瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
ギリシア神話:Coronis・Asklepiosの悲劇
テッサリアはラリッサの領主Phlegyas(プレギュアース)には一人の娘があった。その名をCoronisと呼ばれ、テッサリア全州にも到底彼女に及ぶ者は在るまいと言われるほどに美しい娘であった。いつしか彼女はデルボイの御神(Apollon神)の寵愛を受ける身となっていた。たまたまの逢瀬を待ち侘びる彼女のためにアポローンは文使いとして、また慰みとして雪のような純白な翅(つばさ)をした一羽の鳥を与えた。それは鴉(からす)だった。鴉はこの時分には黒ではなくて真っ白な鳥であった。そしてこの鳥が御神の使いとして、デルボイの神殿から色々の土産物や見舞いの文を齎し、あるいはテッサリアから、御神への優しい便りや喞言(かごと)を伝えてくるのであった。鴉は勿論人間の言葉を解し、また語ることが出来た。
デルボイの御神は四方山の事件に忙殺されて、テッサリアへ出向かれない日が続いた。神々の一日は到底人間などの思い及ばないほど、忙しいものなのである。何しろ全世界の人間の祈りや願いや、泣言やその上怨み言まで聞かなければならない。その上方々の社での託宣や予言やその他のことが、生易しく出来ると思うのは間違いである。病人もあるし、その間にオリュンポスで饗宴が開かれれば、その演出もしなければならない。そんなわけで御神はコローニスの優しい姿を思いながらも、暫くは止むを得ずお出ましを控えておられた。というわけで、鴉もここのところ数日、テッサリアに姿を見せなかった。ところが思い立ったように不意に彼(鴉)がテッサリアの町へ飛んできて、プレギュアースの館の庭に舞い降りたとき、異様な光景が彼の眼に写った。若い男が、コローニスと親しく語らっている様子だった。しかもそれは、普通の親しさではない。コローニスの打ち解けた態度も嬉しそうな顔色も、尋常ではないあるものを示しているようだった。その若い男はアルカディアのIschys(イスキュス)という者だという。
ともかく主人の心を心とし一途に嚇となった鴉は一目散に今来た空を、そのままデルボイさして翔(か)け戻って、銀弓の御神に事の次第を告げた。コローニスはいたずらな望みを抱いてアポローンに背き、父の許しも得ずにアルカディアから来た男と言い交わし、結婚の儀式も祝いの歌も聞かずに、すでに邪な思いに身を任せたのだという。激怒した御神は恐ろしい傷みの篭る矢を取上げて、北の方に放ち給うた。矢は高い唸りを上げ、眼にも止まらず虚空を馳せてプレギュアースの館に突き入り、コローニスの胸にはつしと刺さった。彼女の白い肌は、真紅の血潮に濡れていった。悶えながら、彼女は両手を差し伸べて叫んだ。「アポローン様、御謀(おんはか)らいを私はとやかく申し上げはしませぬ。でも、死ぬ前に、せめてこの身に宿した貴方様の嬰児(やや)を、産み落としてまいりとう存じました。今二つのいのちが一本の矢でうしなわれるとは」こう言う内にも唇は蒼ざめ、息は遂に絶えてしまった。近親の者たちは泣く泣くも亡骸を取り収め、やがて葬儀の容易を整え、薪を積み上げて荼毘に付そうとした。
一方アポローンは一時の怒りに任せて酷(きび)しい処置を取りはしたが、忽ち言いようもない悲しみと後悔の思いに胸を苛(さいな)まされた。昔の優しかった女(ひと)面影、ひとつひとつに懐かしいそのこなしや持て成し、耳打ちされた言葉、それは人間でも神でも変わりはなかった。どうしてその人が自分を裏切るなんていうことがあろうか。何故、行って充分に真実を確かめてからにしなかったのだ。もしそうとしても、一時の心の迷いということもある。拗ね心でも、態とした見せつけでもあったかもしれない。こう思い出すとアポローン神とて自分の所業が疎ましく思われてならなかった。それにつけても憎らしいのは、余計な忠義面をして告げ口に来た鴉である。彼の呪いは御座の脇に勿体らしく羽根をたれていた鴉に向けられた。その日から鴉は忠義立ての褒美の代わりに、真っ黒な煤(すす)けた黒さを身に装って、コローニスの喪に永久に服さなければならないことになった。
御神は何事をもかなぐり捨ててテッサリアのプレギュアースの館に立ち向かわれた。そして冷たくなった少女の胸に香しい薫香を注ぎ、抱き縋られた。殯(もが)りの火についに屍が載せられた時、その胎(はら)から嬰児を取り出し、これをベーリオンのCentaur Chiron(ケンタウルス・ケイローン)に委ねられた。Chiron(ケイローン)はケンタウルスには珍しい有徳の老人で、ことに医学の術に達していた。ころニースの子は彼の博育をうけるうちに、自ずからさまざまな方策(てだて)を覚えて、養父にも勝る卓越した医学の腕前を獲得するにいたった。無論実の親であるアポローンの遺伝とも言うべき血統と、陰に陽にの庇護薫陶が與って力あったのだろう。いうまでもなく、これが医薬の神Asklepios(アスクレーピオス)の生い立ちである。間もなく彼の名前は全世界に広く伝えられた。この時代の彼はどうやら父である御神よりも、人間の母の性を多く受け継いだらしい。また彼の医術に対する熱心さには全く人を感動させるものがあつた。彼の手腕はそれに比例して進んでいくように見えた。しかし、それにも遂に限度があった。彼はその限度を超えることによって、遂に一命を失わなければならなかった。それはおおきな矛盾であった。そして結果論的には彼はこの矛盾を突き抜けることによって、神にもなったのではあるが。
Asklepiosは人を救うのに熱心なあまり、ついに死者をも蘇らせたのである。一伝ではこの死者というのはあのテーセウスの息子のHippolytus(ヒッポリュトス)のことだといわれる。清浄無垢な処女神アルテミスへの奉仕に熱心なあまり、恋の神アプロディーテーの復讐によって無実の罪にあたり、父の呪いを受けて致命傷を受けたこの青年は、おそらく年若な医師に献身的な治療を鼓吹するに足りる清らかさと気高さを持っていたのだろう。一旦黄泉へ赴いたかに見られた生命(いのち)はまたこの世に引き戻されたのである。
しかしこれはいかにも自然の理法に背いた不当なる侵害であった。冥府の王Ploutōn(プルートーン)は当然に手厳しい抗議をゼウスの下に提出した。やむなくゼウスは(彼自身始末に困って)早速電火を遣って、Asklepiosを焼き滅ぼして、地下の世界に送り込んだのである(彼がそこでどのような待遇を受けたのかはさだかでない)。 ―― 次回に続く
テッサリアはラリッサの領主Phlegyas(プレギュアース)には一人の娘があった。その名をCoronisと呼ばれ、テッサリア全州にも到底彼女に及ぶ者は在るまいと言われるほどに美しい娘であった。いつしか彼女はデルボイの御神(Apollon神)の寵愛を受ける身となっていた。たまたまの逢瀬を待ち侘びる彼女のためにアポローンは文使いとして、また慰みとして雪のような純白な翅(つばさ)をした一羽の鳥を与えた。それは鴉(からす)だった。鴉はこの時分には黒ではなくて真っ白な鳥であった。そしてこの鳥が御神の使いとして、デルボイの神殿から色々の土産物や見舞いの文を齎し、あるいはテッサリアから、御神への優しい便りや喞言(かごと)を伝えてくるのであった。鴉は勿論人間の言葉を解し、また語ることが出来た。
ともかく主人の心を心とし一途に嚇となった鴉は一目散に今来た空を、そのままデルボイさして翔(か)け戻って、銀弓の御神に事の次第を告げた。コローニスはいたずらな望みを抱いてアポローンに背き、父の許しも得ずにアルカディアから来た男と言い交わし、結婚の儀式も祝いの歌も聞かずに、すでに邪な思いに身を任せたのだという。激怒した御神は恐ろしい傷みの篭る矢を取上げて、北の方に放ち給うた。矢は高い唸りを上げ、眼にも止まらず虚空を馳せてプレギュアースの館に突き入り、コローニスの胸にはつしと刺さった。彼女の白い肌は、真紅の血潮に濡れていった。悶えながら、彼女は両手を差し伸べて叫んだ。「アポローン様、御謀(おんはか)らいを私はとやかく申し上げはしませぬ。でも、死ぬ前に、せめてこの身に宿した貴方様の嬰児(やや)を、産み落としてまいりとう存じました。今二つのいのちが一本の矢でうしなわれるとは」こう言う内にも唇は蒼ざめ、息は遂に絶えてしまった。近親の者たちは泣く泣くも亡骸を取り収め、やがて葬儀の容易を整え、薪を積み上げて荼毘に付そうとした。
一方アポローンは一時の怒りに任せて酷(きび)しい処置を取りはしたが、忽ち言いようもない悲しみと後悔の思いに胸を苛(さいな)まされた。昔の優しかった女(ひと)面影、ひとつひとつに懐かしいそのこなしや持て成し、耳打ちされた言葉、それは人間でも神でも変わりはなかった。どうしてその人が自分を裏切るなんていうことがあろうか。何故、行って充分に真実を確かめてからにしなかったのだ。もしそうとしても、一時の心の迷いということもある。拗ね心でも、態とした見せつけでもあったかもしれない。こう思い出すとアポローン神とて自分の所業が疎ましく思われてならなかった。それにつけても憎らしいのは、余計な忠義面をして告げ口に来た鴉である。彼の呪いは御座の脇に勿体らしく羽根をたれていた鴉に向けられた。その日から鴉は忠義立ての褒美の代わりに、真っ黒な煤(すす)けた黒さを身に装って、コローニスの喪に永久に服さなければならないことになった。
御神は何事をもかなぐり捨ててテッサリアのプレギュアースの館に立ち向かわれた。そして冷たくなった少女の胸に香しい薫香を注ぎ、抱き縋られた。殯(もが)りの火についに屍が載せられた時、その胎(はら)から嬰児を取り出し、これをベーリオンのCentaur Chiron(ケンタウルス・ケイローン)に委ねられた。Chiron(ケイローン)はケンタウルスには珍しい有徳の老人で、ことに医学の術に達していた。ころニースの子は彼の博育をうけるうちに、自ずからさまざまな方策(てだて)を覚えて、養父にも勝る卓越した医学の腕前を獲得するにいたった。無論実の親であるアポローンの遺伝とも言うべき血統と、陰に陽にの庇護薫陶が與って力あったのだろう。いうまでもなく、これが医薬の神Asklepios(アスクレーピオス)の生い立ちである。間もなく彼の名前は全世界に広く伝えられた。この時代の彼はどうやら父である御神よりも、人間の母の性を多く受け継いだらしい。また彼の医術に対する熱心さには全く人を感動させるものがあつた。彼の手腕はそれに比例して進んでいくように見えた。しかし、それにも遂に限度があった。彼はその限度を超えることによって、遂に一命を失わなければならなかった。それはおおきな矛盾であった。そして結果論的には彼はこの矛盾を突き抜けることによって、神にもなったのではあるが。
しかしこれはいかにも自然の理法に背いた不当なる侵害であった。冥府の王Ploutōn(プルートーン)は当然に手厳しい抗議をゼウスの下に提出した。やむなくゼウスは(彼自身始末に困って)早速電火を遣って、Asklepiosを焼き滅ぼして、地下の世界に送り込んだのである(彼がそこでどのような待遇を受けたのかはさだかでない)。 ―― 次回に続く
今朝のウェブニュースより

「伊江島か下地島に」普天間移設先で小沢氏が与党関係者に意向 ―― 民主党の小沢一郎幹事長が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の新たな移設先について、沖縄県内の離島を軸に検討する考えを与党関係者に伝えていたことが29日、分かった。小沢氏は同県内の米軍伊江島補助飛行場(伊江村)、下地島空港(宮古島市)への代替施設建設に前向きだ。/鳩山由紀夫首相も県内移設を示唆しており、民主党は政府・与党協議で両島への移設案を示す一方、日米合意に基づき米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)に移設する現行計画は選択肢から除外する。/伊江島は沖縄本島北部西海岸の本部(もとぶ)半島から約9キロに位置する離島。約1600メートルの滑走路を備える補助飛行場や米海兵隊の訓練施設がある。下地島は沖縄本島南西の宮古列島に位置し、民間パイロット訓練施設も備える下地島空港がある。/小沢氏は28日、「沖縄の人の声は尊重しないといけない。きれいな海を汚していいのか」と現行計画に否定的な見解を新党大地の鈴木宗男代表に示した。/与党関係者によると、小沢氏はこれに先立つ15日、県内移設を念頭に「(米軍が)使っていないところで使える所があるのではないか」と述べるとともに、伊江、下地両島移設の検討が必要との認識を示した。29日には与党幹部との会合で「下地島空港」に言及した。/移設問題に関し、政府は28日から政府・与党協議を始めており、鳩山由紀夫首相の来年5月に結論を出す意向を踏まえ、1月末までに各党が移設先を明示して協議を加速することにしている。民主党側は両島を有力な選択肢として検討する構えだ。/防衛省は21年10月、伊江、下地両島への移設の可能性を探る現地調査を行っている。1月に沖縄入りする平野博文官房長官も、伊江島や下地島を訪問する意向だ。(産経ニュース、2009.12.30 01:17)
横浜のN氏から、メールが入った
「歳の暮れのメールのご返事ありがとう。/お父上の祥月命日が12月29日とか。その思い出を拝見、大まかには君の書いたさまざまな文章で覚えていたが、棺を積んだ荷車にそれを焼く薪もともに積んでいくという光景はなんともすさまじい。あの頃は、薪も配給だったからね。私の母は、正確には12月22日が祥月命日だが、息子と孫の日程が詰まっていたので、すべてが終わった29日にしたわけ。
いまYS君から電話、「三馬鹿プラス日高の会」??? は、1月14日、13:00 横浜駅西口交番前集合で二転して決まったと連絡あり。
~話を続けると~、
私の母方の祖母が敗戦の年の9月に門司で死んで、丸山の火葬場に遺体を運んで荼毘に付したことがあった。さすがに薪は積んで行かなかったが、隣りに住んでいた指物大工さんに頼みこんで、寝棺を作ってもらい、どこからか借りてきた大八車に棺を縛り付けて、夫である祖父は、一人で女房の死体を乗せた大八車を、あの急な丸山の火葬場に至るカーブの舗装道路を曳いて登った。わたしは葬列について歩いただけ。/終戦直後の葬式は、最もガンジス川のほとりでおこなうヒンズー教のやり方に近かったね。/夜間に陰坊が焼いて、翌日、骨拾いに行ったと記憶しているが、夫婦というもの、相方の死体を一人で運ぶ体力を、戦後のような混乱期には保持していなければならないもんだと思ったよ。
さてきょうメールする気になったのは、NHKのFM放送の「にっぽんの歌、世界の歌」という番組(月~金 朝9:20~10:00 )で畑中良輔(門司中学12回生)が出ていて、大木惇夫さんの「野の羊」という曲を語っていた。♪野原はいいな、おや、羊がいるよ という歌。立川澄人が歌っていた。/白秋門下の一番弟子の大木惇夫さんという説明だったが、広島銀行? 勤務している頃から伯父さん? は白秋に師事していたのかい。♪野原はいいな、さびしくていいな という最後の句は、〆がよく効いている。
三馬鹿の会も、YSご本人が、ハーモニカの練習日を忘れるようでは、まだ現役並みに調整が必要な状況とお見受けした。なにはともあれ、1月14日13:00は楽しみにしています。
大木惇夫氏は永遠なりだね。」
因みに、大木惇夫は爺の伯父(おふくろの兄)で明治28(1895、乙未)年4月18日生まれ。日清戦争の攻略終了間もなくに生まれたので、「軍一」と名付けられたと聞いた。広島市小網町で生まれ、県立廣島商業を卒業、三和銀行の前身である三十四銀行に勤務していたが、青雲の志止み難く、上京して博文堂に勤めながら文学者の道を進んだという。ご本人によると、「白秋の弟子ではないが、白秋に心酔していたので、マスコミがそのように言うんじゃろう」ということであった。
「野の羊」 大木惇夫 詩 服部 正 曲
野っぱらはいいな/いつ来てみてもいいな/おや 羊がゐるな/放ち飼ひだな/だが独りだな
いい毛なみだな/見てやる者もないのだな/飢じさうだな/だが恨まない眼だな
俺も未のうまれだな/おや羊の脊に紫の斑が揺れたな/ああ 辛夷(こぶし)の花の影だな
野っぱらはいいな/さびしくていいな
横浜のN氏から、メールが入った
「歳の暮れのメールのご返事ありがとう。/お父上の祥月命日が12月29日とか。その思い出を拝見、大まかには君の書いたさまざまな文章で覚えていたが、棺を積んだ荷車にそれを焼く薪もともに積んでいくという光景はなんともすさまじい。あの頃は、薪も配給だったからね。私の母は、正確には12月22日が祥月命日だが、息子と孫の日程が詰まっていたので、すべてが終わった29日にしたわけ。
いまYS君から電話、「三馬鹿プラス日高の会」??? は、1月14日、13:00 横浜駅西口交番前集合で二転して決まったと連絡あり。
~話を続けると~、
私の母方の祖母が敗戦の年の9月に門司で死んで、丸山の火葬場に遺体を運んで荼毘に付したことがあった。さすがに薪は積んで行かなかったが、隣りに住んでいた指物大工さんに頼みこんで、寝棺を作ってもらい、どこからか借りてきた大八車に棺を縛り付けて、夫である祖父は、一人で女房の死体を乗せた大八車を、あの急な丸山の火葬場に至るカーブの舗装道路を曳いて登った。わたしは葬列について歩いただけ。/終戦直後の葬式は、最もガンジス川のほとりでおこなうヒンズー教のやり方に近かったね。/夜間に陰坊が焼いて、翌日、骨拾いに行ったと記憶しているが、夫婦というもの、相方の死体を一人で運ぶ体力を、戦後のような混乱期には保持していなければならないもんだと思ったよ。
さてきょうメールする気になったのは、NHKのFM放送の「にっぽんの歌、世界の歌」という番組(月~金 朝9:20~10:00 )で畑中良輔(門司中学12回生)が出ていて、大木惇夫さんの「野の羊」という曲を語っていた。♪野原はいいな、おや、羊がいるよ という歌。立川澄人が歌っていた。/白秋門下の一番弟子の大木惇夫さんという説明だったが、広島銀行? 勤務している頃から伯父さん? は白秋に師事していたのかい。♪野原はいいな、さびしくていいな という最後の句は、〆がよく効いている。
三馬鹿の会も、YSご本人が、ハーモニカの練習日を忘れるようでは、まだ現役並みに調整が必要な状況とお見受けした。なにはともあれ、1月14日13:00は楽しみにしています。
大木惇夫氏は永遠なりだね。」
「野の羊」 大木惇夫 詩 服部 正 曲
野っぱらはいいな/いつ来てみてもいいな/おや 羊がゐるな/放ち飼ひだな/だが独りだな
いい毛なみだな/見てやる者もないのだな/飢じさうだな/だが恨まない眼だな
俺も未のうまれだな/おや羊の脊に紫の斑が揺れたな/ああ 辛夷(こぶし)の花の影だな
野っぱらはいいな/さびしくていいな
今朝のウェブニュースより
「三国志」曹操の本物の墓地を発見 ―― 中国の長編小説「三国志演義」の主要人物、曹操(155~220年)の墓地が河南省で発掘された。/ 後漢時代、天下統一をめぐり劉備、孫権と雌雄を争った曹操は、長者の曹丕が魏を建国した後、武帝と追尊された人物だ。曹操は死ぬ前に墓地の盗掘を防ぐため、72の家廟を作るよう遺言を残したものとされる。このため曹操の墓地の所在地に関連し多様な学説が混在していたが、これまで本物の墓地は発見されずにいた。/27日付の中国共産党機関紙・人民日報が報じたところによると、河南省安養県安豊郷西高穴村で、魏の武王、曹操の陵墓を確認した。地下15メートルに位置した同墓地は甲の字の構造で、西方から東方へ傾斜路の墓道を降りていくと6の部屋が現れる。全長60メートルにのぼるこの巨大な墓地は、漢代の王侯らの陵墓と規模が似ている。/ 発掘チームが本物の墓地と確信できた理由は「魏の武王が使った戟(魏武王常所用格虎大戟)」「委の武王が使った石の枕(魏武王常所用慰頚石)」と刻まれた銘文が見つかったからだ。河南省文物局と中国の考古学者はこの銘文を重要な根拠に、同墓地が曹操の陵墓だと結論付けた。/ 考古学者らは魏・武王の銘文が見つかったほか、出土した遺物(200点)が文献の記録上、曹操の好みと一致し、墓地の構造も、葬儀の簡素化を命じた曹操の遺言と一致すると強調している。学者らは「三国時代研究への一大転機となる」と興奮を隠せなかった。(中央日報)



曹操は、中国後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の河南省永城市)の人。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。息子の曹丕によって後漢に代り魏が建国される。
中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で、約740平方メートルの面積の陵墓が発見された。曹操を示す「魏武王」と刻まれた銘文など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを2009年12月27日に暫定的に発表したというのである。
「三国志」曹操の本物の墓地を発見 ―― 中国の長編小説「三国志演義」の主要人物、曹操(155~220年)の墓地が河南省で発掘された。/ 後漢時代、天下統一をめぐり劉備、孫権と雌雄を争った曹操は、長者の曹丕が魏を建国した後、武帝と追尊された人物だ。曹操は死ぬ前に墓地の盗掘を防ぐため、72の家廟を作るよう遺言を残したものとされる。このため曹操の墓地の所在地に関連し多様な学説が混在していたが、これまで本物の墓地は発見されずにいた。/27日付の中国共産党機関紙・人民日報が報じたところによると、河南省安養県安豊郷西高穴村で、魏の武王、曹操の陵墓を確認した。地下15メートルに位置した同墓地は甲の字の構造で、西方から東方へ傾斜路の墓道を降りていくと6の部屋が現れる。全長60メートルにのぼるこの巨大な墓地は、漢代の王侯らの陵墓と規模が似ている。/ 発掘チームが本物の墓地と確信できた理由は「魏の武王が使った戟(魏武王常所用格虎大戟)」「委の武王が使った石の枕(魏武王常所用慰頚石)」と刻まれた銘文が見つかったからだ。河南省文物局と中国の考古学者はこの銘文を重要な根拠に、同墓地が曹操の陵墓だと結論付けた。/ 考古学者らは魏・武王の銘文が見つかったほか、出土した遺物(200点)が文献の記録上、曹操の好みと一致し、墓地の構造も、葬儀の簡素化を命じた曹操の遺言と一致すると強調している。学者らは「三国時代研究への一大転機となる」と興奮を隠せなかった。(中央日報)
曹操は、中国後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の河南省永城市)の人。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。息子の曹丕によって後漢に代り魏が建国される。
ギリシア神話:蜘蛛にされた少女
小アジアの西岸コロポーンの町にArákhnē(アラクネー)という少女がいた。両親は余り身分の高くない商人だったが、母親はすでに世に無く、父親のイドモーンはよく娘の面倒を見て、機織が好きなところから、毛糸を紫色に染めては彼女に与えていた。この紫は一種の貽貝(いがい)から取るので、貝の胎内にある小さな袋に詰まっている濃液を集めて精製するため、非常に値の張る貴重なものであった。
好きな技であれば、一心に日となく夜となく織り続けるうちに少女の巧みは日増しに進んで、広いリューディアにもイオニア中にも、並ぶ者のないくらいになった。かの名高きトモーロスの丘の斜面にある葡萄畑に棲むニンフたちでさえ、よく棲み慣れた里を後に彼女の仕事ぶりを見にやってくるという程であった。布の織り上げも見事ながら、それにも増して働いている彼女の手の捌き、美しい色の毛の玉が見る見るうちに錘(つむ)に繰り取られ、やがて枷の動きにつれて立派な布に仕上げられるさま、または細い指先に針を閃かせて、いろいろな物の形を刺繍してゆくところなど、眺める人を感心させずにはおかない。全くAthena(アテーナー)女神が、みずからこの技を少女に授けられたと誰しも思ったであろう。されども、少女はこれを否定して「いえいえ、とんでもないことです。あたしは誰にも教わったことなんてありませんわ。女神様とだって技比べをいたしまして、決して負けるつもりはありませんもの。もし負けたなら、どんなものでも差し上げますわよ」という始末であった。女神は小賢しい少女の大言を聞いて、些か心憎く思われた。そこである日姿を老婆に変えて、よろめく足を杖に支えて、少女の家へと出向いて行かれた。
「年寄りの言うことは聞いておく方が好いものさ。皺が増えると知恵もつく、物もおいおい分かってくるのだからね。私の忠告を馬鹿にしちゃいけないよ。紡いだり機を織ったりする技を自慢するのもせいぜい人間たちの間だけにしておきな。そいで神様には譲っておいて大きな事を言った御宥(おゆる)しを願うのが身のためだよ。そしたら女神様も宥(ゆる)してくださるだろうからね」
しかし、少女は老婆のほうを厭な目つきで睨んで、その辺のものを擲(なげう)ちもしかねない有様、怒りの色を面に顕(あらわ)し、姿を変えている女神に向って、激しい言葉を投げ掛けるばかりであった。
「お前さんは年を取って耄碌したのね。そんなことは自分の娘か孫にでも言ったらいいでしょ。私の方から忠告したいくらいだわ。そんならいっそ女神様を呼んで来たらいいでしょ。ほんとに技比べをやったら、どちらが上手か解るでしょうから」
女神は、やおら真の姿をお現しになった。居合わせたニンフたちは、その場に平伏(ひれふ)して女神を崇(あが)め、里の者たちも手を合わせひたすら崇敬の心を尽くすのだったが、アラクネーは片意地にも恐れ気もなく坐ったままで、ただその頬を真っ赤に染め、やがて蒼ざめながらも固い決心を口元に表していた。
こうして競技は始められた。二人はそれぞれに座を占め、各々の機にしなやかな糸の束を掛けた。縦糸をこまかい枷に結び付けると、緯(よこいと)を結んだ梭(ひ)が目まぐるしく、巧みな指先に操られて動いた。紫に染めた鮮やかな色糸、微かに異なった薄色、さらに色合いを変えた色糸、丁度驟雨の後で、太陽が灝気(こうき)を貫くとき、大きな弧を描いて虹が広やかな空に渡るように、百千の色合いが交わりながら、人の目にはその移り変わりを定かには認め得ないように、ぼかされた色糸は覚りがたく、ただ両端の色の違いだけが、くっきりと鮮やかに認められた。中には黄金の色糸もあった。織り出された模様は昔の物語の様を写していた。
アテーナーの機には、中央に十二柱のオリュンポスの神々が高い御座に、燦然と輝いて、ゼウスを中に居並び給う。海洋神ポセイドーンは重々しい三叉戟を取って嵯峨とした巌を討てば、その割目からは清らかな泉が迸り出る様が描かれていた。アテーナイの町争いの場面である。彼に立ち向かうはアテーナー女神御(おん)みづからで、盾と鋭い槍を手に執り、頭にはきらきらしい兜(かぶと)を被(かぶ)り、その槍で突かれた地面からは青白い葉のオリーブが生え、枝にはいっぱい丸い実を結んでいた。彼女の脇には勝利の女神ニーケが立ち、神々は感嘆してこの不思議に見惚れているところである。この全体の絵をオリーブの葉冠(ようかん)が取り巻き、境をなしていた。
一方アラクネーの布(きれ)は、まず中央はエウローペが白い牛に欺(あざむ)かれて乗って行くところを写した、波も牛も真に活々とありのままの姿であった。少女は陸のほうを振り返り友達を呼んで多助を求める。跳ね返る波の飛沫を恐れるように、こわごわ足を縮めていた。その傍らにはレーダーが白鳥の翼に抱きすくめられていた。また、ゼウスがアンピトリュオーンの姿に変わって彼の妻アルクメーネーを誑し込んでいるところなどもあった。また向こうにはアポーロンが田舎漢(いなかもの)の姿でアドメートス(ゼウスの命令で、アポーロンが1年間だけ使えた人間)の僕(しもべ)になって賎しい仕事をしているところである。また、バッコスはイカリオスの娘エーリゴネーを偽の葡萄で騙していた。さらにクロノスが馬の形を借りてあの半人半馬のケンタウロス・ケイローンを生ませた話も描かれていた。この織物の全体にぎっしりと詰まった絵物語は、狭い細かな花模様で囲まれ、それに常春籐(きずた)の葉が絡まっていた。その出来映えはいかにも見事で、たとえPhthonos(プトノス、嫉妬の神)自身でさえも、殆んど難のうちようのないくらいだった。
しかし、金髪の女神アテーナーはそれだけに一入(ひとしお)胸の怒りを抑えきれずに、この刺繍された布を真っ二つに断ち切ってしまわれた。そして、手に持ったぶなの木の梭で、三たびアラクネーの頭を討ち叩かれた。みじめな少女はそれを忍び切れずわれから縄を括って首を吊った。その姿をみて女神は、さすがに憐れを催し、高みに吊るし上げてのたまい給うた。「生命(いのち)は助けてあげよう。でも、そのまま吊り下がっといで、悪い娘だもの。お前のような神々をないがしろにする者共は、みな同じ運命を受けるのだよ」
こういって出かけながら、振り返りざまにアラクネーへHekate(ヘカテー、ギリシア神話の女神)の魔法の草(一説には「トリカブト」)の汁を注がれた。見る間に彼女の髪は竦んで消え、頭も縮んでゆけば、体全体も小さくなり、手足の指は8本の足と変わり、残りの部分はみんな塊(かた)まって大きな腹になった。いまでも彼女は細い糸を口から吐いて、綺麗な露の模様を朝ごとに織りなしている。女神から許された昔の技の哀れな名残を繰り返しているのである。
好きな技であれば、一心に日となく夜となく織り続けるうちに少女の巧みは日増しに進んで、広いリューディアにもイオニア中にも、並ぶ者のないくらいになった。かの名高きトモーロスの丘の斜面にある葡萄畑に棲むニンフたちでさえ、よく棲み慣れた里を後に彼女の仕事ぶりを見にやってくるという程であった。布の織り上げも見事ながら、それにも増して働いている彼女の手の捌き、美しい色の毛の玉が見る見るうちに錘(つむ)に繰り取られ、やがて枷の動きにつれて立派な布に仕上げられるさま、または細い指先に針を閃かせて、いろいろな物の形を刺繍してゆくところなど、眺める人を感心させずにはおかない。全くAthena(アテーナー)女神が、みずからこの技を少女に授けられたと誰しも思ったであろう。されども、少女はこれを否定して「いえいえ、とんでもないことです。あたしは誰にも教わったことなんてありませんわ。女神様とだって技比べをいたしまして、決して負けるつもりはありませんもの。もし負けたなら、どんなものでも差し上げますわよ」という始末であった。女神は小賢しい少女の大言を聞いて、些か心憎く思われた。そこである日姿を老婆に変えて、よろめく足を杖に支えて、少女の家へと出向いて行かれた。
「年寄りの言うことは聞いておく方が好いものさ。皺が増えると知恵もつく、物もおいおい分かってくるのだからね。私の忠告を馬鹿にしちゃいけないよ。紡いだり機を織ったりする技を自慢するのもせいぜい人間たちの間だけにしておきな。そいで神様には譲っておいて大きな事を言った御宥(おゆる)しを願うのが身のためだよ。そしたら女神様も宥(ゆる)してくださるだろうからね」
しかし、少女は老婆のほうを厭な目つきで睨んで、その辺のものを擲(なげう)ちもしかねない有様、怒りの色を面に顕(あらわ)し、姿を変えている女神に向って、激しい言葉を投げ掛けるばかりであった。
「お前さんは年を取って耄碌したのね。そんなことは自分の娘か孫にでも言ったらいいでしょ。私の方から忠告したいくらいだわ。そんならいっそ女神様を呼んで来たらいいでしょ。ほんとに技比べをやったら、どちらが上手か解るでしょうから」
こうして競技は始められた。二人はそれぞれに座を占め、各々の機にしなやかな糸の束を掛けた。縦糸をこまかい枷に結び付けると、緯(よこいと)を結んだ梭(ひ)が目まぐるしく、巧みな指先に操られて動いた。紫に染めた鮮やかな色糸、微かに異なった薄色、さらに色合いを変えた色糸、丁度驟雨の後で、太陽が灝気(こうき)を貫くとき、大きな弧を描いて虹が広やかな空に渡るように、百千の色合いが交わりながら、人の目にはその移り変わりを定かには認め得ないように、ぼかされた色糸は覚りがたく、ただ両端の色の違いだけが、くっきりと鮮やかに認められた。中には黄金の色糸もあった。織り出された模様は昔の物語の様を写していた。
アテーナーの機には、中央に十二柱のオリュンポスの神々が高い御座に、燦然と輝いて、ゼウスを中に居並び給う。海洋神ポセイドーンは重々しい三叉戟を取って嵯峨とした巌を討てば、その割目からは清らかな泉が迸り出る様が描かれていた。アテーナイの町争いの場面である。彼に立ち向かうはアテーナー女神御(おん)みづからで、盾と鋭い槍を手に執り、頭にはきらきらしい兜(かぶと)を被(かぶ)り、その槍で突かれた地面からは青白い葉のオリーブが生え、枝にはいっぱい丸い実を結んでいた。彼女の脇には勝利の女神ニーケが立ち、神々は感嘆してこの不思議に見惚れているところである。この全体の絵をオリーブの葉冠(ようかん)が取り巻き、境をなしていた。
しかし、金髪の女神アテーナーはそれだけに一入(ひとしお)胸の怒りを抑えきれずに、この刺繍された布を真っ二つに断ち切ってしまわれた。そして、手に持ったぶなの木の梭で、三たびアラクネーの頭を討ち叩かれた。みじめな少女はそれを忍び切れずわれから縄を括って首を吊った。その姿をみて女神は、さすがに憐れを催し、高みに吊るし上げてのたまい給うた。「生命(いのち)は助けてあげよう。でも、そのまま吊り下がっといで、悪い娘だもの。お前のような神々をないがしろにする者共は、みな同じ運命を受けるのだよ」
こういって出かけながら、振り返りざまにアラクネーへHekate(ヘカテー、ギリシア神話の女神)の魔法の草(一説には「トリカブト」)の汁を注がれた。見る間に彼女の髪は竦んで消え、頭も縮んでゆけば、体全体も小さくなり、手足の指は8本の足と変わり、残りの部分はみんな塊(かた)まって大きな腹になった。いまでも彼女は細い糸を口から吐いて、綺麗な露の模様を朝ごとに織りなしている。女神から許された昔の技の哀れな名残を繰り返しているのである。
今朝のニュースは鳩山首相の偽装献金記者会見で賑わっていた。ウェブニュースから、
【偽装の源流】献金わずか10人、政界の「金持ち」ゆえの困窮 ―― 「なんで私が知っている顔しかいないんだ」/十数年前に開かれた政治資金パーティー「鳩山由紀夫サイエンス・フォーラム」での出来事だった。出席した政界関係者の証言によると、後に首相となる衆院議員の鳩山由紀夫はパーティーが終わると、公設秘書の勝場啓二と、政策秘書の芳賀大輔に向かって厳しい口調でこう言った。/政治家の政治資金は、主に個人や企業・団体からの献金と、政治資金パーティーの収入からなる。パーティー券は秘書が中心となって売りさばく。ある国会議員秘書は「民間企業の営業みたいなもので、継続購入のお願いと新規開拓のため、一軒一軒歩いて回らないといけない」と話す。/新規開拓の成果はパーティーにどれだけ「新顔」が来ているかで一目瞭(りよう)然(ぜん)だ。ところが、十数年前のパーティーでは…。鳩山は勝場らの“営業成績”の悪さをとがめたのだった。/鳩山側の弁護士、五百蔵(いおろい)洋一は勝場について「昔は売り上げが良かったが、売り上げが下がったセールスマン」と表現したが、勝場は昔から資金集めに苦労していた。/別の自民党議員秘書は、鳩山が「パーティー券がまったく売れない」とこぼしているのを何度か耳にしたことがあるという。/ 集まらなかったのはパーティー収入だけでなく、個人献金も同じだった。/6月に資金管理団体「友愛政経懇話会」の偽装献金が発覚し、鳩山側が政治資金収支報告書を訂正した結果、実際に献金していた人は鳩山本人や親族、秘書ら「身内」を除くと、わずか10人程度だった。/曾祖父の和夫は衆院議長、祖父の一郎は首相、父の威一郎は外相と名門の血統を誇る鳩山だが、献金実態を見ると「国民の支持」は“幻”だったのだ。
勝場は鳩山事務所に入る前は大手不動産会社の社員だった。当時、会社が父、鳩山威一郎を支援していたことから、勝場は昭和55年の威一郎の参院選で事務担当として派遣される。これが鳩山家との接点とされる。/61年に鳩山が衆院選に初出馬した際にも選挙を手伝う。これは、威一郎の選挙での勝場のまじめな仕事ぶりを鳩山の母、安子が高く評価したからだといわれている。鳩山が初当選を果たすと会社を退社し、鳩山の秘書となった。/芳賀も威一郎時代から鳩山家とかかわりを持つ。北海道で生コン会社を経営する父が威一郎の支援者だったことから、威一郎の選挙を手伝い、勝場と一緒に鳩山の秘書になった。/「2人とも有能な秘書だが、勝場さんは真面目で酒も飲まずに黙々と仕事をこなすタイプ。芳賀さんは社交的で派手に飲み歩く。20年以上仕えている秘書は2人を含めて3人だけで、鳩山さんの信頼も絶大だった」(鳩山家関係者)/勝場は、鳩山が平成5年に自民党を割って出て新党さきがけを結成した際には、さきがけの事務局長に就任。8年の民主党結党の際には党の経理トップになったほどで、鳩山家関係者は「鳩山さんの表も裏も知る金庫番だった」と語る。/ただ、勝場を知る多くの秘書仲間が口をそろえるのは「あんなまじめな男がなぜ、偽装献金なんかをしたのか」という疑問だ。
「おれたちのころは、業界団体に電話すれば、パーティー券は簡単にさばけた。業界団体が加盟社に割り振ってくれるから、パー券を段ボールでまとめて送るだけで済んだんだよ」/勝場が国会議員秘書としての薫陶を受けたとされる威一郎の元秘書は、パーティー券がさばけず苦労していた鳩山事務所関係者にこう明かして笑ったという。/鳩山家関係者によると、威一郎の現職時代は、元大蔵事務次官という経歴もあって、多くの業界団体や企業などから手厚い支援を受け、資金集めに苦労することはなかった。/だが、鳩山はそうではなかった。すでに実弟の邦夫が政界入りしており、野党に転じたこともあって企業からの資金集めは容易ではなかったという。/それでも2千万円以上の企業・団体献金を集めていたが、追い打ちをかけるように12年からは資金管理団体への企業・団体献金が禁止され、個人献金に頼らざるをえなくなった。/しかし個人献金も集まらない。その最大の理由は、鳩山がいまだに90億円もの総資産を持つ政界随一の資産家であるということだった。「なぜ金持ちに献金しないといけないのか」。こういった声が資金集めの大きな「壁」となった。/資金集めがままならない勝場が頼ったのが、鳩山家の莫大(ばくだい)な資産を管理する「六幸商会」(東京都港区)だった。
政界随一の資産家といわれる鳩山の資金管理を一手に任されていた勝場が、偽装献金に手を染めた背景には何があったのか。政治家・鳩山のルーツをたどりながら考察する。(敬称略) (産経ニュース、2009.12.25 01:17)
【偽装の源流】献金わずか10人、政界の「金持ち」ゆえの困窮 ―― 「なんで私が知っている顔しかいないんだ」/十数年前に開かれた政治資金パーティー「鳩山由紀夫サイエンス・フォーラム」での出来事だった。出席した政界関係者の証言によると、後に首相となる衆院議員の鳩山由紀夫はパーティーが終わると、公設秘書の勝場啓二と、政策秘書の芳賀大輔に向かって厳しい口調でこう言った。/政治家の政治資金は、主に個人や企業・団体からの献金と、政治資金パーティーの収入からなる。パーティー券は秘書が中心となって売りさばく。ある国会議員秘書は「民間企業の営業みたいなもので、継続購入のお願いと新規開拓のため、一軒一軒歩いて回らないといけない」と話す。/新規開拓の成果はパーティーにどれだけ「新顔」が来ているかで一目瞭(りよう)然(ぜん)だ。ところが、十数年前のパーティーでは…。鳩山は勝場らの“営業成績”の悪さをとがめたのだった。/鳩山側の弁護士、五百蔵(いおろい)洋一は勝場について「昔は売り上げが良かったが、売り上げが下がったセールスマン」と表現したが、勝場は昔から資金集めに苦労していた。/別の自民党議員秘書は、鳩山が「パーティー券がまったく売れない」とこぼしているのを何度か耳にしたことがあるという。/ 集まらなかったのはパーティー収入だけでなく、個人献金も同じだった。/6月に資金管理団体「友愛政経懇話会」の偽装献金が発覚し、鳩山側が政治資金収支報告書を訂正した結果、実際に献金していた人は鳩山本人や親族、秘書ら「身内」を除くと、わずか10人程度だった。/曾祖父の和夫は衆院議長、祖父の一郎は首相、父の威一郎は外相と名門の血統を誇る鳩山だが、献金実態を見ると「国民の支持」は“幻”だったのだ。
政界随一の資産家といわれる鳩山の資金管理を一手に任されていた勝場が、偽装献金に手を染めた背景には何があったのか。政治家・鳩山のルーツをたどりながら考察する。(敬称略) (産経ニュース、2009.12.25 01:17)
昔、司城(しじょう)子罕(しかん)が宋の宰相となり、宋君に言った、「国家の安危、人民の治乱は、賞罰のおこない方ひとつでございます。さて授爵や賞与は民の喜ぶところゆえ、君みずから行い給え。殺戮や刑罰は民の憎むところゆえ、臣がこれにあたりまする」
宋君、「よろしい、予は感謝を受け、汝は怨みを買ってでようというのだな。されば諸侯も予に一目置くことになろう」
国人は殺戮の全権が子罕に握られたことを知ると、大臣は追従し人民は畏れて、一年も経たないうちに子罕は宋君を凌いで政を専らにするようになった。
さて老子にはいう、『魚は淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。(魚は淵から離れてはいけない。〈そのように〉国〈を治めるため〉の有効な道具は、人に見せてはいけない)』(淮南子・道應訓第十二)
ウェブニュースに拠れば、《舛添前厚労相、自民に必要なのは「小沢氏超える独裁的指導者」 ―― 自民党の舛添要一前厚生労働相(61)は22日夜、都内で講演し、民主党の衆院選マニフェスト(政権公約)違反の追及の先頭に立って活動する意欲を示すとともに、民主党の小沢一郎幹事長のような強力なトップが自民党にも必要だとの認識を示した。舛添氏自身が天下をとると宣言したような発言や政界再編をにおわせる言葉もあり、参院選に向けて舛添氏の動きが注目されることになりそうだ。/講演で、舛添氏は当面の政治活動として、「来年は衆参同日選に持っていき、一気に公約違反を追及する。私は先頭に立ってやりたい」と述べた。また、「今、自民党に一番、必要なものは民主党の小沢幹事長よりもっと独裁的な指導者だ」と述べ、小沢氏の政治手法を評価する一方で、谷垣禎一総裁らの指導力不足を暗に批判した。/その上で「仮に私がその座にあるとすれば、すべて候補者を公募し、どこに配属するかは党が決め、候補者の地元で最初はやらせない」と英国流の選挙対策に取り組む考えを示した。/一方で、党の政権構想会議で党名変更を提言した経緯を説明し、「自民党という名は手あかで汚れていて、それだけは嫌だという拒否政党になっている。自由と民主はまったく相反する概念だ」と述べた。/さらに「鳩山由紀夫内閣は、(通常国会で)予算を衆院で通過させるのと引き換えに首を投げ出さざるを得ないのではないか」とも予測。「来夏の参院選を待たないで大きな動きが起こる可能性はある。そして、やるべきことは自民党の再生ではなく新生だ」と述べ、党名変更にとどまらず、新党結成の必要性もにじませた。/中長期的課題の政界再編では「今、仮に私が首相になったら閣僚の7割は民主党から選ぶ」と述べた。(産経ニュース、2009.12.22 23:28)》
《舛添前厚労相が自民再生へ「政治塾」開講 ―― 自民党の舛添要一前厚生労働相が14日、衆院選に党公認で落選した若手を集めた「政治塾」を党本部で開講した。支持率低迷が続く自民党にあって「ポスト谷垣」の最有力である舛添氏が、落選者ばかりとはいえ自前の勉強会を開くことは、党内の存在感を示し、総裁選への足場づくりとの見方が出ている。/「舛添政治カレッジ」と銘打った政治塾には22人が参加。この日出席した18人を前に、舛添氏は「私たちが中心になって自民党を新生させる必要がある」と強調。その上で(1)「新自由民主党」の新しい理念の確立(2)民主党との差別化(3)族議員や派閥などの消滅(4)小選挙区制への対応-などを勉強していきたいと語った。今後、月1回程度の割合で会合を開く。/舛添氏は9月の総裁選で大本命に挙がっていたが、「麻生内閣の一員として衆院選敗北に責任がある」と早々に不出馬を表明した。ただ、前日夜に森喜朗元首相と会談し、野党転落直後の「火中のクリ」を拾わず、勢力温存を決断したとの見方が出ていた。/政治塾の趣旨を見ても、新生自民党のリーダーとしての意欲がうかがえ、党内からは「新党結成の準備」(中堅)という憶測も呼んでいる。(産経ニュース、2009.12.14 19:20)》
宋君、「よろしい、予は感謝を受け、汝は怨みを買ってでようというのだな。されば諸侯も予に一目置くことになろう」
さて老子にはいう、『魚は淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。(魚は淵から離れてはいけない。〈そのように〉国〈を治めるため〉の有効な道具は、人に見せてはいけない)』(淮南子・道應訓第十二)
ウェブニュースに拠れば、《舛添前厚労相、自民に必要なのは「小沢氏超える独裁的指導者」 ―― 自民党の舛添要一前厚生労働相(61)は22日夜、都内で講演し、民主党の衆院選マニフェスト(政権公約)違反の追及の先頭に立って活動する意欲を示すとともに、民主党の小沢一郎幹事長のような強力なトップが自民党にも必要だとの認識を示した。舛添氏自身が天下をとると宣言したような発言や政界再編をにおわせる言葉もあり、参院選に向けて舛添氏の動きが注目されることになりそうだ。/講演で、舛添氏は当面の政治活動として、「来年は衆参同日選に持っていき、一気に公約違反を追及する。私は先頭に立ってやりたい」と述べた。また、「今、自民党に一番、必要なものは民主党の小沢幹事長よりもっと独裁的な指導者だ」と述べ、小沢氏の政治手法を評価する一方で、谷垣禎一総裁らの指導力不足を暗に批判した。/その上で「仮に私がその座にあるとすれば、すべて候補者を公募し、どこに配属するかは党が決め、候補者の地元で最初はやらせない」と英国流の選挙対策に取り組む考えを示した。/一方で、党の政権構想会議で党名変更を提言した経緯を説明し、「自民党という名は手あかで汚れていて、それだけは嫌だという拒否政党になっている。自由と民主はまったく相反する概念だ」と述べた。/さらに「鳩山由紀夫内閣は、(通常国会で)予算を衆院で通過させるのと引き換えに首を投げ出さざるを得ないのではないか」とも予測。「来夏の参院選を待たないで大きな動きが起こる可能性はある。そして、やるべきことは自民党の再生ではなく新生だ」と述べ、党名変更にとどまらず、新党結成の必要性もにじませた。/中長期的課題の政界再編では「今、仮に私が首相になったら閣僚の7割は民主党から選ぶ」と述べた。(産経ニュース、2009.12.22 23:28)》
人間が生くべき時に生きられるのは天の与えた福(しあわせ)であり、死すべきときに死ねるのも天の与えた福である。その反対に、生くべき時に生きられないのは天の与えた罰であり、死ぬべきときに死ねないのも天の与えた罰である。
世の中には生くべき時に当たり、もしくは死すべき時を迎えて、うまく生きられ、うまく死ねる人間もいる。しかしまたその反対に、生くべき時にあたり死すべきときを迎えて、あるいは命を落とし、あるいは死に切れない人間もいる。そして次々に生まれてきては次々に死んでゆく人間というもののあり方は、物(ひと)の所為(せい)でもなく、また己の所為でもなく、みな人間の力を超えた運命の巡りあわせなのであり、智恵才覚ではどうしようもないことなのである。だから古人も「生死禍福の問題は深遠で果てしがなく、天の道理のおのずからなる巡りあわせであり、茫漠(ぼうばく)として定かでなく、天の道理のおのずからなるうごきである」といったのである。
この天の道理すなわち運命と言うものは、広大な天地もそれに背くことは出来ず、聖知の人間もそれに逆らうことは出来ず、鬼神妖怪もあざむくことは出来ないのである。そして自然とは、ただこの天の道理にしたがって黙々として事を成し遂げ、坦々として安らかに、あらゆる事象を無心に送りかつ迎えることをいうのである。
今朝の朝日のトップ記事に曰く。

核密約文書現存、佐藤元首相宅に保管 日米首脳の署名 ―― 日米の両首脳が1969年に沖縄返還を合意した際、有事における沖縄への核兵器の再持ち込みについて取り決めたとされる秘密の合意文書が、当時の首相、故・佐藤栄作氏の遺品の中に残されていたことが分かった。佐藤氏の次男で元通産相の信二氏(77)が明らかにした。この密約については、佐藤氏の「密使」として水面下で米側と接触した故・若泉敬氏=元京都産業大教授=が著作で存在を明らかにしているが、文書の現物は見つかっていなかった。外務省が進める「密約」調査の有識者委員会も強い関心を示している。 /信二氏が保管していた文書は「1969年11月21日発表のニクソン米大統領と日本の佐藤首相による共同声明に関する合意議事録」と表題があり、69年11月19日付。「重大な緊急事態」に際し、米政府は「日本政府との事前協議を経て、核兵器の沖縄への再持ち込みと沖縄を通過させる権利を必要とするであろう」とあり、日本政府は「米国政府としての諸要件を理解し、そのような事前協議が行われた場合には、これらの要件を遅滞なく満たすであろう」と記されている。文書の取り扱いについては「最高級の機密のうちに取り扱うべきであるということで合意した」と記し、当時のニクソン大統領と佐藤氏の署名がある。 /沖縄への「核再持ち込み」を米側に保証する秘密合意は、69年11月にホワイトハウスで日米両首脳が交わしたとされる。94年刊行の若泉氏の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」によると、若泉氏は佐藤首相の密使として、沖縄返還に際して米軍の核兵器を撤去することなどを求め、キッシンジャー大統領補佐官と秘密裏に交渉に当たった。/日本側は「核抜き本土並み」返還を求めたが、米側は緊急事態の際の再持ち込みを要請し、文書による合意を求めた。そこで若泉氏はキッシンジャー氏と「合意議事録」を作成。首脳会談の際に、両首脳がホワイトハウスの執務室に隣接する「小部屋」で署名を交わしたという。 /当時、佐藤氏は若泉氏の申し入れに難色を示したものの、最終的には秘密合意に同意。文書について佐藤氏は若泉氏に「破ったっていいんだ」と語っていたと同書に記されている。また、予定では頭文字での署名のはずだったが、佐藤氏は大統領がフルネームで署名したため自分もそうしたと若泉氏に語ったという。/信二氏によると、「議事録」は佐藤氏が75年に死去したあと、机の中から見つかった。首相退任後に自宅に持ち帰った執務机という。 /外務省の密約調査では、この合意議事録が同省保管ファイルにはなかったことが関係者の話で判明している。この文書は米側でも公開されておらず、調査の検証を進める有識者委員会の委員らは強い関心を寄せている。今後、必要と判断すれば、佐藤氏の遺族と連絡をとる方針だ。/委員の一人は「若泉氏の著書の記述から、署名文書は破られたものと思っていた。外務省も関知していないとの態度だった。この目で現物を見て委員会で議論したい」と話している。
〈日米間の「密約」〉―― (1)核持ち込み時の事前協議の対象から艦船の寄港などを外す核密約(2)朝鮮半島有事の際に米軍が在日米軍基地を出撃拠点として使うことを認めたもの(3)有事の際の沖縄への核の再持ち込みに関するもの(4)米側が負担すべき原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりするなどの財政取り決め、の4密約の存在がこれまでに指摘されている。(009年12月23日3時2分 asahicom)
この天の道理すなわち運命と言うものは、広大な天地もそれに背くことは出来ず、聖知の人間もそれに逆らうことは出来ず、鬼神妖怪もあざむくことは出来ないのである。そして自然とは、ただこの天の道理にしたがって黙々として事を成し遂げ、坦々として安らかに、あらゆる事象を無心に送りかつ迎えることをいうのである。
今朝の朝日のトップ記事に曰く。
〈日米間の「密約」〉―― (1)核持ち込み時の事前協議の対象から艦船の寄港などを外す核密約(2)朝鮮半島有事の際に米軍が在日米軍基地を出撃拠点として使うことを認めたもの(3)有事の際の沖縄への核の再持ち込みに関するもの(4)米側が負担すべき原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりするなどの財政取り決め、の4密約の存在がこれまでに指摘されている。(009年12月23日3時2分 asahicom)
土曜日・日曜日とぼんやりと過してしまう。何をしていたかもはっきりしない。きのう、書き入れるために準備したブログ。一日遅れで記載する。
訃報を聞く。爺の半分の齢(よわい)をも経ていない人の死であれば、発する言葉もない。遺族の方にお悔やみのメールを送るが、ありきたりの俗ぽい弔辞にしかならない。
列子・楊朱篇第七に曰く、《孟孫陽(もうそんよう)が楊朱(ようしゅ)先生にたずねた。「ここに一人の男がいて、命を大切にし、体をいとおしんで不死を求めようとすれば、どんなものでしょう。」/すると楊朱先生は答えた。「不死ということは、道理としてありえないことだ。」/「それによって何時までも生きることを求めるとすれば、どんなものでしょう。」/「何時までも生きるということは、道理としてありえないことだ。人間の命は大切にしたからといって長生きさせられるものではなく、この体はいとおしんだからといって丈夫にしうるものでもない。それにまた、何時まで長生きして、一体何をするのだ。人間の感情や好悪の気持ちは昔と今も変らず、体の安らかさも昔も今も変らない。また、浮世の営みの苦しさや楽しさなど昔も今と変らず、世の移り変わり、治まりまた乱れる歴史の展開も、昔も今も変わらない。これらはみんな今までに十分耳にし、目にし、経験してきたことだ。百年の命でも長すぎると厭気がさすのに、まして何時までも生きながらえるその苦しみは、とても耐えられたものではない。」/その言葉を聞いて孟孫陽はいった。「先生の仰るようだと、早く死んだほうが、何時までも生きているよりましだということになりましょう。そうだとすれば、白刃の中に飛び込み、熱湯や火の中に入って自殺するほうが、望みを達することになります。」/すると楊朱先生は諭していった。「いやそうではない。生まれたからには余計な計らいは捨てて、あるがままに任せ、したい放題のことをして死の訪れを迎えるのだ。また、死の訪れを迎えたら余計な計らいは捨ててあるがままに任せ、成り行きを見極めて素直に命尽きてゆくのだ。余計な計らいはすべて捨て、すべてあるがままに任せてゆく。そうすれば死の訪れが遅いか早いかなど、なにも問題ではないのだ。」》と。(中国古典文学大系に拠る)
鳩山内閣:支持9ポイント減55% 対米外交「心配」68%――毎日新聞世論調査
毎日新聞は19、20日、電話による全国世論調査を実施した。鳩山内閣の支持率は55%で、前回調査(11月21、22日)より9ポイント下がった。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で結論を来年に先送りしたことについては「評価しない」との回答が51%、鳩山政権の対米外交に関しても「心配だ」が68%に上った。普天間問題などをめぐる対応の迷走が鳩山由紀夫首相の指導力不足を印象づけ、支持率低下につながったとみられる。/鳩山内閣の支持率は9月、発足直後の調査としては歴代2位の77%を記録したが、その後は下がり続け、3カ月で22ポイントと3分の1近い下落幅となった。不支持率はこれまで微増にとどまっていたが、今回は34%と前回比13ポイントの急増。「支持しない」と答えた人に理由を聞いたところ「指導力に期待できないから」との回答が前回の16%から42%に増えた。支持する理由では「政治のあり方が変わりそうだから」が82%を占め、変革への期待がなお支持率を下支えしていることを示した。/政党支持率も民主党は前回比4ポイント減の35%となり、過去最高だった9月の45%から続落。「支持政党なし」との回答は33%で前回と変わらなかったが、その無党派層の内閣支持率は41%で、前回の51%から半数割れに落ち込んだ。12月24日で政権発足から100日となるが、期待感の先行する「ハネムーン期間」から具体的な成果が求められる時期へと移り、無党派層を中心に内閣への厳しい視線が強まっているようだ。/首相の資金管理団体による偽装献金問題で、元公設秘書が政治資金規正法違反で起訴された場合の首相の進退についても質問。「辞任する必要はない」が54%で「辞任すべきだ」の40%を上回った。
◇子ども手当、所得制限「賛成」71% 暫定税率維持54%/全国世論調査では、来年度から中学生以下の子どものいる家庭に支給される「子ども手当」に所得制限を設ける案への賛成が71%を占め、反対の25%を大きく上回った。子ども手当の創設を公約した民主党の衆院選マニフェストに所得制限は盛り込まれていなかったが、来年度予算編成に当たって同党は厳しい財政事情を背景に所得制限の導入を政府に要望。国民の側にもマニフェストの修正に柔軟な意見が強いことがうかがわれる。
子ども手当の所得制限に対しては子育て世代の20~40代も6割以上が賛成と答え、世代間で大きな温度差はなかった。支持政党別でも民主支持層の77%、自民支持層の66%、無党派層の67%が賛成と違いは少なかった。/民主党はまた、マニフェストに「廃止」と明記したガソリン税などの暫定税率の水準維持も政府に求めている。調査では、これについても賛成が54%と半数を超え、反対は40%にとどまった。鳩山内閣を支持する層も民主支持層も57%が賛成と答えた。(毎日新聞 2009年12月21日 東京朝刊)
訃報を聞く。爺の半分の齢(よわい)をも経ていない人の死であれば、発する言葉もない。遺族の方にお悔やみのメールを送るが、ありきたりの俗ぽい弔辞にしかならない。
列子・楊朱篇第七に曰く、《孟孫陽(もうそんよう)が楊朱(ようしゅ)先生にたずねた。「ここに一人の男がいて、命を大切にし、体をいとおしんで不死を求めようとすれば、どんなものでしょう。」/すると楊朱先生は答えた。「不死ということは、道理としてありえないことだ。」/「それによって何時までも生きることを求めるとすれば、どんなものでしょう。」/「何時までも生きるということは、道理としてありえないことだ。人間の命は大切にしたからといって長生きさせられるものではなく、この体はいとおしんだからといって丈夫にしうるものでもない。それにまた、何時まで長生きして、一体何をするのだ。人間の感情や好悪の気持ちは昔と今も変らず、体の安らかさも昔も今も変らない。また、浮世の営みの苦しさや楽しさなど昔も今と変らず、世の移り変わり、治まりまた乱れる歴史の展開も、昔も今も変わらない。これらはみんな今までに十分耳にし、目にし、経験してきたことだ。百年の命でも長すぎると厭気がさすのに、まして何時までも生きながらえるその苦しみは、とても耐えられたものではない。」/その言葉を聞いて孟孫陽はいった。「先生の仰るようだと、早く死んだほうが、何時までも生きているよりましだということになりましょう。そうだとすれば、白刃の中に飛び込み、熱湯や火の中に入って自殺するほうが、望みを達することになります。」/すると楊朱先生は諭していった。「いやそうではない。生まれたからには余計な計らいは捨てて、あるがままに任せ、したい放題のことをして死の訪れを迎えるのだ。また、死の訪れを迎えたら余計な計らいは捨ててあるがままに任せ、成り行きを見極めて素直に命尽きてゆくのだ。余計な計らいはすべて捨て、すべてあるがままに任せてゆく。そうすれば死の訪れが遅いか早いかなど、なにも問題ではないのだ。」》と。(中国古典文学大系に拠る)
鳩山内閣:支持9ポイント減55% 対米外交「心配」68%――毎日新聞世論調査
◇子ども手当、所得制限「賛成」71% 暫定税率維持54%/全国世論調査では、来年度から中学生以下の子どものいる家庭に支給される「子ども手当」に所得制限を設ける案への賛成が71%を占め、反対の25%を大きく上回った。子ども手当の創設を公約した民主党の衆院選マニフェストに所得制限は盛り込まれていなかったが、来年度予算編成に当たって同党は厳しい財政事情を背景に所得制限の導入を政府に要望。国民の側にもマニフェストの修正に柔軟な意見が強いことがうかがわれる。
子ども手当の所得制限に対しては子育て世代の20~40代も6割以上が賛成と答え、世代間で大きな温度差はなかった。支持政党別でも民主支持層の77%、自民支持層の66%、無党派層の67%が賛成と違いは少なかった。/民主党はまた、マニフェストに「廃止」と明記したガソリン税などの暫定税率の水準維持も政府に求めている。調査では、これについても賛成が54%と半数を超え、反対は40%にとどまった。鳩山内閣を支持する層も民主支持層も57%が賛成と答えた。(毎日新聞 2009年12月21日 東京朝刊)
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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