルト マタ朝ガ来ル/顔ツキモ 少シズツ変ワリ/心ノハリモ ダンダンニ衰エル/胸ノ中ハ 煮エタギリ/ヤツレル度アイモ 激シクナル/世ノ中ハ 千変万化/智慧ヲ働カシテ 何ニナル/ダガ ウカウカシテイルト/風二生命ガ 吹キ飛バサレル/薄イ氷ヲ踏ンダ一生ダッタトハ/誰モ知ラナイ コトダロウ(平凡社、中国古典文学大系に拠る)
世説新語・徳行篇に「晋の文王(司馬昭)、阮嗣宗(げんしそう)の至慎を称(たた)えて、毎(つね)に之と言(かた)るに、言(ことば)は皆玄遠にして、未だ嘗(かつ)て人物を臧否(あげつら)わずという《訳:晋の文王は、阮嗣宗の慎重さを誉めて言った。「あの男と話していると、深遠な道理を話すばかりで、人物の善し悪しの批評をしたことは一度もない」――平凡社刊、中国古典文学大系に拠る》」とみえる。
本日A医院で定期健診。今日も洟水たらたら、咽喉はいがいが。徘徊は見合す。
もう1つは生き難い世を生き抜いた1知識人の告白の1首である。「竹林の七賢」の代表的な1人として、自由奔放に生きたように思われる阮籍の一面が描き出されている。
世説新語・徳行篇に「晋の文王(司馬昭)、阮嗣宗(げんしそう)の至慎を称(たた)えて、毎(つね)に之と言(かた)るに、言(ことば)は皆玄遠にして、未だ嘗(かつ)て人物を臧否(あげつら)わずという《訳:晋の文王は、阮嗣宗の慎重さを誉めて言った。「あの男と話していると、深遠な道理を話すばかりで、人物の善し悪しの批評をしたことは一度もない」――平凡社刊、中国古典文学大系に拠る》」とみえる。
本日A医院で定期健診。今日も洟水たらたら、咽喉はいがいが。徘徊は見合す。
今朝のNHKテレビよりニュース2つ その1→ 6時04分:鳩山総理大臣の政治資金をめぐる問題で、元公設秘書が資金管理団体の収支報告書に記載したうその収入の総額は、5年間で2億数千万円に上る疑いがあることが関係者への取材でわかりました。東京地検特捜部は、元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針で捜査を進めています。/この問題は、鳩山総理大臣の資金管理団体「友愛政経懇話会」が、実際には献金していない人から寄付を受けたと政治資金収支報告書にうその内容を記載していたもので、東京地検特捜部は、会計事務を担当していた元公設秘書から事情を聞くなど捜査を進めています。「友愛政経懇話会」の収支報告書には、去年までの5年間で個人からの献金やパーティー券代などとして6億7000万円余りの収入があったと記載しています。しかし、関係者によりますと、うその記載があったとしてすでに訂正している平成17年から20年の個人からの献金2177万円に加え、16年の個人からの献金の一部、それに、この5年分の匿名の小口献金、1億7000万円余りの大半のあわせて2億数千万円については、元秘書がうその内容を記載していた疑いがあることがわかりました。元秘書は、事務所にある名刺や鳩山家に関係のある団体の名簿などから、勝手に名前を使って個人からの献金を装っていたということです。しかし、実際は、鳩山氏の口座から引き出した資金などが充てられたということです。元秘書が鳩山氏の口座から引き出した現金は1年間に平均でおよそ5000万円だったとされていますが、このうちどのくらいが、毎年、政治資金に使われていたのかやこのほかに使われた資金がないのかは、明らかになっていません。特捜部は、元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針で、献金などを装った巨額の資金をどのようにねん出していたかなど解明を進めています。
その2→ 6時59分: 中東のイエメンで、今月15日に武装した地元の部族に連れ去られた日本人技術者の真下武男さん(63)が犯人グループから解放され、日本大使館に無事保護されました。/この事件は、イエメンの首都サヌアの郊外で今月15日、JICA=国際協力機構の支援事業に携わる技術者の真下武男さんが、銃で武装した地元部族によってイエメン人の運転手とともに連れ去られたものです。犯人側が刑務所に収監されている仲間の釈放を要求したのに対し、イエメン政府は、地元の有力者を仲介者にたて、真下さんらの解放に向けた交渉を続けてきました。その結果、真下さんは、日本時間の24日未明、犯人グループから解放され、現地時間の23日夜、日本時間の24日午前3時すぎサヌア州の州庁舎に到着しました。1週間以上も拘束されていた真下さんは、疲れた表情を見せていましたが、しっかりとした足取りで、州庁舎に入りました。このあと記者会見した真下さんは、まず英語で「交渉に尽力してくれた地元有力者のグループ、日本政府、日本大使館、イエメン政府の協力に感謝します。とてもうれしいです。どうもありがとうございました」と述べました。また日本語で「体は大丈夫です。ずっとシャワーに入れなかったので、シャワーを浴びたいです。拘束中は4畳半から6畳ほどの部屋にいて外に出られませんでした。無事解放され安心しています」と話しました。真下さんが解放された経緯やイエメン政府が犯人グループの要求を受け入れたかどうかなどは明らかにされていませんが、サヌア州のドゥワイド知事は、記者会見で「仲介者の努力に感謝している」と述べ、解放に向けた交渉では地元部族の有力者たちが仲介役として大きな役割を果たしたことを明らかにしました。ドゥワイド知事は、また「イエメンの発展に協力してくれている日本人の身にこうしたことが起こり、たいへん申し訳なく思う」と述べました。真下さんはこのあと日本大使館で健康状態のチェックを受けたあと、日本時間の24日夕方あらためて記者会見することにしています。(以上、ウェブニュースよりコピー掲載)
阮籍(げんせき、210~263年)、字(あざな)は嗣宗(しそう)、陳留(ちおりゅう)尉氏(いし)の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は*建安七子の一人である阮瑀(げんゆ)。甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢の一人である。子は阮渾(げんこん)、兄は阮熙(げんき)をもつ。/魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行い、俗物を蔑視した行動をしたと言われている。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉怜と酒を飲んでいた。それで阮歩兵と呼ばれることもある。 当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、彼の母の葬式の日も大酒を飲んで肉を食い、母の棺に別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。 権力者の司馬昭(しばしょう、晋の太祖文帝、211~265年)の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。彼を陥れようとする人たちが時事を問いかけたが、いつも返事は抽象的で難解な返事ばかりで、失言は得られなかった。 司馬昭が息子の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送った。それと察したか彼は60日間酔っぱらい続け、使者は用件を言い出せなくて諦めて帰った。 あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』では老子について、『達荘論』では荘子について論じている。 詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」、李白の「古風」、など五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。/阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。
*建安七子:中国、建安年間(196~220年)を代表する七人の文人孔融・陳琳(ちんりん)・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。
此処に掲げる阮籍の詩は、詠懐の序章のである。「訳:深夜眠るに眠られず、起き直ってひき琴をかき鳴らす。/薄い帳(とばり)にくっきり明月の影はうつり、清(すず)やかな風が衿元(えりもと)をなでる。/群れを離れた鴻(ひしくい)は野外に叫び、空翔ぶ鳥は北の林になく。/さまよいつつなにをみようとするのか。《中国古典文学大系「漢・魏・六朝詩集」に拠る》」
本日風邪っ気につき、徘徊取り止め。
阮籍(げんせき、210~263年)、字(あざな)は嗣宗(しそう)、陳留(ちおりゅう)尉氏(いし)の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は*建安七子の一人である阮瑀(げんゆ)。甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢の一人である。子は阮渾(げんこん)、兄は阮熙(げんき)をもつ。/魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行い、俗物を蔑視した行動をしたと言われている。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉怜と酒を飲んでいた。それで阮歩兵と呼ばれることもある。 当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、彼の母の葬式の日も大酒を飲んで肉を食い、母の棺に別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。 権力者の司馬昭(しばしょう、晋の太祖文帝、211~265年)の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。彼を陥れようとする人たちが時事を問いかけたが、いつも返事は抽象的で難解な返事ばかりで、失言は得られなかった。 司馬昭が息子の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送った。それと察したか彼は60日間酔っぱらい続け、使者は用件を言い出せなくて諦めて帰った。 あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』では老子について、『達荘論』では荘子について論じている。 詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」、李白の「古風」、など五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。/阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。
*建安七子:中国、建安年間(196~220年)を代表する七人の文人孔融・陳琳(ちんりん)・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。
本日風邪っ気につき、徘徊取り止め。
首相、対象以外のムダ事業の洗い出しも指示 ―― 鳩山首相は20日の閣議で、「(行政刷新会議による事業)仕分け対象とならなかった事業についても、徹底した見直しに取り組んでいきたい」と述べ、同じような無駄な事業がないか洗い出すよう各閣僚に指示した。
一方、日本テレビは、行政刷新会議が把握している独立行政法人などが抱える基金のリストを入手した。基金の総額は2兆2275億円に上る。これまでの事業仕分けでは、「こうした基金の多くを国庫に戻すべき」との結論が出ており、仕分け人の一人は「新たな財源となる」と述べている。(日テレNews 2009年11月20日 18:55)
今日のウェブニュースに曰く、「事業仕分け後半へ、思いやり予算など焦点 ―― 政府の行政刷新会議(議長・鳩山首相)は24日から、2010年度予算の概算要求から無駄を洗い出す「事業仕分け」の後半4日間の作業を始める。/防衛省の在日米軍駐留経費の日本側負担分(思いやり予算、防衛省)や教職員給与の3分の1を国が負担する「義務教育費国庫負担金」(文部科学省)などが焦点となる。/思いやり予算では、国家公務員並みとされる基地従業員の給与に充てる労務費などを取り上げる。/日米同盟関係の根幹にかかわる問題だけに、北沢防衛相は「いきなり刷新会議が入ってきて削るという話は乱暴だ」と反発しており、仕分けチームも「政治で決める部分に踏み込む考えはない」(統括役の枝野幸男・民主党元政調会長)と制度そのものには触れない考えだ。ただ、給与削減となれば、従業員で作る労働組合などからの反発は確実だ。/地方経済に影響を及ぼす事業も多く対象となる。国が行う離島航路運営補助・バスの運行補助(国土交通省)や整備新幹線の未着工区間の調査費(同)などだ。義務教育費国庫負担金の扱いでは、教職員数や給与の適否に議論が及びそうだ。/前半5日間の仕分け作業では、事業の「廃止」「予算削減」により、少なくとも4152億円の歳出を削減し、埋蔵金9139億円の国への返納を求めることを決めた。同会議はさらに上積みし、全体で3兆円超の成果を目指している。/後半の結果は12月1日、「親会議」に報告される。会議では、前半を含む仕分け結果を議論して方針を最終決定し、それに沿った予算編成を財務省に求めることにしている。仕分け結果が会議の最終決定にどこまで反映されるかや、閣僚は予算編成の段階で会議の決定を覆せるのかどうかなどは、不透明なままだ。/実際、一部の仕分け作業で国会議員が不在だったため、「権限のない民間人の判断が予算に反映されるのはおかしい」という批判もある。/このため、一部の事業の扱いは12月中下旬の閣僚間折衝などに持ち越す可能性が今から指摘されている。予算編成の過程が複雑になったことで、政府内では「今年の編成は大みそかまでかかる可能性もある」という声も上がっている。(2009年11月22日15時38分 読売新聞)」
中国史上、有名な家族がある。父の曹操は、軍事戦略家で詩人でもあり、二人の息子曹丕と曹植は文学的にも非常に造詣があることから、この親子三人は“三曹”と呼ばれ、中でも曹植の文学的成果が最高とされた。曹操は文学評論家でもあり、その「典論・論文」は中国の文学評論史上、画期的傑作とされている。そして曹植は曹操の五男として生まれる。生母の卞氏(べん し、160~230年)は倡家(歌姫)の出身だが、『世説新語』賢媛篇に名を列ねる賢婦であった。同母兄に魏の文帝曹丕(そうひ、187~226年)、任城威王曹彰(そう しょう、? ~223年)、同母弟に蕭懐王曹熊(そう ゆう、生没年不詳)、子は曹苗(そうびょう、早世)、曹志(そう し、?~288年)、他に2人の娘がいた。異母兄の曹昂(そうこう、? ~197年)と曹鑠(そうしゃく、生没年不詳)が早世すると、197年頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となる。幼い頃より詩など数十万言を諳(そらん)じ、自身も詩人であった曹操の溺愛を受ける。211年、平原侯(食邑5000戸)に封ぜられ、214年、臨葘(りんし)侯(同)に転封される。三男ではあるが、抜群の才能をもち、特に文学では当時最も優れた人物といえる。兄の曹丕は即位した後、弟の曹植の才能を妬んだ。ある日、小さなことで曹は「七歩のうちに詩を作れ」との難題を吹っかけ、曹植を処罰しようとしたが、皇帝となった兄の企みを悟った曹植は逆らえないと知って、仕方なく、「豆を煮て豆がらは燃え、豆は釜の中で泣く。もとはといえば同じ根から生まれたのに、どうしてそんなに激しくいりつけるのか」との詩を瞬く間に作った。これを聞いた曹丕は後悔し、その後は弟に害を加えなくなったという。
さらに、賢媛篇第十九に曰く《魏の武帝(曹操、帝位に就かなかったが死後に武帝の諡を贈られた)が崩じたとき、その子の文帝はすっかり武帝の宮女を自分のものにして侍らせた。文帝の病気が重くなったとき、卞后(べんこう、?~204年、文帝の生母、もと倡家の身であるが曹操の皇后となり、没後は太后となった)は病気の見舞いに出掛けた。太后(卞后)が戸の内に入ると、とのいをしている宮女は、すべてむかしの武帝が寵愛していた者ばかりである。太后は訊ねた。「いつごろ、ここへきのか」宮女たちは答えた。「ちょうど、お亡くなりになりましたすぐあとです」そこで太后は前に進もうとせず、嘆息していった。「狗や鼠も、お前の食べ残しを食おうとはすまい。死んでも当たり前じゃ」
山稜の墓所へ行っても、とうとう哭泣の礼をしようともしなかった。》(いずれも平凡社刊、中国古典文学大系、世説新語)
今朝は起き抜け、腰が痛くて朝食後も出掛けるのを躊躇った。昼食後、外を見ると小春日和で、余りにも好い天気なので出かけて見ることにした。午後2時過ぎ、桜橋を渡り、隅田川沿いに北上、冷たい風がやや強かったが、明治通りを東進、曳舟川通りを南下、飛木稲荷神社の前を通り、桜橋通りを西進、さらに水戸街道を南下、言問橋を渡って帰宅した。9531歩、6.1kmの記録であった。
久し振りの晴天予報。起き抜けに隅田川沿いの遊歩道を北上。水神大橋を渡り、東白鬚公園を抜け墨堤通りを南下桜橋を渡って帰宅する。9940歩、6.4kmの徘徊であった。
今朝のウェブニュースより、普天間移設問題についての記事2つ。
普天間移設、できねば「日米関係に打撃」 米高官が警告 ――【ワシントン=伊藤宏】米国防総省高官は在沖米軍の普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、名護市辺野古崎を移設先とする現行計画の大幅変更は認めないとしたうえで、沖合に50m程度移動する微修正に応じる考えを示した。現計画が実行できなければ「日米の信頼関係に打撃になる」と警告し、県外や国外移設も模索する鳩山政権に早期の合意履行を迫った。/ゲーツ国防長官の20日の訪日を前に記者団に語った。現計画は06年、海兵隊のグアム移転や、沖縄県内のほかの米軍基地や施設の返還などと「パッケージ」として日米両政府が合意。その後、沖縄県の仲井真弘多知事が沖合への移動を求めており、鳩山政権は辺野古崎が移設先に選ばれた経緯を検証している。/高官は「新政権が今の合意がどのようにできたか、再び目を向けるのは自然なことだが、我々は合意は履行する価値が十分あると確信している」と指摘。計画の大幅変更は「ほかにさまざまな決定が続くことになる」として米軍再編のほかの合意内容にも影響すると指摘、「現行の合意の履行を期待する」と繰り返した。/沖合への移動については「もし知事が50mの移動を求めるなら、それは知事と日本政府の問題だ」と理解を示し、「それを日本政府が米国に提案したら、現行の合意の枠組みのなかで検討するだろう」と語った。/日本政府の検討では、環境影響評価(アセスメント)をやり直さずに施設を移動できるのは55m程度。高官発言は50m程度の移動であれば、環境アセスなどの手続き変更を伴わず、これまでの合意の枠組みで計画を実行できるとの考えを示したものだ。/一方、インド洋での自衛隊の補給支援活動について「非常に価値のあるものだが、日本が活動を継続できないのであれば別な方法での貢献を支持する」と述べ、派遣期限を迎える来年1月の自衛隊撤退に理解を示した。鳩山政権はこの活動に代わる新たなアフガニスタン支援策のとりまとめを急いでいるが、高官は「軍事的なものである必要はない」と語り、民生や治安面での貢献に期待感を示した。(asahi com 2009年10月18日20時9分)
気温7℃、少々寒かったが、まだ明け初めぬ暗いうちから家を出て、台東区側の隅田川沿いの遊歩道を北上。瑞光橋付近で明るくなるが、曇り空でご来光を見ることはできない。水神大橋を渡って東白鬚公園を南下。昨日のNHKテレビの「おはよう日本」で放映していた「皇帝ダリア」を此処東白鬚公園で見つけることが出来た。曇り空でなんだか花も寒さに震えているようだった。墨堤通りを南下、三囲神社の裏参道から秋に色づいた木立越しにスカイツリーが見える。言問橋を渡るとユリカモメの群れが川べりで飛び交っている。まさしく冬の到来である。10189歩、6.6kmを記録していた。
王昭君(おう しょうくん、BC1世紀ごろ)は、字を、昭君。通常、王昭君と呼ばれる。荊州南郡(現在の湖南省沙市)出身で、楊貴妃・西施・貂蝉(ちょうせん、架空の人物)と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられる。前漢の元帝(BC76~33年)の時代、匈奴の呼韓邪単于(こかんや ぜんう、?~BC31年)が、漢の女性を閼氏(えんし、匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)王昭君が選ばれ、以後呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。しかしその後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣(遊牧民に多く見られるLevirate 婚―死亡した夫の代わりにその兄弟が結婚する習慣)に習い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于(ふくちょうるいじゃくていぜんう)の妻になって二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされ、民間伝承となった。『西京雑記(伝劉歆撰)』によると、元帝は匈奴へ贈る女性として後宮の中の一番醜い女性を選ぶため、宮女の似顔絵帳の中の一番醜い女性を選ぶことにした。似顔絵師であった毛延寿(もうえんじゅ)に賄賂を贈らなかった王昭君は一番醜く描かれていたため、王昭君が匈奴への嫁として選ばれた。皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は王昭君の美しさに目を奪われたが、匈奴との関係悪化を恐れ、この段階になって撤回することも出来ないため渋々送り出した。その後、画工の不正に気付いて激怒した元帝は毛延寿の首を刎ねた。その後、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったと記述があるという。以下、王昭君(王嬙)作と伝えられる「昭君怨」という四言詩を記す。
早紀江さんは「恐怖に満ちた北朝鮮で生きるめぐみの姿を見るのは辛すぎる」と沈痛な思いをのぞかせながら、「拉致を知らない若い方も増えるなか、1人でも多くの方に事実を知ってほしい」と語った。飯塚さんも「問題を風化させないために継続が一番大事。家族の気持ちの一端を感じてもらえれば」と話した。/滋さん役を俳優の小野寺昭さん、田口さん役を川上麻衣子さんが演じる。来年1月26日から31日まで、東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターで公演される。《産経ニュース、2009.11.18 20:00》
昨日は1日中雨。夕刻、テレビで大相撲観戦。
今朝のウェブニュース毎日jpに曰く、「大相撲:魁皇「新旧怪力対決」制し幕内通算800勝 ―― 大相撲九州場所3日目は17日、福岡国際センターで行われ、魁皇が把瑠都との「新旧怪力対決」を制し、史上3人目となる幕内通算800勝を達成した。地元九州のファンの大声援を浴び、“魁皇スペシャル”の小手投げで先場所5大関を破った難敵を粉砕した。上位では朝青龍、白鵬、琴欧洲が3連勝を飾り、平幕の全勝は嘉風と高見盛の2人になった。/魁皇が立ち合いで動いた。1m97、184㎏の巨体を受け止めた次の瞬間、右へ変わりながら右腕で相手の左手を抱え込んで小手投げ。把瑠都は右肩から崩れ落ちた。/前人未到の幕内98場所目。93年夏場所の新入幕以来コツコツと白星を積み重ね、千代の富士、北の湖に次ぐ史上3人目の800章を達成した。久々の“魁皇スペシャル”には「差しにいくと最近ダメだったし、体が動いてしまった」と苦笑い。記録に関しては「まだ3日目。相撲が終わったら、あすのことを考えるだけ。感傷的な気持ちはない」と無関心を貫いた。/1年前とは大違いだ。若の里と対戦した昨年の九州場所3日目。土俵下へ真っ逆さまに転落し、左上腕三頭筋挫傷などで途中休場。「このまま終わってしまうのか」と引退も覚悟した。だが、その屈辱をバネに今回もご当地場所に帰ってきた。満身創痍(まんしんそうい)ながら場所中も必ず稽古場に顔を出し、取組後は入念にマッサージを受けて翌日に備える。土俵入り時の声援が横綱をしのぐ鉄人は「1日でも長く自分の相撲を取り続けたい」と全力投球を誓った。(スポニチ)
昨夜は、咽喉がイガイガする。嗽薬でうがいし、ルル3錠飲んで就寝。今朝は起床8時。大した風邪でもないのに、これを口実に徘徊中止。
民主党政権による「事業仕分け」について、大きく二つの意見に分かれているようだ。一つは事業仕分けを通して、これまでの官僚と政治の合体による事業予算に対する不合理な面が明らかになったことへの期待と評価。もう一つは、その手法について「少々乱暴」ではないかという意見である。これら両方の意見に賛意が持てるという人も多いようである。もう少し突き詰めて言うならば、乱暴でなければ、「真実」は見えてこないという思いがあるからである。仕分け人が、質問ばかりで説明を聞かないという意見もある。しかし、それで善いのではないかとも思う。過去の経緯から見て、官僚(役人)に説明の時間をたくさん与えると、必ず焦点をいくつも作り、どこに説明の核心があるか判らなくなるからである。背景を長々と説明し、結論をはぐらかすのは彼らの常套手段なのである。仕分け人は、それを知っているから矢継ぎ早に質問し、説明を簡略にさせているふしもある。このようにすると、ほとんど説得力のある説明ができなくなるのである。もともと、税金で行なっている事業は、無駄か無駄でないかの説明は、何とでも理由付けできるものなのである。全部、詳細に時間をかけて説明させたら、税金はいくらあっても足りなくなってしまうだろう。はてさて、今朝の朝日新聞に拠ると自民党内でもこの「事業仕分け」についての意見は2分されているらしい。
昨夜は、咽喉がイガイガする。嗽薬でうがいし、ルル3錠飲んで就寝。今朝は起床8時。大した風邪でもないのに、これを口実に徘徊中止。
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