瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 福岡在住の甥のHaruki君が、6月からまたネット俳句会を始めたそうです。俳句会の冊子制作を依頼され、6月・8月・10月を1冊分として制作する予定でいましたが、ページ数が多くなり、我が家の裁断機では間に合わなくなりましたので、取り敢えず、6月・8月を1冊として発行することになりました。
 12月25日から印刷を始め、印刷だけで丸4日かかり、製本に2日を費やし、本日ようやく裁断を終えました。福岡のクリニックは4日に開業だそうなので、出来れば3日に発送することにしようと思っています。

 今年も本日で終わりました。今年の仕事を来年に持ち越すこと無く終えることが出来ました。めでたしめでたし。


 


 

ウェブニュースより
 藤井聡太四段17年最後は白星締め「大きな1年に」 ――公式戦29連勝の新記録を樹立した将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が28日、大阪市の関西将棋会館で指された第66期王座戦1次予選で豊川孝弘七段(50)を109手で破り、17年最後の対局を白星で飾った。公式戦通算は55勝10敗。

 熱戦を制した藤井は「途中、指し手が難しくなってしまった。序盤にもっと積極的に行くべきかもしれなかった。終盤もいろいろと選択肢がある中でも、まとまらなかった」と反省した。
 前回の対局に続き黒星を喫した豊川は「上手に攻めて来るのでやられちゃったよね。うまくやられちゃったな」と苦笑い。
 藤井にとっては飛躍の1年となった。昨年10月、史上最年少の14歳2カ月でプロ入り。現役最高齢(当時)の加藤一二三(ひふみ)九段(77)が持っていた14歳7カ月の最年少記録を62年ぶりに塗り替え、話題を呼んだ。昨年12月、プロデビュー戦で加藤九段と対局し、勝利。4月4日にはプロ公式戦の新記録となるデビュー後11連勝を達成した。その後も勝ち続け、6月には30年ぶりに連勝記録を塗り替えるなど、大活躍の1年だった。社会現象にもなった「藤井フィーバー」は「新語・流行語大賞」にもノミネートされた。
 「今年はいろいろな経験をすることができた。大きな1年になりました。最後の対局も勝つことができてよかった」。来年に向けて「今年の経験を糧にして1歩1歩、成長できる1年にできれば」と抱負を語った。中学最後の正月は、家族とゆっくり過ごすことを楽しみしている。
 次戦は来年1月6日、王位戦で大橋貴洸四段(25)と対局する。   [日刊スポーツ 201712282247]


https://www.youtube.com/watch?v=P2A3r2HcC6I


ウェブニュースより
 東小結貴景勝は貴乃花部屋初の新三役、貴ノ岩は十両 ―― 日本相撲協会は26日、来年1月の大相撲初場所(14日初日、両国国技館)の新番付を発表。
 元横綱日馬富士関に暴行され、東前頭8枚目だった11月の九州場所を全休した貴ノ岩(27=貴乃花)は、東十両3枚目に番付された。20日の理事会で決定された通り、診断書を提出して初場所を全休した場合、3月の春場所は十両最下位(14枚目)にとどまる。
 2場所ぶりに東の正横綱に就いた白鵬(32=宮城野)は横綱在位63場所となり北の湖と並び史上1位となった(3位は千代の富士の在位59場所)。日馬富士の引退で1年ぶりの3横綱となり、西は稀勢の里(31=田子ノ浦)、東の2枚目に鶴竜(32=井筒)が付けられた。大関は東が豪栄道(31=境川)、西が高安(27=田子ノ浦)で変わらない。
 関脇は、東の御嶽海(25=出羽海)が4場所連続在位(三役は6場所連続)で、西は3場所ぶりに玉鷲(33=片男波)が返り咲いた(三役は2場所ぶりの復帰)。14枚目
 東小結の貴景勝(21=貴乃花)は、貴乃花部屋初の新三役。西小結は2場所連続で阿武咲(21=阿武松)とフレッシュな顔ぶれが並んだ。


 
 新入幕は2人。東前頭14枚目の阿炎(23=錣山)は、錣山部屋からは現師匠(元関脇寺尾)が04年1月27日に部屋を創設以降、3人目の新入幕力士。埼玉県出身では戦後11人目。また東前頭16枚目の竜電(27=高田川)は、現師匠(元関脇安芸乃島)が09年8月5日に部屋を継承してからは、輝(23)に続く2人目の幕内力士となった。竜電は12年九州場所で新十両昇進を果たしながら1場所で陥落。ケガもあり序ノ口まで番付を落とした。関取経験者が序ノ口陥落後に新入幕を果たすのは、92年九州場所の琴別府以来、史上2人目となった。
 再入幕は東前頭12枚目の蒼国来(33)、西前頭14枚目の豊山(24)、東前頭15枚目の石浦(27=宮城野)の3人。
 晴れて関取の座を射止めた新十両は2人。東十両13枚目の水戸龍(23=錦戸)は、02年12月1日に創設された錦戸部屋(師匠=元関脇水戸泉)から初の関取誕生となった。モンゴル出身では33人目、日大からは節目の50人目、学生相撲出身では124人目の新十両昇進だ。
 東十両14枚目の天空海(あくあ、27=立浪)は、現師匠(元小結旭豊)が99年2月22日に部屋を継承してから5人目の関取。茨城県出身では、10年九州場所の高安以来、戦後21人目の新十両昇進を果たした。
 再十両は西12枚目の栃飛龍(30=春日野)、同13枚目の大翔鵬(23=追手風)、同14枚目の希善龍(32=木瀬)の3人となった。2場所ぶりの十両復帰となった希善龍は、8度目の十両昇進。これは須磨ノ富士と並ぶ史上1位の記録となった。
 初場所は、来年1月12日の取組編成会議で初日、2日目の対戦相手が決定。14日の初日を迎える。   [日刊スポーツ 2017122660]


 


 ウェブニュースより
 藤井四段「寄せ方間違えた」深浦九段の粘りに敗れる ―― 将棋の史上最年少プロ、藤井聡太四段(15)が23日、東京・千駄ケ谷「将棋会館」で行われた第3期叡王戦本戦トーナメント1回戦で166手の激戦の末、A級在籍棋士の深浦康市九段に敗れた。優勢に進めながら持ち時間を使い果たしてミスが出て、深浦の粘りに屈した。

 藤井は終局直前、脇息(きょうそく)にもたれかかったり、力なく手を指すなど、悔しさをあらわにした。投了を告げるとガックリと肩を落とした。「途中、指しやすさを感じていたが、寄せ方を間違えた」と振り返った。

 15日には深浦と同じA級の屋敷伸之九段を朝日杯で倒したが、今回は壁にはね返された。


 深浦とは今年4月にインターネットテレビ局Abema(アベマ)TVの番組企画として放送された「藤井聡太四段 炎の七番勝負 第5局」で対戦。藤井が非公式戦ながら勝利している。最近の対局の棋譜を取り寄せるなど、研究してきた深浦の攻めると見せては守り、守ると見せては攻める変幻自在の指し回しに、局面をひっくり返された。
 昨年1224日のデビュー戦以来、「プロになる前にはなかった経験をさせてもらった成長の1年」と振り返る。28日に大阪市の関西将棋会館で行われる王座戦予選、対豊川孝弘七段戦が今年最後の対局。高校進学も含め、「何事にもできるだけ全力で取り組む」が目標の2018年を迎える。   [日刊スポーツ 20171223238]


https://www.youtube.com/watch?v=S9Nto0zS-7g


 コトバは人間の知恵を離れては存在しません。とすれば生活表現の一典型を諺(ことわざ)に求めることが出来ます。

 特に書きコトバと縁の薄かった庶民階級は、自分たちの貴重な体験を、ただここの事実の多様性を知るに留めないで、一つの普遍的な学びとしてまとめます。それらが言語形式をとるとき、いわゆるコトワザが発生し、うたわれるのです。
 コトワザの本来の意味は、辞書類にも説明されているように言技(コトワザ)で、一種の言語技術かも知れません。しかし、それはただ表れた形について後から説明を加えただけで本質的なものでありません。単に、話し方の技術ならば、それこそ〈巧言令色鮮仁(コウゲンレイショクスクナシジン)〉――お世辞たっぷりで口上手な人は仁が少ないという訳で、排斥される性質のものです。コトワザの本質は人間の日常生活の知恵が凝(こ)って作り上げられた尊いコトバということです。もちろん、現代から見れば生活体験を経ずに、ただ書物から抜き取った文句もあるでしょう。漢籍や仏典からそのまま切り取って我がものにしたものもあります。文字通り、学問のある人の口から、権威を以って語られるものには、それはそれとして尊い教えが込められていることでしょう。格言などと呼ばれるものの大半はそうしたものなのです。しかし、そこには上⇔下という関係での物言いが強く、時には一方的な強(し)い語りに終わるとが多いのです。コトワザの本質はそうしたところにあるのではありません。
 もしコトワザが言語技術であるならば〈秀句、軽口、語呂合せ〉などと変わりありません。後者は言語遊戯であって一種の遊びです。コトワザが真剣な生活体験から生まれ出たのとは本質的な違いがあります。もっとも、共に言語作品であり、そのまとまった形においては多くの類似点もあります。短く、口調がいいこと、多くの比喩の形式が取られていること――など、すべて同じ服装を纏っています。しかし、外面的な服装に惑わされることがないように、その内容を説くと考えねばなりません。秀句や語呂合わせは、いわばコトバのためのコトバであり、コトワザは生活のためのコトバなのです。
 コトワザが書物にあらわれるのは、遠く古事記の昔からです。「雉の頓使(ひたつかい)」=行ったきりで戻ってこない使い、「地(ところ)得ぬ玉作り」=當てにしたご褒美を得られない、「堅石も酔人を避く」=どんなに堅い石も 酔っぱらいは嫌いなので避ける、「海人なれや、己が物から泣く」=海人は新鮮な海の幸を扱っているので、早く処理しないと、腐ってしまって自分が泣くことになる……などのコトワザが記載されています。

 コトワザは時代が下るにつれて多くなり、中世~近世にかけて次第に書物をにぎわせます。特に近世には、全くコトワザによってテーマのたてられている咄本や小説があります。ハムレットやドン・キホーテを見ればわかる通り、これは洋の東西を問わぬようです。

 市井のおかみさんの口からも得意満面とコトワザが飛び出し、言技(コトワザ)に近い会話が現われてきます。とりわけ江戸っ子は言語遊戯に長けている所為か、内容をゆがめ、意味を曲解しても、形式的なコトバのリズムによって喋りまくります。公のことではなく、私的なことには必要以上に喋り散らす下司下郎の登場ともなるのです。


 


 明治から一足飛びに現代へととんでしまいますが、この爺が上京してきたころは人口もどんどん増えていく頃でしたが、東京の地域は年々郊外へ広がっていました。東京は全く得体のしれないマンモス都市へと化しつつありました。
 コトバもこの例に漏れません。日本国中のコトバのはきだめが東京であったのです。テレビも余り普及していない頃でしたが、東京へ来れば日本国中の方言を聞くことが出来たのです。
 新宿・池袋あたりの居酒屋や小料理店に行けば、メラシ(女・東北方言)が国コトバでサービスしてくれました。当時爺はこの方言集団の真っただ中にいました。下宿屋には各部屋に東北・北陸・近畿・中国・四国・九州から上京した学生が2・3人ずつ下宿していて、否応なしに○○弁を聞かされました。彼らは爺と話すときにはお互いに事務的に東京語というもので話しますが、同郷人同士ではハンカクセエ(青森・いやらしい)とかウディシィ(鹿児島・いやらしい)としゃべり続けます。この爺にはまるで外国語のように響きますが、爺たちは同郷の者たちとチョル言葉(北九州・~している)を連発していました。
 こうした連中が故郷(くに)へ帰れば、自慢げに或いは知らず知らずのうちに東京語を流布させていました。
 東京にも方言があります。今でこそ少なくなりましたが、ヒとシの区別のつかない人が可成りいました。爺が下宿した家の小母さんは爺のことを「シダカ(日高)さん」と呼んだし、潮干狩をシオシガリ、御姫様をオシメサマと言っていました。


 


 アメリカへ行くと世界中の人種にお目にかかれると言い、各国語を耳にすることが出来ると言います。そういう点では東京もアメリカ並みでした。モナミ(仏、mon ami、わが友)という軽食堂では20円のおにぎりを売っていましたし、〈道草〉というトリスバーで一杯120円のジン・フィズ(英、Gin Fizz)を飲ませてくれました。音楽喫茶のラ・セーヌ(仏、Lasaine)ではマンボ・ジャズ・民謡、果ては軍歌まで聞かせてくれるといった具合でした。ザピーナッツとかペギー葉山とかいう合いの子めいた純粋の日本人がキスにサを挟んだ挟みコトバのような〈キサス、キサス、キサス(多分というスペイン語だそうです)〉を歌いまくっていました。国籍不明のコトバが通りから通りへと流れていました。まさにコトバのゲテモノの氾濫です。デンカ(電化)やアンポ(安保)などの略語も多く、コンヒマ族(今晩暇で一緒に遊んでくれる人)などそのうち語源も判らなくなるでしょう。


 ともかく、東京語は長い風雪に耐えて生きてきたものなのです。


 以上、江戸・東京のコトバについて、述べてきましたが、此れを以ってこの項をおしまいにします。次は何について書こうかな?


 今年は塾友忘年会のアルバムはご勘弁して頂くつもりでいました。しかし、N君が撮った写真を見ているうちに、和やかで楽しそうな塾友諸君の姿を記録に納めておきたくなって、無理を承知で制作してみました。

 一昨日の土曜日に、女房が運動がてらにと、手押し車をおして7・8軒ばかりの塾友の家を回って、配布してくれました。また、昨日はS君が自転車で遠くは墨田区方面まで5・6軒ばかりの家を回って配布してくれました。さらに、午後からはKYさんが上野桜木町から荒川区方面まで自転車で4・5軒の家を回ってくれました。関ちゃん、カナミさん折角の日曜日を潰させてごめんなさい。ご苦労様でした。本当に有難う。
 遠方の方々には本日郵便にて発送する予定でいます。
 カナミさんのコメントにもあったように忘年会の当日、会場に手袋と新しいピアスの忘れ物があったようです。カナミさんがお預かりしているようです。お心当たりの方が御座いましたら、お知らせください。


 


ウェブニュースより
 藤井四段が史上最年少で本戦出場 朝日杯将棋オープン戦 ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が15日、東京都渋谷区の将棋会館であった第11回朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)の2次予選に臨み、1回戦で屋敷伸之九段(45)、決勝で松尾歩八段(37)に勝ち、本戦出場を決めた。15歳での本戦出場は史上最年少記録。デビュー以来の通算成績は54勝9敗になった。
 藤井四段は「強敵ばかりの2次予選を勝ち抜けたのはとてもうれしい。本戦も一局一局、全力で臨みたい」と話した。
 1回戦の相手、屋敷九段は名人挑戦権を争うA級順位戦に所属するトップ棋士。藤井四段は昨年12月のプロデビュー以来、初めてA級棋士から公式戦で白星を挙げた。対局後、藤井四段は「公式戦という舞台でA級の先生に勝てたのはとても自信になりました」と話した。
 
 決勝で対戦した松尾八段は「(藤井四段が)強いことは知っていた。イメージ通り、びしびしと急所に来られた」と対局を振り返った。



 朝日杯は持ち時間各40分の早指し戦。1次予選、2次予選、本戦とすべてトーナメントで優勝を争う。初参加の藤井四段は1次予選を4連勝で抜け、2次予選に駒を進めていた。


 1月に始まる本戦トーナメント(16人出場)では羽生善治竜王(47)らタイトル保持者がシード棋士として登場する。藤井四段は1回戦でシード棋士と対戦する予定。    (朝日新聞DIGITAL 201712151647分)
https://www.youtube.com/watch?v=Ljzn0K0uGOg
https://www.youtube.com/watch?v=T4L5El4RpEA


 


 敬譲語や丁寧語についで大きな特色のあるのは漢語の氾濫です。「此節のやうに新聞紙やうなものに迄もむずかしい字が沢山あっては私共には一向読みが下らず……」と投書欄に苦情が出るほど四角張った漢字で埋まったのです。もし、明治維新が、江戸市民で代表されるような真の市民革命だったら、俗語が中核となってもっとスッキリした近代日本語が出来上がっていたかもしれません。ともあれ、教育ある人々は漢語を作り、乱用したのです。たとえば、先の「欧州小説・黄薔薇」の中でも将来官途に就こうという人間が次のように叫んでいます。
   然らば我輩から両人の懇願する次第を陳弁しますが、実は恥をお話し申さんぢやァ事情が明了しませんから其根源より申せば一体我輩等に大学予備門に入りて勉学の効を積み進んで大学科を修め業なるの後は国家有為の事業を起こすか官途に出身して行には自ら政権を執るの地位に(のぼ)り百般の政務を改良して旭日の光を全地球に輝かさんとの目的にて当初は誓ッて此目的を貫かん只管(ひたすら)勉強してをりました……
 それなら、私からお願いするわけをお話ししますが――と易しくやってもよさそうなのに、上のようにいかつい調子で雄弁を振るうのです。上のほか強壮・跋渉・嚢中・空隙・焦慮などかたぐるしい漢語が目立ちます。
 横瀬夜雨編「明治初年の世相」に次のような記事があるのもこうした一面をよく物語っています。


 
 芝居のいわゆる散切物をみますとこうした漢語がセリフの中にたくさんおり込まれています。


 男女平等・専売特許・造化(造化機論)・因循・旧弊・曖昧・文明開化・失敬・権妻(妾のこと)・窮理(物理のこと)・演説などは明治前半の流行語として一世を風靡した漢語です。魚屋の小僧や下女までが因循や失敬を愛用したのです。
 科学・学術語は江戸時代の蘭学者による翻訳語も考えねばなりませんが、〈絶対・形而上学・演繹・心理学〉などいずれも明治なにってからの新造語で、西周・井上哲次郎・福沢諭吉などそうした造語家のうちに数えられます。
 なお、新漢語と関連して読み方の変わったものも注意されます。江戸時代で音声(おんじょう)が明治になってオンセイように。二、三例をあげますと、
   言語(げんぎょ) → ゲンゴ   ()(やく) → リエキ   (そん)(きょう) → ソンケイ
   (なん)() → ダンシ   (けっ)(じょう) →ケッテイ
言うまでもなく後者が現代語になっているわけでして、漢音で統一されてくるのです。
 最後に女性のコトバについて、触れておきましょう。
a、若旦那はどうなさいました あれぎりぢやァあんまり()()からモウ一ペン後生でごさいますヨ(●●●●●●●)……さうたい今の若い芸者衆はふざけている()() (「安愚樂鍋」茶屋女・芸者)
b、御母(おっか)さん何の御用で御座います(●●●●●●)。お茶を召し上がりませんか(●●●●●●●●●)。……お春モウ(わたし)(とて)も長いことはあるまいお前は今梅次郎さんに逢たら其の面貌(おもざし)が分かるであろうか。……(わたくし)も深谷さんの書きました物を持って居りますが……中々並の人とは思はれませんワ(●●●●●●●)(「雪中梅」母と娘の会話)
c、今日はよく(いら)っしゃられ(●●●●●)ましたネ、態々(わざわざ)招待(よびたて)申しでましても未だ普請が(やっ)と出来たばかりですか(●●●)ら殺風景とやらで困ります()。……何も大層お見事なご普請でございますヨ(●●●●●●●)(右同、上流階級の令嬢とその友人)
 aとb、cでは時代に15年の隔たりがありますが、それよりも注意されるのはデスが芸者や茶屋女の口から専ら聞かれたのが時代と共に一般的となりcのように令嬢までもが用いるようになったことです。cの女コトバに殺風景という単語も上流階級のインテリ女性の性格をしめしています。江戸末から明治にかけて、最も著しいのは〈デス〉でありますが、特殊語だったのが一般となり、標準的な東京語に定着するのです。bの母と娘の対話はほぼ当時の東京の中流家庭と考えてもよいでしょうから、これによってもゴザイマスが丁寧な言い方として標準的であり、デスはゴザイマスとダの中間的表現を受け持つという点で一般化していきます。~ワも江戸後期に既に見えるものですが明治に入って女性特有のひびきをつたえるものとして、一般的となるのです。


 一昨日は兼愛塾の忘年会で楽しい一時を過ごしました。爺爺が何かすると皆さんがそれぞれに気を使ってくれるので、大変有難いことなのではあるりますが、一層に歳を感じてしまいます。
 でも、久し振りの人にも会えたし、大変和やかな楽しい宴でした。
 今朝N君より写真を送ってきました。今年はアルバムの作成を諦めていたのですが、送ってきた写真を見ていると、アルバム作りに挑戦してみたくなりました。まあ、面倒でもボケ防止にもなることだし、どれぐらいで出来上がるか判らないですが、制作に乗りかかることにしました。


 


ウェブニュースより
 藤井四段、A級棋士の壁破れず NHK杯8強逃す ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が、10日放送の第67回NHK杯テレビ将棋トーナメントの3回戦で稲葉陽(あきら)八段(29)に敗れ、8強入りを逃した。名人挑戦権を争う「A級順位戦」に所属する一流棋士の壁は破れなかった。



 藤井四段は、タイトル戦の挑戦経験がある千田翔太六段(23)を1回戦で、「永世名人」の資格を持つ森内俊之九段(47)を2回戦で破った。事前に収録された今回の対局では、稲葉八段の巧みな攻めで守勢に立たされ、土俵を割った。通算成績は52勝9敗になった。
 藤井四段がA級の棋士と対戦するのは2回目だが、まだ白星をあげていない。15日には、朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)の2次予選で、A級の屋敷伸之九段(45)と対戦する。今年度中に優勝者が決まるトーナメントで勝ち残っているのは、朝日杯だけとなった。  (朝日新聞DIGITAL 201712101317分)
https://www.youtube.com/watch?v=U5MJZLhMRYs


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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