瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 倒語(とうご)とは、「てぶくろ」→「ろくぶて」などのように、言葉を逆の順序で読む言語現象のことをさします。逆読み、または逆さ読みとも言います。
 逆さ読みを行うことによって、何らかの強調を行おうとする言語活動は、言語や時代を問わず幅広く見られる。逆さ読みした語の語用は、多岐にわたりますが、一般的には隠語のような正式な用法とはみなされない状況で使用されることが多いようです。
 日本語においては、江戸時代に流行したことが有名です。(例:「キセル」→「セルキ」)このうち、たとえば「しだらない」→「だらしない」などのいくつかの言葉は、逆さ読みをした形の語が、正式な語として定着します。「たね」と「ネタ」のように意味が分化し二重語化した例もあります。

 パソコンの語源・由来辞典によれば、
【だらしないの語源・由来】
 だらしないは、同じ意味の形容詞「しだらない」の音節順序を入れ替えた言葉。/「しだらない」の「しだら」は、「自堕落(じだらく)」が訛ったとする説や、「ふしだら」の「しだら」とする説があるが不明。/音節順序の入れ替えパターンはいくつか考えられるが、「だらしない」になった理由には、濁音で始まる言葉は悪い印象を与えるため(一般の和語で濁音が語頭にくるのは例外的で、悪い意味になることが多い)や、擬態語「ダラダラ」と近い印象になるためであろう。/また、「しだらない」から「だらしない」の音節順序が変わったのは、江戸時代に逆さ言葉が流行していたためとも言われるが、逆さ言葉であれば「らだしない」になる。/「だらしない」の語においては、「あらたし(い)」が「あたらし(い)」に変化したことに似た現象と考える方が自然である。
とあります。
 日本における「倒語」という表現の大変古い用例に、日本書紀巻三「能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。」というのがあります。この「倒語」は「サカシマゴト」と読むのが通例で、神話上日本で初めての「倒語」の例とされますが、意味は必ずしも逆さ読みとは限らず、わざと逆のことを言う呪いとか、なんらかの暗語・暗号のようなものとも考えられています(もっとも当時の感覚では、逆にしただけでも十分に一種の暗号であったとも考えられます)。
※ 神武天皇が橿原宮で即位したとき、大伴氏の祖先の道臣命が大来目部を率いて密命を受け、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。――よく諷歌(そえうた)倒語(さかしまごと)を以って、災いを取り除いた。倒語の用いられたのはここにはじまった――とあります。

 ぐりはまとは、物事が食い違うことや、あてが外れること。室町時代から使われている言葉です。図のように『蛤(はまぐり)』をそのまま逆さまにした文字で書かれますが、漢字辞書には載っていません。

 これは正式な漢字ではなく、「小野愚譃字盡(おのがばかむらうそじづくし)」という本にでている造字(国字)です。

 ハマグリの貝殻は、ペアになっている殻以外ではぴったりと形が合わないという性質を持っています。このことから『はまぐり』の倒語として『ぐりはま』が生まれ、食い違って合わないことを意味するようになりました。「神経衰弱」に似たゲームの貝合わせ(貝覆い)という遊びでは、ピッタリ合わなかった貝殻のことを『ぐりはま』と呼んでいたそうです。

 時に「ぐれはま」と訛り、さらに「ぐれ」と省略して用いられました。この「ぐれ」を動詞化たしのが、「ぐれる」です。予期したことと食い違う意から、脇道へそれる・堕落する・非行化するの意に転じました。ぐれた者たちの一隊に対して、「愚連隊」というもっともらしい当て字の語も生まれたのです。

 刑事のことを「デカ」と呼ぶのはすっかり馴染んでしまっていますが、これは和服に語源があります。和服の中に「角袖」と呼ばれる機能的なキモノがありますが、この「カクソデ」の中の部分を略して「カデ」、それを引っくり返して「デカ」といったところから、すっかり一般化してしまったのだといいます。日本の警察は明治時代の初期、フランスの警察制度を参考にして創設されたもので、警察官の制服もフランス風のオシャレなものでした。これはこれで目立ってよかったのですが、隠密行動をとるには目立ちすぎました。そこで捜査に当たる刑事には私服を着用させることにしました。当時、私服といえば和服しかありません。で、動きのとりやすい「角袖」を着ることとなったのだといいます。そうした刑事は実際に「角袖巡査」とも呼んでいたそうで、そこから犯罪者仲間の中では「カクソデ」→「カデ」→「デカ」という隠語が作られたのです。ちなみに、巡査は黒い脚あてを付けていたため「足黒(アシクロ)」、立ち番をする制服巡査は「ポスト」と呼ばれていたそうです。

 警察関連の言葉については、こうした隠語が多いようです。例えば、警察用語として「ガサ入れ」という言葉がありますが、これは「探す(サガス)」の音の入れ替えによる隠語です。その他には、犯人を「ホシ」と呼ぶのは、「犯人の目星(メボシ)」、「バイニン」という言葉については「密売人(ミツバイニン)」からきている警察隠語だといいます。


 劇場などの傍を通りかかると、スーッと寄って来て、「いい席あるよ」と声をかけて入場券を高く売りつけるダフ屋――「だふ」は「札」の倒語です。倒語は隠語の代表的な手法です。「ねたが割れる」は「種(たね)」の倒語で、「がさを入れる」は「さが(す)」、「どや街」は「宿(やど)」の倒語です。「ポシャる」も「シャッポ(脱ぐ)」の倒語です。


 


雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門です。川柳に「風の神雷門に居候」とありますが、正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)であり、「雷門」と書かれた提灯の逆側には「風雷神門」と書かれています。門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門です。門の中央には、重さ約700Kgの提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっています。

 雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場しますが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明てす。知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられます。

 山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられています。最後の火災は1866(慶応元年1214日であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消したそうです。明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられています。いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであったといいます。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられています。
   
 1960年、松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助が病気だったころに浅草寺に拝んだところ、治ったためそのお礼として門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立したといいます。風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っているそうです。
 雷門にかかる大提灯は浅草のシンボルとなっています。本体は丹波産の竹の骨組みに福井県産のコウゾ100%の和紙約300枚を貼り合せたもので上下の張り輪には金属製の化粧輪が取り付けられているそうです。1971年から京都市下京区の高橋提燈が制作しており約10年ごとに新調されているそうです。なお、2008年に松下電器はパナソニックに社名変更しましたが、大提灯の銘板は松下電器のままだそうです。2003年に江戸開府400年を記念して改めて新調された際、提灯は従来の物より一回り大きくなり、直径3.3m、高さ3.9m、重さ700kgとなりました(従来の物は670kgでした)。2013年に新調された大提灯で5基目となります。三社祭の際には、神輿が下を通るため提灯が持ち上げられて畳まれます。また、台風接近時や強風時にも破損を防ぐために畳まれます。

 ところで、自然界の強大な威力を感じさせる「かみなり」、文字通り天の神が鳴らす音と受け止めた言葉です。現代ではあまり使われなくなりましたが、「いかずち」ということもあります。こちらはイカ(厳)、つ(「の」に当たる助詞)、チ(霊)で、やはり雷に猛烈な威力を感じての表現です。いかずちの「いか」は、「たけだけしい」「荒々しい」「立派」などを意味する形容詞「厳し(いかし)」の語幹で、「ず(づ)」は助詞の「つ(「の」にあたる助詞)」、いかずちの「ち」は、「みずち(水霊)」や「おろち(大蛇)」の「ち」と同じ、霊的な力を持つものを表す言葉で、「厳(いか)つ霊(ち)」が語源だといいます。いかずちは鬼や蛇、恐ろしい神などを表す言葉であったのですが、自然現象の中でも特に恐ろしく、神と関わりが深いと考えられていた「雷」を意味するようになったのだといいます。雷に猛烈な威力を感じての表現なのです。菅原道真の神号としておなじみの天神様も雷神です。不当に左遷された無念の思いが、いまもなお空を暴れ続けているのでしょうか。

 清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件です。この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなりました。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となります。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく死亡します。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡します。
 清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難します。だが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3か月後に崩御することとなります。天皇の居所に落雷したということも衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まります。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなったのだといいます。

 いやなことを避けるために言う「くわばらくわばら」という語は、元々落雷を除ける呪いの言葉でした。激しい雷の時に蚊帳のなかににげこんでこの語を唱える図も古くなりました。由来として伝えられている説は死して雷となった菅原道真の領地「桑原」には古来落雷した例がないという言い伝えによるものです。なお、「桑原」の所在は福岡説、大阪説、京都説などがあります。大阪の和泉市の西福寺には「桑原」に由来する雷井戸があるそうです。


 


 ウェブニュースより
 将棋の藤井四段、棋王本戦へ=史上最年少、デビュー後連勝20に ―― 中学3年生の最年少将棋棋士、藤井聡太四段(14)が2日、大阪市で行われた第43期棋王戦の予選6組決勝で澤田真吾六段(25)に155手で勝ち、中学生初、史上最年少での本戦(挑戦者決定トーナメント)出場を決めた。プロデビュー後の公式戦連勝記録を20に伸ばし、将棋界の連勝記録としても歴代6位タイとなった。

 藤井四段は先月25日、やはり史上最年少での竜王戦本戦進出を決めたばかり。いずれも渡辺明2冠(33)が持つ両タイトルへの挑戦に注目が集まる。
 この日の対局は千日手で指し直しとなったが、藤井四段が激戦を制した。同四段の次の対局は7日の第2回上州YAMADAチャレンジ杯。同杯は早指し勝負で、勝ち上がれば同日中に3連勝し、連勝記録を歴代単独3位の23に伸ばす可能性がある。
 藤井四段は愛知県瀬戸市出身。昨年10月、史上最年少の14歳2カ月でプロ入りし、同12月のデビュー戦以来、公式戦で連勝を続け、4月4日に新記録の11連勝を達成した。
 棋王への挑戦権を得るには、本戦を4回勝ち上がって挑戦者決定2番勝負で1勝するか、ベスト4入りして他の2人との敗者者復活戦を勝ち上がり、同2番勝負で連勝しなくてはならない。本戦では、シード枠で加わるトップ棋士との公式戦初対局にも期待が高まる。(jiji.com 2017/06/02-21:28)

 平野「銅」以上 卓球女子単で日本勢48年ぶり ―― 【デュッセルドルフ(ドイツ)=共同】世界選手権個人戦第5日は2日、ドイツのデュッセルドルフで行われ、女子シングルス準々決勝で世界ランキング8位の平野美宇(エリートアカデミー)が、ロンドン五輪銅メダルで同4位のフェン・ティアンウェイ(シンガポール)に4-0で快勝し、準決勝に進んだ。3位決定戦がないため銅メダル以上が確定し、この種目の日本勢で48年ぶりのメダルが決まった。女子ダブルス準々決勝では、ともに16歳の伊藤美誠(スターツ)早田ひな(福岡・希望が丘高)組が香港ペアを下してベスト4入りし、日本勢では16年ぶりのメダル獲得となった。

 男子ダブルスでも丹羽孝希(スヴェンソン)吉村真晴(名古屋ダイハツ)組と大島祐哉(木下グループ)森薗政崇(明大)組がともに準決勝に進み、日本勢の3大会連続メダル獲得が決まった。女子シングルス準々決勝で石川佳純(全農)は丁寧(中国)に1-4で敗れ、メダル獲得はならなかった。
◆進化した攻撃で圧倒
 表彰台への難関などはまるでないかのように、平野が圧倒的な強さで48年ぶりのメダルをつかんだ。準々決勝ではロンドン五輪シングルスの3位で、過去日本の前に立ちはだかってきた相手にストレート勝ちし、跳びはねて喜びを表現。「歴史に(名前を)残せてうれしい」と、なし得た快挙の重みをかみしめた。
 第3ゲームで初めてもつれた。点の取り合いが続いた17-16。低く、鋭いロングサーブを相手の胸元へ運び「恐れずにいった」と強気を貫いてゲームを奪取。第4ゲームも一気に奪った。


 リオデジャネイロ五輪の代表を逃したことが、プレーも性格も控えめだった少女を変えた。2015年秋。新たに師事した中沢コーチに、自分からスタイルを変更したいと告げた。現状維持ではなく、より攻撃的な卓球へ。今や高速のラリーで相手を圧倒する戦い方は最大の武器となった。


 ここまでアジア女王として貫禄十分の勝ち上がりを見せている。初出場した前回大会は、3回戦で丁寧に敗れた。あれから2年、メダルに手が届くまでに成長。コートで見せる真剣な表情を緩ませ「アイドルが大好きなので(AKBなどと同じ)『48』でうれしいです」と笑った。 (共同)(東京新聞 2017年6月3日 朝刊)

 13歳の張本智和、3回戦も突破 メダルまであと2勝/卓球 ―― 卓球・世界選手権個人戦第5日(2日、ドイツ・デュッセルドルフ)男子シングルス3回戦で13歳の張本智和(エリートアカデミー)が、台湾の選手に4-0で勝利。4回戦に駒を進めた。前日の第4日には日本のエースでリオデジャネイロ五輪銅メダルの水谷隼(27)=木下グループ=を4-1で破る大金星を挙げており、中学生の快進撃が続く。

 今月27日にやっと14歳になるという張本が、世界の舞台でまたも輝いた。21歳の台湾選手を相手に第1ゲームを11-7で奪うと、第2ゲームも1210で競り勝つ。勢いそのままに続く2ゲームも奪取し、ストレート勝ちで4回戦に駒を進めた。突破して準々決勝も勝ち上がれば、3位決定戦はないため、3位以上が確定する。メダルまであと2勝。中学生・張本の勢いが増す。


 死後の世界を言います。「黄泉(こうせん)」は中国の死後の世界で、血の色に黄色を廃する五行思想に依った語です。仏教の「冥土」「地獄」と結びついてもっぱら地下にある国とされますが、古くははっきりしません。
 黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉(こうせん)」の字を充てたものです。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となりました。「想い出が蘇る」などと言う「蘇る」は、「黄泉から帰る」、すなわち、生き返る意が原義だと言います。
  語源には以下のような諸説があります。 
 「夜」説:夜方(よも)、夜見(よみ)の意味、あるいは「夜迷い」の訛りともいいます。
 「四方」説:。単に生活圏外を表すとの説。
 「闇」説:。闇(ヤミ)から黄泉(ヨモ・ヨミ)が派生したといいます。
 「夢」説:。もともと夢(ユメ)のことをさしていたといいます。
 「読み」説:。常世国の別名とする説で、常世国から祖霊が歳神(としがみ)として帰ってくる正月を算出するための暦(こよみ=日読み)から。
 「山」説:。黄泉が「坂の上」にあり、原義は山であるとするがあります。古代の葬地が専ら山野だったことによると言います。
 黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされます。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったというのです。古事記には後に「根の堅州国」(ねのかたすくに)というものが出てきますがこれと黄泉国との関係については明言がなく、根の国と黄泉国が同じものなのかどうかは説が分かれるといいます。黄泉比良坂の「坂本」という表現があり、これは坂の下・坂の上り口を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は境界の意味であるという説とがあります。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれであるとしており、現実の土地に擬されています。

 以下、古事記には次のようにあります。
 是(ここ)に其の妹(いも)伊邪那美命を相見むと欲(おも)ひて、黄泉国(よみのくに)に追ひ往きき。爾(ここ)に殿の縢戸(さしど)より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔(の)りたまひけらく、「愛(うつく)しき我(あ)が那邇妹(なにも)の命(みこと)、吾(あれ)と汝(いまし)と作れる国、未だ作り竟(を)へず。故(かれ)、還るべし。」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白(まを)しけらく、「悔しきかも、速く来ずて。吾(あ)は黄泉戸喫為(よもつへぐいし)つ。然れども愛しき我が那勢(なせ)の命、入り来坐(きま)せる事恐(かしこ)し。故、還らむと欲ふを、且(しばら)く黄泉神(よもつがみ)と相論(あげつら)はむ。我をな視(み)たまひそ。」とまをしき。如此(かく)白して其の殿の内に還り入りし間、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御美豆良(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、一つ火燭(びとも)して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖(うじたかれころろきて)、頭(かしら)には大雷居り、胸には火(ほの)雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には拆(さき)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なり)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并(あは)せて八はしらの雷神(いかづちがみ)成り居りき。
 是に伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄(う)つれば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。是をひろひ食(は)む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋(たかむな)生りき。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後(またのち)には、其の八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。爾に御佩(はか)せる十拳劒(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて、待ち撃てば、悉(ことごと)に迯(に)げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告(の)りたまひけらく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆる宇都志伎(うつしき)青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ愡(なや)む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)命と号(い)ひき。
 最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。爾に千引(ちびき)の石(いは)を其の黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各対(おのおのむかひ)立ちて、事戸を度(わた)す時、伊邪那美命言ひけらく、「愛しき我が那勢の命、如此為(せ)ば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯(おひしきし)を以ちて、道敷(みちしき)大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反之(ちがへし)大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸(よみど)大神謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。

現代語訳
 伊邪那岐命は死んだ伊邪那美命にどうしても会いたくなり、黄泉国へ追っていった。黄泉国の殿舎の塞がれた戸から出迎えた伊邪那美命に向かって、伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、私と君と一緒に作った国はまだ作り終わってはいない。だから一緒に帰ろう。」といった。これに伊邪那美命は答えて「悔しいことです。なぜもっと速く来てくれなかったのです。私は黄泉国の竃で煮たものを食べてしまいました。もう現世には戻れません。でも愛しい我が夫がせっかくここまで来てくれました。私が帰れるように黄泉神と相談してみましょう。その間決して私を見ないで下さい」といった。伊邪那美命はそういってから殿舎の中に帰っていった、長い間待っていたが待ちきれなくなり、結った髪の左に刺していた湯津津間櫛の両端にある太い歯を一つ取って、一つ火を灯して中に入り見た時、伊邪那美命は蛆にたかられ、咽がかれてむせぶような音をたてていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰には拆雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷、あわせて八はしらの雷神が化生していた。
 是に伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄(う)つれば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。是をひろひ食(は)む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋(たかむな)生りき。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後(またのち)には、其の八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。爾に御佩(はか)せる十拳劒(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて、待ち撃てば、悉(ことごと)に迯(に)げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告(の)りたまひけらく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆる宇都志伎(うつしき)青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ愡(なや)む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)命と号(い)ひき。
 最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。爾に千引(ちびき)の石(いは)を其の黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各対(おのおのむかひ)立ちて、事戸を度(わた)す時、伊邪那美命言ひけらく、「愛しき我が那勢の命、如此為(せ)ば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯(おひしきし)を以ちて、道敷(みちしき)大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反之(ちがへし)大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸(よみど)大神謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。

 黄泉の国というのは言うまでもなく死者の世界であります。今日の私たちは死者の世界を霊的・宗教的なものとして考えがちですが、この黄泉の国の姿はひどく肉体的で、特に蛆がたかり波打つばかりであったというようなあたりは明らかに腐れただれた死体の印象からきたものです。説話化されているにもかかわらず黄泉の国の話には死体安置所である殯(もがり)に固有な肉体的臭気が付きまとっており何ら霊的なものを感じさせません。火葬の普及とともにモガリの制もやみ人間は死者の恐怖から解放されますが、それにかわって、死の恐怖が目覚め、かくして死後の世界は、道徳的・宗教的審判や呵責の行われる地獄の相貌を帯びることに至ります。仏教のもたらした地獄の日本的基盤を成すのが黄泉の国であったのは確かではありますが、黄泉の国には罪を罰するという地獄性は全くなく、現世との連続性がはっきりと見てとれます。
 イザナギノ命が女神に会うために黄泉国を訪れる物語は、古代の貴人の死に行われる殯宮儀礼を背景として、形成されたものと言われます。「我をな視(み)たまひそ」というタブーを犯して、男神が女神をの屍体を見るのは、肉親を葬って後、近親者が屍体を見に行く風習があった事に関連して語られています。また女神の身体に雷神が発生していたとするのは、死霊に対する恐怖の心を具体的に語ったものなのでしょう。黄泉醜女(よもつしこめ)や黄泉軍(いくさ)が追いかける話は死霊や死の穢れに触れることの恐ろしさを語ったものでしょう。このように物を投げながら逃走する型の説話は世界的に広く分布しており、呪的逃走説話とよばれています。


 


 桜餅(さくらもち)は、桜にちなんだ和菓子で、桜の葉で餅菓子を包んだものです。雛菓子の一でもあり、春の季語にもなっています。
 関東風桜餅:関東で作られている桜餅。関東以外では長命寺餅とも呼ばれることもあります。関東では関東風の桜餅のことを長命寺と呼ぶことは少なく、「長命寺の桜餅」と称した場合、向島の「長命寺桜もち」製の桜餅を意味します。また、関西風の桜餅のことを道明寺と呼びます。
 関西風桜餅:関西以西で作られている桜餅はふつう道明寺餅と呼ばれています。江戸で長命寺桜もちが文化文政年間に流行したことより、関東風桜餅が広く桜餅と呼ばれるようになり、他方の物を道明寺という名前で呼び分けています。関西では、関東風の桜餅のことを長命寺と呼ぶそうです。また、関西風の桜餅のことは道明寺と呼びます。

 現在の桜餅だけでなく古文書などにも桜餅の名前が見えます。
 桔梗屋菓子目録:南方熊楠によれば、桜餅の知られている出現は天和三年(1683年)であります。太田南畝の著「一話一言」に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたといいます。天和三年には桔梗屋菓子目録が出版され、また京菓子司・桔梗屋の河内大掾が江戸に店舗を構えました。これは蒸菓子であり、後の世の物とは別の物のようです。昔の作り方では餅を桜の葉で包み、蒸籠で蒸すやり方があます。
 男重宝記:男重宝記(元禄六年、1693年)に「桜餅」とあるところに桜の五弁の花びらを模した桜餅の図が載っていて、その傍らに「中へあん入れる」と記されています。

 茶湯献立指南(元禄九年、1696年):「秋の野」「伊勢桜」など風流な名称の菓子が見られます。

長命寺の桜餅は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業し売り出したのがはじまりとされます。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされます。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだといいます。はじめは桜の葉のしょうゆ漬けだったともいわれます。山本新六は下総国銚子の人で元禄四年(1691年)から長命寺の門番をしていました。将軍吉宗の台命により享保二年(1717年)同じ年に側傍の隅田川沿いに北から南へ桜木の植栽が行われ、これを機に花見時に賑わい発展しました。記録に文政のころ(1818-1830年)の桜餅屋のことが上がっています。曲亭馬琴他編の『兎園小説』の中で屋代弘賢が書いている内容からは盛況ぶりがうかがえます。
 「去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり」屋代弘賢、兎園小説(文政八年、1825年)
 桜餅一つの売値四文は現在の価値に直すと、推定で米の価格から換算した場合は約63円、大工の賃金から換算した場合は約322円。喜多村信節著文政十三年(1830年)自序の『嬉遊笑覧』には内容を変えて作られていることが記されています。
 「近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり」『嬉遊笑覧巻十上 飲食』(文政十三年、1830年)
 三田村鳶魚著の『桜餅』には「不忍の新土手は文政三年の築造であるから、それより前に、長命寺の桜餅があったのである。」とあり、文政三年(1820年)より前に長命寺の桜餅はあったと推察しています。
 桜餅はさまざまな絵画や詩文にも登場します。 『東都歳時記』(天保九年、1838年)長谷川雪旦画「桜餅屋」は、「隅田川名物 さくらもち」の店の絵の図である。
 歌川国芳の「諸鳥やすうりづくし」(天保十三年頃、1842年頃)には、隅田川名物櫻もちを作る2羽の都鳥が描かれている。この桜餅は現代のものとは異なり、餡を使っていません。
 歌川広重二代画・喜翁(歌川豊国)三代筆「江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅」(元治元年、1864年)には、桜咲く墨堤を背景に、二人の女性が桜餅の袋を提げた竿の両端を持って歩いてゆく姿が描かれています。
 明治二十一年の夏に正岡子規が長命寺境内の山本屋の二階に泊まっていた際に、七草集にある「花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅(もちひ)家づとにせよ」(明治二十一年、1888年)という歌を詠んでいます。

 道明寺(どうみょうじ)は、道明寺粉を用い、桜の葉で包む桜餅。京都の茶店や和菓子店でよく見られるとして京風桜餅とも呼ばれるものです。伝統で典型的なものの一つになっています。大阪府藤井寺市に材料の道明寺粉の由来にもなったという同名の寺があります。

 もち米で出来た昔からの餅の姿が、古くから伝わる和菓子の流れに合っていて各地に通じて広まっている。東京製菓学校では、長命寺がもとと考えているが、根拠は挙げていません。同じように道明寺粉で作った餅を葉で挟む椿餅があります。


 


古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていましたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられています。(現代においても果物は「水菓子」と呼ばれます。)初めは生のまま食べていましたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁(あく)を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、今日の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていきました。
 『古事記』『日本書紀』においては、垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされています。
 『古事記』によるタジマモリの記述は以下の通りです。


「垂仁天皇は、三宅連の祖先の多遅摩毛理(タジマモリ)を常世国に派遣して、"ときじくのかくの木の実"を探させた。多遅摩毛理は遂に常世国へと到り、木の実を取って持ち帰ったが、そのとき既に天皇は崩御していた。そこで、多遅摩毛理は半分の苗を皇后に献上し、残り半分の苗を天皇の墓の入口に供えた。そして、木の実を持って大きな声で泣き叫び、「縵四縵(カゲヨカゲ)・矛四矛(ホコヨホコ)を分けて大后に献り、常世国の"ときじくのかくの木の実"を持って来ました」と申し上げると、そのまま泣き叫びながら死んでしまった。"ときじくのかくの木の実"とは今で言うところの橘(タチバナ)である。 垂仁天皇は153歳で亡くなった。墓は菅原の御立野の中にある。」

 和菓子の原型は、推古天皇の頃、600年代より遣隋使を派遣し、中国大陸との交流を始めたことにより整えられていきました。文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされました。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法でした。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残しています。奈良時代の754年には鑑真によって砂糖や蜂蜜が、平安初期の806年には空海によって煎餅の製法が伝えられました。

 鎌倉時代には、宋から茶苗を持ち帰った栄西によって茶の栽培と普及が進められて喫茶文化が広まったことにより、点心の一つとしての菓子作りも発達していきました。当時食されていた菓子は今日にはほとんどその形をとどめていませんが、1341年に日本にもたらされた饅頭(蒸し饅頭)は、現在も続いている最も古い菓子の一つです。饅頭は仁和寺の第二世龍山徳見に弟子入りした宋の林浄因によってもたらされたもので、浄因は奈良の村に定住して日本における最初の饅頭である「奈良饅頭」を売り出しました。饅頭には当初中国のものにならって羊豚の肉が餡として使われていましたが、日本には当時肉食の習慣がなかったため、浄因は肉の代わりに豆類餡を入れたものを創案し、この形の饅頭が全国に波及していきました。鎌倉時代から室町時代にかけてもたらされた羊羹も、もともとは文字通り羊の肉が使われていたものでしが、日本では小豆を使用したものに改良されてしだいに現在の形になっていったものです。

 室 町時代にはポルトガル、スペイン、オランダの宣教師たちにより、カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラといったいわゆる南蛮菓子がもたらされ、小麦粉や砂糖を使ったこれらの菓子は和菓子の製法と発展にも大きな影響を与えました。またこれらの南蛮菓子もその後の改良により、伝来時の形と大きく異なっているものも少なくありません。

 その後、江戸時代には鎖国体制が敷かれたため菓子の発展にもいったん歯止めをかけることになりますが、一方でそれまで貴重品であった砂糖の輸入も増え、また平和が続いたこともあって独自に製菓技術が発達していき、江戸で武家や庶民に親しまれた江戸菓子、京都のみやびな京菓子がその形を整えていきました。また参勤交代制度によって各地の街道が整備されたことでひとびとの行き来や情報交流が盛んになり、各地の銘菓・名物菓子が知られるようになりました。このようにして江戸時代には現在の和菓子のほとんどが形作られたのです。
 明治時代になると、開国とともに西洋の文化が押し寄せ、チョコレートやビスケット、ケーキ、キャンディーといった洋菓子が日本に次々と導入されてきました。これにともない新たに日本に入ってきた洋風菓子を「洋菓子」、それまでの日本の菓子を「和菓子」とする呼び分けがされるようになったのです。その後はあんパン、クリーム入りの饅頭といった和洋折衷の菓子なども生まれ、現代の日本では多様な菓子が並立する時代となっているのです。


 


 日本にすっかりお馴染みになっている洋菓子の中には、言語を知っていればすぐにお菓子の形状が浮かぶものがあります。「シュークリーム」はフランス語 chou a la creame でクリーム入りのキャベツのことです。「バウムクーヘン」はドイツ語 Baumkuchen で樹の菓子をいみします。「ミルフィーユ」はフランス語 mille-feuille で千枚の葉という意味です。

 ドイツ発祥の焼き菓子プレッツェルは独特な結び目の形に作られます。小麦粉とイーストを原料とし、焼く前に数秒間水酸化ナトリウム水溶液(3~5%)につけます。焼ける間に空気中の二酸化炭素と反応して炭酸ナトリウムと水に変化し、表面が特徴的な茶色になります。稀に炭酸水素ナトリウム水溶液にくぐらせることもあるといいます。ドイツ語圏ではアルカリ溶液を意味する Lauge を付け加えて、Laugenbrezel ラウゲン・ブレーツェルとも呼ばれます。焼き上げる前には岩塩の粒をまぶします。
 語源はラテン語ブラーキテッルム brachitellum に由来し、その語根は bracchium 「腕」であるといいます。腕組をしたような形を示しています。古高ドイツ語 brezitella を経て、現代の諸方言につながっているといいます。プレッツェルの起源ははっきりわかっていません。一般的な説では、プレッツェルはブレーツェル Brezel、あるいはブレーツェ Brezeと呼ばれている南ドイツ(バーデン地方)の焼き菓子が広まったものとしています。それ以外にもドイツとの国境に近いフランス・アルザスの料理であるとする説もあります。最初に作られたのは中世ヨーロッパ時代とする説もあれば、ローマ帝国時代だとする説、他にも古代ケルト人の菓子であったとする説もあるそうです。
 プレッツェルの独特の形についてもいろいろな説があります。窃盗の罪を犯したパン職人が、一つのパンから太陽を一つの角度から3度見ることができれば牢獄に入らなくても良いと領主に言われ、生地をプレッツェルの形にねじり上げて焼き上げたという伝承があるそうです。プレッツェルの形は祈りをささげている修道士をかたどったものだとする伝承もああります。また別の伝承によるとこの3つの穴はキリスト教の三位一体を象徴しているとしています。プレッツェルはパン屋のシンボルとして、よく店の看板やマークに使用されることがあるそうです。かつてドイツでは3つの輪をつなげた看板がパン屋の看板として使われていましたが、プレッツェルの形が看板として使われたのか、プレッツェルが看板の形に作られたのかはっきりしません。しかし、いずれの伝承も後付けされたものであるようで、答えはわかりません。

 シフォン‐ケーキ(chiffon cake)は小麦粉に卵・砂糖・サラダ油を混ぜて練り、型に入れて焼いた洋菓子です。スポンジケーキの一種で、アメリカで生まれたといいます。シフォン(薄い平織りの絹織物、フランス語の語源はぼろ布)のような軽くふんわりとした食感であるところからの名といいます。

 エクレアの代表的なチョコレートのアイシングをかけた品は、仏語でエクレール・オ・ショコラ(éclair au chocolat)と呼ばれます。「エクレール」とは仏語で「雷・稲妻」の意味で、この名前の由来にはいくつか説があり、焼いた表面にできる割れ目が稲妻に似ているために名付けられたという説、アイシングのフォンダンがぎらりと光るからという説、中のクリームが飛び出たり表面のフォンダンが溶けないうちに稲妻のように素早く食べるべしということで名付けられた説などがあります。
※アイシング(英: icing、砂糖衣がけ)とは、焼き菓子を覆う甘いクリーム状のペーストです。アメリカでは主にフロスティング(frosting)と呼ばれるそうです。
 エクレアは、細長いシュークリームの上に薄くチョコレートをかけた洋菓子です。代表的なチョコレートのアイシングをかけた品は、フランス語でエクレール・オ・ショコラ(éclair au chocolat)と呼ばれます。「エクレール」とは仏語で「雷・稲妻」の意味で、この名前の由来にはいくつか説があり、焼いた表面にできる割れ目が稲妻に似ているために名付けられたという説、アイシングのフォンダンがぎらりと光るからという説、中のクリームが飛び出たり表面のフォンダンが溶けないうちに稲妻のように素早く食べるべしということで名付けられた説などがあります。

https://www.youtube.com/watch?v=iZ1Tjz0VhXk

 シュトーレンは洋酒に漬け込んだドライフルーツやナッツが生地に練りこまれており、表面にはたっぷりの砂糖がまぶされています。
 ドイツ語の綴りがStollenなので、正確には「シュトレン」と言うそうです。日本では「シュトーレン」が一般的で、シュトーレンと書かれているのを見かけますが、ドイツ語の発音規則としては正しくないのだそうです。シュトレンはドイツ語で「坑道」の意味です。またその真っ白な形は、白い産着に包まれた幼子イエスをイメージしているとも言われています。



 柔らくて甘い洋菓子のマシュマロ(marshmallow)は、その音からして、いかにも丸くてふわふわしたいめーじにあっているようですが、本来は単なる植物名なのです。Marsh は「沼地」、mallow は「葵」で、和名をウスベニタチアオイという植物の根なのです。その粘液を原料として作ったところからの名だと言います。いまでは水飴やゼラチンなどで作られているそうです。



 


 先週の火曜日(5月16日)から風邪をひき、咳に悩まされました。市販の咳止めで咳は何とかおさまりましたが、胃腸の具合が悪く、家の中に閉じこもっていたのですが、ブログもついついサボりがちになってしまいました。そんなわけで、今年の三社祭は本神輿にもお目にかかっていません。水曜日には下関在住の甥が訪ねてくれたのですが、その応対もままならぬ有様でした。
 福岡の甥からメールが入り、今度は娘夫婦も巻き込んで新しくメール句会を始めるようです。今回も冊子にするとのこと、今日から再びパソコンの前に座ることにしました。

 ウェブニュースより
 宇良、特別な相手に快勝=大相撲夏場所 ――  宇良は立ち合いで右に動いて北勝富士の圧力をかわすと、右を差されても慌てなかった。肩透かし気味にいなして後ろにつき、持ち味のスピードとうまさを見せた。

 同学年で学生横綱にもなった北勝富士は特別な相手で「序ノ口から当たってきた。番付を上げて対戦できるのがうれしい」と言う。幕内での初対戦に快勝して白星を2桁に乗せ、「あと三つに集中したい」と意欲を高めていた。(jiji.com 2017/05/25-20:44)
 石浦、勢の右差し封じて肩すかしで勝つ ―― 大相撲夏場所12日目 ○石浦(肩すかし)勢●(25日・両国国技館) 西前頭11枚目・石浦(27)=宮城野=が西前頭6枚目の勢(30)=伊勢ノ海=と対戦した。

 石浦は立ち合いで勢の右差しを封じると、そのまま肩すかしで勝利した。石浦は6勝6敗。 (スポーツ報知5月25日(木)17時9分)

 藤井四段19連勝で竜王戦決勝T進出「攻め続けたのが良かった」と淡々 ―― 将棋の最年少プロ棋士で、デビューから無敗の18連勝を記録していた藤井聡太四段(14)が25日、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われた、竜王戦6組ランキング戦の決勝戦で、近藤誠也五段(20)を102手で破った。自身が持つデビューからの連勝記録を19に伸ばすとともに、竜王戦の決勝トーナメント進出も決定。史上最年少でのタイトル獲得に、一歩近づいた。

 相手に付け入る隙を与えない完勝にも、藤井四段は笑みを浮かべず淡々。「攻め続けたのが良かった」と自己分析した。前代未聞の中学生タイトルホルダーへ向け、決勝トーナメント進出を決めた藤井四段は「19連勝はうれしいです。(決勝トーナメントでは)強い先生ばかりとの対戦になるので、気を引き締めて全力でぶつかりたい」と前を向いた。
 対戦相手の近藤五段は15年10月に四段に昇段してプロとなり、24日までの通算勝率は7割4分を超えている。11月には王将戦の挑戦者決定リーグ戦で、羽生善治三冠(46)を破った。今年に入っても、1月12日の順位戦C級2組から3月9日の竜王戦6組まで10連勝をマークするなど、14勝1敗という驚異的な成績で、順位戦では1期でC級1組への昇格を決めており、将来の名人候補との呼び声も高い存在だ。
 その近藤五段に対し、後手番となった藤井四段は、真っ向勝負を挑んだ。戦形は、近藤五段が羽生三冠を破った対局でも採用した「相掛かり」。藤井四段は自身の得意な「角換わり」ではなく、相手の得意戦法を受けて立つ形となった。序盤から力のこもった戦いが続いたが、中盤に機敏な指し回しで優位を築くと、夕食休憩時にはすでにはっきり優勢との評判に。最後は抜群の終盤力できっちり押し切った。
 これで19連勝となり、歴代単独7位に。さらに、11人による竜王戦の挑戦者決定トーナメントにも駒を進めた。デビュー1年目で竜王戦6組を優勝したのは、通算8人目。このまま決勝トーナメントも勝ち進めば、前代未聞の中学生タイトルホルダー誕生の可能性も出てくる。
 一挙手一投足が注目される藤井四段は、対局中の食事も“勝負メシ”として話題となっている。この日の昼食は、ボリューム満点なことで知られる中華料理店「紫金飯店」の五目焼きそば。デビュー戦となった昨年12月の加藤一二三九段戦でも、夕食に同店の卵チャーハンを注文した。夕食は、将棋会館での出前メニューの“定番”である「ほそ島や」のチャーシューメン。昼夜とも恒例の麺類で、しっかり栄養分を補給した。

 明日からまたがんばります。よろしく。


 


 手の「ゆび」の語源をしらべてみると、
 〔指の語源は諸説あるが、古くは「および」と言い、さし出して物に及ぶところから、「及び(および)」の意味とする説がよい。/現在では手足ともに「ゆび」と呼ぶが、元は手のものを「指(てゆび)」、足のものを「趾(あしゆび)」といって区別していた。/漢字の「指」は、「手」+「音符旨(シ)」からなる形声文字で、まっすぐに伸びて直線に物をさすゆびを表している。/なお、「旨」には「うまい」の意味があるが、「指」の漢字では音符に過ぎず「うまい」といった意味は含まれていない。〕(語源由来辞典より)
とあります。
 指のそれぞれの名前は、親指・人差指・中指・薬指・小指ですが、昔の和語では、おおゆび・塩なめゆび・丈高(たけだか)ゆび・紅さしゆび・ちいさゆびと呼ばれていました。漢語では、拇指(ぼし)・食指・中指(ちゅうし)・無名指(むめいし)・小指(しょうし)といいます。

 親指の意味:西洋文化では親指以外の指を握り、親指を上へ向けてのばす動作は良い状態、あるいは肯定を表します(Thumbs up〈サムズアップ〉)。そのまま親指を下へ向けると、否定、もしくは「死ね」を表すことになります。一説には古代ローマの剣闘士における生死をかけた真剣勝負に負けた側の処遇を指示する仕草に由来し、健闘むなしく負けた剣士には賛辞と慈悲の助命としてサムズアップを、卑劣な戦いや臆病な行動に対する不満には親指を下にして止めを刺すよう求めたといいます。こと後者は西洋でははっきりとした敵意のイメージを相手に与える動作として使われています。ゆえに、西洋でむやみにこれを使うと人間関係が破壊されることもあります。
 中世の日本では「おほゆび(大指)」と呼ばれ、江戸時代から「おやゆび」の用例が見られるようになったといいます。親指の呼称が定着したのは明治時代以後のことです。日本のボディーランゲージでは、親指は「男」を意味します。日本手話でも「男」または「彼(三人称の代名詞)」)という意味で使われるそうです。「霊柩車を見た時は親指を隠す」「野犬に吠えつかれた時は親指を隠す」など、俗信の対象ともなっています。

 人差指の意味:文化によっては、人差し指で他人を指差す行為は無礼に当たり、挑発行為と見なされる場合もあります。人差し指を立て、横に振ることは相手に対する不同意を示すことになります。唇近くで人差し指を立てることは「静かに」「音を立てないように」と相手に注意を促す意味を持ちます。

 日本においては、人差し指を鉤型に曲げると窃盗を示します。イタリアでは、子供が美味であることを示す場合、人差し指を頬にあて、ねじるように動かす行為をします。飲茶の習慣では、他人にお茶を注いでもらった際などに人差し指と中指でテーブルを2回叩くことで感謝を表現します。一方、フィリピンでは指でテーブルを叩くことは無礼なこととされているのです。
 漢語では人差指を食指と言い、食欲や物事についての興味をしめすことを「食指を動かす」と言いますが、これについては以下の故事があります。
 『春秋左氏伝』宣公四年より
 楚の人が黿(げん、すっぽん)を鄭の霊公に献じた。公子宋と公子家とが、連れ立って朝廷に上がったところ、子公(子宋)の食指がぴくぴくと動く。子公はその指を帰生(子家)に見せた。
 「今までこういうことがあると、わたしはきっと珍しいご馳走にありつくのだよ。」
 君の前に出ると(果たして)料理版が鼈を割いているので、二人は思わず顔を見合わせて笑った・公が気づいて笑うわけを訊いたから、子家が(食指のことを)話した。それなのに、大夫たちに鼈のお相伴をさせる段になって、わざと公子を召しておきながら、食べさせない。子公は怒り、すっぽんの鼎に指をすりつけ、その指を嘗め嘗め退(さが)った。公は腹を立て、子公を殺してやろうと思った。子公は子家に先手を打とうと持ちかけたが、子家はとめて、
 「家畜でも飼いなれたら殺しにくいものだ。まして主人ではないか」
 すると子公は(それならば)子家を公に謗ろうとしたので、子家はやむを得ず従って、夏、二人で霊公を弑(あや)めた。―― 平凡社、中国古典文学大系2、春秋左氏伝より

 中指の意味:手の甲を相手に向けて中指だけを立てるジェスチャーは、欧米社会などの英語圏で相手を侮辱する"Fuck You" を意味し、日本でもファックサインと呼ばれています。(くたばれ、くそくらえ)などの侮蔑表現に相当する卑猥で強烈な侮辱の仕草なのです。サインを出した後、突き上げるようにするとさらに意味が強くなるといいます。
 古英語の時代には「こんにちは」のあいさつ、中・新英語の時代は「鳥をすばやく投げる」という意味で、元は汚い意味ではありませんでした。
 ちなみに日本の指文字の「せ」は中指だけを立てますが、手の甲を自分に向けます。また、日本手話においての「兄」は手の甲を相手に向けて中指のみを立てるのだそうです。

 薬指の意味:薬指はパソコンの語源由来辞典によれば、次のようにあります。
【薬指の語源・由来】
 薬指を古くは「ナナシノユビ」「ナナシノオユビ」「ナナシノオヨビ」といい、中世頃から「クスシノユビ」「クスシユビ」、江戸時代から「クスリユビ」「ベニサシユビ」と呼ばれ、明治後半以降、「薬指」が一般的な呼称となった。/「ナナシノユビ」「ナナシノオユビ」「ナナシノオヨビ」の「ナナシ(名無し)」は、中国で薬指のことを「無名指」と呼んでいたことから、その訳語と考えられ、「オユビ」「オヨビ」は「指」をいう古語である。/「クスシノユビ」「クスシユビ」の「クスシ(薬師)」は「薬師如来」のことで、薬師如来が印を結ぶ際に使う指だからという説がある。/「ベニサシユビ(紅差し指)」は紅をさすのに使う指の意味で、「クスリユビ(薬指)」は薬をつけたり、薬を水に溶かしたりするのに用いる指からと考えられている。/「薬師指」から「薬指」への変化は、上記の役割からと考えられているが、それ以前に「薬師(やくし)」を「くすし」と呼んでいる点に疑問が残る。/「薬師」を「くすし」といった場合、「医者」や「薬師(くすりし)」を表し、その語源は「くすりし」の略や、治療する意味の「くすす」からと考えられている。/そのため、「薬師指」と呼ばれていた時点で、薬を水に溶かしてつけるのに用いる指という意味があったとも考えられる。
 薬指の由来は、昔、薬を水に溶かす際や塗る際にこの指を使ったことによるという説、薬師如来が右の第四指を曲げている事によるとすめ説があります。和語では薬師(くすし)指、医者指といった、薬と関連する用例の他、紅差し指(紅付け指)ともいいます。最も古い名無し指(漢語では無名指との呼び方がある)もあるそうです。方言の分布状況としては西日本で紅差し指系の用例が多く、東日本では薬指系の用例が多いといいます。
 薬指の名称が薬師如来の印相に由来するという説では、第四指が薬指と呼ばれるようになった以降、呼び名からこの指で薬を塗るなどの俗習が広まったとします。
 英語ではfourth fingerですが、ring finger が一般的です。婚約指輪は右手の、結婚指輪は左手の薬指に着用するのだそうです。

 小指の意味:小指という名は最も小さい指であることに由来しています。漢語では小指(しょうし)、又、「季(すえ)の指」ということから季指との呼び方もあります。
 日本では小指は「女」を意味します。「コレ」と言いつつ小指を立てると、(女性の)「恋人」「愛人」などの意味にもにります。
 欧米の一部では、男性に向かって小指を立てるサインが重大な侮辱と取られる場合があるそうです。
 日本では相手に対する誠意や忠義を示す風習として小指を切るという行為があり、かつては遊女が客に対して自分の小指を切断して渡すという行為があったといいます。また、現代の日本の暴力団では、落とし前の付け方として、小指を詰めることがしばしば行われていました。

https://matome.naver.jp/odai/2135805724674803201
https://www.youtube.com/watch?v=klafInH5Tbw
 日本語で、指は指示や指摘の意味で用いられることが多く、それらに纏わる慣用句がたくさんあります。
・指を折る:指折りの、屈指の、多くの中で指を折って数え上げるほど優れていること。また、数える時の動態。
・指を差す:モノを指で示すこと。人をあざけりそしること。手を出すこと。
・指一本も差させない:他者に少しも非難を許さない潔癖な状態。また人に干渉させないことを言う。
・指の股を広げる:太鼓持ちが遊客をおだてて機嫌を取るさまを言う。
・指果報:指紋を見て占いをすること。転じて、思いがけない幸せ。
・指を咥える:うらやましがりながら、手を出せずにいる。また、きまり悪そうにする。恥ずかしそうにする。

 指を用いて数える時は、人差し指を立てて 1、さらに中指を立てて 2、さらに薬指を立てて 3、さらに小指を立てて 4、さらに親指を立てて片手を広げて 5 を表します。両手を使うと 10 までを表せます。また左右の手の指に限らず、親指と人差し指で円を作ることで 0 を意味することがあります。
 独特ではありますが、二進数の表記に指を用いることがあります。またその時は片手で 31 まで、両の手で 1023 までを表すことができるのです。ただし、数によっては(特に薬指を立てる場合)表すのが困難なものがあります。



 


日本語では古来、中国から大量の漢語、すなわち中国語の単語を借用してきました。漢語の造語法に習熟するにしたがい、独自の和製漢語を造るようになりました。その造語法をみると、まず漢字で表記した大和言葉を音読したものがあります。例えば、「火のこと」を「火事」、「おほね」を「大根」、「腹を立てる」を「立腹」とする類です。また、中国語にない日本特有の概念や制度、物を表すために漢語の造語法を用いたものがあります。「介錯」「芸者」などがその例です。
 『解体新書』刊行後、医学が発展したことはもちろんですが、オランダ語の理解が進み、鎖国下の日本において西洋の文物を理解する下地ができたことは重要です。また大槻玄沢などの人材が育つ契機ともなりました。翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などの語が作られ、それは今日でも使われています。例えば、「神経」は杉田玄白らが解体新書を翻訳する際、神気と経脈とを合わせた造語をあてたことに由来しており、これは現在の漢字圏でもそのまま使われています。もっとも、最初の翻訳という性質上仕方ないことでありますが、『解体新書』には誤訳も多かったため、のちに大槻玄沢が訳し直し、『重訂解体新書』を文政9年(1826年)に刊行します。なお、「『十二指腸』の名前は誤訳であったが訂正されずに現在に至り、正式な医学用語として定着してしまった」と言われていますが、これは俗説のようです。

 長い鎖国時代が終わり、開国と同時に西洋文明がどっと流れ込んできた幕末・明治期に、外国の文物を日本語に取り込むとき、当時の人は漢語に翻訳する工夫をしました。今では当たり前の日本語として定着している言葉の中には、当時の名だたる知識人が知恵を絞った翻訳語がいくつもあります。例えば、小栗上野介「company→商社」、西周「logic→論理学」、中江兆民「symbole→象徴」、井上哲次郎「ethics→倫理学」、福沢諭吉「copyright→版権」、坪内逍遥「dance→舞踊」などがあります。

 小栗上野介は独特な言語センスの持ち主であったらしく、頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っています。西周は明治文化の功労者の一人であり、「哲学」という国字の開発者であると共に、我国哲学界の先駆者として知られています。中江兆民はルソー『民約訳解』翻訳刊行等により自由民権運動に人民主権の理論を提供し“東洋のルソー”といわれましたた。門人に幸徳秋水らがいます。井上哲次郎はドイツ観念論哲学を紹介し、日本の観念論哲学を確立した人です。
 知的財産権の一つである「著作権」――福沢諭吉がcopyrightを「版権」と訳したのが最初だと言います。1875年の出版条例で正式に決定されますが、1899年の著作権法で「著作権」という言葉に置き換えられました。
 「舞踊」という言葉はすっかり日本語として馴染んでいますが、ダンスの訳語として「舞」と「踊」とを組み合わせて作られた歴史的には比較的浅い語なのです。1904年の坪内逍遥の『新楽劇論』によって広まったということです。

 明治期には、手の「舞」と足の「踏(ふみ)」とを合わせた「舞踏」も、同じく「ダンス」の訳語として用いられました。実は「舞踏」という言葉自体は起源が古く、『源氏物語』33帖「藤裏葉」にも登場します。叙位・任官などのとき拝謝の意を示す礼(再拝して袖を振り、手を動かして足を踏んだりする.「拝舞」とも言います)のことです。

 池の魚〔いを〕を左少将取り、蔵人所〔くらうどどころ〕の鷹飼〔たかがひ〕の北野に狩り仕〔つか〕まつれる鳥一番〔ひとつがひ〕を、右少将捧げて、寝殿〔しんでん〕の東〔ひむがし〕より御前〔まへ〕に出〔い〕でて、御階〔みはし〕の左右に膝をつきて奏〔そう〕す。太政大臣〔おほきおとど〕、仰せ言〔ごと〕賜〔たま〕ひて、調〔てう〕じて御膳〔おもの〕に参る。親王〔みこ〕たち、上達部〔かんだちめ〕などの御まうけも、めづらしきさまに、常の事どもを変へて仕うまつらせ給へり。
 皆御酔〔ゑ〕ひになりて、暮れかかるほどに、楽所〔がくそ〕の人召す。わざとの大楽〔おほがく〕にはあらず、なまめかしきほどに、殿上〔てんじやう〕の童〔わらは〕べ、舞仕うまつる。朱雀院〔すざくゐん〕の紅葉の賀〔が〕、例〔れい〕の古事〔ふるごと〕思〔おぼ〕し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子〔おとご〕の十ばかりなる、切〔せち〕におもしろう舞ふ。内の帝、御衣〔ぞ〕ぬぎて賜ふ。太政大臣下りて舞踏〔ぶたふ〕し給ふ。 (源氏物語33帖 藤裏葉より)
現代語訳
 池の魚を、左の少将が取り、蔵人所の鷹飼が北野で捕まえ申し上げた鳥一番を右の少将が捧げて、寝殿の東から御前に出て、階段の左右に膝をついて申し上げる。太政大臣が冷泉帝のお言葉をいただいて、調理をしてお膳としてお出し申し上げる。親王たちや上達部などの饗応も、めずらしい様子で、普段の目先を変えて御用意申し上げなさった。
 皆お酔いになって、日が暮れ始める頃に、楽所の演奏家をお呼びになる。大掛かりな舞楽ではなく、優美な感じに、殿上の童たちが、舞をし申し上げる。朱雀院の紅葉の賀を、いつものように、先例をふと思い出しなさる。「賀王恩」という舞楽を演奏する時に、太政大臣の末っ子の十歳ぐらいであるのが、とてもみごとに舞う。内裏の帝〔:冷泉帝〕が、衣服を脱いでお与えになる。太政大臣が庭におりてお礼の舞をなさる。

 「ダンス」の意の「舞踏」は、いまは前衛舞踊などで使うほか、「舞踏会」「舞踏病」と言った語に名残をとどめます。


 


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