4枚札 はやよか
02 はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま はるす ころもほす
67 はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かひなくたたむ なこそおしけれ はるの かひ
09 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに はなの わがみよ
96 はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり はなさ ふり
47 やへ(え)むぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり やへ ひとこ
59 やすらはで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな やす かたふく
32 やまがはに かぜのかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみじなりけり やまが ながれ
28 やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもへば やまざ ひとめ
62 よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあふさかの せきはゆるさじ よを よに
85 よもすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり よも ねや
83 よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる よのなかよ やまのおく
93 よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも よのなかは あまの
51 かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを かく さし
06 かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける かさ しろ
98 かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける かぜそ みそ
48 かぜをいたみ いはうつなみの おのれのみ くだけてものを おもふころかな かぜを くだけ
5枚札 み
94 みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり みよ ふるさと
90 みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず みせ ぬ
14 みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに みち みだれそ
49 みかきもり ゑじのたくひの よるはもえ ひるはきえつつ ものをこそおもへ みかき ひる
27 みかのはら わきてながるる いづみがは いつみきとてか こひしかるらむ みかの いつみき
6枚札 たこ
04 たごのうらに うちいでてみれば しろたへの ふじのたかねに ゆきはふりつつ たこ ふじ
16 たちわかれ いなばのやまの みねにおふる まつとしきかば いまかへりこむ たち まつと
34 たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに たれ まつも
55 たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なほきこえけれ たき なこ
73 たかさごの おのへのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなむ たか とやま
89 たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする たま しのぶ
10 これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき これ しる
41 こひ(い)すてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか こひ ひとしれず
24 このたびは ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに この もみぢ
97 こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ こぬ やく
29 こころあてに をらばやをらむ はつしもの おきまどはせる しらぎくのはな こころあ お
68 こころにも あらでうきよに ながらへば こひしかるべき よはのつきかな こころに こひし
百人一首で上の句が「あ」で始まる句は17枚もあります。以下、「い」で始まる句は3枚、「う」で始まる句は2枚…… とあります。「む、す、め、ふ、さ、ほ、せ」で始まる句はそれぞれ1枚しかありません。以下、「つ、ゆ、し、も、う」で始まる句はそれぞれ2枚ずつあります。……
※百人一首は旧かな遣いで表記されています。「あふ」を「おお」と発声するので、「あふ」の札を「お」に入れることがあります。
以下それらを順を追って記しておきます。
いずれも 百人一首番号・上の句・下の句・覚え方 の順になっています。
1枚札 むすめふさほせ
87 むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ む きり
18 すみのえの きしによるなみ よるさへや ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ す ゆめ
57 めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よはのつきかな め くもがくれ
22 ふくからに あきのくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ ふ むべ
70 さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆふぐれ さ いづこ
81 ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる ほ ただ
77 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ せ われ
2枚札 つゆしもう
23 つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみひとつの あきにはあらねど つき わがみひ
13 つくばねの みねよりおつる みなのがは こひぞつもりて ふちとなりぬる つく こひぞ
46 ゆらのとを わたるふなびと かぢをたえ ゆくへもしらぬ こひのみちかな ゆら ゆく
71 ゆふされば かどたのいなば おとづれて あしのまろやに あきかぜぞふく ゆふ あし
40 しのぶれど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで しの もの
37 しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける しら つら
100 ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり もも なほあまりある
66 もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし もろ はなよ
74 うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを うか はげし
65 うらみわび ほさぬそでだに あるものを こひにくちなむ なこそおしけれ うら こひに
3枚札 いちひき
61 いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに にほひぬるかな いに けふこ
21 いまこむと いひしばかりに ながつきの ありあけのつきを まちいでつるかな いまこ あり
63 いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな いまは ひとつ
17 ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは ちは から
42 ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは ちぎりき す
75 ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あはれことしの あきもいぬめり ちぎりお あはれ
33 ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ ひさ しづ
35 ひとはいさ こころもしらず ふるさとは はなぞむかしの かににほひける ひとは はなぞ
99 ひともおし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは ひとも よをおもふ
91 きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ きり ころもか
15 きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ きみがためは ゆき
50 きみがため をしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな きみがためを ながく
三字決まり (37句)
079 あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいづるつきの かげのさやけさ
001 あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ
039 あさぢふの をののしのはら しのぶれど あまりてなどか ひとのこひしき
078 あはぢしま かよふちどりの なくこゑに いくよれざめぬ すまのせきもり
045 あはれとも いふべきひとは おもほえで みのいたづらに なりぬべきかな
044 あふことの たえてしなくば なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし
012 あまつかぜ くものかよひぢ ふきとぢよ をとめのすがた しばしとどめむ
007 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも
056 あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな
069 あらしふく みむろのやまの もみぢばは たつたのかはの にしきなりけり
030 ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うきものはなし
058 ありまやま ゐなのささはら かぜふけば いでそよひとを わすれやはする
021 いまこむと いひしばかりに ながつきの ありあけのつきを まちいでつるかな
063 いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな
060 おほえやま いくののみちの とほければ まだふみもみず あまのはしだて
095 おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで
098 かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける
048 かぜをいたみ いはうつなみの おのれのみ くだけてものを おもふころかな
080 ながからむ こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもへ
084 ながらへば またこのごろや しのばれむ うしとみしよぞ いまはこひしき
053 なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは いかにひさしき ものとかはしる
086 なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな
025 なにしおはば あふさかやまの さねかづら ひとにしられで くるよしもがな
096 はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
009 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
002 はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま
067 はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かひなくたたむ なこそをしけれ
035 ひとはいさ こころもしらず ふるさとは はなぞむかしの かににほひける
099 ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは
049 みかきもり ゑじのたくひの よるはもえて ひるはきえつつ ものをこそおもへ
027 みかのはら わきてながるる いづみがは いつみきとてか こひしかるらむ
032 やまがはに かぜのかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみぢなりけり
028 やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもへば
008 わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり
092 わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし
038 わすらるる みをばおもはず ちかひてし ひとのいのちの をしくもあるかな
054 わすれじの ゆくすゑまでは かたければ けふをかぎりの いのちともがな
四字決まり (6句)
029 こころあてに をらばやをらむ はつしもの おきまどはせる しらぎくのはな
068 こころにも あらでうきよに ながらへば こひしかるべき よはのつきかな
075 ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あはれことしの あきもいぬめり
042 ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは
088 なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるべき
019 なにはがた みじかきあしの ふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや
五字決まり (2句)
093 よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
083 よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる
六字決まり (6句)
031 あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに よしののさとに ふれるしらゆき
064 あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに あらはれわたる せぜのあじろぎ
015 きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ
050 きみがため をしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな
076 わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ
011 わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね
決まり字の文字数は一字で決まる「一字決まり」から「六字決まり」までありますが、上の句の順に並べて紹介します。
「一字決まり」の場合は、一般に頭の1文字を取って、「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」と覚えるようにしているようですが、分かりやすいように、それぞれの決まり字は50音順でまとめてました。特に決まった覚え方もないので、自分の覚えやすいようにおぼえてください。
最初の番号は百人一首の歌番号で、太字で示している文字がその句の決まり字です。
例えば「二字決まり」の一番下の句(歌番号020)では、「わび」が決まり字で、この決まり字の下の句はひとつしかありません。
この決まり字を覚えておけば、百人一首をしていても早く下の句の札を見つけることが出来るので、楽しく遊べると思います。
「二字決まり」と「三字決まり」が多いのですが、自分なりに工夫して、少しでも覚えるようにしてみてください。
一字決まり (7句)
070 さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆふぐれ
018 すみのえの きしによるなみ よるさへや ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ
077 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ
022 ふくからに あきのくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ
081 ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる
087 むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ
057 めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よはのつきかな
二字決まり (42句)
052 あけぬれば くるるものとは しりながら なほうらめしき あさぼらけかな
003 あしびきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねむ
043 あひみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり
061 いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに にほひぬるかな
074 うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを
065 うらみわび ほさぬそでだに あるものを こひにくちなむ なこそをしけれ
005 おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき
072 おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ
082 おもひわび さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみだなりけり
026 をぐらやま みねのもみぢば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなむ
051 かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを
006 かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける
091 きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ
097 こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ
024 このたびは ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに
041 こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか
010 これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき
040 しのぶれど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで
037 しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける
073 たかさごの をのへのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなむ
055 たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なほきこえけれ
004 たごのうらに うちいでてみれば しろたへの ふじのたかねに ゆきはふりつつ
016 たちわかれ いなぱのやまの みねにおふる まつとしきかば いまかへりこむ
089 たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする
034 たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに
017 ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは
023 つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみひとつの あきにはあらねど
013 つくばねの みねよりおつる みなのがは こひぞつもりて ふちとなりぬる
036 なつのよは まだよひながら あけぬるを くものいづこに つきやどるらむ
033 ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ
090 みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
014 みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに
094 みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり
100 ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり
066 もろともに あはれとおもへ やまざくら はなよりほかに しるひともなし
059 やすらはで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな
047 やへむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり
071 ゆふされば かどたのいなば おとづれて あしのまろやに あきかぜぞふく
046 ゆらのとを わたるふなびと かぢをたえ ゆくへもしらぬ こひのみちかな
085 よもすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
062 よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあふさかの せきはゆるさじ
020 わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもふ
「増鏡」おどろのした
内侍所・神璽(しんし)・宝剣は、譲位の時必ず渡る事なれど、先帝筑紫に率ゐておはしにければ、こたみ初めて三種の神器なくて、珍しき例(ためし)になりぬべし。後にぞ内侍所・印の御箱ばかり帰かへり上りにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身に添へて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。かくてこの御門、元暦元年七月二十八日御即位、そのほどの事、常のままなるべし。平家の人々、いまだ筑紫に漂ひて、先帝と聞こゆるも御兄このかみなれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひ遣られて、いと忝し。
同じき年の十月二十五日に御禊(ごけい)、十一月十八日に大嘗会(だいじやうゑ)なり。主基(すき)方の御屏風の歌、兼光の中納言と言ふ人、丹波国長田(をさだ)村とかやを、
神世より けふのためとや 八束穂に 長田の稲の しなひそめけむ
御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじう美しと思さる。文治ぶんぢ二年十二月一日、御書始ふみはじめせさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年、女御参まゐり給ふ。月輪つきのわの関白殿の御娘なり。后立ちありき。後には宜秋門院ぎしうもんゐんと聞こえ給ひし御事なり。この御腹に、春花門院と聞こえ給ひし姫君ばかりおはしましき。建久けんきう元年正月三日、御年十一にて御元服し給ふ。
同じき三年三月十三日に、法皇隠れさせ給ひにし後は、御門ひとへに世を知ろし召して、四方よもの海波静しづかに、吹く風も枝を鳴らさず、世治まり民安くして、遍あまねき御美いつくしびの浪、秋津島の外まで流れ、繁き御恵み、筑波つくば山の陰よりも深し。万よろづの道々に明らけくおはしませば、国に才ざえある人多おほく、昔に恥ぢぬ御代にぞありける。中にも、敷島の道なん、優れさせ給ひける。御歌数知らず人の口にある中にも、
奥山の おどろの下も 踏みわけて 道ある世ぞと 人に知らせん
と侍るこそ、政まつりごと大事と思されけるほど著しるく聞こえて、いといみじくやむごとなくは侍れ。
現代語訳
内侍所([八咫鏡やたのかがみ])・神璽([八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])・宝剣([草薙くさなぎの剣])は、譲位の時に必ず渡されるものでございましたが、先帝(第八十一代安徳天皇)が筑紫(太宰府)に持って参られましたので、この度は三種の神器はございませんでした、珍しい例となったのでございます。後に内侍所・印の御箱([八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを入れておく箱])だけは戻って参りましたが、宝剣は、先帝(安徳天皇)が海に入られた時に、身に付けて沈まれたので帰ってきませんでした、とても残念なことでございました。こうしてこの帝(第八十二代後鳥羽天皇)は、元暦元年(1184)の七月二十八日に即位されましたが、その儀式は、いつもと変わるところはございませんでした。平家の人々は、まだ筑紫(九州)におられて、先帝も帝の兄であられましたので、かの地でこれを伝え聞く平家の者たちも、上下なくそのようなこともあろうかと、申し訳なく思われたのでございました。
同じ年(寿永二年(1183))の十月二十五日に御禊([即位後の大嘗祭の前月に、天皇が賀茂川などに臨んで行なったみそぎ])、十一月十八日に大嘗会([天皇即位後、天皇自らが初めて新穀を神々に供える祭事])がございました。主基([大嘗会で神事に用いる新穀を捧げる国郡])方の屏風の歌には、兼光中納言(藤原兼光)と言う人が、丹波国長田村とかでございましたか、
神世より今日のために続いてきたものでございましょうか、八束穂([長い穂])の長田の稲は豊かに実り、帝(第八十二代後鳥羽天皇)に頭を垂れておりまする。
帝(後鳥羽天皇)はたいそう大人びて賢くあられましたので、法皇(第七十七代後白河院)もとても美しいと思われたのでございます。文治二年(1186)十二月一日、書始め([貴族の子弟が、七・八歳になって初めて読書をする儀式])がございました。御年七つでした。同じ文治六年(1190)には、女御が参りました。月輪関白殿(九条兼実かねざね)の娘(九条任子〈にんし〉)でございました。后に立たれました。後には宜秋門院と呼ばれたお方でございます。この腹に、春花門院(昇子〈しようし〉内親王)と呼ばれた姫君ばかりがおられました。建久元年(1190)正月三日に、御年十一で元服なさいました。
同じ文治三年(1192年)三月十三日に、法皇(第七十七代後白河院)がお隠れになられた後は、帝(第八十二代後鳥羽天皇)が世を治められて、国内は平穏で、吹く風も枝を鳴らさず、世は治まり民は安心して、慈しみの浪は、秋津島([日本])の外まで流れ、お恵みは、筑波山の陰よりも深いものでございました。どんな道々にも明るくございますれば、国に才能のある人も多く、昔に恥じない時代でございました。中でも、敷島の道([和歌])に、優れておられました。歌は数知れず人の口に上りましたが中でも、
奥山の棘(おどろ、[草木・いばらなどの乱れ茂っていること])の下も踏み分けて、前途ある世の中であることを万民に知らせなくては。
と詠まれるほどに、政を大事に思われておられると聞こえて、たいそうありがたいことと思ったものでございます。
古近著聞集 212 「西行法師が御裳濯歌合ならびに宮川歌合の事」
圓位上人(西行)昔者よりみづからがよみをきて侍る哥を抄出して、三十六番につがひて御裳濯哥合と名づけて、色々の色紙をつぎて慈鎭和尚(慈圓)に淸書を申、俊成卿(藤原俊成)に判の詞をかゝせけり。
又一卷をば宮河哥合と名付て、是もおなじ番につがひて、定家卿(藤原定家)の五位侍從にて侍ける時判ぜさせけり。
諸國修行の時もおひに入て身をはなたざりけるを、家隆卿(藤原家隆)のいまだわかくて坊城侍從とて、寂蓮(藤原定長。藤原俊成養子)が聟にて同宿したりけるに尋行ていひけるは、
「圓位は往生の期既に近付侍りぬ。此哥合は〔合は、一本旡〕愚詠をあつめたれども秘藏のもの也。末代に貴殿ばかりの哥よみはあるまじき也。おもふ所侍れば付屬し奉る也といひて、二卷の哥合をさづけゝり。
げにもゆゝしくぞそう〔そう、一本作さう〕したりける。彼卿非重代の身なれども、よみくち世おぼえ人にすぐれて、新古今撰者にくはゝり、重代の達者定家〔定家以下廿一字、一本脱〕(いみじき事マデ)卿につがひて其名をのこせる、いみじき事也。
まことにや後鳥羽院始めて哥の道御さた有ける比、御京極殿(藤原良經。藤原兼實男)に申合參らせられける時、彼殿奏せさせ給けるは、
「家隆は末代の人丸にて候也。かれが哥を學ばせ給ふべし」
と申させ給ひける。
これらを思ふに上人の相せられける事おもひ合せられて、目出度おぼえはべる也。
現代語訳
円位(西行の法名)上人は、昔から自分で詠んでおいた(歌の中から、よい)歌を選び出して、三十六番(対)に合わせて、御裳濯(みもすそ)歌合と名付けて、いろいろの色紙を継いで(継いだ紙に)、慈鎮和尚(慈円)に清書をお願いし、藤原俊成卿に判の詞(批評のことば)を書いてもらった。
またもう一巻を宮河歌合と名付けて、これも同じ三十六番に合わせて、藤原定家卿(俊成の子)が五位の侍従でいらっしゃった時、批評してもらった。
(西行は)諸国修行の時も、(この二巻の歌合を)笈(リュックサック)に入れて、肌身はなさず持っていたが、藤原家隆卿がまだ若くて、坊城の侍従と言われていて、寂蓮(俊成の養子)の娘婿で、(寂蓮と)いっしょに住んでいたところに、(西行が)尋ねて行って言うことには、
「円位(私)は往生の期(死期)がもう近づいております。この歌合は私のつまらない歌を集めたものですが、(私にとっては)秘蔵の物です。(いまのような)末の代に、あなたさまほどの(すぐれた)歌人はございません。思うところがございますので、お預け申し上げます。」と言って、
その二巻の歌合を(家隆に)与えたのだった。
まことにみごとに(家隆の将来を)予見したものだ。かの卿(家隆)は、代々歌にすぐれた家系の人ではないが、詠みぶり、世間の評価ともに余人にすぐれていて、『新古今集』の撰者に加わって、代々の歌にすぐれた家系の達人である定家卿と共同作業をしてその名を残したことは、すばらしい事だ。
さて、後鳥羽院がはじめて歌の道を学ぼうとなさったころ、後京極殿(藤原良経)にお問い合わせなさった時、かの殿(良経)が奏上なさったことには、
「家隆は末代(現代)の人丸(柿本人麻呂、和歌の神様といわれる)でございます。彼(家隆)の歌をお学びになるとよいでしょう。」
これらのことを思うと、上人(西行)が予見された事を思い合わせられて、ありがたいことだとお思い申した。
※西行が家隆に託したのは『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』と『宮河歌合』でした。
これらは自作の和歌による自歌合(じかあわせ)で、慈鎮(じちん=慈円 九十五)に清書してもらったともいわれ、前者は藤原俊成に、後者はその息子定家に判詞(はんし)を依頼したという贅沢なものです。
歌合は通常何人かの歌人が左右の陣に別れ、一首ずつ出し合って勝敗を決めるもの。それを自分ひとりの歌で行うのが自歌合です。判詞は優劣の判定とその理由を述べた文を指します。これらの歌合は伊勢神宮に奉納するためのものでした。
判詞を頼まれた俊成は何度も辞退したそうですが、西行ほどの歌人の作品に優劣をつけるなど恐れ多いと思ったのでしょう。
俊成がなかなか受け取らないので、西行は『御裳濯河歌合』の表紙にこんな歌を書きました。
藤浪をみもすそ川にせき入れて もゝえの松にかけよとぞ思ふ(風雅和歌集 神祇 西行法師)
「藤浪」は藤原氏の系統を意味する言葉です。俊成はもちろん、西行もそのルーツは藤原氏です。その流れを伊勢神宮を流れる御裳濯川に合流させ、神にささげようというのです。「ももえ」は「百枝」で、多くの枝が茂った立派な松ということ。こちらは伊勢の内宮にあった松の巨木を指していると思われます。
俊成はこの歌に説得され、判詞を引き受けました。そしてすべての判詞を書き終えた最後に、このように書き添えています。
藤波も御裳濯川の末なれば しづ枝もかけよ松の百枝に(風雅和歌集 神祇 皇太后宮大夫俊成)
〔藤原氏も伊勢の大中臣(おおなかとみ)氏の末裔ですから百枝の松の下枝(しづえ)にすぎないわたしですが(あなたの歌に判詞を添えて)神に奉りましょう〕
家隆に託された二巻はその後大切に伝えられ、現代のわたしたちも判詞とともに読むことができます。
熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月
五日 天晴
暁鐘以後に営に參る、左中辨夜前に示し送りて云ふ、折烏帽子にて參るべし、但し三津之邊りにては、立烏帽子を用ふべし、又高良、御幣使(八幡御幸)、 存すべし(御幸は夜に入るの事)、兼て又曰う、前使同じく勤むべき也、所々の御布施取りのこと存知すべしとてへり、仍って立烏帽子を着す。
淨衣(兼曰俊光之を折る毎人此の如し)[短袴、あこめ、生小袴、下緒、ハギ布は白を用ふ、初度此の如しと云々シトニタビヲ付す]縁の邊りを昇りて坐す、左中辨同じく其儀此の如し。
少時、例の如し、御拜例の如く了りて門の中庭に出御晴光[床几に御尻を懸く]御禊に[門の中央に向かって奉仕す]公卿以下列居(應官は人形を賦す)御供にあらざるの人々は布衣、藁履を着して、門外に候す。御禊おわって應官等は御精進屋を徹して入らる。此間相持たしめ御所始めたもうも、いまだおわらざるの間に出御、殿上人松明を取って前行[左右]す、道者に在ざるは前陣して南門に出でおわる、御舩に御するの此間私舩に乗りて下る。
先達は早速に立ち了る[衣帽を改めて高良は御奉幣使に参る也]遲明に衣帽を改む。舩甚だ遲し、営を構へて大渡に参着す、御舩を出たもうの之間也、馬に騎して先陣す、公卿等は多く輿に乘りて先陣了、宿院に入御して、御禊あり、陪膳の役人は日吉の如し、事おわりて御座を起たもうの間(御床子也)、予進んで高良の御幣に参上して、御幣を取って祠官に授く[束帯の男也],祝の間、即ち坂を登りて藥師堂の方より參り儲く馬場より昇りたまふて(御歩行)御奉幣(内府、御幣を取りて進めらる)御拝、祝了りて御神楽(御拝の間)馬場を廻して御随身を之を引く、次に簾中に入御、黄衣の男は柱榊を取り黒衣僧は幡を華幔を懸く、御経供養終わって公胤訖、仲経、俊宗、予、隆清、有雅布施を取る終りて(清僧は三口)即ち退下す、騎馬にて木津に出す。
殿方の人々は晝養す、屋形御所を打つ之儀は例の如く嚴重なり、予は最前に乘舩して下る、衣装を解いて一寝に及ぶ(水干御淨衣を着す)申の始め許りクホ津に着す[先達次第に融るべき之由を先約す、相具わざるによる]王子を拝す、人々前後に會合す、良久しゅうして御舩着御す。御奉幣、(長房之を取りて授けたもう先達これを進む)御拝は二度、先達これを申して退出す、以後御経の供養に候す、里神樂。終わって上も下も亂舞す。宿老の人々は己前に退出す、即ち馬に騎して馳奔、先陣して坂口王子に参る。又前儀の如し、又先陣してコウト王子に参る、前儀の如し、又先陣して天王寺に参りて、西門の鳥居の邊りを徘徊す[公卿以下]少時にして入御[御舩之後に毎度指し御ふ、予等又々騎馬して先陣す]金堂に御して舎利を禮す。公卿以下參進して之を禮す、次々に形の如く禮し了る。
殿上人は後戸の方を廻り御経供養の布施を取る。導師之外に十襌師と云々[二つつみ許取り具へ、之を取ること修二月のごとし]即ち下り御ふ、御所に入御之後、退出して宿所に入る。宿所ヨリ禮了って、食す窮屈に依って今夜は御所に参らず。又人疎にて所役なしと云々。猶々此の供養は世々の善縁也、奉公之中の宿運然らしむるもの、感涙禁じ難し、御供の人は内府(通親)、春宮(宗頼)権太夫[宗行は私の供に在り供奉にはあらず]右衛門(信清)督、宰相中將(西園寺)公経、三位仲経、大貳範光、三位中將通光殿上人、保家、予(定家)、隆清、定通、忠経、有雅、通方、上北面は大略皆悉也、下北面又精撰して此の中に在、面目は身に過ぎかえりて恐れ多し、人定めて吹毛之心あるか、夜に入りて[明日御卿は披講すべし]左中弁題三首書き給ふ、明日住江殿に於いて披講あるべしと云々、窮屈之間、思に沈みて叶ず。今夜は讃良庄に宿して勤仕す。
現代語訳
熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月
五日 天気晴れ
明け方の鐘以後に営みに参る。左中弁(藤原長房)が昨晩に示し送って言うには、「折烏帽子で参りなさい。ただし三津の辺りでは、立烏帽子を用いなければならない。また〔八幡御幸〕高良(こうら。男山山麓にある、石清水八幡宮の摂社、高良神社)御幣使のことを承知しておきなさい。あわせてまた〔御布施の事〕日前使も同じように勤めなければならない。所々の御布施取りのことを承知しておきなさい」
よって折烏帽子〔日頃、俊光はこれを折っている。みな、このようだ〕に、浄衣〔短袴、あこめ、生小袴、下袴、脛巾は白を用いる。初度はこのようだとのこと。シトニタビヲ付す〕を身につけて、縁の辺りの座に昇る。左中弁も同じくこのよう装束である。
例の如くしばらくの間、例の如く御拝。終わって門の中庭に出御〔御床几(折りたたみのできる腰掛け)に御尻をお懸けになる〕。安倍晴光が御禊を奉仕する〔門の中央に向かって奉仕する〕。公卿以下が列居する。御供でない人々(役人や賦役の者の格好)は布衣(ほい、布の狩衣)、藁履きを身につけて、門外でお仕えしている。御禊が終わって役人らは御精進屋を片づけて入られる。この間待たさせて御取り始め、いまだ終わらない間に出御。殿上人が松明を取って前を行く。〔左右〕。道者でない者は前陣にいて南門を出る。御船を御する間に自分用の船に乗って下る。
先達は早速に立った。明け方に衣帽を改める〔衣帽を改めて高良の御奉幣使に参るのだ〕。船は甚だ遅い。営を構えて大渡に参着する。御船を出御する間である。
騎馬で先陣する。公卿らは多く輿に乗って先陣した。宿院に入御して、御禊があった。給仕の役人は日吉のようだ。事が終わって御座(御床几である)をお立ちになる間に、予は進んで高良の御幣に仕え、参上して御幣を取って神職〔束帯(朝廷に出仕する際に着た公服)の男であった〕に授ける。祝う間に、すぐに坂を登って薬師堂の方から参り控える。馬場よりお昇りになり(御歩行)、御奉幣(内府(内大臣。源通親)が御幣を取って進められる)御拝。祝い終わって御神楽(御拝)の間、御馬を廻して、 御随身(ずいじん。おとも)がこれを引く。次いで御簾の中に入御。黄衣の男は桂榊を取り、黒衣の僧は幡を華幔を懸ける。御経供養〔公胤〕。終わって、仲経、俊宗、予、隆清、有雅が布施を取る(請僧三口)。終わってすぐに退き下がる。騎馬で木津殿の方に出る。
人々は昼養する。屋形御所を打つ儀式などは例の如く厳重である。予は最前に乗船して下る。衣装を解いて一寝する(水干の浄衣を着る)。申(今の午後4時頃。また、午後3時から5時までの間。または、午後4時から6時の間)の初めころにクホ津に着く〔先達が次第に融るべき由を先約する。相具わざるによる〕。王子(窪津王子)を拝する。人々前後に会合する。だいぶ経ってから御船がお着きになる。御奉幣(長房がこれを取ってお授けになる。先達これを進める)、御拝は2度。先達がこれを申して退出する。次に御経供養。里神楽。終わって上も下も乱舞する。宿老の人々は終わる前に退出する。すぐに騎馬して馳せ奔り、先陣して坂口王子に参る。また前の儀式のよう。また先陣してコウト王子に参る。前儀の如し。また先陣して天王寺に参って、西門の鳥居の辺りを徘徊する〔公卿以下〕。しばらくして入御〔御船の後に毎度お指しになる、予らはまたまた騎馬して先陣する〕。金堂に御して舎利を礼する。公卿以下が神前に進み出てこれを礼する。次々に形の如く礼した。
殿上人は後戸の方に廻り御経供養の布施を取る。導師の外に十禅師とのこと〔2包みばかり取りそろえ、これを取って持っていく。修二月(しゅにえ。旧暦2月に行なわれる仏への供養)のようだ〕。すぐにお下りになる。御所にお入りになった後、退出して宿所に入る。コリをかき礼して、食事する。疲労のため今夜は御所に参らない。また人疎にて所役なしとのこと。それでもやはり、この供養は世々(よよ。過去・現在・未来のそれぞれの世)の善縁(仏道の縁となる、よい事柄)である。奉公のさなか、宿命がそうさせたのだ、感涙が禁じ難い。
御供の人、内府(源通親) 春宮権太夫〔宗頼は私的なお供であり、正式な御幸のお供ではない〕(藤原宗頼) 右衛門督(坊門信清) 宰相中将〔公経〕(西園寺公経) 三位仲経(藤原仲経) 大弐〔範光〕(藤原範光) 三位中将〔通光〕(久我通光。こが みちてる。源通親の3男)
殿上人、保家(藤原保家) 予 隆清(藤原保家) 定通(土御門定通。つちみかど さだみち。源通親の4男) 忠経(藤原忠経) 有雅(源有雅) 通方(中院通方。なかのいん みちかた。源通親の5男)
上北面はだいたい全員である。下北面はまた精撰した者がこの中にいる。(院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人らを北面という。上北面は殿上人。下北面は武士)面目は身に過ぎて恐れ多い。人はきっと毛を吹く(あらさがしする)心があるのだろうなあ。〔夜に入って、左中弁が題を送る。明日住江で披講すべし〕夜に入って、左中弁が題三首をお書きになる。明日住江殿において披講(※ひこう。和歌会などで作品を読み上げること、またその人と)せよとのこと。疲労している間は沈思することができない。今夜の宿は、讃良(さらら)庄が勤仕した。
横浜在住のIN氏よりメールが入りました。曰く、
2017年4月8日12時19分着信 題 実朝と御札の効き目
日高節夫様
百人一首に続いて、君の研究対象は、金槐和歌集に突入したらしいと推測しています。
私は、鎌倉幕府は、門司高校時代に、「修善寺物語」の上演にかかわったせいか、二代将軍・頼家に関心がありました。(「修善寺物語」には実朝は登場しませんが)、三代・実朝は国語の教科書の中に、たぶん金槐和歌集の中に出てくる歌なのでしょう、
〽(上の句はウロ覚え)箱根路をわが越え来れば伊豆の海の …… 沖の小島に波の寄る見ゆ
という短歌があったのを覚えています。これは教科書にも載っていましたので、覚えました。まるで高い崖の上から眼下の相模湾を見下ろしているような絵画的な歌でした。
実朝については後年、関東に住むようになって、鶴岡八幡宮にも何度もお参りし、今年やっと浪人生活にピリオドを打った孫の合格祈願も湯島天神よりも、鶴岡八幡宮は効き目が悪かったように思います。
今年は、受験生の父である息子も、出張するたびに、その土地の合格祈願の御札を買ってきました。そのなかの、どの神社が効いたのかは定かではありませんでしたが、私は鶴岡は、一浪の時にすでに、縁を切って、亀戸天神と湯島天神に絞りました。それで良かったか悪かったかは明らかではありませんが、たぶん応分の効き目はあったのでしょうかね。
それにしても今思い出してみますと、金槐和歌集の実朝の歌が印刷されていた教科書は、新聞社が新聞用紙を都合してくれた、いわば流用の教科書で、ナイフで裁断して、自分で本に綴じて体裁を整えた教科書でした。そんな教科書でも、名歌を覚えているものですね。
遠い時代の追憶です。 IN
昨日は、福岡在住の甥が訪ねてくれました。昨年12月に生まれた孫の「お食い初め」で上京したということでした。孫の名前が「琴」で、偶然私の叔母の名前と同じということで、しばし私の祖母・母・父・伯母などの今は亡き人たちの話をすることになりました。列車からでしょうか、早速ここで撮った写真を送ってくれました。
2017年4月9日12時58分 題 写真
お世話になりました。 苺喰み遠き故人を偲ぶかな
西園寺公経の事
「増鏡」内野の雪
今后の御父は、先にも聞こえつる右大臣実氏(さねうぢ)の大臣(おとど)、その父、故公経(きんつね)の太政大臣(おほきおとど)、その上(かみ)夢見給へる事ありて、源氏の中将童病(わらはやみ)呪(まじなひ)給ひし北山のほとりに、世に知らず由々しき御堂(みだう)を建てて、名をば西園寺(さいをんじ)と言ふめり。この所は、伯(はく)の三位(さんみ)資仲(すけなか)の領なりしを、尾張国松枝と言ふ庄に替へ給ひてけり。もとは、田畠(はたけ)など多(おほ)くて、ひたぶるに田舎(ゐなか)めきたりしを、さらにうち返し崩(くづ)して、艶々(えんえん)なる園(その)に造りなし、山のたたずまひ木深(こぶ)かく、池の心豊かに、海神(わたつみ)を湛(たた)へ、峰より落つる滝の響きも、げに涙催(もよほ)しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来はまことに妙(たへ)なる御姿、生身(しやうじん)もかくやと、厳(いつく)しう顕(あらは)され給へり。
また、善積院(ぜんしやくゐん)は薬師、功徳蔵院(くどくざうゐん)は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝の下もとには不動尊。この不動は、津の国より生身の明王、簔笠(みのかさ)うち奉りて、さし歩みておはしたりき。その簔笠は宝蔵(ほうざう)に籠めて、三十三年に一度出ださるとぞ承(うけたま)はる。石橋の上には五大堂。成就心院(じやうじゆしんゐん)と言ふは愛染王(あいぜんわう)のまさまさぬ秘法(ひほふ)とり行はせらる。供僧(ぐそう)も紅梅の衣、袈裟数珠(ずず)の糸まで、同じ色にて侍るめり。また、法水院(ほすゐん)化水院(けすゐん)、無量光院(むりやうくわうゐん)とかやとて、来迎(らいがう)の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿に大臣は住み給ふ。廻れる山の常盤木(ときはぎ)ども、いと旧(ふり)たるに、なつかしきほどの若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣(おとど)うそぶき給ひけり。
山桜 峰にも尾にも 植ゑ置かん 見ぬ世の春を 人や忍ぶと
現代語訳
今后(第八十八代後嵯峨天皇中宮、西園寺きつ子)の父は、先ほど申し上げた右大臣実氏大臣(西園寺実氏)でございますが、実氏大臣の父、故公経太政大臣(西園寺公経)が、その昔夢を見られて、源氏中将(光源氏)が童病([悪寒・発熱が、隔日または毎日、時を定めておこる病気])を呪われた([災いや病気を避けるために神仏などに祈る])北山のほとりに、世にないほどに厳めしい御堂を建てられて、名を西園寺(かつて現京都市北区にあった寺。今は金閣寺が建っている)と申されたのでございます。この所は、伯三位資仲(仲資王。源仲資。神祇伯=神祇官の長官)の領地でしたが、尾張国松枝という庄(現愛知県一宮市)と交換したものでございました。もともとは、田畑が多く、たいそう田舎っぽい所でございましたが、その場所を掘り起こし地をならして、みごとな園を造って、山のたたずまいは木深く、池の水豊かにして、まるで海神([海])のよう、峯より落ちる滝の音も、涙をさそう、趣き深い様でございました、本堂は西園寺、本尊の如来はまことに美しいお姿で、生身もこのようであられたのかと思われるほどに、厳めしいお姿でございました。
また、善積院は薬師如来、功徳蔵院は地蔵菩薩(槌止〈つちとめ〉地蔵? 現存)でございます。池のほとりには妙音堂、滝の下には不動尊が立っておられます。この不動は、摂津国より生身の明王が、簔笠を着て、歩いてこられたということでございます。その簔笠は宝蔵に納められて、三十三年に一度出されるとお聞きしております。石橋の上には五大堂。成就心院と申す所では愛染王の秘法([愛染王法]=[愛染明王を本尊にして修する密教の修法])を執り行っております。供僧も紅梅の衣で、袈裟数珠の糸まで、同じ色でございます。また、法水院・化水院、無量光院とか申して、来迎の様子を描いた、弥陀如来・二十五の菩薩が、虚空に現じたお姿もございました。北の寝殿に太上大臣(西園寺公経〈きんつね〉)は住んでおられました。周りの山の常盤木は、たいそう古うございましたが、都を偲ばれて若木の桜を植えられて、大臣(西園寺公経)は歌を詠まれました。
山桜を峰にも尾にも植えておこう。わし亡き後にこの桜を見て、わしのことを思い出してもらえるように。
徒然草 67段
賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、一年(ひととせ)参りたりしに、老いたる宮司(みやづかさ)の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗(みたらし)に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚(よしみずのかしょう)、
月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社(やしろ)とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそさぶらはめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
今出川院近衛(いまでがわのいんのこのえ)とて、集(しゅう)どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前(みまえ)の水にて書きて手向けられけり。誠にやんごとなき誉(ほまれ)ありて、人の口にある歌多し。作文(さくもん)・詩序など、いみじく書く人なり。
現代語訳
上賀茂神社の摂社である岩本社と橋本社は、在原業平と藤原実方をまつる。(どちらの社がどちらの人物を祭っているか)人がいつも言い間違うので、一年前参詣した時に、年老いた神社の職員が通り過ぎるのを呼び止めて尋ねた所、「実方を祀った所は、御手洗川に影が映った所と申しますから、橋本は、やはり水の流れが近いので、橋本には実方を祀ったものと思われます。吉水和尚(よしみずのかしょう)こと天台座主慈円さまが、
月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら
(月を愛で、花をながめた昔の優美な人・在原業平は、ここに祀られている。)
とお詠みになったのは、岩本の社と承っておりますが、自分たちよりは、貴方がたのほうが、かえってお詳しくてもいらっしゃるでしょう」と、たいそう礼儀正しく言ったのは、実に立派に思えた。
今出川院近衛といって歌集に多く歌を採られている人は、若い時、常に百首の歌を詠んで、かの二つの社の御前の水の所で書いてお捧げしたのだ。そのせいか、ほんとうに尊い世の誉れ高いものがあり、人の口にのぼる歌も多い。漢詩や漢詩の序文なども、上手に書いた人である。
※ 今出川院近衛(いまでがわいんのこのえ、生没年不詳):鎌倉時代中期の女流歌人。今出河院近衛とも表記されます。藤原北家師実流大炊御門家庶流の鷹司家の出身で、父は大納言鷹司(藤原)伊平。
徒然草 226段
後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉(ほまれ)ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう、慈円)、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。九郎判官(くろうほうがん)の事は委しく(くわしく)知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのかんじゃ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。
現代語訳
後鳥羽院の御時、信濃の国司であった中山行長は、学問の道での誉れが高かった。しかし、『白氏文集』の論議の席において意見を求められた時に『七徳の舞』のうちの二つを忘れてしまい、『五徳の冠者』という不名誉な渾名を付けられてしまった。行長はそのことを悩んでしまい、学問を捨てて遁世してしまった。慈鎮和尚は、一芸ある者を厚遇しており、身分の低い者でも技能がある者であれば召しかかえた。そして、この信濃の出家者である行長も召しかかえて面倒を見たのである。
この行長入道が『平家物語』を作って、生仏という名の盲目の法師に教えて語らせた。さて、山門(比叡山延暦寺)の事は格別に詳しく書けた。九郎判官(源義経)の事は詳しく知っていて書き記しているが、蒲冠者(源範頼)の事はよく知らなかったのだろうか、多くの事を書き漏らしている。武士のこと、弓馬の道については、生仏が東国の生まれであることもあり、武士に詳しく聞いてから書いたのだろう。その生仏の生れつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのである。
『吾妻鏡』巻24 建保七年(1219)正月大七日甲戌
建保七年(1219)正月大廿七日甲午。霽(はれ)。夜に入り雪降る。二尺餘り積る。
今日、將軍家右大臣の拝賀の爲、鶴岳八幡宮へ御參す。酉刻御出。
(中略)
宮寺の樓門に入ら令(せし)め御(たま)う之時、右京兆(うけいちょう)、俄に心神に御違例の事有り。
御劔於(を)仲章朝臣(なかあきあそん)に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱(ごげだつ)之後、小町の御亭へ歸ら令(せし)め給ふ。夜陰に及び、神拝の事終り、漸く退出令(せし)め御(たま)ふ之處、當宮別當阿闍梨公曉(あじゃりくぎょう)石階之際于(せきかいのきわに)來るを窺ひ、劔を取り丞相(じょうそう)を侵し奉る。
其の後、隨兵等(ずいへら)宮中于(ぐうちゅうに)馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光先登(せんと)に進む〕讎敵(あだてき)を覓(み)る所無し。或人の云はく、上宮之砌(うえみやのみぎり)に於て、別當阿闍梨公曉父の敵を討つ之由、名謁被(なのらる)ると云々。之に就き、各、件の雪下本坊于(ゆきのしたぼうに)襲い到り、彼の門弟悪僧等、其の内于籠り、相戰う之處、長尾新六定景与(と)子息(しそく)太郎景茂、同じき次郎胤景(たねかげ)等先登を諍(あらそ)むうと云々。勇士之戰塲に赴く之法、人以て美談と爲す。遂に悪僧敗北す。闍梨此の所に坐し給は不(ず)。軍兵空しく退散す。諸人惘然(ぼうぜん)之外(ほか)他無し。
爰に阿闍梨彼の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨之雪下北谷宅于〈ゆきのしたきただにたくに〉向被(むかはれ)、膳を羞(すす)める間、猶手於(なおとを)御首から放不(はなさず)と云々。使者弥源太兵衛尉〔闍梨の乳母子(めのとご)〕於(を)義村に遣は被(され)、今將軍之闕(けつ)有り。吾專ら東關之長(とうかんのおさ)に當る也。早く計議を廻らす可し之由示し合は被(さる)る。是、義村息(そく)男駒若丸(なんこまわかまる)、門弟に列するに依て、其の好を恃被(たのまる)る之故歟(ゆえか)。義村此の事を聞き、先君の恩化(おんげ)を忘不(わすれざる)之間、落涙數行(らくるいすうぎょう)。更に言語に不及(およばず)。
少選(しばらく)して、先ず蓬屋于(ほうおくに)光臨有る可し。且は御迎への兵士を獻ず可し之由之を申す。使者退去之後、義村使者を發し、件の趣於(おもむきを)右京兆(うけいちょう)に告ぐ。々々左右(けいちょうそう)無く、阿闍梨を誅し奉る可し之由、下知し給ふ之間、一族等を招き聚(すす)め評定を凝(こ)らす。阿闍梨者(は)、太(はなは)だ武勇に足り、直也人(じきなるひと)に非(あらず)。輙く之を謀る不可(べからず)。頗(すこぶ)る難儀爲(たる)之由、各 相議す之處、義村勇敢之器を撰ば令(せし)め、長尾新六定景於(を)討手(おって)に差す。
定景遂に〔雪下合戰後、義村宅へ向う〕辞退に不能(あたはず)。座を起ち黒皮威(くろかわおどし)の甲(よろい)を着て、雜賀次郎(さいがのじろう、西國住人、強力の者也)以下郎從五人を相具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨宅于赴く之刻(のとき)、阿闍梨者、義村の使い遲引(ちいん)之間、鶴岳 後面之峯(つるがおかこうめんのみね)に登り、義村宅于至らんと擬(ぎ)す。仍(よって)定景與(と)途中に相逢う。雜賀次郎忽ち阿闍梨を懷(いだ)き、互に雌雄を諍う之處、定景太刀を取り、闍梨〔素絹衣(すぎぬころも)に腹巻を着る。年廿と云々〕の首を梟(きゅう)す。
是、金吾將軍〔頼家〕の御息。母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女(そんじょ)也〕。公胤(こういん)僧正に入室(じゅしつ)。貞曉僧都受法(ていぎょうそうづずほう)の弟子也。
定景彼の首を持ち皈(かえ)り畢(をはんぬ)。即ち義村、京兆の御亭に持ち參る。々主(ていしゅ)出居(でい)にて其の首を見被(みらる)る。安東次郎忠家脂燭を取る。李部(りぶ)仰せ被(られ)て云はく。正に未だ阿闍梨之面(つら)を見奉ず。猶疑貽(ぎたい)有りと云々。
抑、今日の勝事、兼て變異(へんい)を示す事 一非(ことひとつならず)。 所謂、御出立之期に及び、前大膳大夫入道 參進し申して云はく。覺阿(かくあ)成人之後、未だ涙之浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(じっこん)奉る之處、落涙禁じ難し、是直也事(じきなること)に非。定めて子細有る可き歟。東大寺供養之日の、右大將軍御出之例に任せ、御束帶之下に、腹巻を着け令(せし)め給ふ可きと云々。仲章朝臣申して云はく、大臣大將に昇る之人、未だ其の式有らずと云々。仍て之を止め被(らる)る。
又、公氏(きんうじ)御鬢(ごびん)に候う之處、御鬢自(よ)り一筋抜き、記念に之を賜はると稱す。次で庭の梅を覽(み)て、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
出テイナハ 主ナキ宿ト 成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ 春ヲワスルナ
次に南門を 御出之時、靈鳩(れいきゅう) 頻(しきり)に鳴囀(なきさえず)り、車自り下り給ふ之刻(とき)、雄劔を突き折被(おらる)ると云々。
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈可(きゅうだんすべ)し之旨、二位家自り仰せ下被る。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔(しゅうゆう)阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭へ具し參る。是、彼の受法の師を爲す也と云云。
現代語訳
建保七年(1219)正月廿七日甲午。晴れましたが、夜になって雪が降り、二尺ばかり(60cm)積もりました。今日は将軍家の右大臣任命報告の拝賀のため鶴岡八幡宮へお参りします。お参りは酉の刻(午後6時)です。
(中略)
路地の警護の軍隊は千騎(沢山の意味)です。八幡宮の楼門に入られる時に、右京兆義時は急に気分が悪くなる事があって、将軍の太刀を源仲章に渡して引き下がり、神宮寺の所で列から離れ、小町の屋敷に帰られました。
将軍実朝様は夜遅くなって神様への参拝の儀式が終わって、やっと引き下がられたところ、八幡宮別当(代表)の公暁が、石階の脇にそっと来て、剣をとって実朝様を殺害しました。
その後、警護の武士達が八幡宮社殿の中へ走りあがり、〔武田信光が先頭に進みました〕下手人を探しましたが見つかりませんでした。ある人が云うには、上の宮のはしで公暁は「父のかたきを討った。」と名乗っていたとの事です。これを聞いて、武士達はそれぞれ八幡宮の雪ノ下にある御坊(八幡宮西脇の奥)へ攻めかかって行きました。公暁の門弟の僧兵達が中に閉じこもって戦っていましたが、長尾新六定景、その息子の太郎景茂と次郎胤景とが先頭を競い合いましたとの事です。勇士が戦場へ向かう心得は、こうあるべきだと人は美談にしました。(長尾は石橋山合戦で敵対したため、囚人として三浦に預けられ、被官化している。)ついに僧兵達は負けてしまいました。公暁がここにいなかったので、軍隊はむなしく退散し、皆呆然とするしかなかったのです。
一方公暁は、将軍実朝様の首をもって、後見者の備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かいました。ご飯を進められましたが首を離さなかったとの事です。使いの者の弥源大兵衛尉〈公暁の乳母の子〉を三浦義村の所へ行かせました。「今は将軍の席が空いている。私が関東の長(将軍)に該当するべき順なので、早く方策を考えまとめるように指示しました。これは義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっているから、その縁で頼まれたからなのか。義村はこの事を聞いて、将軍実朝様からの恩義を忘れていないので涙を落としました。しかも言葉を発することもありませんでした。
しばらくして、「私の屋敷に来てください。それに迎えの軍隊を行かせます。」と伝えるよう云いました。使いの者が立ち去った後に、義時の下へ使いを出しましたとの事です。義時からは、躊躇せずに公暁を殺してしまうように命令されましたので、義村は一族を集めて会議をしました。公暁はとても武勇にたけた人なので、たやすくはいかないので、さぞかし大変な事だろうと皆が議論していたところ、義村は長尾定景をさして勇敢な器量を持っていると討手に選びました。
長尾新六定景〔八幡宮での合戦の後、義村の宅に向かって来ていました。〕は辞退することが出来ず、座を立って黒皮威しの鎧を着て、雑賀次郎〔関西の人で力持ちの人です。〕と部下を五人連れて、公暁がいる備中阿闍梨の宅へ出かけた時、公暁は、三浦義村の使者が遅れて(いるらしくちっとも)来ないので(待ちきれずに)、八幡宮の裏山の峰へ登り、義村の屋敷へ行こうと考え(行動に移し)ました。そしたら、途中で長尾新六定景と出会い、一緒に居た雑賀次郎は(迎えにきたふりをして公暁に近寄り)即座に公暁に組み付いていきました。互いに(相手をねじ伏せようと)争っている処を、長尾定景が太刀を取って(後ろからバッサリと一刀のもとに)公暁の首を刎ねました。〔公暁は白い絹の着物に簡易な鎧の腹巻を着けていました。年齢は二十歳なんだとさ〕
この人は、前の將軍頼家の息子で、母〔爲朝の孫娘です〕は賀(蒲)生六郎重長の娘です。公胤僧正(千葉常胤の子)に受戒を受けて出家して、貞暁僧都(前の八幡宮別当)から仏教を習った弟子です。
長尾新六定景はその首を持ち帰りました。直ぐに義村は北條義時の屋敷へ持って行きました。北條義時は玄関の間に出てきてその首を見られました。安東次郎忠家が明かりを取って差し掛けました。北條泰時(李部は式部省の唐名=泰時)がおっしゃられました。「正に未だ公暁の顔を拝顔していないので、なお疑いがある。」との事でした。
そもそも、今日の勝事(不吉な事を忌言葉{縁起が悪い言葉}を嫌いこう云う。「梨」を「有の実」とか「するめ」を「当たり目」と云ったり)は前々から現れていた異常な事が一つではないのです。将軍実朝様は出発の時間になって、大江広元が前へ来て云いました。「私は成人してからこの方、未だに涙を顔に浮かべた事が有りません。それなのに今、お側に居ましたら涙が流れて仕方がないのです。これは只事では有りません。何か在るのかもしれません。頼朝様が東大寺の大仏殿完成式に出た日の例に合わせて、束帯(衣冠束帯と云って公式の礼服)の下に腹巻(簡易な鎧)を着けて行かれるのが良いでしょう。」との事でした。源仲章が申し上げました。大臣大將の位まで昇った人で、未だかつてそんな式に出た人はありませんとの事でした。それでこれは取り止めとなりました。
又、宮内公氏が将軍実朝様の髪を梳かしていたら、自ら髪の毛を一本抜いて、「記念だ。」と云ってこれを渡しました。次に庭の梅を見て縁起のよくない和歌を歌われました。
「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」(出て行ってしまったら主人のいない家になってしまうけど、梅よ春になったら忘れずに咲くのですよ。)
次に、南門を出られる時は源氏の守り神である鳩が盛んにさえずっていたし、車から降りる時には刀を引っ掛けて折ってしまいましたとの事です。
又、今夜のうちに公暁の仲間を糾弾するように、二位家(政子)から命令が出ました。信濃國の住人で中野太郎助能は少輔阿闍梨勝円を捕虜にして北条四郎義時の屋敷に連れて来ました。是は公暁の受法の師匠だからとの事です。
sechin@nethome.ne.jp です。
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |