サツマイモ(薩摩芋)は、ヒルガオ科サツマイモ属の植物です。あるいはその食用部分である塊根(養分を蓄えている肥大した根)をいいます。別名に、甘藷(かんしょ)、唐芋(からいも、とういも)、琉球薯(りゅうきゅういも)、とん、はぬす等があります。近縁の植物に、アサガオやヨウサイ(アサガオ菜)があります。
原産地は南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方とされます。大航海時代にコロンブスが1498年にベネズエラを訪れて以降、1519年にはポルトガルのマゼランがスペイン船隊を率いて南端のマゼラン海峡を発見し、16世紀に頻繁に南アメリカ大陸にやってきたスペイン人或いはポルトガル人により東南アジアに導入され、ルソン島(フィリピン)から中国を経て1597年に宮古島へ伝わり、17世紀の初め頃に琉球、九州、その後八丈島、本州と伝わった。アジアにおいては外来植物である。中国(唐)から伝来した由来により、特に九州では唐芋とも呼ばれる場合が多い。
サツマイモがフィリピンから中国に伝来したのは1594年です。同年、宮古島の村役人、長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が首里王府への帰途に逆風で中国に漂着し、1597年に中国を出発したが今度は九州に流れ着き、それからようやく帰島しました。この時に宮古島へ苗を持ち帰ったのが日本最初の伝来となります。旨屋は栽培の普及に努め、島では主食となるほどに広まりました。死後はンーヌ主(芋の神様)として御獄に祀られています。ただし伝承の考察から、実際には1618年ではないかという推測もあります。宮古島から沖縄本島へは伝播しなかった。沖縄では1612年の与那国島、1694年の石垣島など、それぞれの島ごとに中国から、本島とは関係なくばらばらに伝来し、その島内では急速に普及が図られるものの、他の島へ伝えるのは消極的でした。2013年現在、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神を祭っています。
1604年、当時の琉球王国(現在の沖縄県)沖縄本島に伝わります。明への進貢船の事務職長(総管)であった野國総管(与那覇 松)という人物が明(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まりました。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統であるといいます。
1698年(元禄11年)3月、種子島に伝わります。領主種子島久基(種子島氏第19代当主、栖林〈せいりん〉公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じました。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したといいます。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建っています。
1705年(1709年とするものもあり)、薩摩山川の前田利右衛門は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになりました。前田利右衛門を祀る徳光神社には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられています。
1711年、薩摩を訪れた下見吉十郎が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の伊予国瀬戸内海の大三島での栽培を開始しました。1732年、享保の大飢饉により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなりました。
八代将軍・徳川吉宗の当時、儒学者として知られていた青木昆陽が、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直により町奉行・大岡忠相に推挙され、幕府の書物を自由に閲覧できるようになりました。昆陽は同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上しました。
1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の馬加村(現千葉市花見川区幕張町)、上総の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培し、1735年栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようになります。ただしサツマイモの普及イコール甘藷先生(青木昆陽)の手柄、とするには異説もありますが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実です。
ジャガイモ(馬鈴薯〈ばれいしょ〉、英: potato)は、ナス科ナス属の多年草の植物で、デンプンが多く蓄えられている地下茎を食品として利用します。
ジャガイモの原産は南米アンデス山脈の高地といわれ、16世紀には、スペイン人によりヨーロッパにもたらされました。この時、運搬中の船内で芽が出たものを食べて、毒にあたったため「悪魔の植物」と呼ばれたといいます。
日本へは諸説ありますが、オランダ人やオランダ造船によって1598年に持ち込まれたとの説があります。オランダ領ジャワ島の現ジャカルタ(当時、ジャカトラ(Jacatra))を経由して伝来したため、ジャガタライモと呼称されたといいます。江戸時代後期の18世紀末にはロシア人の影響で北海道・東北地方に移入され、飢饉対策として栽培されたといいます。蘭学者の高野長英はジャガイモ栽培を奨励しているといいます。また、江戸後期には甲斐国の代官であった中井清太夫がジャガイモ栽培を奨励したとされ、享和元年(1801年)には小野蘭山が甲斐国黒平村(甲府市)においてジャガイモの栽培を記録しています(『甲駿豆相採薬記』)。また、アイヌの人々もジャガイモを栽培していたといいます。
本格的に導入されたのは明治維新後で、北海道の開拓に利用された。当初は西洋料理の素材としての需要であったが、洋食の普及とともに、徐々に日本の家庭料理にも取り入れられるようになっていった。
北海道が最大の生産地で、春に植え付けて夏の終わりから秋にかけて収穫されます。北海道に次ぐ大産地である九州の長崎では、秋に植え付けて冬に収穫するのに加えて、冬に植え付けて春に収穫する二期作が行われています。
「ジャガイモ」という呼び名は、これが16世紀末、オランダ人によって日本にもたらされた当時のジャカルタが「ジャガタラ」と呼ばれていたため、「ジャガタライモ」と呼ばれたことに起因する。これが変化して現在のジャガイモという呼び名になった。その他の説としてはジャワ島の芋の意味のジャワイモが変化した、天保の大飢饉で、ジャガイモのおかげで餓死を免れた事から呼称された「御助芋」が転じたものなど諸説があります。
「馬鈴薯」(ばれいしょ)という呼び名もよく用いられますが、これは中国での呼び名のひとつと漢字が同じで、中国語で読むとマーリンシュー(ピン音 mǎlíngshǔ)となります。18世紀に日本人の小野蘭山が命名したといわれていますが、中国名をそのまま輸入したものなのか、新しく付けた名前がたまたま中国名と同じだったのか、それとも小野蘭山の命名が中国に伝わったのかは明らかではありません。一説には、ジャガイモの形が馬につける鈴に似ているという事からこの名前になったといいます。また、「マレーの芋」という意味からこの名前が付けられたという説もあります。なお、中国ではほかに「土豆」(トゥードウ)、「洋芋」(ヤンユー)、「薯仔」(シューザイ)などの呼び方もあります。
※最後に原寸大の図解があります。
地方名として、「きんかいも」とも呼ばれます(「きんか」とは金柑転じて禿げのこと)。また、1年に2~3回収穫できることから「にどいも(二度芋)」「さんどいも(三度芋)」とも呼ばれます。「南京イモ」「ごしょいも」と呼ばれる事もあります。
痩せた土壌でも栽培しやすく、ビタミンやデンプンが豊富に含まれている上に、茹でる等の簡単な調理で食べられ、加熱してもビタミンが壊れにくいジャガイモは、江戸時代に幾度となく発生した飢饉の際に、サツマイモと同じく主食である米等の穀物の代用品として食べられ、ジャガイモによって飢餓から救われたという記録が残っています。このために「お助けイモ」と呼ばれた事があります。また、飢饉の際にジャガイモ活用を勧めた代官の名を取って、「善太夫芋」「清太夫芋」と呼んだ地方もありました。
このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされています。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシではないかと伝えられていましたが、ワマン・ポマ(1550?~ 1616年?、インカ帝国出身のインディオ)が1615年に残した記録やマチュ・ピチュ(15世紀のインカ帝国の遺跡)の段々畑の史跡研究、気象地理条件、食生活の解析など、複数方面からの結果が、食基盤がジャガイモであったことを示しており、近年見直しが図られているということです。しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っておらず、スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測付けられています。さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播しますが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していません。
いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが普及するのは、さらに時を待たねばなりませんでした。普及は、プロイセン王国で三十年戦争により荒廃し、飢饉が頻発した際に作付け(栽培)が国王の勅命により強制、奨励されたことや、踏み荒らされると収穫が著しく減少するムギに代わり、地下に実るため踏み荒らしの影響を受け難い作物として、農民に容易に受け入れられた結果であるとされています。さらにジャガイモは18世紀には、アイルランド移民の手により北アメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となりました。
ウェブニュースより
藤井四段、公式戦35勝目で“連敗”脱出…順位戦3連勝でC級2組トップタイに並ぶ ―― 歴代新記録の公式戦29連勝を樹立した将棋の史上最年少棋士・中学3年生の藤井聡太四段(15)が10日、東京都渋谷区の将棋会館で行われた第76期順位戦C級2組で高見泰地五段(24)に勝ち、公式戦35勝目(3敗)を挙げた。
藤井四段は4日の第67期王将戦一次予選決勝で菅井竜也七段(25)に敗れ、公式戦通算3敗目を喫していた。翌5日には愛知県春日井市でのイベント「かすがいキッズ将棋フェスタ」の公開対局(非公式戦)で都成竜馬四段(27)にも屈しており、本局で“連敗”を脱出した形となった。
高見五段は2011年、棋士養成機関「奨励会」を弱冠18歳で突破し、四段(棋士)昇段。昨年度には、今年度の名人挑戦者となった稲葉陽八段(29)に勝利するなど若手の実力者として知られるが、藤井四段は危なげない指し回しで中盤以降は優位を拡大し、粘る高見五段を振り切った。
順位戦は「名人」のタイトルを目指す棋戦で、各棋士は「C級2組」「C級1組」「B級2組」「B級1組」「A級」のいずれかに属する。年間の各リーグ戦で上位に入った者が上のクラスに昇級するシステムで、トップ10人によって構成される「A級」で優勝した者が名人挑戦者となる。現在のタイトル在位者は佐藤天彦名人(29)。今年度から順位戦に参加している藤井四段が挑戦者になるには最低でも5年を要する。
最低位となる「C級2組」には今期50人の棋士が属しているが、今年度のリーグ戦終了時に「C級1組」に昇級出来るのは上位3人のみ。藤井四段は3勝0敗とし、トップタイに並んだ。 (2017年8月10日21時29分 スポーツ報知)
https://www.youtube.com/watch?v=A-C38dbs8b8
藤井聡太四段は次回は15日、王位戦予選で小林健二・九段(60)と対戦するそうです。
芋(いも)とは、植物の根や地下茎といった地下部が肥大化して養分を蓄えた器官です。特にその中で食用を中心に利用されるものを指します。但し、通常はタマネギのような鱗茎は含めません。
秋は、芋の季節でもあります。じゃがいも、さつまいも、里芋。そして少し時期が後になりますが、山芋など、それぞれに種類も豊富で、いろんな芋が店頭を賑わしています。
ヤマノイモ(山の芋)は、ヤマノイモ科ヤマノイモ属のつる性多年草です。または、この植物の芋として発達した担根体(根でも茎でもない、ヤマノイモ属に特有の器官)のことです。古くは薯蕷(あるいは「暑預」)と書いてヤマノイモと読んだといいます。日本原産で、粘性が非常に高く、ジネンジョウ(自然生)、ジネンジョ(自然薯)、ヤマイモ(山芋)とも呼びます。
山芋の歴史は米の歴史よりも古く、縄文時代から食べられていたそうです。歴史書(日本書紀など)や小説にも山芋の記述は多く書き残されています。有名な「平家物語」に平忠盛と白河院が零余子(むかご)を手に持ちながら、祇園女御の生んだ子について語る場面があります。江戸時代になると、儒学者で本草学者でもある貝原益軒(かいばらえきけん)の「益軒十訓」の一つ「養正訓」で、とろろで精力がつきすぎ、世の男女関係が乱れるのを心配したくだりがあるほか、井原西鶴(いはらさいかく)の「好色一代男」にも主人公の世之介が精力源としてとろろいもを利用した記述があります。
茶色で縞模様があり、ひげがついている里芋。私たちが食べているのは、地下の茎の部分です。また、里芋の葉は、子どもが傘にしている絵が思い浮かぶくらいに大きく、特徴的な形をしています。茶色の皮を向くと、ぬめりがあり、白くなめらかな身が現れます。やわらかく、ねっとりした食感で、やさしく品のいい味わいです。
里芋の原産地は、インド東部からインドシナ半島にかけてという説が有力です。少なくとも紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたようです。そこから、原始マライ民族の移動とともに、フィリピン・ミクロネシア・ポリネシア・オーストラリア・ニュージーランドに至る太平洋一帯に広がりました。現在でも「タロ(タロイモ)」として利用されており、多くの民族・地域で重要な主食となっています。1世紀ごろ、古代インドからアフリカ、ヨーロッパへも伝わっていきましたが、ヨーロッパではほとんど食用にされませんでした。
日本への渡来については、紀元前に中国から渡来したという説と、南方から太平洋諸民族の渡来により伝えられたという説があります。渡来時期ははっきりしませんが、稲の渡来(縄文晩期)より古いとされています。日本で稲作が始まったのは弥生時代ですが、それ以前、縄文時代に焼き畑農業が行われており、その中心作物は里芋で、里芋は稲作以前の主食だったと考えられています。日本に定着した里芋は、タロイモ類の中で最も北方の風土に適した系統のものでした。
里芋は、「ウモ」とか「イエツイモ」と呼ばれていました。ウモはイモの古語です。イエツイモは、以前から山野に自生していたヤマノイモに対して、家で栽培するイモという意味でつけられました。里芋の記録として最も古いものは『万葉集』にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=2fG51w-yRWE
コンニャク(蒟蒻、菎蒻)は、サトイモ科の植物、あるいはその球茎から製造される食品です。古くからコンニャクを食用としてきた主な地域は、日本、中国、ミャンマー、韓国などのアジア各国ですが、古くからコンニャクを食用としてきた地域の広がりとともに低カロリーの健康食品として欧米にも広がりつつあります。
コンニャクの原料となるコンニャクイモの2007年度(平成19年度)の日本での収穫量は66,900t。主産地は群馬県 (89.5%) で、第2位栃木県 (4.1%) 、第3位茨城県 (1.7%) と続き、日本では約95%は北関東で生産されています。
こんにゃく芋の原産はインドシナ半島といわれ、現地では芋の形状から「象の足」という異名があります。今でも東南アジアには数多くのこんにゃく芋の仲間が自生し、その種類は約130種といわれていますが、その多くは日本のこんにゃく芋と品種が違い、こんにゃくマンナンという食物繊維の含まれないこんにゃく芋で、加工しても固まらず、こんにゃく作りには適しませんでしたが、最近では中国をはじめ東南アジアの各国においても日本向けに食用として栽培している状況です。 こんにゃくは6世紀頃仏教とともに中国より伝わったとされていますが、はっきりとしたことはわかりません。
http://kan-etsu.com/knowledge/rekishi/
2017年8月7日 19:32着信 題 残暑お見舞い申し上げます
台風5号が西日本を過ぎつつありますが、関東にも影響をおよぼしそうですね。
外出などお気をつけください。
さて、ブログの「大地の歌」について以前作曲家のインタビューをファイルしてました。
途中、大木惇夫の思いでなどもあるので以下コピペ。
佐藤 眞 歌い継がれる名曲「大地讃頌」の魅力に迫る!
聞き手:横田純子(東京都狛江市立第四中学校教諭)
■カンタータ『土の歌』の中,唯一改訂されていない『大地讃頌』
■混声合唱はすばらしい!
■大きな手から生まれたピアノ版!?
■愛すべき詩人,大木惇夫氏
■代表作は,これから作曲します
■吹奏楽版について
■小学校4年生で作曲家を志す!
■先生は限りない情熱をもって!
■インタヴューを終えて
■プロフィール
■カンタータ『土の歌』の中,唯一改訂されていない『大地讃頌』
横田:中学校現場では,先生の作曲された「大地讃頌」は,なくてはならない存在となっています。この曲がこれほど広く長く歌われ続けると思っていらっしゃいましたか?
佐藤:まったく想像もつきませんでしたね。作った本人が一番驚いています。
横田:実はいつも気になっているのですが,いきおい,混声合唱を仕上げることだけが目的になってしまい,この曲のもつ奥深さだとか,作曲者や詩人の意図などが語られないで授業が終わってしまうような傾向があるんですけど—。
佐藤:「大地讃頌」は独立した曲として演奏できるようになっているので,そういう取り上げ方をされてももちろん構わないのですが,ご存じのように,これは7曲から構成されるカンタータ「土の歌」の最終楽章でもあります。「地上の祈り」が「ジャーン」と終わって,この曲の前奏が「サワサワ」と鳴り出すわけですね。
横田:あのオーケストラの入り方は,なんとも言えませんね。
佐藤:あの「サワサワ」といった感じは,ピアノでは出せないので,ピアノ版では全然違う形にしたのです。できればオーケストラ版も聴いていただいて,そういうところにこの曲は位置するんだなぁと,7曲全体の中での意味や役割を少しでも知っていただければうれしいですね。
横田:初めのレコードは確かNHK交響楽団と東京混声合唱団ですよね。小澤征爾氏が指揮することになっていたとか。
佐藤:そうだったんですが,ちょうどその頃彼とN響とが不仲になり,岩城宏之氏が代わって指揮することになったのです。
横田:カンタータ「土の歌」のピアノ版なんですが,これは何度か改訂されているようですね。これはなぜなのでしょうか。
佐藤:作曲家にはいろいろなタイプがあって,一度書いてしまったものは,「もうこれでいい」と絶対に直さない人もいます。僕はそれとは逆で,いつまでも思い切りが悪く,直すタイプなんです。ストラヴィンスキーなんかも「春の祭典」などで分かるように,何度も改訂してますよね。そしてまだ直そうとしているうちにとうとう亡くなってしまった—。「土の歌」はビクターの依頼で,オーケストラと混声合唱のために1962年に作曲しました。その後,『合唱界』という雑誌の付録にこの組曲を少しずつピアノ伴奏に直して発表していきました。「大地讃頌」も元はDes-durでした。ところがそれでは上の高いBの音があり,これは初演した東混にとっては問題なくても,アマチュアではおそらく困るでしょう。C-dur に下げるのが順当かもしれませんが,もうちょっと高貴な感じを求めてH-durに直したんです。吹奏楽関係の方からはB-durだったらもっと演奏しやすくて良かったのにと言われますが,それだとやはりどうしても平凡な響きになってしまう。
横田:なるほど。
佐藤:ピアノ伴奏版はまず東京音楽社から出して,次に音楽之友社で出すときに改訂して,カワイ出版で出すときにさらに改訂して,2000年にまたまた改訂と,計5回くらい変えてます。
横田:「大地讃頌」もそうなんですか?
佐藤:いや,「大地讃頌」だけは一度も変えてないんです。
横田:何か特別な理由があるのでしょうか?
佐藤:別にそんなに直す必要がないと思いまして。この曲はこれでよいのではないかと思います。「天地の怒り」などのオーケストレーションは,ピアノに置き換えるのが大変なんです。手を広げたトレモロの連続で,特に手の小さい女性には弾きにくいでしょう。それでピアニストの女房に「こんなの苦しいわよ!」なんて言われて—。
横田:弾きやすくなった版の裏にはそんなご苦労もあるのですね(笑)。
佐藤:これからもし全曲版をお使いになるのだったら,最新版である2000年改訂版をお勧めいたします。
■混声合唱はすばらしい!
横田:「大地讃頌」は男子のパートに低い音があるので,変声が完全に終わった3年生あたりから歌い出すことが多いですし,実際に合唱コンクールの3年生の課題曲として圧倒的に支持されています。変声前の男子をソプラノやアルトに振ったりして,全学年で取り組むケースもあります。ちょうどこれから卒業式や入学式シーズンですが,式歌としても「大地讃頌」はよく歌われているんですよ。
佐藤:横田先生のおっしゃる通り,中学校の混声合唱は,特に男子の声変わりなどがあって,なかなか大変ですよね。あの曲は低い音やオクターヴの跳躍もありますし,またそこが重要だったりする。取り組まれるのはご苦労も多いと思いますね。
横田:現場ではバスの低い部分を1オクターヴ上げちゃったりしてしまいます。それから,生徒たちの顔を見てますとね,「人の子ら〜」が重なっていくあたりが楽しいって感じているようなんです。純粋に美しいハーモニーの歌い出しの部分も魅力ですが,この重なり出していくところにも大きな魅力が隠されている気がします。
佐藤:少し難しく言うと,階梯導入の部分ですね。あたかも階段を上るようにして重なっていく。同じ音形を,声部が違って重なっていくときは,同じような歌い方を心がけないときれいに聴こえないという難しさがある部分です。
横田:フィナーレに向って半音ずつ上がっていくような部分も,生徒には難しいのではと思っていましたが,好きになってよく練習してますね。意外と早く音を取ってしまうんですよ。ハモったときに気持ちいいからだと思いますが。
佐藤:ピアノの伴奏に音が隠れてますしね。ア・カペラだと大変かもしれない。
横田:ア・カペラでやったらいかがでしょう,「大地讃頌」。
佐藤:いや,実際そういう話もあるんですよ。会合で皆で歌いたいときにピアノがない場合もあると。また,カラオケ版を作ったらどうだ,ですとかね。
横田:どうなんですか,それで?
佐藤:いやぁ,やってないですけどね。それはさておき,混声合唱の話に戻りますとね,合唱コンクールなどで同声は声が揃っていて,一応きれいに聴こえたりします。審査の点も取りやすいかもしれない。しかしよくトレーニングされた混声合唱だと,中学生の演奏でも本当に聴き応えがあります。男声が入ることによって,女声も美しく引き立つものなんですね。
横田:そうなんです。だから混声合唱を続けたいというのが,自分のポリシーになってしまうんです。
佐藤:ご苦労は多いでしょうけれどね。
横田:倍の労力がかかりますものね。
佐藤:いや,倍以上かもしれませんよ。でも仕上がったときは,本当にすばらしいと思います。弦楽合奏だとかブラスバンドも音のまとまりのある,美しい音楽表現ですが,弦・管・打楽器で構成されるオーケストラの響きはさらに多彩で豊かな音の世界を表出する。それと同じかもしれません。
■大きな手から生まれたピアノ版!?
横田:シャープが5つあるH-durにされた理由は先ほど伺いました。読譜上の難しい印象とは逆に,生徒たちは実によく頑張って伴奏を弾こうとするんですよ。
佐藤:いやぁ,うれしいですねぇ。
横田:この調と,黒鍵を使う魅力にはまっているようです。伴奏を一生懸命弾こうとする生徒たちに演奏上のアドヴァイスは何かありますでしょうか。特に間奏に対する思いですとか。
佐藤:間奏は堂々と弾いてほしいところですよね。左手がオクターヴになっているので手の小さい方にはたっぷりとした音を出すには大変かもしれません。
横田:最後の両手のトレモロの部分などはいかがですか。
佐藤:こういう部分は一度和音にまとめてバンと弾いてから,トレモロにするとより演奏効果がありますね。弦楽器では音を持続させられますが,ピアノだと減衰してしまうでしょう。それから最後に切るときはまた和音にまとめて,パッと指揮に合わせて切るといいと思います。
横田:なるほど,それはいいお話を聞きました。それにしても,右手の和音をつかむ練習も大変です。
佐藤:そう,僕はね,手が大きいんですよ。
横田:あら,ほんとに大きいですね。
佐藤:ドからオクターヴを越してファまで届きます。
横田:だからこういう伴奏を書かれてしまうんですね(笑)。
佐藤:それで女房に「こんなの苦しい!」って言われるんです。僕にとっては何でもないことなんですが(笑)。
■愛すべき詩人,大木惇夫氏
横田:「土の歌」の詩との出会いについてお話を聞かせていただけますか。
佐藤:大木惇夫さんという方はおもしろい人でね。話してる最中,意見が合うとものすごく喜んで,抱きついてくるんですよ。それで人の顔を犬みたくペロペロなめるんです。もう何回なめられたか分からない。それからは意見が合いそうになると察知して逃げるのですが,でもそれ以上のものすごいスピードで抱きついてくる(笑)。喜びが我慢できないんですね。録音のプロデューサーもみんなそういう目に遭った。意見が合うと。僕の作曲の先生もなめられたそうで,大木先生と仕事をした日本の作曲家はみんななめられたと思います(笑)。
横田:この話,載せていいんでしょうか(笑)。
佐藤:それで大木さんの名誉やすばらしさは少しも失われるものじゃないですから。だからね,コンサートでこの作品を厳かに,こう背筋伸ばして指揮している最中に,ふとペロペロなめられたこととかを思い出して,指揮をしながらおかしさがこみ上げてくることがあります。
横田:(笑いが止まらない)。
佐藤:でもね。大木先生は大変朗読が上手でしたね。詩が出来上がってくるとご自身で読んでくださるのですが,これは見事なものでした。「恩寵」とか「おお,神よ」「時計台が崩れる」などといった言葉を大木先生が読むと,実に重厚で独特な雰囲気と迫力がありました。我々が読むと平凡で平坦な感じになってしまうのですが。あの朗読の重みは印象に強く残っていますね。
■代表作は,これから作曲します
横田:「土の歌」全体について,何かご苦労した点などございますか?
佐藤:何せもう40年も前に書いたものですので,あまり記憶に残っていません。忘れてしまいました。
横田:あはは。笑っていいのでしょうか。
佐藤:作曲家がこう言ったなどということは,演奏する上であまり問題にすることもないと思いますよ。楽譜をきちんと,本当にしっかりと読むことが演奏するうえで最も大事なことです。
横田:なるほど。
佐藤:また昔作曲した作品のエピソードを,などとときおり質問をされますが,こう言ってしまってはなんですが,あまり昔の曲の話をするのは好きではないですね。今,作曲家としてまだ書き続けていて,勝負しているのです。例えば,大工さんは昔作った建物を懐かしむのが仕事ではなく,これから作ることそれ自体が仕事なわけですよね。それと同じことが言えると思います。自分にとって代表作といえるものはまだないと思っています。これからそうした作品を作曲したいと思っています。
■吹奏楽版について
横田:「大地讃頌」のお話に戻って,ぜひお聞きしたいことがあります。吹奏楽の伴奏は,ご自身で編曲されていらっしゃいますでしょうか。
佐藤:BMGジャパンからCDのレコーディングのために編曲を依頼され,その楽譜がブロード出版というところから出ていますが,CDと一緒にしか入手できないという話です。
横田:その他のものは。
佐藤:私が承認していない編曲なので,使ってほしくないですね。著作権に関してきちんとした認識をすることが大切です。
■小学校4年生で作曲家を志す!
横田:佐藤先生ご自身のお話をお聞きしたいと思います。ちょっと月並みなのですが,作曲家になろうと志したきっかけを教えてください。
佐藤:これはね,小学校の音楽の先生の影響なんです。もうそれがすべての始まりと言っていいでしょう。小学校4年生のときに,当時代用教員と言われる方で,20歳くらいの若い先生が音楽の授業を担当していました。その人が今で言う熱血教師でね,校長先生や教育委員会ともガンガン言い合いをするような人でした。その先生が音楽の授業も全身全霊を傾けてやってくれたんです。
横田:どういう授業だったのか知りたいですね。
佐藤:授業のスタイルうんぬんというより,とにかく,音楽というものに惚れこんでいて,熱いんですよ(笑)。その先生が夢中になって投げかけてくれる音楽のおもしろさに,本当に夢中になりましたね。何か細かなことを通してと言うよりは,その先生の音楽に対する姿勢,情熱が好きだったとも言えるかもしれません。
横田:その4年生のときに,すでに作曲家になるんだという夢を?
佐藤:そうなんです。
横田:楽器はそれから始められたのですか?
佐藤:いえ,幸い家にはピアノがありまして,それまでに習ったりはしていたのです。男三人兄弟の真ん中で育ち,特に僕がピアノを好きでしたね。当時ピアノがある家は珍しく,近所には佐藤という名字が多かったものですから,出前の人なんか「ピアノの佐藤さん」なんて言っていましたね(笑)。音楽で進学すると言ったとき(佐藤氏は東京芸大附属高等学校の1期生),父親は反対しませんでしたが,周囲に芸術関係の仕事をしている人間がだれもいなかったので,大変心配な様子でした。父は物理学者でしたので,もし音楽をやるならヘルムホルツのような音響物理学者になれ,作曲は趣味でやればよいではないか—などと言ったものです。
■先生は限りない情熱をもって!
横田:佐藤先生は作曲家であると同時に,東京芸術大学の教授でもあり,また芸大音楽学部附属高校の校長先生でもいらっしゃいます。最後に音楽の先生方へのメッセージなどは何かありますでしょうか。
佐藤:音楽の先生に限らず,まず教師に求められるものは,その道の本格的なものといつも向き合い,情熱を燃やしていることです。本物は奥が深く,興味が尽きないものです。本気でやれば本当におもしろいし,やりがいがある。先生が本気で打ち込んでいるから子どもも本気を出すのではないでしょうか。子どもは先生ばかりでなく,大人のことをよく見ていますよ。自分が音楽の道に歩んだのも,小学校の先生の影響ですが,その意味で小学校・中学校の先生の役割は絶大だと思いますね。ちょっと大げさかもしれませんが,自分が教える児童や生徒を,すべて音楽家にしたいぐらいの野心をもって取り組んでいただきたいですね。特に中学生の時期はいちばん伸びるときでしょう。自分のその頃を振り返ってみても,内面的に大きく深く成長していった時期でした。
■インタヴューを終えて:横田純子
お会いする前は,怖い先生だったらどうしようなどと思っていましたが,実際にお話しすると,時間がたつのを忘れるくらい,楽しいひと時でした。お好きなご旅行のお話,名ピアニストのホロヴィッツ氏とおしゃべりした思い出など,紙面でご紹介できないのが残念です。
「大地讃頌」の指導に改めて力が入りそうです。また,授業の一時間一時間を本当に情熱を傾けて頑張らなくては,と背筋がピンと伸びた思いです。
■プロフィール
https://www.youtube.com/watch?v=lKr6NS8sedI
韮
ニラ(韮、韭)はネギ属に属する多年草で、緑黄色野菜です。
韮(ニラ)は3000年以上の長い歴史を持つ野菜です。原産地は東アジアの地域で、中国西部、ベトナム、インドなどで紀元前から栽培されていました。
日本へは弥生時代に中国から伝わってきたといわれています。
『古事記』では加美良(かみら)、『万葉集』では久々美良(くくみら)、『正倉院文書』には彌良(みら)として記載があります。このように、古代においては「みら」と呼ばれていたが、院政期頃から不規則な転訛形「にら」が出現し、「みら」を駆逐して現在に至っているといいます。
近世の女房言葉に葱(き)を「一文字」というのに対して、韮(にら)のことを「二文字(ふたもじ)」と呼んだと言います。
玉葱
タマネギ(玉葱、学名:Allium cepa)は、ネギ属の多年草です。球根(鱗茎)は野菜として食用とされます。 cepa はラテン語で「タマネギ」の意味ですが、さらに「頭」を意味するケルト語に由来するとも言われており、戦前の日本では「葱頭」が正式な和名でした。色、形状、大きさは様々です。
原産は中央アジアとされるが、野生種は発見されていません。栽培の歴史は古く、紀元前のエジプト王朝時代には、ニンニク等と共に労働者に配給されていたといいます。ヨーロッパの地中海沿岸に伝わったタマネギは、東ヨーロッパ(バルカン半島諸国やルーマニア)では辛味の強い辛タマネギ群、南ヨーロッパ(イタリア、フランス、スペイン)では辛味の少ない甘タマネギ群が作られました。これらの両系統は16世紀にアメリカに伝えられ、さまざまな品種が作られました。
その一方、原産地から東のアジアには伝わりませんでした。日本では江戸時代に長崎に伝わりましたが、観賞用にとどまりました。食用としては、1871年(明治4年)に札幌で試験栽培されたのが最初とされ、1878年(明治11年)、札幌農学校教官のブルックスにより本格的な栽培が始まりました。その後の1880年(明治13年)に、札幌の中村磯吉が農家として初めて栽培を行いました。
品種の系統としては、アメリカから導入された春まき栽培用の「イエロー・グローブ・ダンバース(Yellow globe danvers)」という品種が「札幌黄」という品種に、秋まき栽培用は1885年(明治18年)、大阪に「イエロー・ダンバース(Yellow danvers)」という品種が導入され「泉州黄」に、フランス系の「ブラン・アチーフ・ド・パリ」が「愛知白」に名を変えて、それぞれ地域に定着化しました。さらに農家や農協単位で自家採種・選抜を行い、農家や地域ごとに特徴のある品種が作られました。
広島市は本日6日、72回目の原爆の日を迎えます。
広島市の平和記念公園の「平和祈念慰霊国民大祭記念 祈りの像」には,大木惇夫氏の詩「平和を祈り 御霊を鎮めん」があります。
平和を祈り 御霊を鎮めん 大木惇夫
山河に歎きはみちて 叫ぶ声あり
戦ひは げに 人類の恥辱ぞと
ああ 奮ひ起ち挙り立て 心つなぎて つつましく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
青空の光をうけて 闇を絶たずや
戦ひは げに 人類の愚劣なり
ああ 奮い起ち挙り立て 呼べば応へて たくましく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
夕星のさとしはありて こだま地にみつ
戦ひは げに 人類の自滅ぞと
ああ 奮い起ち挙り立て まこと尽して 美はしく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」(混声合唱とオーケストラのためのカンタータ 土の歌)は、大木惇夫が作詞、佐藤眞が作曲したカンタータで、日本ビクター(現在のJVCケンウッドとビクターエンタテインメント)の委嘱により、1962年に作曲されました。
混声合唱のためのカンタータ 土の歌「1962年(昭37)」
作詞 大木 惇夫 作曲 佐藤 眞
第一楽章: 農夫と土
耕して 種を撒(ま)く土
人みなのいのちの糧(かて)を 創り出す土
耕して 種を撒く者
農夫らの 楽しみの種子(たね) 悲しみの種子
ともかくも種子がいのちだ
朝星(あさぼし)を見て 野良に出る
働いて 額に汗して
夕星(ゆうぼし)を見て 帰るのだ
種子をはぐくむ 土こそは
種子をまく者の 夢だ望みだ そして祈りだ
花さき実る 毎年の約束の 不思議さよ
第二楽章: 祖国の土
ああ 大地
踏んでみて 寝転んでみて たしかな 大地
ああ まして祖国の土の尊さ
大空の星を仰いで
高く仰いで 歩け歩け
しかし 溝には はまるまい
山河(やまかわ)よ さくらの菊の 花咲く丘よ
顔上げて 堂々と 踏みしめて
この土を踏みしめて この土を護ろうよ 祖国の土を
第三楽章: 死の灰
世界は絶えて 滅ぶかと
生きとし生けるもの皆の
悲しみの極まるところ
死の灰の 恐れは続く
文明の不安よ 科学の恥辱よ 人知の愚かさよ
ヒロシマの また長崎の
地の下に泣く いけにえの 霊を偲べば
日月は 雲におおわれ
心は 冥府(よみ)の路をさまよう
第四楽章: もぐらもち
もぐら もぐら 土にもぐって日のめも見ない
もぐら もぐら それでもおまえは幸せだとさ
もぐら もぐら 地の下の穴の暮らしが やすらかだとさ
もぐら もぐら 火の槍におびえる者は
死の灰を おそれる者は もぐらの真似をするそうな
なるほどな 土から出て来て土にと帰る
もぐらもぐら どのみちそれが人間か
わっはっは わっはっは
もぐら もぐら 笑ってやれよ人間を もぐら
第五楽章: 天地の怒り
雷だ いなづまだ
嵐だ 雨だ 洪水(おおみず)だ
土手が崩れる 崖が砕ける 橋が流れる
樹も垣(かき)も 根こそぎにされる
濁流が家を呑む 人をさらう
地の上に 山脈(やまなみ)があり
地の上に 重みがある
地の下に 燃える火があり
地の下に 怒りがある
地の上に 絶えずかぶさる 人間悪よ
地の上のなげきは深い 長い年月(としつき)
火の山の爆発だ 地震だ 火事だ
溶岩が流れる 尾根が崩れる
落ちる なだれる 火の海だ 修羅の巷(ちまた)だ
逃げまどう人の すさまじい叫び
うめき のけぞる ころがる
煙突が倒れる 時計台が崩れる 荒れ狂う町
第六楽章: 地上の祈り
美しい山河(やまかわ)を見て
美しい花を見て
大地の心を信じよう
恩寵(おんちょう)を 自然に享(う)けて
感謝しよう
ああ 戦争の狂気をば 鎮(しず)めたまえ
剣の乱れ 爆弾の恐れを さけたまえ
天意にそむく 動乱をおさめたまえ
ああ 戦争の狂気をば鎮(しず)めたまえ
地の上に 花咲く限り
よろこんで日ごと営(いとな)み
悲しみも耐えて生きよう
ああ 栄光よ
ああ 地の上に平和あれ
第七楽章: 大地讃頌
母なる大地の ふところに
われら人の子の 喜びはある
大地を愛せよ 大地に生きる 人の子ら
その立つ土に感謝せよ
平和な大地を 静かな大地を
大地をほめよ たたえよ土を
恩寵の豊かな 豊かな大地
われら人の子の 大地をほめよ
讃えよ 土を 母なる大地を
讃えよ ほめよ 讃えよ土を
母なる大地を ああ
讃えよ大地を ああ
https://www.youtube.com/watch?v=dUiqrLE-aHY
https://www.youtube.com/watch?v=rnQyc_srMXw
ウェブニュースより
藤井四段が王将戦敗退 菅井七段に完敗、公式戦3敗目 ―― 公式戦29連勝の新記録をつくった将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(15)が4日、大阪市福島区の関西将棋会館であった王将戦1次予選決勝で、若手実力者の菅井竜也七段(25)に敗れ、公式戦3敗目(34勝)を喫した。王将戦での敗退が決まり、今年度中にタイトル挑戦の可能性があるのは棋王戦だけになった。
この日の対局は、菅井七段が得意の「中飛車」戦法を用い、激しい攻め合いを制した。終局後、菅井七段は藤井四段の印象について「終盤に強い人だなと思っていたので、そこは警戒した。まだ一局だけでは分からない」と話した。藤井四段は「踏み込まれてから一直線の展開になり、はっきり負けにしてしまった。読みの精度が低かった」と振り返り、「完敗。実力不足」と認めた。藤井四段は本拠とする関西将棋会館で初の敗戦となった。
菅井七段は現在進行している王位戦七番勝負の挑戦者。第2局まで終わり、羽生善治王位(46)に2連勝している。また、名人戦の予選にあたる順位戦(全5クラス)では、最上位のA級に次ぐB級1組に在籍する。藤井四段がB級1組以上の実力者と公式戦で戦うのは初めてだった。
藤井四段は昨年12月のデビュー戦から今年6月まで公式戦負けなしの29連勝を達成。新人ながら30年ぶりに歴代1位の連勝記録を塗り替えた。
次の対局は10日。順位戦C級2組3回戦で、高見泰地五段(24)と戦う。(深松真司) (朝日新聞DIGITAL 2017年8月4日16時28分)
https://www.youtube.com/watch?v=ayl4NC3HwLU
ねぎは大きく分けて「白ねぎ(根深ねぎ・長ねぎ)」と「青ねぎ(葉ねぎ)」があります。東日本では白い部分を食べる白ねぎが好まれていて、西日本は根元まで青い「青ねぎ」が一般的になっています。
どちらも食べる部分は「葉」ですが、白ねぎは深いところまで土寄せをして日に当たらないようにすることで白い部分を多くしています。白ねぎは甘味があって煮込み料理や焼き鳥などに最適。青ねぎは香りがよく、炒め物や薬味に活躍します。
ねぎの原産地は諸説ありますが、中国の西部または西シベリア南部のアルタイ地方ではないかといわれています。中国では古代から栽培されていて、6世紀頃の書物には栽培法が記されているそうです。
ヨーロッパへは16世紀の終わり頃に伝わり、アメリカへは19世紀に入ったと考えられています。ただしヨーロッパでは西洋ねぎの「リーキ」が好まれたため、ねぎは普及しませんでした。ちなみにリーキの原種は古くから存在し、古代エジプトやギリシャ、ローマなどで栽培されていたといわれています。
2千年前の中国の文献の『礼記(らいき)』では、ネギは「野菜の中の筆頭」だとさえ述べられ、その調理法も記されています。
※ 膾:春用蔥,秋用芥、豚;春用韭,秋用蓼。(礼記「内則」より)
訳 膾(かい、二句のなます)には、春は葱を付け合わせ、秋は芥子を付け合わせる。また、豚肉には、春は韮を付け合わせ、秋は蓼をつけあわせる。
『爾雅(じが)』(前2世紀ころ)に「茖(かく)、山葱(さんそう)」(茖は山葱である)とみえ、荘子(そうし)は「春月飲酒茹葱(くうねぎ)、以(もって)通五臓(ぞう)」と語り、『礼記(らいき)』(前1世紀ころ)には「凡膾、春用葱」(膾(なます)は春にはネギを用いる)と載っています。古代の中国では重要な野菜で、『斉民要術(せいみんようじゅつ)』(6世紀)には葱、葱白、葱頭をあわせて67の調理法が記述されていますが、それはショウガに次いでいます。
日本の平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』の記述を根拠として、ネギは中国から日本に伝えられたと考えられています。
5世紀までに渡来したと推定され、『日本書紀』の仁賢(にんけん)天皇6年9月条に秋葱(あきき)の名が出ています。
平安中期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は葱和名紀(き)、冬葱和名布由木(ふゆき)をあげ、品種の分化をうかがわせます。
貝原益軒の「大和本草(1709年)」には、ネギによって死人を蘇らせる話が紹介されています。かつてネギは、薬用に用いられたのみならず、呪術的色彩をも持っていたのです。それ故に、神事や祭事に使われていたのです。
ネギの名は江戸時代に広がり、千住、加賀、九条の3系に大別されるネギの品種群も、江戸時代には成立しました。加賀系は耐寒性強く、積雪に耐える北方型のネギで、葉は太くて、分蘖(ぶんげつ)は少ないようです。その代表の下仁田ネギ(群馬県)は200年余りの歴史をもち、江戸の将軍に献上したので、殿様ネギともよばれたそうです。
ネギの日本での古名は「き」といい、このことから室町時代にはネギを隠語で「一文字(ひともじ)」ともいいました。「き」には「葱」という字が宛てられました。江戸中期に編まれた国語辞書『倭訓栞』によれば、「き」という名は「臭気」の「気」に由来しているといいます。「葱(き)」の根と考えられた部分(実際には葉の基部)を食べることから、次第に「根葱」と書き表すようになり、「白根」や「根深(ねぶか)」という別名も付けられました。
「分け葱(わけぎ)」とは葱が株分かれしているという意味ですし、「浅つ葱(あさつき)」とは比較的香りが弱い葱という意味です。また、色を表すときにも使われています。「萌葱(もえぎ)」とは「葱(き)の芽のような緑色」のことを指しますし、「浅葱(あさぎ)」という色は薄い青緑色を指す言葉です。「萌黄」や「浅黄」と書かれる場合もあるようですが、これは音から当てた字であり、黄色には関係ありません。さすが、古くから食べられてきた「ネギ」だけあって、ずいぶん生活に関係しているようです。
芸人仲間にて浄瑠璃や歌謡の節の下手なことを「葱(ねぶか)」といいます。葱には節がないからいつたものです。上方にては葱のことを「ねぶか」といいます。
ニンニク
ニンニク(蒜、大蒜、葫、忍辱)はヒガンバナ科ネギ属の多年草で、球根(鱗茎)を香辛料として用います。
日本ではニンニクやノビル(野蒜)など鱗茎を食用とする臭いの強い(ネギ属の)植物を総称して蒜(ひる)と呼んでいましたが、特にノビルと区別する場合にはオオヒル(大蒜)とも言いました。生薬名は大蒜(たいさん)といいます。語源は困難を耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされます。
5月頃に白い小さな花を咲かせるが、栽培時には鱗茎を太らせるために花芽は摘み取りますが、摘み取った茎は柔らかい物であれば野菜として利用されます。
日本では禅宗で「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」とされたように、強壮作用が煩悩(淫欲)を増長するとされて仏教の僧侶の間ではニラ、ネギ等とともに五辛の1つとして食が禁じられていました。漢字表記の「蒜」「大蒜」は漢語に由来する一方、仏教用語の「忍辱(にんにく)」がニンニクの語源となったとされます。『大和本草』巻之五 草之一 菜蔬類では、悪臭甚だしくとも効能が多いので人家に欠くべからざるものと評価された。
日本では古事記の小碓命(ヤマトタケル)東征の逸話に、足柄山で白鹿に化けた坂の神を蒜(ひる)で打ち殺したと記されています。同じ逸話が日本書紀では、信濃坂(現在の神坂峠)で白鹿に化けた山の神を蒜で打ち倒したところ、霧が立ちこめ道を見失いますが、白い犬が出てきて導いたとあります。以前は旅人が信濃坂で神気に当たり病になることがあったが、この後蒜を嚼んで体に塗ると神気に当たらなくなったと記されています。ただし、この蒜はニンニクではなくノビル(野蒜)である可能性が高いようです。長野県にある 昼神温泉は、この神話(蒜嚼み→昼神)にもとづく名前であるといいます。
源氏物語にもニンニクが登場します。第二帖帚木の巻で藤式部の丞が女性を訪ねたさい「極暑の薬草を用いて臭いので会えませんが、ご用は承りましょう」といわれた。そこで「ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるますぐせと言うがあやなさ」と詠みます。女性は「あうことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆらかまし」と返します(「ひる」が昼と蒜の掛け詞になっていて「極暑の薬草」が蒜だと判ります)。
元和2(1616)年1月21日徳川家康は、駿府の城内で豪商の茶屋四郎次郎が献上した、上方で当時流行の珍味、ニンニクのすりおろしをつけた鯛の天ぷらの食べ過ぎで起きた食中毒が死因となったとの俗説があります。ただし、実際に徳川家康が死去したのは、上方の珍味を食した3ヶ月後の元和2年4月17日であり、因果関係を立証し難く、現在はむしろ胃癌が死因と推測する仮説が最も流布しています。
ラッキョ
ラッキョウ(辣韮、薤、辣韭)はネギ属の多年草の野菜です。別名「オオニラ」、「サトニラ」ともよばれています。
中国、ヒマラヤ地方が原産地とされます。白色または紫色を帯びた白色の鱗茎を食用とします。 特有の強い匂いと辛味を持ちますが、この匂いはニンニクやニラと同じアリル硫化物であるといいます。
中国では紀元前から栽培が行われ薬用として使われていたといわれています。日本に伝わったのは9世紀頃で、 平安時代の「新撰字鏡」や「本草和名」では「薤」という名で、「延喜式(えんぎしき)」では「薤白」の名で登場しています。当初は薬用として利用していましたが、江戸時代に入ると食用としても用いられるようになり、広く栽培されるようになりました。
薤露蒿里(かいろこうり)とは葬送のときにうたわれた挽歌の名で、転じて、人の命のはかないことのたとえを言います。漢の田横(でんおう)が高祖に仕えることを恥じて自殺した時、その死を悼んで門人が作った挽歌で、武帝の時、李延年(生没年不詳、前漢の人物で、武帝に仕えた楽人)が二曲を分けて「薤露」は王侯貴族の葬送に、「蒿里」は下級官吏・士大夫・庶人の葬式に用いた。「薤露」は、薤(らっきょう)の葉に置いた露が乾きやすく落ちやすいのを命のはかなさにたとえたことから、「蒿里」はもと、山の名で、人が死ぬとその霊魂がここに集まり来るといわれたことから詠われたものです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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