雛罌粟(ひなげし)は、罌粟の仲間ですが、麻酔物質をもちません。1972年田中内閣が成立、日中国交が復活した年にアグネス・チャンの「ひなげしの花」が巷に流れました。
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楚の項羽は垓下(がいか)で漢の劉邦(りゅうほう、高祖)の軍に囲まれた時、「四面楚歌」のなかでみずからの敗北を知り、寵姫虞美人を前に、「虞や虞や、なんじをいかんせん」と嘆きます。虞美人は項羽に和して歌い、自害します。この虞美人の墓に真紅の花「ひなげし」が咲いたという伝説にもとづいて、これを「虞美人草」と呼んだと言います。
虞美人は、気位の高い女性だったようです。そういえば、夏目漱石の小説「虞美人草」の女性も気が強いようでした。ともに、「ひなげし」のはかなげなたおやかさはありません。
人名から付けられた植物に「ベンケイ草」があります。山地に生え、高さ約50センチ、いきぐさともいいます。葉は対生し、楕円形で厚く、白みを帯びる。夏から秋、淡紅色の小花が多数集まって咲きます。ベンケイソウ科の双子葉植物は約1500種がオーストラリアを除く全世界に分布しています。多肉性の草本が多く、キリンソウ・タコノアシなども含まれています。
和名を「ミセバヤ」という、ベンケイソウの仲間で秋に淡紅色の花をつける植物があります。君に見せばや(見せたいものだ)」と、控えめな願望をあらわした名前ですが、「見て呉れ」は江戸時代には「見体」という当て字があるように、見かけ、外見の意です。「これを見て呉れ」といわんばかりに、他人に派手な身なりや言動を見せつける言葉です。この押しつけがましさに対して控え目な願望を表した言葉が「見せばや」です。
源平の一の谷の戦いで、若武者平の敦盛を剛の者熊谷直実が泣く泣く討つ話は『平家物語』の名場面です。その二人の武者が母衣(ほろ、鎧の背につけて、飾りにしたり、流れや除けにした布)を背負う姿に見立てた植物がアツモリソウとクマガイソウです。
ともにラン科の多年草ですが、アツモリソウは深山に自生し、夏、紫紅色の花を開き、クマガイソウは山地の林に春、紅紫の小さい斑点のある白い花を開きます。
一般に中国四大美人と呼ばれるのは次の女性たちといわれています。
西施(春秋時代)・王昭君(漢)・貂蝉(後漢)・楊貴妃(唐)
ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くこともあります。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともあります。
西施
本名は施夷光(しいこう)。中国では西子ともいいます。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(しょきけん、現在の諸曁市)生まれだと言われています。現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿(ちょら)村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施→西施と呼ばれるようになったと言います。
西施(せいし)の「顰(ひそみ)に倣(なら)う」という故事を四字熟語としたものが、「西施捧心(せいしほうしん)」です。
越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいました。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれています。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになります。呉が滅びた後の生涯は不明ですが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられたともいわれています。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあったと言います。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになったそうです。
また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡(はんれい)に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もあります。
中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれていそうです。逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」といわれているそうです。
王昭君
『西京雑記』(せいけいざっき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物です。著者は晋の葛洪(かつ こう、283~343年、西晋・東晋時代の道教研究家・著述家)ともされますが、明らかではありません。この中の記述に次のようにあります。
〔元帝の後宮に住む女性たちは既にたくさんいたので、常に(元帝に)お目にかかることができるというわけではありませんでした。/そこで(元帝は)絵描きたちに(女性の)姿を描かせて、その絵で、(選んだ)女性を召し抱えて寵愛していました。/宮中の女性たちは皆、(美しく描いてもらおうと)絵描きたちに賄賂をわたし、多い者は十万(の賄賂)を、少ない者でも五万を下りませんでした /一人王嬙(王昭君)だけはこれを良しとしませんでした。/(醜く描かれた絵のせいで、王昭君は)ついに(元帝に)お目にかかることはできませんでした。
匈奴が朝貢してきたとき、美人をもらって君主の妻としたいと言いました。/(元帝は)そこで、(絵描きに描かせた)絵を参考に、王昭君を(妻として)行かせることにしました。/(王昭君が宮廷を)去ることになったので、(元帝が)召し抱えて(王昭君を)見たところ、(王昭君は)宮廷一の美貌でした。/対応の仕方がよく、立ち振舞いはしとやかで優雅でした。/元帝はこれ(王昭君を嫁がせること)を後悔しましたが、(王昭君の名が記された)名簿は既に出来上がっていました。/元帝は外国への信用を重視しました。/それゆえにもう人を変えることはしませんでした。/そこで(元帝は不思議に思って)その事を徹底的に調べて、絵描きたちを皆死刑にしてその死体を市中にさらしました。〕
前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于((こかんやぜんう、?~BC31年)が、漢の女性を閼氏(あっし、匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もあります)王昭君が選ばれました。以後、王昭君は呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けます。その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于(ぶくしゅるいにゃくたいぜんう、?~BC20年)の妻になって二女を儲けました。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされました。『後漢書』によると、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になった時、王昭君は、反発しましたが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったとの記述があります。 こうした悲劇は『西京雑記』などで書き加えられ、民間にその伝承が広まりました。
王昭君は旅の途中、故郷の方向へ飛んでいく雁を見ながら望郷の思いをこめて琵琶をかき鳴らした所、彼女の姿と悲しい調べに魅入られて雁が次々に落ちてきたので、「落雁美人」と言われました。俗説では、撫で肩が欠点であったということで、いつも肩パットを愛用したとか?
貂蝉
貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性です。実在の人物ではありませんが、楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられるそうです。
『三国志演義』第八回から登場します。幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられました。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てます。
王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせます。次に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまいます。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めます。その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をするのです。2人が密会していることに董卓はいったん怒るのですが、腹心の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言います。だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしません。それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害するのです。2人の間に貂蝉を置き(美人計)、貂蝉を巡る両者の感情を利用し2人の関係に弱点を作り、そこを突く(離間計)、これが「連環の計」なのです。
董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となるのですが子ができません。(第十六回)
下邳(かひ)の攻防戦では、陳宮(ちんきゅう)に掎角(きかく、両雄が相対して勢力を争うこと)の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めています。下邳陥落後の貂蝉については記述がありません。
楊貴妃(ようきひ、(719~756年))
中国、唐第6代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)です。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれます。幼名を玉環(ぎょくかん)といい、早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄(げんきょう)の養女となったとされますが、玄の実子とする説もあります。
才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となりましたが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召したのです。翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けました。
3人の姉は韓国(かんこく)、虢国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、族兄楊(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競いました。貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名です。
毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送ったといいのす。しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出します。しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめたのです。時に38歳であったといいます。
兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させましたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったといいます。貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだのです。
紫の 尓保敝類(にほへる)妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも (万葉集 巻1、12)
「紫に美しく輝くあなたを嫌う訳があれば 愛してはいけない人妻であるあなたになぜこんなにも恋い焦がれるのでしょうか」
額田王の「茜さす紫野行き標野行き……」歌に大海人皇子が応えて詠んだ歌です。冒頭の「紫」は「茜さす紫」と同じく、紫草から染め出した紫の色を指します。紫の色のように「にほへる」糠田王の美貌、その「にほふ」は
しぐれの雨、間なくな降りそ、紅に、にほへる山の、散らまく惜しも (万葉集 巻8、1594)
(しぐれの雨、間なく降らないで。紅に色づいた山の紅葉が散ってしまうのが惜しいです。)
紅に 染めてし衣 雨降りて にほひはすとも うつろはめやも (万葉集 巻16、3877)
(紅色に染めた衣 雨が降り濡れて色が鮮やかになっても、その色が褪せることがあるでしょうか)
などと使われた古い用法の「にほふ」で、赤い色が表面に滲み出るような感じを表す動詞でした。
紅顔の美女を讃えて
桃の花 紅色に にほひたる 面輪(おもは)のうちに…… (万葉集 巻19 4192、大伴家持)
と表現した例もあれば、
筑紫なる にほふ児ゆゑに 陸奥(みちのく)の かとり娘子(をとめ)の 結(ゆ)ひし紐解く (万葉集 巻14、3427)
(筑紫の美しい女のお蔭で故郷かとりに住む恋人が結んでくれた紐をとうとうおれは解いてしまったよ。)
と短く言って済ませた例もあります。
額田王の美貌を「紫のにほへる妹」と賛美した大海人皇子のうたは、「にほふ」の使用によって、紫色が赤色の範疇にあった事を傍証するものです。額田王の「茜さす紫」と好一対を成すものです。
雑歌,作者:小野老,奈良都
[題詞]<大>宰少貳小野老(おののおゆ)朝臣歌一首
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (万葉集 巻3、328)
(寧樂のみやこは 満開の花が色鮮やかに華やぐごとく 今まさに盛りであることだ)
「咲く花」が実際に何の花であったかは判りませんが、「にほふ」の原義を尊重して大意を汲み取ると「美しい寧良(なら)の都は、咲く花の華やかなように今さかんである」ということになります。
しかし、「にほふ」が原文では「薫」の字で表記されている点を見逃してはなりません。和語の「にほふ」を「薫」という表意文字で書いたということは、もと赤い色さらには明るい色の発散するような感じを表した「にほふ」が、嗅覚に関する印象をも合わせ持ちうる語であったことをうかがわせます。
万葉集には動詞「にほふ」に「薫」の字を当てた例がもう一つあります。
…… 龍田道(たつたぢ)の 岡辺の道に 紅躑躅(につつじ)の 薫(にほは)む時の 桜花 咲きなむ時に …… (万葉集巻6、971)
(…… 龍田道の岡辺の道に紅の躑躅が映える時、桜の花が咲く時に、…… )
作者、高橋虫麻呂(生没年不詳)は赤い躑躅の花が「にほふ」と述べているのですから、語の用法としては赤い色が滲出という「にほふ」の古義から逸脱していないのですが、「薫」の字によって表記した心理は、「咲く花のにほふが如く今盛りなり」の歌がそうであったように、芳しい花の香りが随伴的に意識されたためでしょう。「薫」野ほかに「香」の字を「ニホフ」とよませた例もあります。
…… 茵花 香君之 牛留鳥 名津匝来与 ……
…… つつじ花 香(にほへる)君が にほ鳥の なづさひ来むと ……
(…… つつじの花のように 芳しい我が子が 帰って来るだろうと ……
※「にほ鳥の」は「なづさひ」にかかる枕詞
私たちは現在「匂う」という動詞を嗅覚に関する語として使用しています。いつの頃から「にほふ」が嗅覚専用の言葉になったのでしょう。徴候はすでに『万葉集』において「薫」「香」などの文字が徐々に採用されているという所に見いだされるのです。
天平19(747)年、春二月二十九日、越中国守大伴家持は、越中掾(じょう)大伴池主(いけぬし)に宛てて、病後の身を案ずる二首の歌を贈りました。
波流能波奈 伊麻波左加里尓 仁保布良牟 乎里氐加射佐武 多治可良毛我母
春(はる)の花(はな)、今は盛りににほふらむ、折りてかざさむ、手力(たぢから)もがも (万葉集 巻17、3965)
〔春(はる)の花(はな)が今は盛りと咲いていることでしょう。手折って髪を飾る体力があればいいのですが。〕
これは、このうちの第一首、原文には「にほふ」を「仁保布」と書いて、「薫」「香」など表意文字は使われていません。「にほふ」は色美しく咲く意で、歌の大意も「春の花は今は盛りと美しく咲いているであろう。折ってかざす力が欲しいものですよ」と通釈できるようです。
しかし、このような解釈は家持が歌に首の前に詞書的な役割を持たせて書いた長い漢文の書状を読まなかったことになります。書状のなかには「方今春朝春花流馥於春苑(方今〈いまし〉春朝に春花は馥〈にほ〉ひを春苑に流し)」という一説があり、これに基づいて作られたのが上の句の「春の花今は盛りににほふらむ」であったのです。「にほふ」という語を自覚的に嗅覚化した万葉歌人は多分に家持当たりであったかも知れません。
十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首
橘乃 尓保敝流香可聞 保登等藝須 奈久欲乃雨尓 宇都路比奴良牟
天平十六年四月五日(西暦744年)・独居して平城の故宅(旧宅)にて作る歌六首
橘の にほへる香かも 霍公鳥(ほととぎす) 鳴く夜の雨に 移ろひぬらむ (万葉集 巻17 3916)
(〈それは〉タチバナの、匂える香りかも。ホトトギスが、鳴く夜の雨に、〈香りが〉消えたのでしょうか)
これも大伴家持の歌です。天平16年の作ですから「春の花今は盛りににほふらむ」の歌より3年古いわけです。「にほへる香」ということが言えるくらいなら、「香がにほふ」という言い方もまた不可能ではなかったはずです。「人はいざ心も知らず古里は花ぞ昔の香ににほひける」と詠んだ『古今集』紀貫之の歌も、天平の家持によって道が開かれたとみてもよいでしょう。
「香」は嗅覚に属する語です。「にほふ」は元来視覚に属する語でした。嗅覚に属する事柄を完成領域の全く違う視覚の語で表現するというのは、奇妙なことではありますが、心理的に共感覚と呼ばれる現象に根ざす言語表現は、古今東西を通じて普遍的にあるものでしょう。自己の作品のなかで積極的かつ自覚的に「にほふ」を嗅覚化して用いた家持が、その転用を中国の詩文から学び取ったという可能性を否定することはできませんし、否定する必要もありません。
『古語拾遺』(807年成、平安時代の神道資料)には、天照大神が岩戸から姿を現した時、神々が喜びの余り、「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と「手を伸(の)して歌ひ舞」ったので「楽し」という語が生まれたと説明していますが、文法上こじつけであることははっきりしており、いわゆる民間語源に留まるようです。
徒然草99段に「堀川相国(ほりかはのしやうこく)は、美男のたのしき人にて」とありますが、この場合の「たのしき人」は裕福な人という意味になります。
無住法師の『沙石集』(1283年刊)は、その面白さゆえに後世までも沢山の愛読者があったと言います。
ヘツライテタノシキヨリモヘツラハデマヅシキ身コソ心ヤスケレ (沙石集 巻3の2)
とあった、述懐の歌が、それから23年後に書いた「雑談集(ぞうたんしゅう)」では
ヘツライテ富メル人ヨリヘツラハデマヅシキ身コソ心ヤスケレ
と変えられています。
当時「楽し」という形容詞は、裕福という意が強かったので「タノシキ」を直接的な「富メル人」に置き換えることは充分可能であったわけです。
ワラシベ長者の致富譚を「便り、只付きに付て、家など儲て楽しくぞ有ける。其の後は、『長谷の観音の御助け也』と知て、常に参けり。」と結んだ今昔物語集の「楽しく」も裕福を意味しています。同じくだりが『宇治拾遺物語』では、「それよりうちはじめ、風の吹きつくるやうに徳つきて、いみじき徳人にてぞありける」となっています。
「たのし」が「裕福」の意で通じたのは、鎌倉・室町を経て江戸時代にまで存続したようです。
人にすぐれてたのしきひとあり。しかしながら又ひとにすぐれてしはひ人じゃ。(『寒川入道筆記』慶長十八年成)
※『寒川入道筆記』は、江戸時代初期の1613年に書かれた随筆。著者は定かではないが、松永貞徳ではないかと言われています。
文中の「しはひ」は正しくは「しわい(吝い)」で、眉にしわを寄せて渋い顔をした吝嗇(りんしょく、ケチなこと)の態(てい)を原義とします。
「はなし家」の元祖と言われる安楽庵策伝(1554~1642年)の『醒酔笑』に、
春の始めの朝(あした)より千秋万歳(せんずまんざい)ともまた鳥追(とりおい)ともいふかや、家ごとに歩きて慶賀をうたうふに、「千町万町の鳥追が参った」というて、ある門の内へ入らんとしければ、戸のわきに子をうみて人に恐るる犬ありしが、ふと向脛(むこうずね)をしたたかくらひけるまま、「あらたのしや」といふを、痛さに「あらかなしや」と。
のようにありますが、この笑い話においても、「楽し」は裕福、「かなし」は貧乏の意があるのでは?
随分かなしき家の乳母にても、壱人一年に銀三百四十五匁程は定まって入(い)るものなり。(『西鶴織留』)
などと、西鶴もしばしば貧乏の「かなし」を使っています。
俗諺「かなしきときは身一つ」の「かなし」も、当初は「貧し」の意味だったのかも知れません。
節句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日を言います。この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれました。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めたのです。それが人日の節句(5月5日)、上巳の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)、七夕の節句(7月7日)、重陽の節句(9月9日)の五節句です。
「御節供(おせちく)」と呼ばれた節句料理はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていましたが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになりました。そして、今日では「おせち」として、正月三が日もしくは七日にかけての松の内の期間において食べるものを指すようになっています。ただ、今日でも人日の節句の七草粥など「節句料理」として残っているものがあります。また、節句に飾られる人形(雛人形、五月人形など)は、節句人形(せっくにんぎょう)とも称されます。
人日(じんじつ) 1月7日 七草の節句 七草粥。
上巳(じょうし) 3月3日 桃の節句・雛祭 菱餅や白酒など。
端午(たんご) 5月5日 菖蒲の節句 菖蒲酒。関東では柏餅、関西ではちまき。菖蒲湯の習俗あり
七夕(しちせき) 7月7日 七夕(たなばた) 裁縫の上達を願い素麺が食される。
重陽(ちょうよう) 9月9日 菊の節句 菊を浮かべた酒など。
中国から伝わった端午の風習に倣って、日本でも古くから5月5日に薬猟を行う風習がありました。『日本書紀』の推古天皇19年(611年)に薬猟の記事があります。
〔十九年の夏五月の五日に菟田野(うだの)に薬猟(くすりがり)す。鶏鳴時(あかつき)を取りて、藤原池の上(ほとり)に集ふ。會明(あかつき)を以って乃ち往く。粟田細目臣を前(さき)の部領(ことり、指導者)とす。額田部比羅夫連を後(しりへ)の部領とす。是の日に、諸臣(もろもろのおみ)の服(きもの)の色、皆冠(かうぶり)の色に随う。各(おのおの)髺花(うず)着せり。則ち大徳・小徳は並に金(こがね)を用ゐる。大仁(だいにん)・小仁は豹(なかつかみ)の尾を用ゐる。大禮(だいらい)より以下(しも)は鳥の尾を用ゐる。〕
大宝律令以後雑令に端午雑会が規定されていましたが、忌日の関係で中断されていた時期があり、『続日本紀』には天平19年(747年)に聖武天皇が端午節会を再興したことが記されています。端午の日には古くから天皇が馬が走るのを鑑賞する例があり(『続日本紀』大宝元年(701年)条)これが後に騎射の儀式に変わりました。平安時代初期に編纂された『内裏式』には5月5日を「観騎射式」の日と規定し、同時に中務・宮内両省がそれぞれの被官である内薬司・典薬寮を率いて、邪気を掃って長寿をもたらすとされていた菖蒲草と薬玉を献上し、薬玉は皇太子以下の参加の諸臣に下賜されました。また参加者は菖蒲で作った鬘(かずら)である菖蒲鬘を冠に付けて参列するものとされていました。また、宇多天皇の寛平年間には、当時民間に広まっていた粽を食する慣例が取り入れられました。
清少納言の枕草子にも「節(せち)」の記載があります。
節(せち)は、五月にしく月はなし。菖蒲(しょうぶ)、蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重御殿の上をはじめて、言ひ知らぬ民の住家まで、いかで、わがもとに繁く葺かむ(ふかん)と、葺きわたしたる、猶いとめづらし。いつかは、異折(ことをり)に、さはしたりし。
空のけしき、曇りわたりたるに、中宮などには、縫殿(ぬいどの)より、御薬玉(おくすだま)とて色々の糸を組み下げて参らせたれば、御帳(みちょう)立てたる母屋(もや)の柱に左右に付けたり。九月九日の菊を、あやしき生絹(すずし)の衣(きぬ)に包みて参らせたるを、同じ柱に結ひ付けて、月ごろある、薬玉に取り替へてぞ捨つめる。また薬玉は菊のをりまであるべきにやあらむ。されどそれは、皆、糸を引き取りて、物結ひなどして、しばしもなし。
御節供(ごせっく)まゐり、若き人々、菖蒲の刺櫛さし、物忌付けなどして、さまざま、唐衣(からぎぬ)、汗衫(かざみ)などに、をかしき折枝ども、長き根にむら濃(むらご)の組して結び付けたるなど、珍しう言ふべきことならねど、いとをかし。さて、春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある。
現代語訳
節供(節句)は、五月五日に及ぶものはない。菖蒲や蓬などが共に香り高く香っている様子は、とても趣きがある。禁中の御殿の軒をはじめとして、誰とも分からない一般民衆の家に至るまで、どうにかして自分の家に多くの茅を葺こうとして、人々が葺きわたしている様子は、何度見てもとても新鮮な光景なのである。いつ、他の節句の時期に、そんなことをしたことがあるだろうか。
空の様子は一面に曇っているが、中宮の御所では中宮御用の薬玉ということで、縫殿から色々な色の糸を組んで垂らした薬玉を献上するのだが、御帳台を立てた母屋の柱の左右にそれを掛けておく。去年九月九日の節句の菊を、粗末な生絹の切れに包んで献上したのだが、それを母屋の同じ柱に結びつけていたので、薬玉と取り替えて捨ててしまう。またこの薬玉は、次の九月九日の節句で菊を供える時まで、このまま保存しておくのだろうか。しかし薬玉は、みんながその糸を引っ張って、他の物を結びつけたりするのに使うので、すぐに無くなってしまう。
中宮に節供の午前を差し上げて、女房たちは菖蒲の刺櫛をさし、物忌をつけたりして、唐衣(からぎぬ)や汗衫(かざみ)などにはそれぞれ工夫して作った折枝をつける、長い菖蒲の根に紫と白のまだらな組糸で結びつけていくのである。これはま珍しい行事として言い立てることではないけれど、非常に風情がある。いつものことだからといって、毎年の春に咲く桜の花をどうでもいいという風に思う人がいるだろうか、いや、そんな人はいないのだ。
端午の節句には宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉を賜ったといいます。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もありました。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られます。
鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになったといいます。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方でした(「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となりましたが京都を含む上方では当時は見られない風習でした)。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められています。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願しているのです。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上)のこいのぼりからなります。吹き流しの5色は五行説に由来するものです。
http://chietoku.com/%E3%81%93%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C.html
柏餅が日本の歴史に登場したのは、寛永年間(1624~1644)頃のようです。柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、 「子供が産まれるまで親は死なない」即ち「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」は「子孫繁栄」につながります。中国から渡ってきた端午の節句行事としては珍しく、柏餅は日本で生まれた食べ物だったという事です。
柏餅が日本のオリジナル祝い餅な一方、粽は中国の行事とセットで日本へ伝わってきた習慣です。
中国は戦国時代、紀元前278年のことです。楚(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし陰謀のため国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。その日が5月5日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんの粽を川に投げ入れて弔いました。ところが漢の時代に、里の者が川のほとりで屈原の幽霊に出会います。幽霊曰く、「里の者が毎年供物を捧げてくれるのは有り難いが、残念なことに、私の手許に届く前に蛟龍(こうりゅう)という悪龍に盗まれてしまう。だから、今度からは蛟龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい。」 と言いました。
それ以来、楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み五色の糸で縛って川へ流したので、無事に屈原の元へ供物が届いたのでした。これが粽の始まりと言われています。屈原の故事から、中国では五月五日の節句には、節物として粽を作り、親戚や知人に配るという習わしが生まれました。そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。時が流れて後、中国の三国志の時代、端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。そして日本へ端午の節句行事とともに伝わり、今日に至っているわけです。
一説のよると、 楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
https://www.youtube.com/watch?v=mrQikJN1Ins
昨日は「みどりの日」ということでした。この「みどりの日」は4月29日であったものが、5月4日に移行されたものだと言います。
「昭和の日」の歴史を振り返ると、 「天長節」→「天皇誕生日」→「みどりの日」→「昭和の日」 と名前が変わっています。
爺が小学生(国民学校と言った時期もあります)の頃は、講堂に集合させられ、教育勅語を聞かされ、天長節の歌を合唱させられる式典がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=Eg3tQRLCr8c
戦後の1949年に「天長節」は「天皇誕生日」に改められます。前年の1948年は極東国際軍事裁判で戦犯25被告に有罪判決が下り、7人の絞首刑が執行される激動の時代でした。
1989年、もともと「天皇誕生日」だった名前が昭和天皇死去後に「みどりの日」になりました。「みどりの日」という名前について、祝日法改正法案は「自然と親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」としていました。
「昭和の日」をめぐっては2000年、当時の森喜朗首相が「天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかりと承知していただく」と述べた「神の国」発言によって、1度、廃案になっていましたが、2007年、「みどりの日」が「昭和の日」に変わりました。
改正祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と説明していました。
「みどりの日」が「昭和の日」になったことから、もともと「国民の休日」だった5月4日が「みどりの日」になりました。
「みどりの週間」は4月23日~29日までの1週間で、「みどりの日」が改正される2006年まで存在していました。「みどりの日の趣旨を広く普及し、緑豊かな自然と国土の形成及び国民生活の向上に資すること」を目的としていました。
「みどりの日」が5月4日になったのにともない「みどりの週間」は廃止され、代わりに2007年より「みどりの月間」(4月15日~5月14日)が創設されました。この期間中は「みどりの式典」が開催されるほか、全国各地で「みどり」に関する行事やイベントが行われています。
そもそも、「みどり」という語が登場するのは平安時代になってからでありますが、これは本来「瑞々しさ」を表す意味であったようです。それが転じて新芽の色を示すようになったといわれています。英語のグリーンも「草」(grass)や「育つ」(grow)と語源を同じくするといわれ、いずれにしても新鮮さのイメージを喚起する色であります。
昨日は憲法記念日。安倍晋三首相は、憲法第9条改正と2020年の施行を目指す考えを表明し、在任中の改憲実現に強い意欲を示しマトた。これまで国会の議論を見守る姿勢をみせてきただけに、与党内にも困惑が広がったているといいます。首相の勝負手は、国会の議論を加速させる起爆剤になるのでしょうか、それとも、合意を遠ざけるのでしょうか。首相が目標に到達する道筋は明確になってはいません。
ウェブニュースより
憲法70年に考える 9条の持つリアリズム ―― 日本国憲法が施行されて七十年。記念すべき年ですが、政権は憲法改正を公言しています。真の狙いは九条で、戦争をする国にすることかもしれません。
七十年前の一九四七年五月三日、東京新聞(現在の中日新聞東京本社)に憲法担当大臣だった金森徳次郎は書いています。
<今後の政治は天から降って来る政治ではなく国民が自分の考えで組(み)立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない>
◆「平和の一路に進む」
金森は名古屋市出身で、旧制愛知一中(現旭丘高)、東京帝大法卒。大蔵省を経て法制局長官になっています。戦後、貴族院議員になり、第一次吉田茂内閣で国務大臣をつとめました。帝国議会ではこんな答弁もしています。憲法九条についてです。
<名実ともに平和の一路に進む態度を示しましたことは、画期的な日本の努力であると思う(中略)衆に先んじて一大勇気を奮って模範を示す趣旨である>
九条一項の戦争放棄は二八年のパリ不戦条約の眼目でした。だから、九条の驚きは、むしろ二項で定めた戦力を持たないことと交戦権の否認です。前述の金森の答弁はこれを「画期的」だと述べているのです。
日本国憲法の第一章の「天皇」に次いで第二章が「戦争の放棄」ですから、この憲法の中核のアイデンティティーであることが外形的にもうかがわれます。多くの条文を九条が根底から支えているとも言われています。
しかし、新憲法に対しては、当時から不満の声が一部にありました。とくに旧体制の中枢部にいた人たちからです。
◆法の枠が崩れていく
天皇に政治的な権力がないことを嘆いていたのです。だから「山吹憲法」とか「避雷針憲法」とか軽蔑的な呼び方をしました。山吹とは室町時代の武将・太田道灌の「実の一つだになきぞかなしき」の故事になぞらえています。避雷針は雷が天皇に落ちないように避ける手段だと読んだのです。
もちろん「押しつけ憲法」という声もいまだにあります。でも、新憲法案が七十年前、帝国議会の衆議院でも貴族院でも圧倒的な大多数で可決されていることを忘れてはなりません。衆議院では賛成四百二十一票、反対八票、これが議会での現実だったのです。
九条も悲惨な戦争を体験した国民には希望でした。戦争はもうこりごり、うんざりだったのです。かつて自民党の大物議員は「戦争を知る世代が中心である限り日本は安全だ。戦争を知らない世代が中核になったときは怖い」と言っています。今がそのときではないでしょうか。
集団的自衛権の行使容認を閣議で決めたときは、憲法学者らから法学的なクーデターだという声が上がりました。九条の枠から逸脱しているからです。安全保障法制もつくりましたが、これで専守防衛の枠組みも崩れました。でも、改憲派がもくろむ九条を変えて、戦争をする国にすることだけは阻止せねばなりません。
何しろ今年は日中戦争から八十年の年にもあたります。勃発時には参謀本部内では戦争の不拡大を主張する意見もありましたが、主戦論にのみ込まれ、それから八年もの泥沼の戦争に陥りました。相手国は百年たっても忘れない恨みであることでしょう。
それなのに一部は反省どころか、ますます中国と北朝鮮の脅威論をあおり立てます。同時に日米同盟がより強調され、抑止力増強がはやし立てられます。抑止力を持ち出せば、果てしない軍拡路線に向かうことになるでしょう。
実は九条が戦後ずっと軍拡路線を防いでいたことは間違いありません。それも崩せば国民生活が犠牲になることでしょう。
戦後、首相にもなったジャーナリストの石橋湛山には、こんな予言があります。
◆軍拡なら国を滅ぼす
<わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす>
これが九条のリアリズムです。「そういう政治家には政治を託せない」と湛山は断言します。九条の根本にあるのは国際協調主義です。不朽の原理です。
国民は種まきをします。だから「悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない」-。金森憲法大臣の金言の一つです。愚かな政治を招かないよう憲法七十年の今、再び九条の価値を確かめたいものです。 (東京新聞社説 2017年5月三日)
ウェブニュースより
将棋の藤井四段が15連勝 中学生棋士、デビューから ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(14)が1日、東京都渋谷区の将棋会館であった対局に勝ち、デビュー以来の公式戦連勝記録を15に伸ばした。
タイトル戦の竜王戦の予選で金井恒太六段(30)に勝った。終局後、報道陣の取材に「15連勝できたのはとてもうれしい。プロとしてやっていける自信になりました」と話した。このまま勝ち進むと、夏に竜王戦の挑戦者になる可能性がある。
藤井四段は昨年10月、史上最年少の14歳2カ月でプロ入り。12月のデビュー戦で加藤一二三(ひふみ)九段(77)に勝ったのを皮切りに、竜王戦の予選はこれで5連勝。渡辺明竜王(33)への挑戦権を争う決勝トーナメント進出まであと1勝となった。
将棋界のデビュー戦からの連勝は10連勝が最多記録だったが、既に大幅に更新している。藤井四段は羽生善治三冠(46)との非公式戦も制しており、破竹の勢いで勝ち進んでいる。 (朝日新聞 2017年5月1日21時19分)
餞(はなむけ)
卒業式で卒業生に「はなむけ」の歌として海援隊の『贈る言葉』がよく歌われるとのことです。
「贈る言葉」
武田鉄矢作詞・千葉和臣作曲
暮れなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉
悲しみこらえて 微笑むよりも
涙かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから
さよならだけでは さびしすぎるから
愛するあなたへ 贈る言葉
夕暮れの風に 途切れたけれど
終わりまで聞いて 贈る言葉
信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つくほうがいい
求めないで 優しさなんか
臆病者(おくびょうもの)の 言いわけだから
はじめて愛した あなたのために
飾りもつけずに 贈る言葉
これから始まる 暮らしの中で
だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど 私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない
遠ざかる影が 人込みに消えた
もう届かない 贈る言葉
もう届かない 贈る言葉
https://www.youtube.com/watch?v=ykV3IyerBZ0
餞(はなむけ)とは旅立ちや門出を祝って贈る金品や詩歌のことです。漢字で書けば「餞別」の「餞」ですが、実は「はなむけ」とは「馬の鼻向け」の意で、旅立つ人の乗る馬の鼻を行くべき方へ向けて見送った習慣によるものといいます。
紀貫之の『土佐日記』の冒頭に、
原文
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。それの年の十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に、門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。
ある人、県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、住む館より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ、別れ難く思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。
二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけす。上中下、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにて、あざれ合へり。
現代語訳
殿方が書いていると聞く日記というものを、女(である私)も試しにしてみようと思って書くのである。ある年の12月21日、午後8時ごろに出発する。その(旅の)次第をほんの少し物に書きつける。
ある人が、国司としての4、5年の勤めが終わり、決まりごととなっている国司交代の引継ぎをすべて終えて、解由状などを受け取り、住んでいる館から出発して、(京に帰る)船に乗るはずになっている所へと移る。あの人この人、知っている人も知らない人も、見送りをする。ここ数年、親しく付き合ってきた人たちは、(私と)別れがたく思って、一日中絶えずあれこれ(世話を)しながら、騒いでいるうちに、夜がふけてしまった。
22日に、和泉(いまの大阪府南部)まで、無事に(着けるように)と神仏に祈る。藤原のときざねが、(馬には乗らない)船旅ではあるけれど、送別の宴をする。身分の高い者も中くらいな者も低い者も、すっかり酔っ払って、不思議なことであるが、海のほとりで、(魚肉が腐るはずのないのに)ふざけあっている。
とあります。
『伊勢物語』にも「うまのはなむけ」がでてきます。
昔の旅は命を落とすこともある、危険で苦しいものでした。2度と会えないとかも知れないと思えば、送る方にも心が残ります。
送友人 友人を送る 李白
青山橫北郭 青山 北郭(ほっかく)に横たわり
白水遶東城 白水 東城(とうじょう)をめぐる
此地一爲別 この地 一たび別れをなし
孤蓬萬里征 孤蓬(こほう) 万里にゆく
浮雲遊子意 浮雲(ふうん) 遊子の意
落日故人情 落日 故人の情
揮手自茲去 手をふるひて ここより去れば
蕭蕭班馬鳴 肅肅(しょうしょう)として班馬(はんば)鳴く
現代語訳
山は青々と街の北側に横たわっている、川は白くキラキラと街の東側を取り囲むように流れている。いったんこの地に別れを告げれば、君は風に舞う蓬のように万里の彼方へ 旅立ってしまうのだ。流れる雲は旅立つ君の心、沈む夕陽は見送る私の気持ち、そのものだ。二人手を振って別れると、 馬が寂しそうにいなないた。
送元二使安西 元二の安西に使するを送る 王維
渭城朝雨潤輕塵 渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新 客舎青青柳色新たなり
勧君更盡一杯酒 君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西出陽關無故人 西のかた陽關を出ずれば故人無からん
現代語訳
渭城の朝の雨が軽い砂埃を潤している
旅館の前の柳の葉色も雨に洗われて瑞々しい
君にすすめる。
昨夜は大いに飲み明かしたが、
ここでもう一杯飲んでくれ。
西域地方との境である陽関を出れば、
もう友人は一人もいないだろうから。
「そんな易(やす)い問題も解けないのか?」と言われて、「やすい問題」とはどんな問題かと一瞬戸惑ったことがあります。普通標準語では「やさしい問題」と言って、「やすい問題」とは言わないからです。
しかし、平易であること「やすい」という用法は方言では珍しくないのみでなく、古語の用法においても、この方が古くかつ正統的なのです。「おやすい御用」「飲みやすい薬」「行きやすい所」というように、古来の用法は今でも残っています。
平易であることをいう「やさしい」の用法はどうでしょう。ヘボンの『和英語林集成』(1867年刊)には、ヤサシイの項にeasy,not difficult という訳が見えます。問題はこの意味をどの時代まで遡りすることが出来るかなのです。
「万葉集」から始まる「やさし」の語史は、江戸時代に入ってもなかなか平易(easy,not difficult)の意を確かめることが出来ません。
「やさしい」の語源をウェブの『語源由来辞典』でしらべてみました。
【やさしいの語源・由来】
優しいは、動詞「やす(痩す)」の形容詞形で、身が痩せ細るような思いであることを表した語である。平安時代、他人や世間に対してひけめを感じながら振る舞う様子から、「控え目である」「つつましやかである」の意味を持つようになり、慎ましい姿を優美と感ずることから、「優美だ」「上品で美しい」「けなげだ」「好感が持てる」と評する用法が生まれた。/さらに、「けなげだ」「好感が持てる」といった意味から、「こちらが恥ずかしくなるほど思いやりがある」という意味も派生し、近世以降、「親切だ」「心温かい」の意味で使用されることが多くなった。/「容易だ」を意味する「やさしい(易しい)」は近世末頃から使用が見られ、「優しい配慮があってわかりやすい・簡単だ」というところから派生した用法だ
とありました。
「万葉集」の貧窮問答歌の反歌で山上憶良が
世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば ――万葉集巻5・893――
(世の中を辛いものだとも肩身が狭いと思うけれども、飛び立って逃げることもできない。鳥ではないのだから。)
と嘆いた、その「やさし」ですが、もともとは「身も細るようだ」の意だったのが、「身も痩せる程はずかしい」「こちらが恥ずかしくなるほど優美で風情がある」「穏やかで素直である」「情が細やかである」と移り拡がってきました。
狂言の舞台で主人が太郎冠者を使いに行かせようとします。太郎冠者は足に持病の「しびり(痺れ)」が起こり痛くて一歩も歩けないと仮病を使います。そこで主人が、今晩のご招待にも連れて行けないと残念がってみせます。太郎冠者は慌ててこれからお使いに行ってきますといいます。
「何とその体(てい)でゆかれるものぢゃ」
「私のしびりはやさしいしびりで、宣命(せんみゃう)を含めますれば、そのまゝ治りまする」
「それはやさしいしびりぢゃ、早う宣命を含めて直せ」
「かしこまってござる。ヤイしびり、よう聞け。今晩伯父御様へ行けば、お茶の、御酒のとあって、それがしまでもご馳走になる。直ってくれい、しびり。エイ、ホイ」
「いまのはなんぢゃ」
「しびりのへんじでござる」 (狂言「しびり」)
一言、いい聞かせただけでたちどころに直る「しびり」が「やさしいしびり」であるなら、この「やさしい」は、「簡単にして手軽い」のいであってもさしつかえなさそうにみまえますが、「手軽い」という語義の成立する以前の室町時代の狂言の観衆は、「やさしいしびり」と聞けば、「素直で温和なしびり」の意に解していたことでしょう。当時「優しい」という言葉は「素直で温和なこと」「けなげで愛らしいこと」「控え目で優雅なこと」「柔和でゆうびなこと」などの意を併せ持つ形容詞であったのです。
寛政5年(1793)頃成立、同9年刊行の「古今和歌集遠鏡」は本居宣長が古今和歌集を当時の口語によって訳したものです。江戸時代の言葉なので少し読みづらいが、現代語の感じで読んでも意味がまったくわからないということはありません。
何をして 身のいたづらに 老いぬらむ 年の思はむ ことぞやさしき 詠人知らず ――古今集1063――
本居宣長の口語訳に「おれはまあ何をして此やうに年よったことやら。何にもせずに年ばっかりよって、身に積もった歳の思ふところが、はづかしい」とあります。歌の末尾の「やさしき」は「はづかしい」と訳されていますが、決して誤りではなく、「やさし」の古義は万葉集以来、正にこの通りだったのです。「やさし」の「恥ずかしさ」とは身も細るような恥ずかしさでしょう。身も細るような恥かしさは、慎ましく控えめな様子となって表れるし、上品で優雅なさまとしても映ります。「優し」の意味の歴史は恥じらいの美学というものを再発見させます。
式亭三馬の滑稽本『浮世床』初編、客の聖吉がけん蔵に言います。
「学問をしてほんとうの身持ちの人は少ない」
けん蔵がこたえます。
「さうささうさ、字を知るよりか、三弦(さみせん)を習って踊りの地を引く方がいい。むづかしい字をしる程損がいくかと思ふよ。まづ観音さまの「音」の字を見ねへ。やさしく書けば七百といふ字だが、むづかしく書くと六百といふ字だ。してみれば舌切雀の葛籠(つづら)といふ物で、手がるい方が徳だ。ソレよしかの ソレ、七百よ【ト火ばしで灰の中へ書いて見する】ソリヤ、むつかしく書くと六百、ソレ見たか是、ちよつとしても百損がいく。」
「音」の字は、崩して書くと「七百」という字に似て、「むづかしく書くと六百」に似る、差し引き百の損だとするこの珍説、「やさしく書けば」の「やさし」を「手軽い方が徳だ」に結びつけて考えますと、その意味はeasy,not difficult に極めて近いようです。
かくして数十年後の1687年にヘボンの『和英語林集成』のヤサシイの項にeasy,not difficult という訳が登録されることになるのでしょう。『浮世床』初編は文化10(1813)年刊行されました。
言葉の語源は、「言(こと)」+「端(は)」の複合語です。古く、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「ことば」という語は少なかったといいます。「言(こと)」には「事」と同じ意味があり、「言(こと)」は事実にもなり得る重い意味を持つようになりました。そこから、「言(こと)」に事実を伴なわない口先だけの軽い意味を持たせようとし、「端(は)」を加えて「ことば」になったと考えられます。
奈良時代の『万葉集』では「言葉」「言羽」「辞」の三種類の文字が使われ、「言羽」も軽い物言いを表現しているといえます。平安時代の『古今和歌集』や『土佐日記』では平仮名の「ことば」、『枕草子』では「詞」が使われ、室町時代の『徒然草』では「言葉」が使われています。
複数ある「ことば」の中で「言葉」が残った理由として、『古今和歌集』仮名序の「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける」でうまく表現されているとおり、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表すためと考えられています。「言の葉」が多く用いられていくのに並行し、「ことば」にも「言の葉」の意味が含まれるようになり、「言葉」は言語を意味する最も一般的な語として定着したようです。(パソコンの『語源由来辞典』より)
早口言葉はスムーズに読みにくい言葉をいかに素早く正確に言えるかを競う言葉遊びです。短くてわりと言いやすいものから、長すぎてもはや意味がわからないものまでいろいろな種類があります。遊びだけでなく、声優やアナウンサーのような正確な読み上げスキルの要求される職種では、滑舌のトレーニングとして用いられます。
・バスガス爆発 ・隣の竹垣に竹建てかけた ・隣の客はよく柿食う客だ ・買った肩たたき器高かった、使った肩たたき器温かかった
長いものになると、
・上の溝に泥泥鰌にょろりん、中の溝に泥どじょうにょろりん、下の溝に泥泥鰌にょろりん
・親がめの背中に子がめをのせて 子がめの背中に孫がめのせて 孫がめの背中にひい孫がめのせて 親がめこけたらみなこけた
さらに英語の早口言葉もあります。
・The Sixth sick sheik's sixth sheep's sick.(病に伏せている6番目の長老が飼っている6番目の羊が病気だ。)
・She sells sea shells by the seashore.(彼女は海岸で海の貝殻を売っている。)
長い名前の代名詞ともされています、よく知られた落語にに『寿限無』があります。どれほど長いかと言いますと、
「寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 藪ら柑子の藪柑子 パイポ パイポ パイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助」というものです。その意味は、
寿限無:限り無い幸福のこと。
五劫の擦り切れ:本来は「五劫の摺り切れず」が正しい。言い回しのために「ず」が省略されてしまうことがあるらしい。天女が時折泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して無くなってしまうまでが一劫とされ、その期間はおよそ40億年。それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。別の落語では、天女が三千年に一回、須弥山に下りてきて羽衣で一振りして、須弥山がなくなるまでが一劫である。
海砂利水魚:海の砂利や水中の魚のように数限りないたとえ。
水行末雲来末風来末:水・雲・風の来し方行く末には果てがないことのたとえ。
食う寝る処に住む処:衣食住の食・住より。これらに困らずに生きて行ける事を祈ったもの。
藪ら柑子の藪柑子:やぶらこうじのぶらこうじ、とも。「やぶらこうじ」とは藪柑子(やぶこうじ)で生命力豊かな縁起物の木の名称。「ぶらこうじ」はやぶこうじがぶらぶらなり下がる様か(?)単に語呂の関係でつけられたようにも思える。
パイポ、シューリンガン、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナー:唐土のパイポ王国の歴代の王様の名前でいずれも長生きしたという架空の話から。グーリンダイはシューリンガンのお妃様で、あとの2名が子供(娘)達という説も。
長久命:文字通り長く久しい命。また、「天地長久」という読んでも書いてもめでたい言葉が経文に登場するので、そこからとったとする説も。
長助:長く助けるの意味合いを持つ。
というものです。
これを早口で何度も繰り返すのが可笑しみを誘います。
https://www.youtube.com/watch?v=6IjkseESq5c
同じ趣旨の落語に『金明竹』というのがあります。金明竹とはマダケの栽培品種で、茎が黄色く、枝の出た上の一節の溝が緑色に残って美しいので、観賞用に栽培するものなのですが、落語『金明竹』は骨董屋(古美術店)を舞台とした滑稽噺です。店の小僧と客のおかしなやり取りを描いた前半部および、小僧と店主の妻が上方者の難解な言葉に振り回される後半部の二部構成となっており、多くは後半部のみ演じられるようです。道具七品の口上を狂と言葉でまくしたてるものですが、寿限無とともに喋りの修業に向いているので、前座ばなしとされるものです。
https://www.youtube.com/watch?v=poXs9dwt33M
歌舞伎の演目の一つに『外郎売』というのがあります。享保3年(1718年)正月、江戸森田座の『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)で二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎十八番の一つです。現在は十二代目團十郎が復活させたもの(野口達二脚本)が上演されています。
今日では「外郎売」と言えばその劇中に出てくる外郎売の長科白を指すことが多く、日本では俳優や声優などの養成所、或いはアナウンサーの研修等で暗唱、発声練習や滑舌の練習に使われています。漢字の読みやアクセントは何種類かありますが、これは出典をどこから引用したかによる違いであるといいます。(例:一粒=「いちりゅう」「ひとつぶ」「健やかに成って・健やかに成りて」舌=「した」「ぜつ」 唇=「しん」「くちびる」など)
https://www.youtube.com/watch?v=zjrZMhRTg78
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