ウェブニュースより
九州場所2日目 稀勢の里が初白星 ―― 大相撲九州場所は福岡市の福岡国際センターで2日目の取組が行われ、初日黒星の横綱・稀勢の里は勢いに乗る新小結の阿武咲を破って初白星をあげ連敗はしませんでした。
中入り後の勝敗です。
十両の石浦に錦木は錦木が押し出しで勝ちました。
大奄美に妙義龍は妙義龍が寄り切り。
琴勇輝に豪風は豪風が押し倒し。
輝に安美錦は安美錦がはたき込みで勝ちました。返り入幕の安美錦は2連勝です。
隠岐の海に碧山は隠岐の海が寄り倒し。
勢に朝乃山は勢が押し出し。
魁聖に遠藤は遠藤が下手ひねりで勝ちました。
千代丸に大栄翔は千代丸が寄り切り。
正代に千代翔馬は正代が寄り切り。
栃ノ心に大翔丸は栃ノ心が寄り切りで勝ちました。
荒鷲に千代の国は荒鷲が引き落とし。
逸ノ城に宝富士は逸ノ城が寄り切り。
北勝富士に御嶽海は北勝富士が押し出しで勝ちました。
松鳳山に照ノ富士は松鳳山が寄り切り。大関復帰を目指す照ノ富士は2連敗と苦しいスタートです。
嘉風に千代大龍は千代大龍が押し倒し。
琴奨菊に大関・豪栄道は豪栄道が寄り切りで勝ちました。
大関・高安に栃煌山は高安が寄り切り。
貴景勝に横綱・日馬富士は貴景勝が押し出しで勝ちました。日馬富士は2連敗です。
新小結の阿武咲に横綱・稀勢の里は稀勢の里が突き落としで勝ちました。稀勢の里は2日目で初白星です。
横綱・白鵬に玉鷲は白鵬が送り出しで勝ちました。
各力士の談話 金星の貴景勝「何も覚えていない」
返り入幕で2連勝スタートの安美錦は、「相手の体がでかいのでしっかり当たろうと思った。まだ始まったばかり、毎日やるだけです」と笑顔を見せていました。
万全の相撲で2連勝の横綱・白鵬は、「余裕を持っていったが、全部よかった。結びの一番をしっかりしめることができた」と淡々と話していました。
2場所連続で横綱・日馬富士から金星をあげた貴景勝は、取組について「何も覚えていないですが身体が動いてくれてよかった。しかし、精神面はまだまだなのでもっと実力をあげないといけない」と気持ちを切り替えていました。
2連敗の日馬富士は「負けは負け、あしたまた集中してとります」としたうえで、「ショックか」という質問に沈んだ表情で「正直あります」と話していました。
初対戦だった阿武咲を下した横綱・稀勢の里は、イメージ通りかという問いに「そうですね、まあよかった」と淡々と振り返っていました。
敗れた阿武咲は、「気持ちを切り替えてきょうはきょう、あしたはあしたですね」と話していました。 (NHK WEB NEWS 11月13日 22時57分)
昨日から九州場所が始まりました。
ウェブニュースより
大相撲九州場所初日 稀勢の里と日馬富士の2横綱に土 ―― 大相撲九州場所は、福岡市の福岡国際センターで初日を迎え、3場所連続の休場から復活を期す横綱・稀勢の里と、連覇を目指す横綱・日馬富士の2人の横綱が敗れる波乱の初日となりました。
中入り後の勝敗中入り後の勝敗
十両の誉富士に返り入幕の妙義龍は、妙義龍が寄り切りで勝ちました。
錦木に新入幕の大奄美の初顔合わせの一番は、錦木が押し出し。
返り入幕同士の一番、琴勇輝に安美錦は、39歳、最年長で幕内に戻ってきた安美錦が上手投げで勝ちました。
豪風に輝は、輝が押し倒し。
隠岐の海に朝乃山は、朝乃山が寄り切り。
碧山に勢は、碧山がはたき込み。
魁聖に大栄翔は、魁聖が押し出しで勝ちました。
遠藤に千代丸は、遠藤が突き出し。
大翔丸に正代は、大翔丸が送り出し。
千代翔馬に栃ノ心は、千代翔馬が肩すかしで勝ちました。
宝富士に荒鷲は、荒鷲が小手投げ。
千代の国に逸ノ城は、逸ノ城が寄り切り。
照ノ富士に北勝富士は、北勝富士が押し出し。大関復帰を目指す関脇の照ノ富士は、黒星スタートです。
松鳳山に嘉風は、松鳳山が突き落としで勝ちました。
御嶽海に栃煌山は、行司軍配差し違えで御嶽海が押し出しで勝ちました。
千代大龍に角番の大関・高安は、高安が引き落とし。
大関・豪栄道に貴景勝は、豪栄道が押し出し。
横綱・稀勢の里に玉鷲は、玉鷲が押し出しで勝ちました。休場明けの稀勢の里は、押し相撲の玉鷲をつかまえることができず初日黒星です。
琴奨菊に横綱・白鵬は、白鵬が上手出し投げで勝ちました。
横綱・日馬冨士に新小結の阿武咲は、阿武咲がはたき込みで勝ちました。
九州場所は、初日から2人の横綱が敗れる波乱のスタートとなりました。
各力士の談話 安美錦「恩返しにつながる」
最年長の39歳で返り入幕を果たし初日白星の安美錦は「久しぶりに幕内に上がってきて、声援も大きくありがたいです。いい相撲を見せることが恩返しにつながると思って頑張ります」と時折笑顔を見せながら話していました。
初めての角番の場所で初日白星の大関・高安は「リラックスして、相手をよく見て相撲が取れました」と落ち着いた表情で話しました。
実力者の玉鷲をつかまえきれず敗れた稀勢の里は「状態は、そんなに悪くない」と悔しそうに話して会場を後にしました。
金星を挙げた玉鷲は「いい相撲だった。このまま行きたいですね」と満面の笑顔で話していました。
休場明けの初日白星スタートの横綱・白鵬は「いい緊張感で土俵に上がれた。一番一番、まだ始まったばかりだから」と余裕の表情で話していました。
新小結の初日で横綱・日馬富士を破った阿武咲は「最高です。相手の頭が下がっていたのがしっかり見えていました。土俵に上がれば信じられるのは自分だけなので、できることをやって勝ちにこだわっていこうと思っていました」と興奮気味に取組を振り返りました。
敗れた日馬富士は「足がついていかなかった。何も言い訳はできない」と言葉少なでした。
人気回復で満員札止め
九州場所は12日、福岡市の福岡国際センターで初日を迎え、およそ200枚用意された当日券は午前9時前には売り切れ満員札止めとなるなど、大勢のファンが会場を訪れています。
福岡県内の70代の男性は「3人の横綱が出るので楽しみです。体が小さいのに頑張っている日馬富士に期待したい」と話し、70代の妻は「白鵬もやっぱり強いし、稀勢の里も好きです。みんなに頑張ってほしい」と話していました。
名古屋市から来たという70代の男性は「新幹線で4時間、わくわくしながら来ました。やはり久しぶりの日本人横綱である稀勢の里に期待しています。ほかの横綱にもがんばっていただいて、稀勢の里が内容のある優勝をしてほしいと思います」と話していました。
一方、岡山県の60代の男性は「阿武咲や朝乃山も魅力があります。きょう、阿武咲は横綱戦だから楽しみにしています」と話し、横綱に挑む若手にも期待の声が聞かれました。
相撲人気の回復を背景に、九州場所の前売りチケットはすでに12日分が売り切れ、21年ぶりに15日間すべてで大入りとなることが確実な状況です。 (NHK WEB NEWS 11月12日 19時00分)
「物類称呼」では江戸よりまだ東国方言が多く、同書刊行から幕末までの約百年間が、江戸語から東京語への準備期間として一層重要な意味を持つことになるのです。しかし、「物類称呼」の序文にも述べられているように「都会の人物は万国の言語にわたりてをのづから訛少なし」という具合で、都市における言語の平均化が共通語的な性格を備えて全国へと広まっていくのです。
「物類称呼」からさらに「諺苑」や「俚言集覧」を見てくると、もうほとんどが江戸語=東京語と考えられるほどに成熟してきています。明和・安永から文化・文政のいわゆる江戸文学の爛熟期もこうした江戸語なしには到底咲き誇ることの出来ない文学でした。
次に二・三、江戸文学の中から生きたコトバを選んでみましょう。
◇遊子方言 明和七(1770)年・洒落本
〔通り者〕これこれ色男々々 〔むすこ〕いやこれはどぶでござります 此間先生と御噂申しました 〔通り者〕先生はさえぬはゑはゑ おまへどこへ行きなさる 〔むすこ〕伯父きの病気でおりまして見舞にさんじます 〔通り者〕ここはみんなが乗伊豆屋といふ舟宿だ 毎日おれも乗所だ こっちからのろを(中略) 〔船頭〕どこへつけますゑ申 〔通り者〕あがりましょあがりましょ とづつとあがり見せのまん中へ大あぐらにてすはる 大ぶ今夜はしづかだの 〔女房〕いゑまだ二階にお客が御座ります あなたはどなた様でござりましたね 〔通り者〕これはどぶだ これはこれはいかに久敷こないとて見わすれた顔はねいは しかしそふだあろ
※ 深川の女郎買いに行く発端のところ。商家の息子(色男)としったかぶった通り者の出会いです。
◇咄本 「福来すずめ」天明九(1789)年、「鬼外福助噺」文政二(1819)年
歯がた:無性に見栄をしたがる隠居、我とわが腕を食付き「コレ見やれ、年がよっても気に惚れたさうでかのなじみ奴が食付きをった」「此の歯形は女にしてはだいぶ大きいね」「そのははづ、笑いながわョ」
家見:ヲヤ太郎兵へ、てめへこゝへこして来たらいゝ所だ となりにはや桶屋はあるし、むかふは寺なりなんどきしんでも事はかゝねへな」 太郎「べら坊め、新宅へきてそんな気にかゝるを=ことをいふなへ ヲツトこいつはあやまった そんなら事をかくかく。
思い寝:朝寝ずきの息子 けふはいつにない早起きをしてはたらくゆへ親仁ふしぎにおもひ けさはなんとしてはやくおきたといへば むすこ けふは目黒へさそわれましたから参ふとぞんじまして おやぢ イヤイヤけふはならぬ 大分用があるとけちをつけられ むすこ なむさんしまった はやくおきてはたらいただけうまらねへ……。
多少コトバの色合いがちがいますが、青字で示したところは江戸語として通用するものです。〈色男・見栄・べら坊め・けちをつける〉などはいまでも生きたコトバとして東京の人の口にものぼるものです。オマヘ・アナタは現代とやや異なっていて敬意が強くなっています。ここで注意しておくのは、ナイ~ネイ・オマヘ~テメヘ(オメヘ)・ゴザリマス~ダ――というように常体と変体の二つの相がみられることです。この変体は江戸方言→東京方言へと流れていく一傾向なのです。式亭三馬が下司下郎の使う江戸訛りとこっぴどくきめつけているがこうしたコトバでした。大概をテーゲー、考えをカンゲー(ai→êとなまる)というのもみなこの種のナマリです。江戸っ子が啖呵を切る時に使う江戸の庶民語でもありました。
次に常体についてもう少し実例を挙げておきましょう。
◇咄本・口拍子(安永2〈1773〉年)
いてう:どうぞとゝ様ゆもじにめずらしいもやうを染てほしうござんす それはやすい事なにがよかろふ ソレソレいてうがよい。 イヤわたしやいてうはいやでござります。 デモいてうがよい ナゼとゝ様 そのよふにいてういてうとはをつしやります イヤサ虫がつかいでよい。
◇人情本・仮名文章娘節用(天保元〈1830〉年)
金「だんだんと事をお心ふかき御教訓きつと骨身にこたえましてありがとふござります(中略) あなたもずいぶんお身のうへを御大切に御養生なされおすこやかにおくらしなされてくださいまし 文「イヤそれはかくべつ おかめ(女名)もそちとおなじやうにちいさいときから共にそだち兄妹同様にくらしたから、今わかるゝもかなしかろが、これも定まる約束事 無分別の出ぬやうによくいとまごひしたがよい
前者は両家での親と娘の会話であり、後者は武家の親子の対話です。先に示したのと比べると言葉の調子もゆっくりとしており用語にも相違があります。ゆもじは文字詞(もじことば)といって女性専用のコトバで、腰巻のことですが、もともと京都の女官の間に発生した女房詞です。流れ流れて江戸に入り、江戸の上層町人や武家の子女の間で専ら用いられるようになりました。とゝ様も一般庶民はオトッアンであり、さらにくだればチャンですから、現代のオトウサマに当たる高いくらいのコトバなのです。〈をっしやります(言うの敬語)や〈虫がつかいで(虫がつかないで)〉などの表現はあきらかに上方語なのです.さらに後者の会話は折り目正しくかなり丁寧なコトバづかいです。おや御の用法も丁寧さと経緯をふくめてしっかりと用いられています。おすこやかにおくらしなされてくださりませ――など子から親へのコトバとして礼儀作法の観念なしには発することの出来ないコトバづかいでしょう。
こうした筋目正しいコトバが武士の家庭では普通に用いられていたわけです。子が親にアナタと呼びかけているのは多少異様に響きますが、これも江戸時代にはアナタがかなり敬意の高い代名詞であったことを考えれば納得できます。御教訓・御養生・無分別など適宜漢語が加わっているのも当時の知識人の一般傾向なのです。このような人々の口からはネイやテメヘなどの江戸っ子コトバは勿論、デスとかデアリマスなどの特殊語は聞かれないのです。
デス・デアリマス・ザアマスなど東京語としては一躍その中核にすえられますが、江戸後期~明治初年にかけては特殊語として常体でも変体でも聞かれず、主として遊女や芸者がもちいている(東京のいわゆる山手婦人の専用とするザアマスコトバの一源泉はこの特殊語にあるようです)ゴザリマス・ゴザンスも上方語系ですから、常体は上方語の伝統を生かした江戸語的なものという複雑な性格を持つのです。しかもこうした江戸語こそ正統なものとして東京語へ受け継がれ、代表的日本語としての光栄ある地位を獲得することになるのです。ただこれらのコトバ洗練された軽妙さにかけ、人間と人間が裸で話し合うコトバではありません。
そこへ行くと、
濁酒(にごりざけ)の粕食(かすくれへ)め とんだ奴じやァねへかい。是許(これんばかし)もいざァ云た事のねへ東子(あづまっこ)だ…… おれに取てかかったのが胸屎(むねつくそ)だ」(浮世風呂・文化六年)というような江戸っ子のコトバは卑俗ではありますが、その調子といい、表現といい長い年月に鍛えられぴちぴちと血が通っています。
江戸語を真正面から取り上げた辞典も出るようになり、江戸語を以って江戸っ子の意志や感情を発表することが出来るようになるのです。
辞典の第一が「志不可起」(渋柿、享保13〈1728〉年)――詳しいことはよく判りません――であり、続いて「物類称呼」(安永4〈1775〉年)・「諺苑」(安政9〈1797〉年)と現れ、最後に最もまとまった江戸語辞典として「俚言集覧」が刊行されます。
これら諸書に現れている江戸語あるいは関東方言についていくつかを紹介してみましょう。
◇志不可起(箕田熹貞著?)
●まうに……関東田舎ニテ物ノたくさんナルヲまうにト云、猛の字の義か(もーに……副多く たくさん。日立・信州・福島県・茨城県・栃木県など)
●ぎをん……江戸ニテねり物と云。田舎辺ニテハまつりト云ノカヘ名ノ意(群馬・千葉・福井)
●くたばる……関東ノ卑俗詞ニ人ノ死ヲくたばるト云(東京・神奈川など)
●つぼい……関東辺二かはゆいト云事ヲつぼいト云、莟花(つぼみばな)ト云義カ(仙台・千葉・茨木・長野)
●をつかない……関東ノ俗ニ恐ロシキヲをつかないト云(江戸初期より)現代東京語まで」
◇物類称呼(越谷吾山著)
●あぢなし……食物の味わひうすき也 今日江戸共に無味(あじなし)と云 但し江戸にてうまくなひともいふ也 東国にてまづい
●おそろし……畿内近国あるは加賀及四国などにておとろしいと云(中略)駿河辺より武蔵近国にてをつかないといふ
●ゆるやかに坐する事を……京大阪にて じやうらくむといふ 関東にてあぐらかくと云又ろくに居る共いふ
●焦臭(こがれくさい)……京にてかんこくさし 紙臭なり。 東武にて きなくさいといふ 木にてはないにほひといふ云こころ。 尾張遠江へんにて かんこくさいと云 京にをなし
●他の呼に答える語……関東にて あいと云 畿内にて はいと云 近江にて ねいと云 薩摩にて をゝと云 肥前にて ないといふ
●南瓜(ぼうふら)……西国にて ぶうふら(中略)えどにて先年は ぼうふらといひ、今はかぼちゃ云
●かまきり……江戸にて かまぎってう 江戸田舎で はいとりむし 相模にて いぼしり又いぼくひ
◇俚言集覧(作者不明・太田全斎か? 「諺苑」の増補と考えて「諺苑」は省略)
●麻布で気が知れぬ……此れは江戸の諺なり 江戸の麻布に六本木と云所あり 何処に六本の木ありてかく名づけしやらしる者なし……人の気のしれぬになぞらへて……。
●いなせ……江戸にてみやびをいふ
●因業者(いんごうもの)……江戸の俗語に鄙吝(ひりん)にして少しもおもひやりなき者をさして目する詞
●お家さん……大阪詞 江戸で云おかみさんなり
●きやん……江戸の俗語 少女のはすはなるをいふ
●てんやわんや……江戸の俗語なり
●いき……江戸方言 風流と云がごとし 然れども風流にあらず軽揚の意を云
●でも……江戸の俗語に多くつかふ
●一かばちかやってみろ ●狗もあるけば棒にあたる ●色をかへ品をかへ手をかへ品をかへ ●いきがけの駄賃 ●鼻の下が長い 痴人を云 ハナタラシともうん ●鼻にかける ●馬鹿につける薬がない ●春海秋山(はるうみあきやま) 江戸の諺 春は海晴れ秋は山晴れて晴天 ●箸にも棒にもかゝらぬ ●はれものにさはるやう ●はしかは命ち定め疱瘡はみめ定め
以上少数例しか挙げることが出来ませんでしたが、江戸後期の江戸語の一端は知られるでしょう。「志不可起」では江戸の用語も少なかったのが、「物類称呼」になって詳しくなります。特に後者では江戸・江戸田舎・江戸近辺と細かく地域によってコトバを分けている点が注意されます。現代の東京語には姿の見えないものがあるのは当然ですが江戸田舎とか江戸近辺、さらに東国のコトバなどは時と共に江戸語に入り東京語へと再編成されていきます。これは江戸の広がりとも関連がありましょう。
ウェブニュースより
聖火台の炎が消える? ―― 墨田区と台東区の境である隅田川沿いで、もっとも存在感を放つ建築物であろう金色のオブジェ。
ビールジョッキをイメージしたグループ本社ビル、そして東京スカイツリーと並んだ台東区の浅草側から望む風景は、東京の有名な撮影スポットのひとつです。
正式には「フラムドール(金の炎)」という作品で、下の逆台形型の黒いビル・スーパードライホールと併せて「聖火台」を表現しています。
「新世紀に向けて躍進するアサヒビールの燃える心の炎」を象徴し、1989(平成元)年に創業100周年記念の一環として制作されました。
輝きを放つうねうねとしたユニークな形状は長さが44メートル、重さ360トンの鋼材が用いられています。
10月下旬ごろから徐々に足場が組まれて灰色の囲いで覆われ始めると、ツイッター上では、形状の印象から「ついに水で流されるのか?」などとうわさが広がっていました。
正式には「フラムドール(金の炎)」という作品で、下の逆台形型の黒いビル・スーパードライホールと併せて「聖火台」を表現しています。
「新世紀に向けて躍進するアサヒビールの燃える心の炎」を象徴し、1989(平成元)年に創業100周年記念の一環として制作されました。
輝きを放つうねうねとしたユニークな形状は長さが44メートル、重さ360トンの鋼材が用いられています。
10月下旬ごろから徐々に足場が組まれて灰色の囲いで覆われ始めると、ツイッター上では、形状の印象から「ついに水で流されるのか?」などとうわさが広がっていました。
そんな前例もあり、今度こそついに解体かと疑惑が再燃。
真実は……「12月中旬ごろまでの予定で、塗り替え工事をしています」(広報担当者)。
オブジェ外観の塗り替えは、2005年に続き2回目。その際に塗った自浄機能を持つ塗料の機能強化も同時に行うそうです。
いったん姿を消した金色のオブジェは、再び輝きを放つ時に備えています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000114022.html
太宰春台は彼の晩年の随筆である「独語(ひとりごと)」の中で享保頃の江戸の様子を次のように描いています。
春台は儒者であり知識人ですから、彼の観察の対象もいささか上層階級に限られているかも知れません。ともかく、江戸が京都化してきたということは一つの傾向として、是認されてもよいでしょう。同じ儒者である室鳩巣も、
「只今江戸の繁盛、日本にては古今に無ㇾ之事に御座候」(享保七〈1722〉年)
と述べています。
既に西鶴の筆によって日本一の江戸が生き生きと描かれていましたが、江戸も中期・後期にかけて文化都市の面目も備えるようになったのです。
享保六年、江戸の人口は武家と町人を合わせて約73万5千人、天明七(1787)年の調べでは約128万5千人となっています。これらには出家・神主・遊女などは含まれていません。
その頃の世界主要都市の人口は、
ロンドン――約70万未満 パリ――約50万 ウィーン――約25万
ベルリン――約17万 モスコウ――約25万 ニューヨーク――約6万
となっていて、江戸が世界第一の人口を抱えた大都会になっていたことが知られます。
今までただ関東方言とか東国語(阪東語)と呼ばれていた方言の中から、新しく江戸のコトバが生まれてくるのもこの頃でした。厳密にいいますと江戸府内の確立と江戸府内のコトバの誕生とが表裏一体のものとして考えられなければならないのです。しかし江戸府内は上方や諸国からの人も多いわけでありますから、コトバは当然上方語と関東方言の二つを要素としているわけです。西鶴などによって描かれた上方語も江戸府内の通語の一つでした。ごく簡単に当時の上方語を見ると次のようです。
上のようなコトバが江戸府内でも聞かれたわけであります。人間や文化だけでなくコトバも上方的なものがえどにていちゃくするのです。チョロマカスのようなコトバも元禄の頃流行語として大阪に発生し――非常に大坂的です。チョロトゴマカスの短縮形で抄――書物や人間とともに江戸に運ばれてきたものなのです。コトバだけでなくそれを話す人間も一緒なのだからこれほど確かなものはありません。諺にしても現在の東京人にだって耳新しいものではあません。実際の話を次に二つほど挙げて参考にしましょう。
上の図版のa bは江戸落語の祖となった咄本から引用したものですが、aの●印は明らかに上方語です。関東ではダとかヨクとか言うのです。この他〈……しゃる・……さかいに・いうた〉などもごく普通にみえます。ただ、bで山家の者がベイを用いているところは注意されます。ほかの話にもやはりベイが見えますが、その他に〈ワグレ(お前)・デカバチナイ(大きい)・ツボッコイ(可愛いゝ)・ウッポレタ(とても惚れた)〉などの関東方言が見られます。こうした方言は現在でも関東地方や東北地方の方言の中に見出すことが出来るのです。概して江戸の中心部より遠い人々に現代から見て方言的なコトバを使わせている点は見逃せません。これは一面元禄の頃には関東方言の一部が府外に排除されて、江戸府内のコトバが独自なものとして創造されてきたことを物語るものでしょう。
元禄七(1694)年刊の咄本「正直咄大鑑(しょうじきばなしおおかがみ)」に、
商人の売物にねをつけてまけたるとき、かわぬを江戸ことばにしゃうべんのするといふ。
として、一つの笑話が語られていますが、〈しゃうべん(小便)のする〉を「江戸ことば」と規定していることは注意されます。
元禄頃にいよいよ江戸府内のコトバ=江戸語が確立したのを知るのです。小便スルということばは東京人ならば現在でも通用する身近な慣用句でしょう。これは生活と切り離すことの出来ない生きたコトバであっからでしょう。
ちょうど浮世絵師・吉兵衛こと菱川師宣が治兵衛・太郎兵衛・庄兵衛というようなベイベイ絵師を乗り越えて日本絵師モロノブとなったように、ベイやアンダルなどの関東方言の府外排除と江戸語(府内)の成立とは、こうして表裏一体のものであったのです。
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藤井四段「全力でぶつかっていく」深浦九段と対戦 ―― 将棋の第3期叡王戦本戦の組み合わせが1日、決定した。四段戦予選を制した史上最年少プロの藤井聡太四段(15)は、トーナメント1回戦で深浦康市九段(45)と対戦する。
インターネットテレビ局「Abema(アベマ)TV」の番組企画で激突し、藤井が勝っている。公式戦では初対局となる。今日2日は順位戦C級2組6回戦で脇謙二八段(57)との対局を控えている藤井は、「1つでも多く対局できるよう、全力でぶつかっていきたい」とコメントした。対する深浦は、「注目の棋士が相手。しっかり対策を練りたい」と話した。
叡王戦は今年5月にタイトル戦に昇格。四段~九段の各段位別予選(枠は四段1、五・六・七段2、八段3、九段5)で勝ち上がった15人が本戦に進出。これに、前期優勝で本戦シードの佐藤天彦を加えた16人で今期はトーナメントを行う。決勝進出の両者による7番勝負でタイトル戦を行う。
本戦1回戦の組み合わせは、豊島将之八段対高見泰地五段、渡辺明竜王対佐藤秀司七段、藤井猛九段対丸山忠久九段、小林裕士七段対近藤誠也五段、行方尚史八段対澤田真吾六段、深浦康市九段対藤井聡太四段、金井恒太六段対佐藤天彦叡王・名人、北浜健介八段対佐藤康光九段。 [日刊スポーツ 2017年11月1日20時52分]
藤井四段50勝王手「残り4戦も全力」順位戦6連勝 ―― 公式戦29連勝の新記録を樹立した将棋の最年少プロ、藤井聡太四段(15)が2日、大阪市の関西将棋会館で指された76期順位戦C級2組6回戦で脇謙二・八段(57)を70手で破り、6戦全勝とし首位をキープした。公式戦通算49勝(6敗)。大台の50勝に王手をかけた。対局後、高校進学を決断した背景を語った。
進路を決定後、初の対局を白星で飾った藤井は「軽率な一手もあり、苦しい場面もあった」と振り返り、順位戦6連勝に「ここまで全勝でくることができたので残り4戦も全力を尽くしたい」と話した。順位戦C級2組は各自10局を戦い、上位3人が昇級する。
藤井は愛知県有数の進学校である中高一貫校の名古屋大学教育学部付属中学3年に通うが、高校進学か、将棋1本に専念するか迷っていた。10月25日に日本将棋連盟を通じ、来年4月に高校に進学することを発表した。
対局後、藤井は「(進路を決めても)対局に臨む上では同じ気持ちです。とくに変わったことはないです」と冷静に話した。高校進学を決めた背景として「これからの3年間で将棋が強くなることはもちろんですが、その上でいろいろなことを吸収していきたいなと思いました」。将棋とは違う世界からも貪欲に吸収したいと姿勢を持ちたいと強調した。
学業との両立により将棋に当てる時間の制約ができるが「その中で集中してやれば強くなれると思っています」とキッパリ。「かなり悩んだ? 強くなるためには、これからが一番大事な時期だったのである程度、考えました」。中学生棋士は人生の岐路での選択に多くの時間をかけたことを明かした。 [日刊スポーツ 2017年11月2日21時30分]
https://www.youtube.com/watch?v=-nB52Ku629E
昨夜、MM女史に電話してみました。Facebook のタイムラインに投稿がありました。曰く
お電話ありがとうございます✨☀
お声聞けて感激です。嬉しいです遊びに伺います。 10月31日 19:56
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「世界の記憶」に「上野三碑」と「朝鮮通信使」 ―― 後世に残す価値のある歴史的資料を対象にしたユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に、国内候補の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」(群馬県)が登録された。日韓の団体が共同申請した「朝鮮通信使に関する記録」も登録が決まった。ユネスコが31日未明(日本時間)に発表した。一方、第2次大戦中に多くのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝(ちうね)の資料(杉原リスト)は登録されなかった。
上野三碑は、飛鳥時代~奈良時代前期、今の高崎市内に建てられた「山上(やまのうえ)碑(ひ)」「多胡碑(たごひ)」「金井沢碑(かないざわひ)」の総称。朝鮮半島からの渡来人との交流から生まれたものとされ、漢字や仏教の広がりなど東アジアの文化交流を示す資料だ。
朝鮮通信使は朝鮮王朝から日本に派遣された外交使節団。豊臣秀吉の朝鮮出兵で両国の交流は途絶えていたが、江戸幕府が対馬藩を介して交渉し、1607年に朝鮮国王が使節団を再派遣して以降の約200年にわたる交流の記録が対象だ。韓国の釜山文化財団とNPO法人・朝鮮通信使縁地連絡協議会(長崎県対馬市)が共同で申請した。
落選した杉原リストは、日本ユネスコ国内委員会が初の公募で絞り込んだ2件のうちの1件。同委員会の関係者は「なぜ登録されなかったのか理由も公表されず、再申請するとしてもどう改善すればいいのか現時点では全く分からない」と困惑する。今回の結果は、今後国内選考の基準にも影響しそうだ。
■慰安婦資料は「保留」
今回の「世界の記憶」には、日中韓などの市民団体が旧日本軍の慰安婦に関する資料を申請。一方、日米の民間団体なども旧日本軍が慰安婦を規律正しく扱ったとする資料を申請していたが、ユネスコはともに「登録保留」とし、話し合いを促す形になった。
2年前の前回、中国が申請した「南京大虐殺の記録」が登録され、日本政府が反発。ユネスコは今月、多国間で意見が異なる案件はまとまるまで審査を保留する制度を次回から導入することを決議した。菅義偉官房長官は記者会見で「決議を踏まえて、適切な対応がされた」と述べた。
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〈世界の記憶〉 歴史的な文書、絵画、音楽、映画などを保存、後世に伝える目的で1992年に始まった。世界文化遺産・自然遺産や世界無形文化遺産と違い、国際条約に基づかず、個人や団体でも申請できる。国内委員会は公募を経て2件に絞り込むが、他国の団体などとの共同申請は対象外。「アンネの日記」や「マグナ・カルタ」など登録件数は前回までに計348件。国内では「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」「御堂関白記」「舞鶴への生還」など5件。
FacebookにMM女史からのメッセージが届いていました。最近撮ったと思われる写真もあったのでブログに転写します。
お元気でいらしゃいますか?道子先生は、如何ですか?
台風が、週末ごとにやって来ます
これから、寒くなります。ご自愛下さいませ
Facebookの使い方がよく判らないのでコメントは書きませんでしたが、私はどうやら生きています。女房も最近は手押し車を押しながら外出できるようになりました。相変わらずおさんどんは私がやっています。メッセージどうもありがとう。
元禄の江戸
江戸も次第に整備され、京阪を中心とする元禄文化の花が咲き誇る頃には、ここもまた一つの性格を持った独立都市としての面影を示してきたのです。
開幕から約百年を経た元禄の頃でした。江戸時代きっての小説家・井原西鶴の妙筆によって次のように描き出されています。
いくぶん誇張はあるでしょうが「国土万人が江戸商ひをこころがけ」て諸国より江戸に集まってくる様子は見事なものであったでしょう。町の繁盛も寶の市と表現していて、如何に江戸が活気に満ちたとかであるかが分かります。西鶴の筆はさらに続きます。
江戸は武士の都として、膨大な武士群を抱え込んだ偉大消費都市でもありました。これを相手にする町人も次第に腹が大きくなり、宵越しの金を持たぬ江戸っ子気質も作り出したのです。破魔弓一つを小判に令で買うとなると銀に直して百二十六匁です。当時、雇われ乳母の一年の給金が銀約八十五匁ですから、女中なら一年に二人も雇える勘定になります。
三河武士の総領・徳川家康は大のケチン坊であり、その家臣も控えめの人々だったということですから、かなりの変化といっていいでしょう。
ともかく「銭は水のごとく、白銀は雪のごとし」という表現に、如何に江戸が消費都市として全国的な繁栄を一つに集めてきたか伺い知ることが出来るのです。しかも日本橋を行き来する人の足音が百千万の車の轟をおもわせるほど、庶民たちの活動のはげしい天下の町人の都となってきたのです。
当時の人口ははっきりとは判りませんが、約35万はあったと思われます。城下町としての江戸の発展、経済都市としての江戸の繁盛――最早江戸は十七世紀半~十八世紀にかけて実質的にも日本の中心地としてその基礎が確立されたのです。西鶴の妙筆はさらにつづきます。
「江戸は大晦日になると雪駄(せった)が一足もなく足袋、片方もないほどの売れ行きを示し、橙(橙)一個二歩(にぶ)でも――京都、大阪の人なら高くて買わないが――買わぬことがないほど大名気分になっている。京大坂に住みなれて心の小さいものにはうかがい知れぬほど江戸はぬきんでてきたのだ」と。
sechin@nethome.ne.jp です。
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