初期の江戸ではどのようなコトバが実際には話されていたのでしょう。人間構成から想像されるように土地としては東国方言と上方語が同居し、街の性格としては、武士と町人のコトバが通語として話されていたことでしょう。もっとも単に一地方のイナカコトバにすぎなかった江戸近辺のコトバ(以下江戸方言と呼びます)が急に文献に書き留められ、書物になって出版されるはずもありません。あいかわらず、上方語が標準語であり、本流でした。しかし、単に傍流に過ぎず、エビスコトバと卑下された東国方言こそやがては日本のコトバになる運命を授けられていたのです。これは広く日本語の歴史において空前絶後の大事件といってもよいのではないのでしょうか。幸いにしてこの初期の江戸方言とほぼ同質的なものが、異国の熱烈なクリスチャン、João Rodrigues(ジョアン・ロドリゲス)によって、次のように考察記録されています。
古代の東国方言と比較してみると当然のことながら共通した部分も伺えます。日常百科事典ともいうべき『男重宝記』には、上のロドリゲスの観察に加えて
「関東では、それよということをソンダ、何ぞということをアンダと撥ねて発音する。何とした故にというのを何としましたからとからを用いる」
などと記録しています。江戸の後期になってカラ(東)とサカイニ(西)の口論がありますが、そうした発芽もすでに現実では表れているわけです。
一方まだ戦国の余風がおさまらぬままに、城下町江戸には、旗本奴や町奴(例の幡随院長兵衛など)の使う(奴詞〈やっこことば〉)なども大分幅を利かせていたようです。
家康が始めて江戸に入ったのは天正18(1590)年でした。そして江戸幕府の開かれる頃には次のように異国人の目を見張らせるような立派な都市が作り上げられたのです。
結果において家康が江戸に居城を構えたことは成功だったわけです。もっとも日本全体から見れば中心は京都であり、生活水準も文化程度も到底江戸の及ぶところではありません。参考までに当時の諸国産物から、京都(畿内)と江戸の分を抜き出してみます。
図版の下の図では武蔵はすべてを挙げてありますが、京都(畿内)の産物は初めの部分のみで後七・八ページは続きます。京都は薬や白粉をはじめ酒類から遊び道具まで何一つ整わぬものはない有様です。南蛮渡りの酒や菓子まである文化生活に明け暮れている様子です。
一方江戸はどうでしょう。海のものか川のものか、せいぜい磯くさい魚介類で満足している状態です。これだけでも初期の江戸は、文化的に経済的に、京・大阪の植民地的存在であったと言ってもよいでしょう。このことは逆に、家康が江戸に入ってから如何に開発に心を用いたかを証するものであります。
江戸は山を切り崩して埋め立てた土地柄であり、武蔵野台地特有の土質は、人馬の往来は勿論、少し風のある日はもうもうと土埃を空高く舞い上げました。それがまた雨でも降れば泥沼と化し、道路もなくなる有様で、悪路問題も300年の伝統を背負っている訳です。
『慶長見聞集』に、日本橋の繁華ぶりが目覚ましいものであると記述している反面、江戸近辺神田の原より板橋まで見渡すと、竹木は一本もなく全くの野原だったと描いています。
土地の整備が終わると人の問題になります。江戸初期の慶長~寛永年間には、紀伊・摂津から多くの人々が江戸に来ています。佃島を開いたのも摂津西成郡佃村の森孫右衛門であり、醤油のヤマサも紀伊から移ったと言います。デパート・三越の祖、三井氏は伊勢松坂の出身で寛永12(1636)年江戸にくだっています。「一丁のうち半分は伊勢屋と申すのれん見え候と也」と『慶長見聞記』は記しています。「江戸に多いは伊勢屋稲荷に犬の糞」俚諺もこのことを示しています。
同じくデパートの白木屋の操業も古く、その祖は近江長浜の人といいます。堅実型として名の高い近江商人の出てす。その他ポマードで名高い柳屋も、その祖・呂一官(中国人)が家康とともに江戸に入り、饅頭の塩瀬(中国人)も同時でした。
三河屋とか駿河屋とかの屋号は家康と一緒にやってきた三河・駿河の商人たちだったのでしょう。相模屋・上州屋などにしても出身地方を背に受けてのことと解されています。いうなれば上方商人や上方商人の各地から新耕地江戸へと続々と人々が押し寄せたのです。
太田道灌が今の皇居辺りに城を築いたのは康正三年(長禄元年・1457年)であり、山吹の一枝にまつわる武将と田舎少女とのロマンスは東京の出発語るにふさわしいエピソードです。
しかし、東京の前身である江戸が歴史に現れるのは、これよりさらに300年も遡った治承4(1180)年9月の『吾妻鏡』の記事、「江戸太郎重長ニ仰付ラルルナリ」です。以後江戸の名が諸文書に見えますが、他にも葛西清重(今の葛飾区)・豊島清光(今の豊島園付近)の名が見えます。地名や人名からいうと、東京は江戸氏を以って約800年以上の古い歴史ということになります。
エドは入江深く海から入り、川が海に注ぐところで江口・江尻などの江と同じく、入江の江と考えられています。戸は水戸や松戸などの戸と同じく所とか里とか入口のトであると思われます。ただ地形的名称ならば、かなり早くから命名されていたと思われますが、比較的新しいので、その点この説も疑問のあるところです。
太田道灌は江戸城を築いて、かれこれそこに30年近くも住んでいたのですから城下町もでき、商業も盛んになったと思われます。関八州や上方からも人々がここに集まってきたことが諸書にも見られます。人間生活の営まれるところ必ずコトバがあるのですから、江戸城下町を中心にして、東国方言や関西方言が話されていたことでしょう。平安時代において全く一顧だにされなかった東国のコトバは、こうして14世紀の半ばになると鎌倉武士・東国武士の勢力の強大さとともに京都をその馬蹄の下に踏み潰すことになります。京都の貴族たちは彼らが今まで軽蔑していた東国語を習いおぼえ実力者である武士におもねるように変化していくのです。
古代の東京では実際にどんな言葉が話されていたのでしょうか。一口で言うと東と西では人類学的にも社会組織的にも全く対立しているように言葉の面でも対立していました。いわば東には東のコトバがあったと言ってよいのです。
現代でも上の図版のように、対立していますが、対立は上代まで遡って考えられます。まるで別系のコトバのようです。平安時代の始めの頃と考えられる『東大寺諷誦文(ふじゅもん)考』に「東国方言」の名が見えることや『万葉集』に「東歌」が載せられていることから東の方言が西(中央)に対立するものして考えられていたことが判ります。
いわゆる訛りことばとして考えられそうですが、月をツクという言い方が、より古い国語とされているのですから、あるいは東の方が正当かもしれません。
中央のコトバが正しく純粋のものとすれば、東国のコトバは異様なものと感じるかもしれません。しかし、中央のコトバといっても奈良方言を中核とする一地方語にすぎないのですから、『古事記』や『万葉集』のコトバがすべて正式な雅語とのみ受け取ることは出来ません。『古事記』に出て来るアグラ(足座)も後世ではもともと西のコトバであったことも知らずに東国方言と記しているのが一般だったのです。
正訛というよりも、より古いか否かが問題になりそうです。東国が真に中央から侮蔑の眼を以って見られるようになったのは、平安時代、労働や自然の美から遠ざかった有閑階級の出現によるものです。彼らから東夷(ひがしのえびす)と卑称されるようになって、東はひとまず歴史の表面からは一時消えるのであります。
ウェブニュースより
藤井聡太四段、王位戦予選で小林裕士七段に勝利、3回戦進出 囲碁・井山七冠達成に「とても偉大」 ―― 将棋界最多の29連勝を達成した最年少プロ、藤井聡太四段(15)は19日、大阪市福島区の関西将棋会館で行われた王位戦予選で小林裕士(ひろし)七段(41)を110手で破り、3回戦に進出した。公式戦通算成績(未放映のテレビ対局は除く)は47勝6敗。
藤井四段が小林七段と対戦するのは4月の王将戦1次予選以来2度目。このときは、藤井四段が勝ち、プロ公式戦の新記録となるデビューから11連勝を達成した。
この日の王位戦予選2回戦は持ち時間各4時間。振り駒で先手は小林七段。互いに飛車先の歩を突き、居飛車で駒組みを進める「相掛かり」の戦型だ。中盤から激しい攻め合いとなったが、終盤で藤井四段が正確に攻め寄せ、押し切った。
https://www.youtube.com/watch?v=L-3ihnuowxU
藤井四段は「今日の難解な将棋を何とか勝つことができたので、一歩一歩頑張っていきたい」と話した。
小林七段は「最後は甘かったかなあ。でも私の力ではわからなかったです」と話した。
また、報道陣から、囲碁の井山裕太七冠(28)が17日に七冠復帰を果たしたことについて問われた藤井四段は「過去に一度、七冠をとられてから復位された。本当にそれだけのパフォーマンスを継続していることはとても偉大だと感じました」と語った。
藤井四段は次回、11月2日に順位戦C級2組6回戦で、日本将棋連盟常務理事の脇謙二八段(57)と対戦する。 (産経WEST 2017.10.19 20:21)
東京の前身は江戸であり、江戸は武蔵国豊島郡江戸でした。ムサシの国名の由来を糸口に書物に現れてくる奈良時代の東京付近を考えてみましょう。武蔵国は現在の多摩川寄り、布田、深大寺付近を中心に発展したと言われますが、注目されるのは帰化人が大量に武蔵国に移住していることです。七世紀の半ばに百済の男女二千人を東国に置く由が古書に見えます。東京・埼玉には狛江とか新座など地名として今にしてそのことを伝えています。
ムサシが武蔵と書かれたのは、神護景雲の年(767年)とされ、それ以前は无邪志・牟射志・牟佐之・胸刺などと書かれ、ムサシ(ムザシ)と呼ばれていました。住民の事などからして朝鮮語のムサ+シ(麻の原料である苧〈からむし〉の種子)とか、アイヌ語のムニ+サツ+ウシ → ムサシ(草の茂っている原野)などの説があります。いずれも宛字であって命名の本意は不詳というのが本当のところでしょう。
こうしたムサシの国が中央政府の政策上、武蔵国(東京・神奈川・埼玉)として統括され、初めはその地方の豪族が国造(くにのみやつこ、今の知事)として任命され、後には政府から直接任命の国司が都から下ってきました。国司のいるところが国府であり、そこを府中と呼んで今の府中市にその名が残っています。当時最も栄えたのは現在の府中を中心とする一帯でした。東京都の地図からしてもほぼ中央部にくらいします。奈良時代は今の東京湾は埼玉辺りまでずっと入り込んでいましたから海陸ともに便利な地であったのでしょう。都市建設の地理的・政治的条件はかなり有望であったのです。天平13(741)年国ごとに国分寺を置くことになり、武蔵国も国府の近くに国分寺が建てられました。今の国分寺市にその名を留めています。
奈良時代の東国は馬と切り離しては考えられません。『万葉集』にも、馬の歌がいくつかあります。
東国人が騎馬に長けていたことや馬具(武蔵鐙)が東国の特産であった事はよく知られています。
「延喜式(平安時代中期に編纂された格式〈律令の施行細則〉、907年)」などにも東国・武蔵に牧場があった事を記録しています。現在の練馬・牛込・馬込・駒沢・駒沢など馬・駒・牛などのつく地名は、そうした名残りとも解されます。
明治10(1877)年、当時帝国大学で動物生物学の講義を受け持っていたアメリカ人Edward S.Morse(エドワード・モールス)は、国電大森駅を過ぎる時、車窓から貝塚らしいもののあるのを発見、すぐに発掘に取り掛かりました。その貝塚からは石器・土岐・人骨などが多数発見され、地名にちなんで『大森貝塚』と名付けられました。これこそ日本の考古学の夜明けを告げる永遠の記念碑であり、昭和の登呂遺跡の発見に勝るとも劣らない重要な事件でした。謎に包まれた太古日本の姿はその1ページを異国の学者の手によって開かれたのです。大森貝塚の発見によって、太古東京近辺にも人間の住んでいたことが実証されたのです。
次いで、明治17年3月、当時帝国大学の学生であった有坂鉊蔵によって、本郷弥生町の発見されました。いわゆる弥生土器というのはこの町名に由来しているのです。この発掘により、大森貝塚の場合と同様に昔から東京付近は人間が住み、特に弥生文化は米作農業を基盤としたかなり程度の高い文化の営みであると想定されたのです。
現在の板橋区・練馬区を始め国分寺付近からは昔の人々の生活を支えた色々な道具が掘り出されています。遠く富士山の噴煙を望み、多島海的な入り江に富んだ東京湾は、昔の人々にとってはかなり海産物に恵まれた住みよい所だったのでしょう。人間の生活が営まれるところには必ずコトバが存在します。野山で狩りをし、木の実を集め、川や海で魚介類を採る時、人々はコトバとコトバを交わし、誘い合いながら共同労働に励んだことでしょう。思わぬ獲物の大漁に人の和を輪を作り、火を焚いて一晩中踊りあかし、歓喜の歌声を張り上げたことでしょう。もっとも今となってはそうした人々のコトバの実態をつかむことは出来ません。 弥生時代を受けた古墳時代になると、中央では所謂大和国家が形成され、世界最大と言われる仁徳陵も出来上がります。そろそろ『古事記』や『万葉集』に画かれた世界に近づいてくるのです。当時の東京付近は中央と同じく、一定の水準文化を持った土地でした。埼玉県行田市にある古墳群もかなり有力にこのことを示しています。同所にある『丸墓山古墳』は平地における我が国最大の円形古墳だと言われます。
東京都内でも、芝公園内の丸山はをはじめ、田園調布や狛江には当時の豪族の古墳が残っているのです。しかし、以上はいずれにせよ書物以前の話で、確実な文字資料があるわけではありません。
仮に十人の万葉学者に全4500余首の読み下しを作らせれば、十人の間におそらく何百箇所という相違が出て来ることは必定です。それぞれの人が夥しい数の言葉を『万葉集』から消し、あるいは新しく加えることでしょう文庫本に収めてしまえばせいぜい2冊分しかない歌ではありますが、十人十様の読み解きが行われる以上、とどのつまりがどの本に拠ったところで全面的な信用はおけないわけです。柿本人麻呂の代表作、
東の 野にかぎろひの 立つ見えて
かへり見すれば 月傾きぬ
万葉集巻一 0048
の歌にせよ、本当にこういう歌だったという保証はどこにもありません。
この歌は、十四の漢字で次のように表記されています。
東野炎立所見而反見為者月西渡
古い写本を見ると、この原文には「アツマノヽケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ」という訓が付されています。つまり、第一句から第三句までの <東野炎立所見而> は、もともと「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」と解釈されていたのです。それを「みだり訓(いい加減な訓/まずい訓)」だと断定し、現在一般化している「東の野にかぎろひの立つ見えて…」という訓を考案したのが、江戸時代の賀茂真淵《かものまぶち》です。馬淵がこの新訓を提示してからは、研究者も歌人も「東野《あづまの》の煙《けぶり》の立てる所見て」という伝統的な訓と解釈を捨ててしまったのです。
写本の訓と馬淵の訓を比較すると、歌の格調は確かに馬淵の訓のほうが高いように感じられます。しかし、馬淵の訓に対して、文法学者たちが異議を唱えています。上代語の表現としては不自然な文法的要素がその訓に含まれている、というのです。それだけでなく、原文の第三字の <炎> や歌の末尾の <西渡> などの訓に対しても、多くの異論が出ています。
ウェブニュースより
藤井四段が5連勝、C級1組昇級へ前進 将棋・順位戦 ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が12日、大阪市福島区の関西将棋会館で第76期将棋名人戦・C級2組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の5回戦に臨み、星野良生(よしたか)四段(29)に勝った。全10局ある戦いを5連勝で折り返し、一つ上のC級1組への昇級に向けて前進した。
C級2組は、名人戦につながる順位戦(全5クラス)の中で最も下のクラス。初参加の藤井四段は、先輩棋士を相手に白星を積み重ねている。この日は、星野四段の中飛車に対し、先に敵陣に攻め込んで優位を築き、勝ちきった。「いい星取りで折り返し地点を迎えられた。これからも一局一局頑張りたい」と話した。今期参加の50人のうち上位3人の成績を挙げれば昇級できる。
藤井四段の通算成績は46勝6敗となった。次の対局は王位戦の予選で、19日に大阪である。 (朝日新聞DIGITAL 2017年10月12日22時19分)
http://sakidori-ch.com/fujiisouta20171012
2017年10月19日(木) 10:00より、王位戦予選 小林裕士七段との対局が予定されています。
ウェブニュースより
藤井聡太四段「1つでも上に」叡王戦本戦へ意気込み ―― 将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が9日、東京・千駄ケ谷の東京将棋会館で行われた第3期叡王戦段位別予選四段戦の準決勝、決勝と連勝。本戦トーナメント進出を決めた。
午後2時から行われた準決勝の佐々木大地戦(22)は奇跡の大逆転勝ち。新人王戦準々決勝で敗れた相手に一方的に攻め込まれ、投了寸前だった。ところが、佐々木の致命的なミスが出て、劣勢だった局面が一気にひっくり返った。
https://www.youtube.com/watch?v=DubUj0VPylE
午後7時からの決勝では、杉本和陽(かずお)四段(26)の三間飛車からのさばきに対し、上から押さえ込もうとして激戦に。最後はチャンスを逃した杉本に対し、着実に寄せきった。「準決勝はハッキリ負け。勝てたのは幸運だった。決勝は何とか勝てて良かった」と振り返った。
https://www.youtube.com/watch?v=4Lnw_VqXmlQ
四段戦は参加19人に対し定数1の狭き門。本戦トーナメントには予選シードの佐藤天彦叡王(29)や、九~五段まで各段の予選を勝ち抜いた格上の棋士15人が待ち受ける。「1つでも上に行けるよう、全力で頑張りたい」と話した。
叡王戦は今期からタイトル戦に昇格。本戦は16人による勝ち抜き戦で争われ、決勝に進んだ2人が7番勝負を行い、勝者が叡王の称号を得る。 [朝日新聞DIGITAL 2017年10月10日0時31分]
sechin@nethome.ne.jp です。
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