瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 水門会の友人で、千葉県在住のFY氏より葉書を頂きました。中に自作の篆刻が押されていました。

 葉書にあるように、明治43年の盛夏、漱石は保養先の修善寺で胃潰瘍の悪化から血を吐いて人事不省に陥りも辛くも生還しえた悦びをかみしめつつこの大患前後の体験と思索を記録した随筆「思い出す事など」のなかにある詩の一節です。
 漱石の随筆「思い出す事など」は、<修善寺の大患>と呼ばれる30分間の死を前後を描き、俳句、漢詩などを、文中または文末に配置した、生死の境から戻ってきて、漢詩に「風流」という独自の世界を、見出して行った作品だと言われています。篆刻の一節を含む詩について調べてみました。

 FY氏にメールしてみましたが、拒否の表示がありましたので、そのままをFaxしました。曰く
 お葉書有難うございます。/お元気で趣味に没頭されているようで何よりです。/早速私奴のブログに掲載させていただきました。/私は一昨年2月に胃癌のため胃の一部切除手術を受けて以来、その後の経過もはかばかしくなく隅田川の花見もここ3年ばかり企画できず、皆さんにも無沙汰を続けている次第です。昨年の1月には、女房が脊椎圧迫骨折のため、家事万端を引き受ける羽目になり、水門会にもすっかり足が遠のいている次第です。/それでも、少し朝早く起きてブログだけは続けていますので、私奴の近況はどうぞそちらの方でご推察下さい。


 オーストラリアはシドニー在住のMiho夫婦が一粒種のHarunaちゃんを連れて来日しました。Mihoは婆様の妹の一人娘で、縁あってMr.マットと結ばれ現在シドニーに在住しています。ここのところ隔年おきのように来日していて、今年は4月23日に来日、まずはMohoの実家の方に滞在していたそうです。27日・28日と浅草のホテルに泊まるとのことで、昨夕は我が家を訪ねてくれました。
 我が家前の道路一つを隔てて婆様の実家なのですが、今は婆様の姪のTomomi一家の住まいとなっています。TomomiとMihoは謂わば従姉妹ということで、夕食は我が家でMiho一家の歓迎バーティーとしゃれこむことになりました。数日前から、婆様とTomomiで会食の献立などを相談していたようですが、婆様は不自由な体をこまめに動かして、食器やら飲み物など準備していました。高い所には腰が曲がっていて手が届かないので、戸棚の上の方にしまい込んでいる食器類を下ろしたり、米を研いで炊いたり、少しは爺も手伝うことが出来ました。
 午後6時過ぎに、Miho一家がやってきました。まず、旦那のMr.マットと無言の握手を交わし、Mihoに日本語でありきたりの挨拶をします。Harunaちゃんはメールで送ってくる写真よりもずっと成長しているように見えました。通じるかどうか判らない発音でHow many old?と訊ねると、恥ずかしそうに3本の指を立ててくれました。
 Mr.マットは日本酒が気に入ったらしいようでしたが、Mihoに日頃の酒の強さを訊ねながらお代わりを注ぎ足しました。Mihoが通訳の訳を務めながら、マットの家族のこと、日本の食べ物・文化などについて話しました。

 そのうち、Tomomiの末っ子で高校生のKenta君が帰宅して会合に加わり、ずうっとHarunaちゃんの相手をしているようでした。HarunaちゃんはTomomiの連れてきた飼い犬のレディーが大変気に入ったようでした。
 会合は勤務先から帰宅したTomomiの旦那も加わり盛り上がりを見せました。しばらくして、Tomomi夫婦の長男Naoki君が就職したばかりの勤務先から帰宅して会合に加わるとさらに盛り上がり、気が付いた時は午後の9時を過ぎていました。

 本来は「酒菜(さかな)」のことです。「菜」は副食物の意で、「さかな」は酒を飲むときに添える食べ物のことを表しました。魚(うお)がよく用いられたことからこれも「さかな」と呼ぶようになりました。ウェブの『語源由来辞典』によれば、
 〔魚は、元々「酒菜(さかな)」と書き、「酒のつまみ」を意味していた。奈良時代から室町時代にかけて、「さかな」と呼ばれていたものは、「塩」「スモモ」「味噌」などで、江戸時代以降、酒の肴に魚肉が多く使われたため、魚肉を「さかな」と呼ぶようになった。本来、魚類全般は「いを」と言い、「いを」から「うを」、「うを」から「うお」へと変化した。しかし、「うお」では不安定な母音の連続になるため、海や川で泳いでいる魚類も「さかな」と呼ぶようになった。〕とあります。
 魚はまた「真の肴(な)」、「真魚(まな)」とも言い、その調理に使うのが「まないた(俎)」というわけです。ところで、酒興をそえるものなら食べ物とは限らず、優美な踊りもあれば上司の悪口も結構な肴といえるでしょう。

 望んでもなかなか出来ない出世ではありますが、魚の中には出世するものがあります。鯔(ぼら)は「ハク」から最後は「トド」にまで成長します。ここから出たのが、「とどのつまり」という語だということです。鰤(ぶり)は関東と関西では異なる出世ぶりで最後に鰤になります。

 「登竜門」の故事から出世の象徴ともされる鯉は、古典ではすでに『風土記』に登場するといいます。『徒然草』にも「御前にてもきらるるもの」とあり、古くから珍重されていました。
 「六々魚(りくりくぎょ、ろくろくぎょ)」「三十六鱗」といった異称があるように、側線鱗が36枚あると言われてきました。相手の為すがままで逃げ場のない境遇を「俎の鯉」といいますが、俎板の上に乗せられると、王者の風格かじたばたしないと言われます。「海老で鯛を釣る」といいますが、「麦飯で鯉を釣る」という成句もあります。

 頼みごとをしても全く聞いてくれない、手を変え品を変えて掛け合ってみても、取り合ってもらえない、こんな対応を「にべもない」と言います。元来「にべ」は魚の名で「鮸」と書きます。その鰾(うきぶくろ)から接着剤の「鮸膠(にべにかわ)」を製造しました。たしかに、相手に粘着力がなくては、取りつくしまもございませんわ。

 英語のsole(ソール)は元来靴底を意味する単語ですが、形が似ているところから魚の舌鮃(したびらめ)の別称にもなっているとのことです。日本語の「靴底」もシタビラメを指す言葉として使われているそうです。どちらも近代以前からつかわれているようほうのようです。人間の発想は世界どこでも似ているということでしょうか。

 省略は日本人の美学などと言われますが、忙しいご時世、長いものはちぢめたいということもありましょう。「魚心」は本来「魚、心あれば、水、心あり」からで、水の中に 住んでいる魚に、水を思う本当の気持ちがあれば、水のほうも、同じように魚に対して、好意を もってくるということから生まれたようです。「魚心」と「水心」が、1つの言葉に、 なってしまったため、このようになったようです。また、逆に、相手が、こちらに好意を 示せば、こちらも、相手に対して、好意を持って対応しようという意味もあるようです。以心伝心の境といえるでしょう。ただ、実際の使用場面は借金とか賄賂とかあまり好ましくないことばかりのようです。

 もうすぐ三社祭。祭りで神輿を担ぐのは、豆絞りの手ぬぐいをきりりと締めた「いなせ」な若い衆です。「いなせ」は、粋で勇み肌の若者やその気風を指しますが、一説に、江戸時代に日本橋の魚河岸の若者がゆっていた「鯔背銀杏(いなせいちょう)」という髷に由来する語だと言います。髷の形が、ボラの幼魚であるイナの背に似ていたと言います。(鯔の図を参照)


 


 純粋なゲームとはどんなものがあるでしょう。囲碁や将棋などは運の要素が入り込む余地がない頭脳戦、それが純粋なゲームだと言えるのかもしれません。対戦相手がたまたま体調が悪いとか、うっかりミスをするとか、奇跡的に良い手を思いつくとか多少は運とも言える要素はあるかもしれませんが、純粋な頭脳戦には違いありません。それ故、囲碁や将棋はギャンブルには成りにくいのではないでしょうか。
 麻雀はゲームの要素とギャンブルの要素がミックスされています。ゲーム7:ギャンブル3くらいでしょうか。ある程度熟達すると、初心者にはまず負けませんが、レベルが近いと必ずしもうまい方が勝つというわけではありません。これはこれで、完成されたゲーム(&ギャンブル)の一つの理想型と言えるでしょう。

 バカラやルーレットは単純に確率に支配されているだけで、胴元であるカジノは始めから大きな控除率を設定していますから、長くやっていれば、負けていきます。


 
 私たちが当たり前のように使っている慣用的な表現の中には、囲碁や将棋はたまた麻雀を語源とするものが意外に多くあります。例えば、「捨石」が囲碁から来た言葉だということは誰でも見当がつくと思いますが、「八百長」や「駄目」などはほとんどの人が囲碁に由来するとは知らずに使っているのではないでしょうか。
 八百長という言葉は、明治時代の八百屋の店主『長兵衛(ちょうべえ)』に由来します。長兵衛は通称「八百長」といい、相撲の年寄『伊勢海五太夫』の碁仲間でした。碁の実力は長兵衛が勝っていましたが、商売上の打算から、わざと負けたりして勝敗をうまく調整し、伊勢海五太夫のご機嫌をとっていました。のちに勝敗を調整していたことが発覚し、わざと負けることを相撲界では「八百長」と言うようになったということです。やがて、事前に示し合わせて勝負する意味も含まれるようになり、相撲以外の勝負でも「八百長」という言葉は使われるようになりました。


駄目とは、やっても無駄なこと、やってはいけないことを意味しますが、パソコンの『語源由来辞典』によると、
 〈ダメは囲碁用語で、双方の境にあってどちらの地にも属さない所を意味する「駄目」。 この場所に石を置いても自分の地とならず無駄な目になることから、ダメは「やっても甲斐のないこと」「してはいけないこと」を意味するようになった。〉とあります。
◆囲碁から生まれた言葉
 一目置く【いちもくおく】 一般的な意味:優れている他人をを認めること  囲碁での意味:初期配置で石を1つ置くハンディのこと
 活路【かつろ】 一般的な意味:苦しい状況から生き延びる方法  囲碁での意味:石が生きる道
 死活(問題)【しかつ(もんだい)】  一般的な意味:死ぬか生きるか(の問題)  囲碁での意味:石が生きるか死んでしまうか(の問題)
 白黒つける【しろくろつける】  一般的な意味:物事の善悪や勝ち負けをハッキリさせること  囲碁での意味:-(囲碁は白石と黒石で勝負する)
 捨て石【すていし】  一般的な意味:将来のためにあえて犠牲になること  将棋での意味:相手にわざと取らせる石
 駄目【だめ】  一般的な意味:良くないこと  囲碁での意味:打つ価値の無い場所、石の呼吸点

 布石【ふせき】  一般的な意味:将来の準備  囲碁での意味:序盤の要所に置く石
 目算【もくさん】  一般的な意味:大まかな計算  囲碁での意味:自分の陣地を数えること◆囲碁から生まれた可能性がある言葉
 玄人【くろうと】  一般的な意味:ある分野について専門的な人  将棋・囲碁での意味:-(囲碁の黒石を持つ人という意味から来ている説がある)
 素人【しろうと】  一般的な意味:専門的な知識や技術を持たない人  将棋・囲碁での意味:-(囲碁の白石を持つ人という意味から来ている説がある)
◆将棋・囲碁両方から生まれた言葉
 後手に回る【ごてにまわる】  一般的な意味:遅れを取ってしまうこと  将棋・囲碁での意味:-(後手という言葉自体が将棋・囲碁から生まれた言葉)
 定跡/定石【じょうせき】  一般的な意味:決められか行動  将棋・囲碁での意味:ある程度定まった序盤の戦術(将棋は定跡、囲碁は定石と書く)
 先手必勝【せんてひっしょう】  一般的な意味:先に攻撃を仕掛け必ず勝つこと  将棋・囲碁での意味:-(先手という言葉自体が将棋・囲碁から生まれた言葉)
 手筋【てすじ】  一般的な意味:何かを行う決まった手段  将棋・囲碁での意味:状況によって決められた指し方・打ち方
 盤外戦術  一般的な意味:本来の戦いではないところで行われる心理的な作戦行動  将棋・囲碁での意味:盤上以外で行う心理戦
 待った【まった】  一般的な意味:不都合なこと1度やり直すこと  将棋・囲碁での意味:1手前の状況に戻すこと  ※相撲の立会いが語源かもしれない


◆将棋から生まれた言葉
 王手【おうて】  一般的な意味:追い詰めた、もしくは追い詰められた状況  将棋での意味:王に駒がぶつかっている状況
 将棋倒し【しょうぎだおし】  一般的な意味:人混みが立てた将棋の駒のように次々と倒れること  将棋での意味:-(指し将棋では使われない言葉)
 捨て駒【すてごま】  一般的な意味:あえて犠牲になること  将棋での意味:駒をあえて捨てる作戦
 詰み【つみ】  一般的な意味:どうしようもない状況  将棋での意味:防ぎようのない王手
 高飛車【たかびしゃ】  一般的な意味:高圧的な態度または人  将棋での意味:飛車を高い位置で戦うこと

 成金【なりきん】  一般的な意味:急に金持ちになること  将棋での意味:-(弱い駒が成ると金と同じ動きになる)
 必死/必至【ひっし】  一般的な意味:死ぬ気で頑張ること/必然的な出来事  将棋での意味:後1手で詰み、その状況を回避できない状況(勝つには相手の玉を詰ますしかない状況)  ※将棋では必死とも必至とも書く
 持ち駒【もちごま】  一般的な意味:手元にある人や物  将棋での意味:相手から取っていつでも使える駒
 両取り【りょうどり】  一般的な意味:何か2つのものを獲得できる状況  将棋での意味:2つの駒を取れる状況
◆麻雀から生まれた言葉
 安牌【あんぱい】  一般的な意味:安全な人や事柄  麻雀での意味:相手にロンされることのない捨て牌
 オーラス  一般的な意味:これで終わりという状況  麻雀での意味:最後の1局
 ちょんぼ  一般的な意味:うっかりしたミス  麻雀での意味:役が揃っていないのに和了るなどの反則行為
 ツモる  一般的な意味:何かが終了したこと  麻雀での意味:門前で和了ること、山から牌を持ってくること
 テンパる  一般的な意味:余裕がなく混乱している状況  麻雀での意味:後1手で和了れる状態のこと
 パイ〇ン  一般的な意味:・・・(ご自身でお調べください)  麻雀での意味:白牌の中国読み
 面子を揃える【めんつをそろえる】  一般的な意味:(ゲームなどで)人数を揃えること  麻雀での意味:必要な牌を揃えること
 立直【りーち】  一般的な意味:何かが揃うまで後一つの状況  麻雀での意味:テンパイを他のプレーヤーに宣言すること、またその役

 連荘【れんちゃん】  一般的な意味:何かを連続で行うこと  麻雀での意味:1人が親を連続で務めること


 


 竹馬の友とは「幼年時代からの(親しい)友人〔多く男性についていう〕――三星堂、新明解国語辞典」を言うようです。
 小さい頃に、「たけうま」に乗り、いっしょに仲良く遊んでいた当時からの、 古い友達の意味があるようです。この句の生まれた理由は、昔、本当にあった 出来事がもとになっていて、中国の古い本、「世説新語(せせつしんご)」という 中に、その出来事が書かれているようです。
 今は親しい幼友達のことをいうようですが、出典をみると、無邪気な話ではなさそうです。不仲の殷浩と並び称せられるのを不満とした桓温が、彼は幼い頃に俺の捨てた竹馬で遊んだものだと自分の優位を吹聴した故事が転じたもののようです。仲よく遊んだともと思いきや、何とも疎ましい限りです。
「たけうま」に関して付け加えておくと、 昔のたけうまは、今のものとは、少し違っていたようです。竹を馬のようにして、遊んだのが始まりのようです。
 (出典) 【世説新語・品藻】より
 殷侯既廃。桓公語諸人曰、少時與淵源共騎竹馬、我棄去、已輒取之。故當出我下。
(書き下し)
 殷侯既に廃せらる。桓公諸人に語りて曰く、少(わか)き時、淵源と與(とも)に竹馬に騎(の)るに、我棄て去れば、已(すで)に輒(すなは)ち之(これ)を取る。故(もと)より當(まさ)に我が下に出(い)づべし、と。
 ※殷侯:殷浩。
 ※桓公:桓温。
 ※淵源:殷浩の字(あざな)。

(現代語訳)
 殷浩が位を平民に落とされてから、桓温が人々に言った。「幼いとき、殷浩と竹馬に乗ったものだが、私が竹馬を棄てると、殷浩がそれを拾って乗ったものだ。もとから彼は、私の下風に立つべき人物なのだよ

 中国語では「竹馬」(竹马)を「ツウマー」と読みますが、日本のタケウマとは全く異なる遊びを指します。切り落とした1本の竹を掴み、それを馬に乗る様に跨いで引き摺り回すだけのものですが、日本でも当初はこれが「タケウマ」と呼ばれていました。

 日本で少年時代を意味する「チクバ」は、タケウマではなく、ツウマーにまつわる桓温の故事が語源とされていますが、原典は「彼は子供の頃から私より格下だった」という内容。実際の中華圏ではこれに代わり、李白の『長干行』を原典とする「青梅竹馬」(チンメイツウマー)という語が異性の幼馴染という意味で使われています。

  長干行 李白
 妾髮初覆額  妾(しょう)が髮 初めて額(ひたい)を覆う
 折花門前劇  花を折って門前に劇(たわむ)る
 郎騎竹馬來  郎(ろう)は竹馬(ちくば)に騎(の)って来(きた)り
 遶牀弄青梅  牀(しょう)を遶(めぐ)りて青梅(せいばい)を弄(ろう)す
 同居長干里  同じく長干(ちょうかん)の里に居(お)り
 兩小無嫌猜  両小(りょうしょう)嫌猜(けんさい)無し
 十四為君婦  十四(じゅうし) 君が婦(つま)と為(な)り
 羞顏未嘗開  羞顏(しゅうがん) 未だ嘗(か)つて開かず
 低頭向暗壁  頭(こうべ)を低(た)れて暗壁(あんぺき)に向(むか)い
 千喚不一回  千喚(せんかん)に一(いつ)も回(めぐ)らさず
 十五始展眉  十五 始めて眉を展(の)べ
 願同塵與灰  願はくは 塵と灰とを同(とも)にせん
 常存抱柱信  常に抱柱(ほうちゅう)の信(しん)を存(そん)す
 豈上望夫臺  豈(あ)に望夫台(ぼうふだい)に上(のぼ)らんや

現代語訳
 私の髪がはじめて額を覆った時、花を折って門前で遊んでいました。
 あなたは竹馬(ちくば)に乗って来て、井戸の井桁をめぐって青い梅で私と遊んでくれました。
 私とあなたは同じく長干の里にあって、お互いに幼く、嫌い疑う心はありませんでした。
 十四歳。あなたの妻となり、恥じらう顔はいまだ開きませんでした。
 首をうなだれて暗い壁に向かい、千回呼ばれても一回も振り返ることは、ありません。
 十五歳。心に余裕ができてようやく眉を開き微笑むことができました。
 願はくはあなたと共に塵と灰になるまで一緒にいたい。
 あの、橋の下で約束をした女との約束を違えないように雨が降っても待ち続け、ついに溺れ死んだ尾生という男のように、いつもあなたを信じていました。
 望夫台…夫を待つ妻が登るという台に私がまさか上ってあなたの帰りを待つことになるなんて、あの頃は思いもしませんでした。


 


 「折角」と「折檻」は双生児といっていいでしょう。どちらも「折」という字が頭にくっついていますし、どちらも出典は『漢書』ですし、どちらもエピソードの主人公は朱雲という人物なのです。しかも、ごていねいに、どちらも日本で頻繁に用いられている言葉なのに、どちらももともとの意味とは異なった用法になっています。まったくこれほど双生児的なことばもめずらしいでしょう。
 朱雲という人は、「漢書 朱雲伝」によれば、次のように述べられています。
 朱雲、字は游(ゆう)、魯(山東省)に生まれ、平陵(陝西省咸陽県西北)に移った。若い頃、侠客とつきあい、侠客の手を借りて仇討ちをしたことがある。身長八尺余り、風采頗る堂々としている。勇気と腕力で有名であった。 四十になってから、心を改め博士の白子友について『易』を学び、また前将軍(全軍の将軍)蕭望之(しょうぼうし)について『論語』を習った。『易』『論語』とも師匠の奥許しを受けた。小さい俗事にこだわらず、親分肌である。世間はそれで朱雲を尊敬した。――平凡社、中国古典文学大系13 漢書・五漢書・三国志列伝選より――
 同じ「漢書 朱雲伝」の記述に次のようにあります。
 このころ、少府(九卿の一つ、天子の給養を司る)の五鹿充宗(ごろく じゅうそう、生没年不詳)は、身分が高く艇の覚えもめでたい。これが梁丘易(梁丘賀の始めた易学の一派)を修めていた。宣帝の時から梁丘氏の説がよしとされたが、元帝はとくにこれを好んだ。他の説との異動を調べようと思い、充宗と他派の易学者との討論を命じた、充宗は身分をかさに、雄弁にしゃべる。学者の中、対抗できるものはいない。それで仮病を使って誰も参集しない。 朱雲を薦めたものがある。雲は召し入れられた。裳裾をからげて座敷に登ると、昂然と顔を挙げて質問する。その声は辺りをぴりぴりと振るわせる。論戦になると、しきりに五鹿充宗の痛いところを突いた。儒者たちは次のような文句を作ってはやし立てた。
   五鹿は嶽々(角が長い)たるも、  朱雲はその角を折る。
 これで博士に任ぜられた。杜陵(陝西省長安県)の県令に転出。わざと亡命者を逃して、罪に問われたが、丁度大赦があって、罪を免れた。方正(登用の一資格)に選ばれ、槐里の県令となる。――上記古典文学大系13より――

 「折角」をウェブの語源辞典で調べてみました。
 折角【せっかくの語源・由来】
 せっかくは、「せっかくお誘いいただいたのに」や「せっかく来たのに」など副詞として用いられることが多いが、本来は「力の限り尽すこと」「力の限りを尽さなければならないような困難な状態」「難儀」の意味で名詞である。
 名詞の「せっかく」は、「高慢な人をやり込めること」を意味する漢語「折角」に由来し、漢字で「折角」と表記するのも当て字ではない。
 漢語の「折角」は、朱雲という人物が、それまで誰も言い負かすことができなかった五鹿に住む充宗と易を論じて言い負かし、人々が「よくぞ鹿の角を折った」と洒落て評したという『漢書(朱雲伝)』の故事に由来する。
 この故事から、「力を尽すこと」や「そのような困難」を表す名詞となり、「力を尽して」や「つとめて」という副詞、更に「わざわざ」の意味でも用いられるようになった。
 「わざわざ」の意味の「せっかく」については、『後漢書(郭泰伝)』の故事に由来するという説もある。
 その故事とは、郭泰という人の被っていた頭巾の角が雨に濡れて折れ曲がっていた。
 それを見た人々は郭泰を慕っていたため、わざわざ頭巾の角を曲げて真似、それが流行したという話である。
 しかし、「せっかく」が『漢書(朱雲伝)』に由来し、名詞・副詞へ変化したことは明らかであるため、「わざわざ」の意味の「せっかく」だけが『後漢書(郭泰伝)』の故事に由来するとは考え難い。 ――以上、ウェブ「語源由来辞典」より


 林宗は人を見る目が優れ、好んで士を推奨したり教えたりした。身長は八尺(1尺は23cm)、容貌は魁偉である。ゆったりした着物に幅広の帯を締め、諸国を周遊した。或時、陳・梁の間(河南省)を旅していて雨に逢い、頭巾の一つの角がひしゃげた。世間の人は早速わざと頭巾の一角を折って、「林宗巾」と名付けた。林宗に対する人気はそれほどであった。――上記古典文学大系13、『後漢書・郭泰伝』より――

折檻
 折檻は、中国の故事「漢書」の「朱雲伝」に由来します。その故事とは、前漢の成帝の時代、朱雲が成帝の政治に対し厳しく忠告したため、朱雲は成帝の怒りを受け、宮殿から追い出されることになります。しかし、朱雲は檻(手すり)に掴まり動こうとしなかったため、檻は折れてしまいました。成帝はそのような朱雲の姿を見て反省し、朱雲の意見を受け入れたという話です。このように、本来「折檻」は正当な理由で厳しく忠告することを意味していましたが、現代では体罰や虐待の意味が強くなっています。
 「檻」は手すり、欄檻(らんかん)でそれを折る意です。折檻を辞書で調べると①〔子供などを〕厳しくり、将来を戒める事、②体罰を与えてこらしめること【三省堂、新明解国語辞典】とあります。
 前漢時代、皇帝に諫言して怒りを買った朱雲は宮廷から引きずり出されようとした時、檻(てすり)にしがみついて抵抗します。そのために檻が折れたという故事に基づくものです。本来は①厳しく意見する、②厳しく叱ることを意味しましたが、転じて「攻め苛(さいな)む」意に用いるようになりました。現在は転義の用法ばかりなのが残念です。

 成帝の時(BC32~7年)になると、丞相、もとの安昌侯張禹が、帝の師匠だったというので、特進の位に就けられ、大いに尊重された。雲は上奏して目通りを願った。公卿が御前に居並ぶ中で、雲は言上した。
 「今、朝廷の大臣は、上に向かっては主上を匡正することも成らず、下に向かっては人民を利益することも叶わず。みな雛壇の飾り、禄盗人であります。孔子が『鄙(いや)しい男とはともに君につかえることはできない。仮にも地位を失いそうになれば、どんな悪い事でもする』(論語、陽貨)と申したのに相当します。拙者、願わくは尚方(しょうほう、天子の器物を作る役所)の斬馬剣(ざんばけん、馬でも切れる鋭利な大刀)を頂戴し、諂い者一人の頭を切って、残余の大臣の見せしめにしたいと存じます」
帝「誰のことじゃ?」
雲「安昌侯張禹!」
 帝は烈火のごとく怒った。
「小役人の分際にて目上の者を罵り、朝廷の真ん中にて皇帝の師匠を侮辱するとは! その罪、きっと赦さぬぞ」
 御史が雲を引きずり下ろす。雲は宮廷の檻(てすり)にしがみつく。檻が折れた(折檻の語源はこれ)。雲は叫ぶ。
 「拙者は地下で関龍達(殷の忠臣、桀を諫めて殺された)、比干(殷の忠臣、紂を諫めて殺された)に会って友達になれれば満足でござる。なれど陛下のご評判は如何相成りますやら(直言の士を殺したことで悪評が残るだろう)」
 御史はそのまま雲を引きずって去った。ここで左将軍の辛慶忌が、冠を脱ぎ、印綬をほどいて(免職覚悟のしるし)、宮殿の下に頭を打ち付けて言った。
 「この者は元々狂気じみた正直さで世に聞こえた者。もしその言葉が正しければ、罰してはなりませぬ。たといそのことが間違っておりましても、ご容赦下されて当然。私、命に代えても、あえて反対申し上げます」
 慶忌は頭を何度も地に打ち付けて、血が流れだした。帝は機嫌が直り、やっと雲の罪は沙汰止みになった。その後、檻を修繕することになった。帝が言う。
 「取り替えずとも好い。そのまゝ繋いでおけ。直言の士を表彰するためじゃ」
 朱雲はその後二度と仕えない。いつも鄠県(こけん、陝西省)の田舎に住み、時には牛車に乗って外出し、儒生たちを訪れる。行く先々、みな彼を敬いかしずいた。――上記古典文学大系13、『漢書・朱雲伝』より――


 


 英人Basil Hall Chamberlain(バジル・ホール・チェンバレン)は明治16年に英訳『古事記』を発表し、その総論の部で「古事記の世界には黄色が欠落している」という事実を指摘しています。

 「色の名の古事記に見えたるは、黒・青(緑も含めり)・赤・斑・白など也。黄色のことは記載せしことなし」(飯田永夫訳「日本上古史ひょうろん」)と明言しています。このうち「斑」は「天斑馬(あめのふちこま)」の「ふち」で「まだら」を意味する「ふち」を色彩に数えたことは過ちでしょう。
 約20年後の明治37年に新村出(しんむらいずる)の小編「色彩空談」での見解もチュンバレンにほぽ同じです。「『古事記』などには、色の名と言えば、青・赤・白・黒の四色ぐらいのもので、黄の如きものは殆ど無いというてもよく、云々」とあります。
 「黄」が存在せず、僅か四色しか認められない『古事記』の色彩語(青)「赤「白」「黒」は、正確には「青し」「赤し」「黒し」「白し」という形容詞なのです。『万葉集』も色彩に関する形容詞としては同じく四語しか持っていません。
 『万葉集』には「みどり」「くれなゐ」「むらさき」といった数々の色彩語が多用されていますが、これらの色名は、「むらさき」が紫草、「くれなゐ」が紅花、「みどり」が草木の新芽を意味する語だったというように、元を正せば具体的なものの名を色彩名に転用した比喩的な用法に由来するもので、生粋の色名とは言えず、こういう意味において、抽象化された色の概念を表す四つの形容詞とは性格を異にしているのです。

 『古事記』『万葉集』を通じて純粋に色彩語として認め得る日本語は、結局「青し」「赤し」「白し」「黒し」という四つの形容詞に限定されるのであります。この四つの形容詞の指示する四つの色彩は、今日まで一貫して日本人の色彩感覚の根幹をなしています。
 どのような色であれ、日本人は究極的には「青し」「赤し」「白し」「黒し」という四つの範疇によってその色を分類します。日本人は七色の虹を最終的には「赤」と「青」に二分してしまう民族なのです。
 赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色のうち、「黄」を「青」に含めて把握する習慣が方言に残留しています。「あお」という語を黄色に対しても使う方言は、沖縄・秋田をはじめ越後・飛騨・八丈島など各所にあることが判明しているそうです。別に我々は「赤い」という形容詞を「赤いリンゴ」などに対してばかりでなく、「毬と殿様」の童謡にあるように「赤いミカン」などと使用しても抵抗感なく受け入れる素地を持っているのです。



https://www.youtube.com/watch?v=NGQNsBBuhJI


  古代の日本には独立した黄色の概念はなく、黄色は概ね「赤」の範疇に含まれていたものと推測されます。黄色を「赤」もしくは「青」に分類していた時代に、黄色を支持する独自の色名は本来不必要でしょう。さればこそ、『古事記』や『万葉集』では「黄」という色名が使用されていないのです。
 「黄」という漢字が使われてないというのではありません。中国から学び覚えた漢字を自在縦横に駆使してひゅう記されている『万葉集』に、「黄」の文字が使用されているのはむしろ当然なことです。死後の国ヨミを「黄泉」と書き、アメツチ(天地)を「玄黄」と書いたほどの万葉知識人たちが、「黄」の文字と意味に精通していなかったはずはありません。ただし、この文字を知り、意味に通じていたということは、必ずしも色彩語「黄」の積極的使用を証明するものではありません。
 従来『万葉集』における色名「黄」は、次の「黄」の字をキと読むことによって存在が認められていました。
   沖つ国 うしはく君の 塗り屋形 黄塗りの屋形 神の門渡り  巻16 3888

 『万葉集』には、船体を赤く塗った船が「朱けのそば舟」「赤ら小舟」「さ丹塗りの小舟」などと呼ばれて洋上を通行していますが、黄色に塗った船などは他に例を見ません。「黄塗りの舟」が果たして黄(き)に塗った舟であったかどうかは、甚だ疑問なのであります。
 すべての色を「青し」「赤し」「白し」「黒し」の四つに分類する日本人の基本的色彩感覚から見ると、七色の虹は結局「青し」と「赤し」の2色にすぎないことになります。この場合、古代では、赤・橙そして黄が「赤し」に属し、緑・青・藍が「青し」に属したと思われます。では、紫はどうだったのでしょうか。
   茜(あかね)さす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
       野守(のもり)は見ずや 君が袖(そで)振る   万葉集巻1 20
 天智天皇の七年五月五日、蒲生野(かまうの)で催された薬狩りの遊び場で、人目もはばからず自分に手を振って見せる大海人皇子(おおあまのみこ)を詠んだ額田王(ぬかたのおおきみ)の歌としてよく知られた歌です。

 第一句の「あかねさす」は第二句の「紫」を導き出す枕詞です。アカネは草の名で、その名の通り根が赤いのです。「あかねさす」とは、アカネで染めた赤色が美しく映える様子を言います。この句を「紫」の枕詞に選んだということは、作者が紫野の紫草から染め上げられる紫色を赤いアカネ色に擬したということです。紫という色が「赤し」の範疇に属していたことを裏書きする枕詞の使用法てあったのです。


 


 鱗(うろこ)とは魚類や爬虫類など動物の身体を保護するため体表を覆う堅い小薄片のことです。パソコンの語源由来辞典によれば、
【平安時代には「いろこ」と言い、「いろくず(いろくづ)」と併用されていた。/「いろくず」は、魚や竜など鱗のあるの動物を指すようになったが、元は「うろこ」の正式な表現として用いられ、「いろこ」は俗的な表現であった。/普通、俗な表現は新しい言葉で、使用例も「いろくず」が古い時期に多く、「いろこ」が新しい時期に多く見られるため、「いろくづ」から「いろこ」、そして「うろこ」に変化したと思われる。/この音変化は、「いを(魚)」から「うを」、「いごく(動く)」から「うごく」と変化したのと同じである。/「いろくず」や「いろこ」の「いろ」は、ざらざらした細かいものの意味で、「くず」は「屑(くず)」、「こ」は「小」の意味と考えられる。/「いろ」には、「い」が「魚」の意味で、「ろ」を接辞とする説もある。/しかし、草木のトゲを意味する「イラ」は魚の背びれにあるトゲも意味し、うろこと形状の似た「いらか(甍)」も、この「イラ」に由来するとも考えられている。/このことから、「イロ」や「イラ」が平らなところから少し飛び出ていたり、ざらざらしたものを表現したと考えられるので、「いろ」を「魚」の意味に限定せず、形状や感触と考える方が良いであろう。/また、頭皮の「フケ」を「うろこ」や「いろこ」と言ったり、皮膚病の時に掻くと出る粉も「いろこ」と言った。/うろこ状であるところから「フケ」など指すようになったとも考えられるため、これをもって魚の説を否定することは出来ないが、かなり古い時期から例が見られるため、関係ないとも言い切れない。】とあります。

 急に目の前が開けたようにはっきりわかるようになることを「目から鱗がおちる」といい、その快感を表すのによく用いられます。「鱗」という魚に関連した慣用句なので日本や中国の故事かと思われそうですが、由来は新約聖書の使徒行伝からです。
 新約聖書の「使徒行伝9章」には、パウロの回心に関連して、次のような内容のことが書かれています。頭脳明晰で有能な学徒であり、当時のユダヤ人社会から将来を嘱望されていた青年サウロ(後の使徒パウロ)は、当時、十字架に架けられて死んだイエスをキリスト(救い主)と信じるクリスチャンたちに憎悪の念を抱き、キリスト迫害に加担していたわけですが、非常な怒りと殺害の意に燃えてエルサレムからダマスコという町に向かって旅をしていたのです。青年サウロは、イエスを信じるというクリスチャンがユダヤ教のしきたりを破ったりすることを教えていると言うことを聞き、我慢が出来ず、クリスチャンであれば、男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコの町に向かって旅をしていたのです。
 サウロの行動は、自分は神の前に正しいことをしているという確信と正義感に満ちたものであったのですが、彼が道を進んで行って、ダマスコの町の近くまで来たとき、突然、天からの光(復活されたキリストの栄光)が彼を巡り照らしたのです。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きました。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 との答えがありました。そして、サウロは地面から立ち上がりましたが、目は開いていても何も見えなくなっていました。そこで同行していた人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行ったのです。
 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。さて、ダマスコの町にはアナニヤという弟子がいたのですが、神はアナニヤに、幻の中で、「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」と命じました。しかし、アナニヤは神に対して、サウロがエルサレムで、クリスチャンたちにどんなにひどいことをしたかを訴えました。 しかし、神は彼に次のように言われました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と答えられたのです。それ以後のことは聖書に次のように記されています。

※「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう祈った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお表われになった主イエスが、わたしを遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒行伝 第9章 17~20 の訳)。
 英訳では鱗は「fish scales(フィシュ スケイルズ)」と書かれ、キリストの本当の姿を見抜けない象徴的なものとして表されているように思われますが、この後、迫害者サウロが回心し、使徒パウロとしてキリストの福音を宣べ伝える伝道者となったことからも、人生の覚醒と転換を表現した言葉として、今日に伝わったのではないでしょうか。最近では、もっと身近に、何か新しい事実に気づいた時などに、「なるほど、そういうことだったのですか。”目からうろこが落ちた”ような心境ですね!」などと使われることもあります。


 


 うろこには違いありませんが、「逆鱗」は並のうろこでありません。龍の顎の下にさかさまに生えたもので、中国の古典『韓非子』に見え、これに触れると龍は怒ってその人を殺すと言われています。天子を龍にたとえ、その激しい怒りをかうことを「逆鱗に触れる」というのです。

『韓非子』説難(ぜいなん)より
 昔者(むかし)、弥子瑕(びしか)衛君に寵(ちょう)あり。衛国の法、ひそかに君の車に駕(が)するは罪は刖(げつ)。弥子瑕の母、病む。人ひそかに往き、夜、弥子に告ぐ。弥子矯(いつわ)りて君の車を駕してもって出(い)ず。君、聞きて、これを賢として曰く、
「孝なるかな。母のための故に、その刖罪を忘る」。
 異日、君と果園に遊ぶ。桃を食(くら)うに甘し、尽くさずして、その半(なかば)をもって君に啗(くら)わす。君曰く、
「われを愛するかな。その口味を忘れ、もって寡人に啗わす」。
 弥子、色衰え愛弛(ゆる)むに及び、罪を君に得(う)。君曰く、
「これ、もとかって矯(いつわ)りてわが車に駕し、またかってわれに啗(くら)わすに余桃をもってす」。
 故に弥子の行いはいまだ初めに変わらずして、而(しか)も前の賢とせられる所以(ゆえん)をもってして、後に罪を獲(え)しは、愛憎の変なり。
 故に主に愛せらるるあらば、すなわち智当たりて親しみを加え、主に憎まるるあらば、すなわち智当たらず、罪せられて疏(そ)を加う。
 故に諫説談論(かんせつだんろん)の士は、愛憎の主を察し、しかる後に説かざるべからず。
 かの龍の虫たるや、柔、狎(な)れて騎(の)るべきなり。然れどもその喉下に逆鱗(げきりん)径尺(けいしゃく)なるあり。若(も)し人これに嬰(ふ)るる者あらば、すなわち必ず人を殺す。
 人主もまた逆鱗あり。説く者、よく人主の逆鱗に嬰るることなければ、すなわち幾(ちか)し。

現代語訳
 昔、弥子瑕(びしか)という美少年が、衛(えい)の霊(れい)公の寵愛を受けていた。衛の法律では、許しなく君主の車に乗った者は、足切りの刑に処せられる。ところが、弥子瑕は夜中に母が急病だという知らせを受け、君命といつわって君主の車を使った。それを聞いた霊公は、罪を問うどころかほめるのだった。
「親孝行なことではないか。母を思うあまり、自分が足を切られるのさえ忘れるとは」。
 また、ある日、霊公のお供をして果樹園に散歩に行った時、弥子瑕が桃を食べたところ、あまりにおいしいので、半分残して霊公にすすめた。霊公は言う、
「君主思いではないか。自分が食べるのを忘れてまで、わしに食べさせてくれるとは」。
 だが、やがて弥子瑕の容色が衰えて、霊公の寵愛がうすれてきた。すると、霊公は、弥子瑕が前にしたことに腹を立てて、霊公は言う、
「こいつは、嘘までついてわしの車を使ったことがある。またいつぞやは、わしに食いかけの桃を食わせおった」。
 弥子瑕の行為は、初めから変わらずひとつである。それが、前にはほめられ、後になって罪に>問われたのは、霊公の愛情が憎悪に変わったからだ。
 つまり、相手が愛情を持っている場合は、いいことを言えばすぐに気に入られ、ますます近づけられる。ところが憎まれた場合は、いいことを言っても受け付けられず、いよいよ遠ざけられるだけである。
 意見を述べたり、諫めたりするには、相手に自分がどう思われているかを知ったうえで、それを行うべきである。
 龍という動物は、馴らせば人が乗れるほどおとなしい。だが、喉(のど)の下に直径一尺ほどの鱗(うろこ)が逆にはえていて、これにさわろうものなら、たちまちかみ殺される。
 君主にもこの逆鱗(げきりん)がある。それにさわらぬよう進言ができれば、まず及第というところである。


 


ウェブニュースより
<憲法70年いまを問う>教育勅語「是認」に違和感 ―― 大阪市の学校法人「森友学園」の問題に絡み「教育勅語」が議論の的になっている。戦後、個人の尊重を盛り込んだ憲法が制定され、軍国主義に結びついた教育理念は国会で排除・失効が決議された。それから約70年。「学校教材への使用は否定しない」とした安倍政権の閣議決定に対し、野党側は「戦前回帰だ」と反発する。兵庫県内の戦争体験者や現場の教師らは現状をどう見ているのだろうか。

 教育勅語は父母への孝行や家族愛を説く一方、「危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧(ささ)げて皇室国家の為(ため)につくせ」(旧文部省の通釈)と求める。
 戦時中、海軍の徴用工だった神戸市東灘区の加藤太郎さん(92)は「教育勅語の『父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲良くし』という部分だけを聞けば、今の若い人がすんなり受け入れてしまいそうで怖い」と危機感を抱く。
 自身も戦前、教育勅語を何度も聞かされ、すり込まれた。「とにかく兵役に就き、国のために役立ちたい」と、何の疑問もなく願った。だが、徴用先の南太平洋では米軍の猛攻にさらされ、多くの仲間を失った。「国は、もっともな部分は誰もおかしいとは言えないと承知している。復活させる狙いがあるならけしからん」と語気を強めた。
 日本教育史に詳しい船寄(ふなき)俊雄・神戸大大学院教授も「確かに夫婦の和などをうたっているが、当時の家庭は父親の力が圧倒的に強かった」と指摘する。家族関係が対等でなかった時代に説かれた価値観は結局、国家の重大時に命を投げ出す教えに収れんされた。「教育勅語が通用したのは戦前だけ。あくまで負の側面を伝える『史料』で、現代によみがえらせることはできない」と話す。
 さらに閣議決定について「実は10年以上前に“お膳立て”ができていた」とみる。2006年に第1次安倍政権が実現した教育基本法の改正だ。「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを教育目標に加えた改正法には、愛国心重視の姿勢がにじむ。船寄教授は18年度以降の道徳教科化も踏まえ、懸念を示す。「本来は多様な生き方を伝えるのが道徳教育だが、政府『公認』の価値観を教えることにつながるのではないか」
 現場の教師はどうか。
 「教育勅語が戦時中、どのような役割を果たしたかを伝えることはあっても、その道徳観を取り出して教えることはできない」。県内の高校で地理歴史・公民を担当する50代の男性教諭は強調する。
 同性愛カップルなど家族にはさまざまな形があり、家庭内で虐待や貧困に直面する子どももいる。「今の高校生にとって、画一的な家族観はぴんとこないのではないか」と話す。
 国家のために個人の人権は制限するべきか-。教育勅語を題材に、授業で問い掛けようと考えている。
【教育勅語】 正式名は「教育ニ関スル勅語」で、大日本帝国憲法(明治憲法)で事実上の主権者だった明治天皇が1890年に発布した。国民の守るべき徳目が示され、戦時中は国家総動員体制の正当化に利用されたと指摘される。戦後の1948年、衆参両院は国民の基本的人権を損なうなどとして排除・失効を決議。森友学園の問題では、運営する幼稚園が園児に暗唱させていたことが疑問視された。  (2017/4/16 07:00神戸新聞NEXT


 


長広舌(ちょうこうぜつ)
 長広舌をふるうと聞いて、さわやかな弁舌を思う人はほとんどいないでしょう。古くは弁舌が巧みであることを表す場合もありましたが、最近では単に長々と喋ることの代名詞のようになってしまっています。
 この言葉、もともとは仏にそなわる勝れた姿としての三十二相の一つ、広長舌相(こうちょうぜっそう、=大舌相)に由来しています。仏の舌は広くて長く、しかも軟らかいために、その顔を覆うことができるというのです。

 大きいから立派だ、という話ではありません。実際に顔全体を覆っている舌などを見たら、びっくりするだけです。これは仏の説く言葉が広く響きわたることを広く長い舌の相(すがた)によって表しているのでしょう。 『仏説阿弥陀経』には、次のように記されています。

 東・南・西・北・下・上という六方、つまりあらゆる方角の世界に無数の仏がおいでになります。その無数の諸仏がたは、おのおの広長の舌相を出して全世界を覆い、まことの言葉を説かれるということです。
 お互いに通じ合い、響き合うのがまことの言葉です。たとえ厳しい一言でも、言い当てられたという実感が伴うならば、それは忘れられない言葉となり、人のこころを動かすことにもなります。それが本当の軟らかさだといえるのでしょう。
 また、広長といわれるように、仏の言葉はどこまでも響きわたり、一人として漏れ落ちる者がありません。それは、この世の苦しみ悩みを見つめ続けているからであります。
 ひるがえって我々の言葉はどうでありましょうか。たとえ共通の言葉を用いながらも、通じ合うことはなかなか難しいのです。言葉によって、人を切り捨てていることも多く、人の心を開くどころか、お互いに、孤独という名の地獄に堕ちているのではないでしょうか。
 通じ合うことのない言葉での長広舌は聞くに耐えません。にもかかわらず、饒舌、悪舌、両舌ばかりが渦巻いているのが現代です。本当の意味で、広く、軟らかく、長い舌をもちたいものですね。

 「以心伝心」に価値を認めたり、寡黙をよしとしたりする日本人には、長々としゃべりたてる「長広舌」はむしろ迷惑なのではないでしょうか。


 


7枚札 おわ
05 おくやまに もみじふみわけ なくしかの     こゑきくときぞ あきはかなしき    おく      こゑ
26 を(お)ぐらやま みねのもみじば こころあらば   いまひとたびの みゆきまたなむ    を(お)ぐ   みゆき
72 おとにきく たかしのはまの あだなみは     かけじやそでの ぬれもこそすれ    おと      かけ
82 おもひわび さてもいのちは あるものを     うきにたへぬは なみだなりけり    おも      うき
60 おほ(お)えやま いくののみちの とほければ    まだふみもみず あまのはしだて    おほ(お)え   まだ
95 おほけなく うきよのたみに おほふかな     わがたつそまに すみぞめのそで    おほ(お)け   わがた
44 あふ(おお)ことの たえてしなくば なかなかに   ひとをもみをも うらみざらまし      あふ(おお)こ   ひとを
20 わびぬれば いまはたおなじ なにはなる     みをつくしても あはむとぞおもふ   わび      みをつくしても
54 わすれじの ゆくすゑまでは かたければ     けふをかぎりの いのちともがな    わすれ     けふを
38 わすらるる みをばおもはず ちかひてし     ひとのいのちの おしくもあるかな  わすら    ひとの
92 わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの    ひとこそしらね かわくまもなし   わがそ     かわく
8 わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ     よをうぢやまと ひとはいふなり    わがい     よをう
76 わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの    くもゐにまがふ おきつしらなみ   わたのはらこ   しらなみ
11 わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと    ひとにはつげよ あまのつりぶね   わたのはらや   つりぶね

8枚札 な
36 なつのよは まだよひながら あけぬるを    くものいづこに つきやどるらむ    なつ   くもの
53 なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは    いかにひさしき ものとかはしる    なげき   いか
86 なげけとて つきやはものを おもはする    かこちがほなる わがなみだかな   なげけ   かこ
84 ながらへば またこのごろや しのばれむ    うしとみしよぞ いまはこひしき   ながら   うし
80 ながからむ こころもしらず くろかみの    みだれてけさは ものをこそおもへ  ながか   みだれて
25 なにしおはば あふさかやまの さねかづら   ひとにしられで くるよしもがな   なにし   ひとにし
88 なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ    をつくしや こひわるべき   なにはえ  みてた
  ※ 下の句札の一番上の字で覚える
19 なにはがた みじかきあしの ふしのまも    あはでこのよを すぐしてよとや   なにはが  あわで

16枚札 あ
12 あまつかぜ くものかよひじ ふきとぢよ    をとめのすがた しばしとどめむ    あまつ   をとめ
07 あまのはら ふりさけみれば かすがなる    みかさのやまに いでしつきかも    あまの   みか
79 あきかぜに たなびくくもの たえまより    もれいづるつきの かげのさやけさ   あきか   もれいづる
01 あきのたの かりほのいほの とまをあらみ   わがころもでは つゆにぬれつつ    あきの   つゆ
78 あはぢしま かよふちどりの なくこえに    いくよねざめぬ すまのせきもり   あはぢ   いくよ
45 あはれとも いふべきひとは おもほえで    みのいたづらに なりぬべきかな   あはれ   みの
30 ありあけの つれなくみえし わかれより    あかつきばかり うきものはなし   ありあ   あか
58 ありまやま ゐなのささはら かぜふけば    いでそよひとを わすれやはする   ありま   いで
69 あらしふく みむろのやまの もみじばは    たつたのかはの にしきなりけり   あらし   たつ
56 あらざらむ このよのほかの おもひでに    いまひとびの あふともがな   あらざ   たこ
  ※ 下の句札の一番下の2字で覚える
43 あひみての のちのこころに くらぶれば    むかしはものを おもはざりけり   あひ   むかしは
52 あけぬれば くるるものとは しりながら    なほうらめしき あさぼらけかな   あけ   なほうら
3 あしびきの やまどりのおの しだりおの    ながながしよを ひとりかもねむ     あし   ながなが
39 あさぢふの おののしのはら しのぶれど    あまりてなどか ひとのこひしき   あさぢ   あまり
31 あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに   よしののさとに ふれるしらゆき   あさぼらけあ  しらゆき
64 あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに    あらはれわたる せぜのあじろぎ   あさぼらけう  あら


 


プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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