『万葉集』の歌は、ごく少数の戯笑的作品以外は、本文表記にどんな漢語が使用されていても、必ず和語で読まれていたはずです。
展轉 戀者死友 灼然 色庭不出 朝容皃之花
(万葉集巻一〇 2274)
「展転」「灼然」などの漢語を音読することは勿論許されません。これらの漢語は万葉語として何と和訓すればよいのでしょう。現在この一首は、
こいまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく
色には出でじ 朝顔の花
という歌であったことが明らかになっています。
『万葉集』には「灼然」という漢語が全部で13か所使われていると言いますが、すべて形容詞「いちしろし」の表記と認めて差し支えないそうです。
道の辺の 壱師の花の 灼然(いちしろく)
人皆知りぬ わが恋妻は
柿本人麻呂 万葉集巻一一 2480
第三句の「いちしろく」は上から「いちしの花のいちしろく」と同音の連続法を用いて導いた序詞なのです。「灼然」はイチシロシのほか、アキラケシ(『類聚名義抄』)などとも読める文字ですが、この歌の「灼然」が「壱師の花のあきらけく」では上二句の序詞が機能していないことになります。
この歌の「灼然」を鎌倉時代の写本に「いちしるく」と読んでいるものがあるそうです。「いちしろく」という語形は、平安時代のごく初期にはもう「いちしるく」という形ににもなっていたようです。「いちしろし」から転じた「いちしるし」が、中世期に「いちじるし」と濁音化するのです。万葉語の「いちしろし」から現代語の「いちじるしい」まで千数百年の語史は理解を絶するほどいちじるしいものではありません。
ウェブニュースより
和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに ―― 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。
発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。
和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。
ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。
■解読案
われによりおも
ひくゝ(または「る」)らむしけい
とのあはすや(み)
なはふくる
はかりそ
※(み)は欠損部分のため推定 (朝日新聞DIGITAL 2017年8月25日21時25分)
Facebookに、塾友のMN女史が仁科の写真を投稿していました。
ここは、20数年前まで、毎年七月下旬から八月上旬にかけて、兼愛塾が2週間の臨海学校を行っていたところです。懐かしがって今でも何人かの塾友が訪ねているようです。
懐かしいので、みんなで泳いだ大浜海岸と宿舎であった長松寺の写真を転写させていただきました。
今年は友人達と一緒に西伊豆仁科へ。
30年も前に(もっと前からかな)毎年二週間以上も過ごしていた場所を訪れ、みんなで懐かしんで参りました
やっぱり仁科はいいなぁ Facebookより
原文 若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國
訓読 若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに
作者不詳 万葉集巻十一 2542
現代語訳 新妻と手枕を交わしてから、一夜も逢わないで居られようか、憎くもないものを
この歌の表記が「憎く」という語を「二八十一」と書いているところが興味深いです。作者は明らかに掛け算の「九九」をしていたはずです。「八十一」は「九九」、したがって「二八十一」で「憎く」というのです。
『万葉集』には、その他に、鹿や猪を表す語「しし」を「十六」、十五夜の「望月」を「三五月」と書いたり、助詞の「し」あるいは助動詞「き」の連体形「し」を「二二」と書いた例もあります。
原文 …… 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 ……
訓読 …… 万代(よろづよ)に 斯(か)く二二(し)知(し)ら三(さむ) 三(み)吉野の 秋津(あきづ)の宮は …… 笠朝臣金村 万葉集巻六 907
現代語訳
…… 継ぎ継ぎと万代までにこのように統治なされる吉野の秋津の宮は、……
ここには意識的に数字が列挙されています。
ミという和語の数詞、サムという漢語の数詞、「二二が四」の掛け算など、あたかも万葉知識人の数知識を展示したような表記であります。
「一一が一、二二が四」と数えながら、この数え方を「九九」と呼んでいます。「いろはにほへと……」を「いろは」と略称せずに「せすん」と呼んでいるようなもので、いささか奇妙ではありませんか。「一一が一」に始まる数え方がなぜ「九九」なのでしょうか?
古い形式の「九九」は文字通り「九九=八十一」から数え起こしました。「九九=八十一、八九=七十二、七九=六十三……三九=二十七、二九=十八。八八=六十四、七八=五十六、六八=四十八……二八=十六」と数えてきて、最後が「……二二=四、一一=一」で終わります。さればこそ、「九九」だったのです。十世紀の「口遊(くちづさみ)」という書物に、上の順序を列挙し、「之を九九と謂ふ」と注記した明証があります。十五世紀の『拾芥抄』所載の「九九」の表も順序は同じです。
「九九」はもともと中国の算法で、古来「九九八十一」に始まる方式が行われていたといいます。万葉人の習い覚えた「九九」も当然この方式でした。中国では元・明の算書に「一一」と下から数える順序を載せているということであるが、日本では十五世紀になってもなお「九九八十一」型であったことは『拾芥抄』所載の「九九表」によって明らかです。江戸時代の算書には既に「九九八十一」から始まる方式は載っていませんから、およそ十五世紀後半以降江戸時代初期あたりまでに新しい「一一が一」型の普及を見たのでしょう。
狂言に『二九十八』というのがあります。
ここの「九九」は「九九八十一」型であったのでしょうか、「一一が一」型であったのでしょうか?
ウェブニュースより
藤井四段 中学生タイトル獲得消滅「まだまだ実力不足」と淡々 ―― 中学3年生の最年少棋士・藤井聡太四段(15)が24日、関西将棋会館で指された棋王戦本戦で豊島将之(27)八段に敗れた。同棋戦の敗退により、藤井四段が中学生でタイトルを獲得する可能性は事実上なくなった。通算成績は38勝4敗。局後「まだまだタイトルには実力不足。一歩一歩強くなっていきたい」と淡々と語った。
藤井四段は中学生での獲得の可能性があった竜王戦、王将戦でもすでに敗退。さまざまな記録を打ち立て、今期の勝率でも独走状態だが、A級棋士の壁は高かった。対局した豊島八段は順位戦で最上位のA級に羽生善治三冠、渡辺明竜王らとともに在籍するトップ棋士。藤井四段が公式戦でA級棋士と対局するのは初めて。藤井四段は差を広げられ「読みの深さ、実力の差というかA級の壁を改めて感じました」といつも通り、淡々とした様子で振り返った。現在勝ち進んでいる叡王戦はタイトル戦の七番勝負が来年3月から5月にかけて予定されており、中学生でタイトルに挑戦する可能性は残されているとはいるが、叡王戦の七番勝負が本年度中には終わらない見通しのため、中学生でのタイトル獲得の可能性は事実上なくなった。
https://www.youtube.com/watch?v=rl6Z5zBOkPQ
https://www.youtube.com/watch?v=FotJ9aJ5C6I
この日は夏休み最後の公式戦。将棋に打ち込んだ夏を「トップの先生に教わることができて、トップの強さと自分の実力不足を痛感した」と総括した。次回は9月2日に井出隼平四段(26)と加古川青流戦で対局する。 (デイリースポーツ 2017年8月24日 21時58分)
ウェブニュースより
藤井聡太四段、朝日杯で熱戦制し連勝「粘りが奏功した」 公式戦38勝目 ―― 将棋界最多の29連勝を達成した最年少棋士、藤井聡太四段(15)は22日、大阪市福島区の関西将棋会館で行われた朝日杯将棋オープン戦1次予選で、大石直嗣六段(27)、竹内雄悟四段(29)を連破し、ブロック別トーナメント進出を決めた。公式戦通算38勝(3敗)となった。
1局目の大石戦を166手で制した藤井四段。
https://www.youtube.com/watch?v=WhGZ5kJvc9s
2局目の竹内四段戦も接戦となり、藤井四段が巧みに差し回して146手で制した。
https://www.youtube.com/watch?v=wcoGermUPeA
終局後、藤井四段は「苦しい将棋でかなり負けに近づいた局面もあったが、勝てたのは非常に幸運だった。粘りが奏功した」と振り返った。
また、1局目の大石戦については「序盤から難しく、途中で良くなったと感じたが、また難しくなってしまい、(勝敗は)最後まで分からなかった」と語った。
藤井四段は24日、タイトル戦の棋王戦本戦で豊島将之八段(27)と対局する。豊島八段は5クラスある順位戦で最上位のA級に属し、藤井四段が公式戦でA級の棋士と対戦するのは初めて。今後を占う重要な一局となりそうだ。
藤井四段は「A級の先生に公式戦で教わるのは楽しみ。いい将棋にできるよう、全力でいきたい」と意気込んでいた。
和歌(やまとうた)の原則は和語(やまとことば)にあります。
『万葉集』の歌は「光儀」「乾坤」「黄葉」「慇懃」「丈夫」「猶預」等々おびただしい数の漢語を駆使して表記されていますが、それらはみな「すがた」「あめつち」「もみち」「ねもころ」「ますらを」「たゆたふ」といった和語を中国風に表意した用字でして、音読させるための表記ではないのです。
純粋に音読したと認められる語は、和語には絶対翻読できない語、すなわち「餓鬼(がき)」「布施(ふせ)」「法師(ほふし)」「壇越(だにをち)」「婆羅門(ばらもん)」あるいは「塔(たふ)」「香(かう)」など、仏教関係の語を中心とするもの少数しかありません。
例えば、「双六(すごろく)」は外来の遊戯でしたし、「過所(くわそ)」は当時の法制用語で、現代で言えばパスポートに当たるものでした。
過所なしに 関飛び越ゆる ほととぎす
都が子にも やまず通はむ
万葉集巻一五 3754
ほととぎすがパスポートなしに関所の空を越えて行くとは、ずいぶん奇抜な発想です。「過所(くわそ)」などと言う固い漢語はこのような奇抜なうたのなかでこそ使って面白がられのです。
『万葉集』の漢語は人を面白がらせるために使われたということを確かめるには、漢語の歌の集中する巻十六が絶好の資料となります。
法師らが 鬚(ひげ)の剃(そ)り杭 馬繋ぎ
痛くな引きそ 僧〈ほふし〉は泣かむ
万葉集巻十六 3846
壇越(だんをち)や しかもな言ひそ 里長が
課役(えつき)徴(はた)らば 汝(いまし)も泣かむ
万葉集巻十六 3847
前者は「戯れに僧を笑ふ歌」、後者は「法師の答ふる歌」です。お互いに相手を笑いのめして喜んでいるのです。
我妹子が 額に生ふる 双六(すぐろく)の
こと負(ひ)の牛の 鞍の上の瘡(かさ)
安倍子祖父 万葉集巻十六 3838
無心所着歌――意味の通じない歌の詠みくらべで優勝した歌だといいます。
「私の妻の、額に生えている、すごろく。荷運びの牡牛の、鞍の上のかさぶた」なんのことか意味不明です。敢えて、勘ぐれば「おらのかみさんの、丘に生える、草の茂み。丈夫なその中央の、繊細な部分を(布で)巻いて隠すんですわ」とでもいうことでしょうかね。これ以上は詮索しないことにします。
一首の中に「香、塔、厠、屎、鮒、奴」の六つを読みこんだ遊びの歌だってあります。
香(こり)塗れる 塔にな寄りそ 川隈(かはくま)の
屎鮒(くそふな)食(は)める 甚(いた)き女奴(めやっこ)
長意吉麻呂(ながのおきまろ) 『万葉集』 巻十六 3828
(お香を塗っている仏塔には近づくな。
川を曲がったところの人糞を餌にしている鮒を食うような ひどい臭いの女奴よ)
思うままにならない双六の賽は、一から六まで目が六つあります。他愛もない事とは言えその数を一つも漏らさずに賽の目の歌を見せようとすれば、相応の才気が必要です。
一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ)
四(し)さへありけり 双六の賽(さえ)
長意吉麻呂 『万葉集』 巻十六 3829
こんなそんなで、戯れに作るような歌ならば漢語の使用も許容されていたことが凡そ判ると思います。
歌ことばの表記に漢籍から学んだ熟字をもって宛てる用字法は、『万葉集』の好んで行うところです。
例えば「慇懃(いんぎん)」という熟字がそうです。
原文 慇懃 憶吾妹乎 人言之 繁尓因而 不通比日可聞
訓読 ねもころに 憶(おも)ふ 吾妹(わぎも)を
人言(ひとこと)の繁きによりに淀む頃かも
作者不詳 萬葉集巻十二 3109
現代語訳 心からねんごろに懐かしく思う私の愛しい貴女よ。
貴女への人の噂話がうるさいので、
訪問が途絶えがちの今日この頃です。
後世ではネンゴロと読みますが、万葉時代の語形では「ねもころ」ですから、ここでも「ねもころ」、下に助詞の「に」を補充して初句は「ねもころに」と解読されます。「インギンニ」と読んだのではないかと疑うのは現代人の感覚で通用しません。
原文 三芳野之 真木立山尓 青生 山菅之根乃 慇懃 吾念君者……
訓読 み吉野の 真木立つ山に 青く生(お)ふる
山菅(やますげ)の根の ねもころに 我が思ふ君は……
作者不詳 万葉集巻一三 3291
現代語訳 美しい吉野の立派な木が立つ山に青く花咲く
藪蘭の根のように、
秘めやかに懇ろに私が慕う貴方は……
※ 冒頭の 部は「ねもころに」の「ね」を導き出すための序詞(じょことば)です。
この歌などは、インギンニでは、ネモコロの「ネ」を導き出す長い修飾の序詞が無用の長物と化してしまいます。
万葉集巻五に「松浦河に遊ぶ序」という一文があります。
序も後続の歌も大伴旅人か山上憶良の作と言われていますが、いずれにせよ、作者は肥前国東松浦郡玉島川の景勝を仙境に見立て、そこの美女と相聞歌を交わすという『遊仙窟』模倣の跡著しい趣向を試みています。
歌序、続いて歌という形式においては、歌序の詞句を踏まえて歌が作られます。
松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ
萬葉集巻五 855
(松浦川 川瀬光り輝き 鮎を釣る 乙女子の裳裾が 濡れいる)
佐々木信綱(1872~1963年、日本の歌人・国文学者)の『評釈』に「清らかな松浦川の瀬は、娘子の姿をうつして光るばかりである。娘子は赤裳の裾の水に濡れるのも忘れて釣りを垂れてをる。まさに一幅の画である」と言います。
川の瀬が光っているのは、「河水が早く流れて波立つので光るのではありません。「鮎のさ走る光」でもありません。歌序に示された美女の「光るばかりの容姿」を映して光っているのです。「光るばかりの容姿」、漢文の序には「光儀」と書いてあります。
「光儀」は中国の詩文に典拠を持つ熟字です。「松浦河に遊ぶ序」の作者はこの熟字を使って美女の容姿を「光儀無匹(たぐひなし)」と表現したのです。「松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると……」という歌詞の方から逆に推測を加えますと、作者は歌序の「光儀」をヒカルスガタと翻読していたとも考えられるのです。「儀」一字で十分スガタと読めるのです。院政期の辞書「類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)」に明記されている古訓であり、『万葉集』にもスガタと読まねばならない「儀」が数例あります。
同時に『万葉集』には。「光儀」二字をもってスガタとよまれた例が、十一例あると言います。
原文 外目毛 君之光儀乎 見而者社
吾戀山目 命不死者
[一云 壽向 吾戀止目]
訓読 外目にも 君が姿を 見てばこそ
我が恋やまめ 命死なずは
[一云 命に向ふ 我が恋やまめ]
作者不詳 万葉集巻十二 2883
現代語訳
遠目にでもあなたの姿を見たならば私の恋も静まるでしょう。
それまでにこの命が絶えていなかったら・・。
※一説に、下の句は「命に向かふ我が恋止まめ」で、命がけの私の恋もおさまるだろう、の意となります。
原文 吾妹子之 夜戸出乃光儀 見而之従
情空有 地者雖踐
訓読 我妹子が 夜戸出の姿 見てしより
心空なり地は踏めども
作者不詳 萬葉集巻十二 2950
現代語訳
妻がこそこそと夜に外出する姿を偶然見てしまった
それからというもの私の気持ちは上の空で足は地につかなくなった
かつて、『万葉集』の「光儀」について、「儀」一字だけでは姿の美しさを表すの物足りないと感じた万葉人が特にその美しさを「光」ていう文字によって捕そくした、多分に意識的な「文学的用法」なのだと説明されたこともありました。姿の美しさを「光」の字で示したかったという心理はわかるのような気がしますが、「光儀」という字面自体は中国の熟字であって、万葉人の着想とは言い得ないのであります。
一昨日は、8月15日は72回目の『敗戦の日』でした。
昭和天皇の「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」の声を、テレビやラジオで何度も耳にしていますが、よく考えてみると、全文がどんな内容であるのか、聞かされた事もないし、習った記憶もないという人が多いのではないでしょうか。
あの敗戦が決定した日に、当時の日本人の耳に届いた昭和天皇の声(玉音放送)が、何を語っていたのか、よく理解できますよう、全文を掲載したいと思います。この詔勅を読めば、何故この終戦の詔(みことのり)が「昭和の聖断」と呼ばれたか、初めて納得が行くことでしょう。分量にして、一二〇〇字足らず、四百字詰め原稿用紙で三枚程度でありますが、それだけの短い文脈に込められた心は、あたかも今日の日本の有様を、既に七十年以上も前に予期していたかのようです。声涙くだる苦難に満ちた、やるせない痛みに縁取られた詔勅ではあります。
『大東亜戦争終結ノ詔書』原文(昭和20年8月14日)
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ (御名御璽)
*現代語訳
『余は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと欲し、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。 余は帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、余はそれをつねづね心がけてきた。先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより余の志すところではない。
しかるに、交戦状態はすでに四年を過ぎ、余の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、余のすべての官僚役人の精勤と励行、余の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。そのようになったならば、余は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。以上が、余が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。
思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。汝ら臣民の真情も、余はそれをよく知っている。しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
https://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo
ウェブニュースより
藤井四段、王位戦予選で初戦突破 小林九段を破る ―― 公式戦29連勝の新記録をつくった将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が15日、8大タイトル戦の一つ、王位戦の予選トーナメント1回戦で小林健二九段(60)に勝ち、2回戦進出を決めた。通算成績は36勝3敗となった。
来年夏の七番勝負の挑戦者を決める戦いの初戦で、大阪市福島区の関西将棋会館で対局があった。今年の七番勝負は現在、羽生善治王位(46)と挑戦者・菅井竜也七段(25)で争われている。
この日、藤井四段は序盤から巧みな指し回しをみせ、故・板谷進九段一門の先輩にあたる小林九段を押し切った。終局後のインタビューで「序盤に一歩得になったが手損も大きく、中盤は難しかった。最後になって勝ちが見えた。王位を目指して一局一局がんばりたい」と話した。気合を入れようと和服で対局に臨んだ小林九段は「途中盛り返せるかとも思ったが……強いですね。来月も対局があるので、次は勝ちたい」と語った。
藤井四段は昨年12月のデビュー戦から今年6月まで公式戦負けなしの29連勝を達成。新人ながら30年ぶりに歴代1位の連勝記録を塗り替えた。
次の対局は22日。朝日杯将棋オープン戦の1次予選2回戦で、大石直嗣六段(27)と対戦する。勝てば午後2時からの3回戦で竹内雄悟四段(29)と戦う。 (朝日新聞DIGITAL 2017年8月15日18時51分)
https://www.youtube.com/watch?v=84sEvS2_v-o
sechin@nethome.ne.jp です。
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |