伯父大木惇夫は、軍歌めいた詩もいくつか発表しています。でも、あまり勇ましい歌ではないようです。
祖国の柱
作詞 大木惇夫
作曲 服部良一
高梁(こうりゃん)枯れて烏啼く
赤き夕陽の国境
思えば悲しつわものは
曠野の露と消え果てて
■今は眠るかこの丘に
祖国のために捧げたる
いとも尊き人柱
苔むすかばね霊あらば
わが呼ぶ声に谺(こだま)して
■塚も動けよ秋風に
手向(たむ)けの花は薫れども
赤き夕陽の血に染みて
風愁々の音を忍ぶ
幽魂ながくとどまりて
■祖国を護れ亡き友よ
https://www.youtube.com/watch?v=m3_a1ky-Gjo
ラジオテキストとして日本放送協会が発行した「国民歌謡」の楽譜が第一輯「心のふるさと・祖国の柱」(1936年11月16日発行)から第七六輯「国民協和の歌・歩くうた」(1940年12月15日発行)まで76冊あるそうです。
「祖国の柱」は昭和11年、大木の徳八じいさんの危篤の知らせを受けた母に連れられて上京した時、大木の叔父たち(惇夫の弟たち)が口ずさんでいるのを真似て、私も歌っていたと言います。
姉から口伝えに聴いて曲を書き取りましたが、時を越えて人の心を打つものがあります。ようやく見つけた楽譜は作詞作曲とも日本の一流の手になるもの。さすが。当時の状況からしてお二方とも意に染まぬ仕事であったと推察していますが、軍歌ゆえに偏見をもつのは如何かと考えます。
軍のイメージソング、戦争昂揚という目的からは程遠いものと思います。軍歌の体裁はとっていますが音楽性もたかく、軍国主義への反骨反発が秘められていると感じるのは私だけでしょうか。軍には音楽的素養がなかったのか、よくこの曲を軍歌と認めたものだと思います。 (とあるブログより)
「海を征く歌(戦友別盃の歌)」
作詞:大木惇夫
作曲:古関裕而
君よ別れを言うまいぞ 口にはすまい生き死にを
遠い海征くますらおが なんで涙を見せようぞ
熱い血潮を大君に 捧げて遂ぐるこの胸を
がんと叩いて盃に 砕いて飲もうあの月を
僕は遥かなツンドラの 北斗の空を振るわすぞ
君は群がる敵艦を 南十字の下に撃て
誓い誓うて征くからは きつと手柄をたてようぞ
万里の雲にうそぶけば 波は散る散る雲の華
https://www.youtube.com/watch?v=79-YXGPPMQ0
https://www.youtube.com/watch?v=EWO4WjQImrw
この歌の出る2年余り前、大木惇夫はインドネシアのバタビアに文化部隊(兵隊を慰問したり現地をレポートする作家、音楽家等の一行)として赴任していました。その1年後、現地で「海原にありて歌へる」という詩集を発刊します。そしていつしかこの詩集が現地の兵隊のあいだで評判になり、さらには内地でも若者をはじめ多くの人に読まれるところとなります。
「海を征く歌」は、その詩集の中でもとりわけ熱烈に支持された「戦友別盃の歌」をいわば自身の手でダイジェスト化したものです。さほど長くないのでその全文をのせますと、
言うなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言わん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃にくだきて
暫し、ただ酔いて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言うなかれ、君よ、わかれを、
見よ、そらと水うつところ
黙々と雲は行き雲は行けるを。
(「戦友別盃の歌」南支那海の海上にて 大木惇夫)
戦時下という異常事態にあっての友との別離を抒情的にうたった詩で、戦争詩の最高傑作という評価さえあります。
時代の空気というものがあるので、いまの若い人が読んでもピンとこないかもしれませんが、当時の若者の多くが熱烈に支持し、朗読したといわれています。
篠山在住の姪から昨日のブログにコメントが入りました。有難う。
伯父大木惇夫の「心のふるさと」は昭和11年のラジオ「国民歌謡」の中で取り上げられた作品だそうです。戦争色がないためか戦後のラジオ歌謡でも再放送されたそうです。「南の国のふるさとは オレンヂの花咲くところ」とどこか日本離れしたような歌詞に江口が憧れに満ちたワルツを書きました。故郷を思うというよりはどこか異郷に憧れるような雰囲気を感じます。
国民歌謡で歌われた時の関種子(ソプラノ歌手)の録音が残っているそうですが、聞いたことはありません。
http://bunbun.boo.jp/okera/w_osanago/kokoro_furu.htm
私の少年時代に家に北廉太郎が吹き込んだ「夢のゆりかご」というレコードががありました。この歌は、田端義夫もレコードに吹き込んでいるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=zEk0QNBRzTw
https://www.youtube.com/watch?v=ywWQEhoay98
昨夜、BS朝日で、「古賀政男・没後40年 名曲ドキュメント」を見ました。ここでわが伯父・大木惇夫が作詞したという「雲のふるさと」が李香蘭によって歌われていました。
雲のふるさと 作詞 大木惇夫・作曲 古賀政男
常夏の椰子の木陰に
戎衣(いくさぎ)を解きて憩いつ
返り見る雲の遥けさ
ますらおの我と言うとも
ゆえ知らず涙落つるを
誰ぞ叱る我も人の子
胸熱く思い出ずるは
旗薄(はたすすき)靡(なび)く信濃路
河鹿鳴く清き河辺に
あの雲は今も翳(かげ)らん
皇国(すめらぎ)に捧げたる身の
死にてよと汝は言わずや
幻に見ゆる故郷
我強し汝のあればぞ
弾丸の中行かんと思え
3つの「雲のふるさと」
李香蘭の未発表曲2曲が発見され、話題になっています。いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」で、昭和19年に録音されながら、レコ-ドにはなりませんでした。「雲のふるさと」は、信濃出身の兵士が前線で、ふるさとをしのび涙を流すところが、戦争も末期になった軍部の気に入らなかったのか。この曲はその前年に、伊藤久男が映画「あの旗を撃て」で歌ったのが最初です。6連音符をあしらったり、古賀メロディーでもユニークな歌曲調で、自信作だったようです。せっかく李香蘭の美声で歌われたのに、くやしかったことでしょう。
この歌には、なおも後日談があります。なんとかもう一度世に出したいという古賀の執念がみのって、戦後の昭和42年、関沢新一の新しい詩を得て「思い出は遠く哀しく」という歌に生まれ変わり、美空ひばりが歌いました。こんどは、幼馴染と別れて都会に出た青年が、やがてその人が誰かの花嫁となったことを伝え聞き、遠く哀しい思い出に熱い涙を流すという、青春センチメンタリズムの極致のような歌です。ヒット曲にはなりませんでしたが、「私はセンチメンタリスト」が口ぐせだった古賀は、これでやっと気がすんだことでしょう。昭和53年の古賀の葬儀でも、明治大マンドリン部の後輩たちが、この曲を演奏して、偉大な先輩を送りました。
「雲のふるさと」は、コロムビアから発売されている2枚組CD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収められています。これで、この曲は、伊藤久男・李香蘭・美空ひばりの3種が揃うことになり、古賀の満足や、思うべし。「思い出は遠く哀しく」はカラオケにもあります。
昨夜放映の李香蘭の美声をお届けすることが出来ないことが残念ですが、伊藤久雄の歌う「雲のふるさと」をお聞きください。さらに、美空ひばりの歌う「想い出は遠く哀しく」もお聞きください。
https://www.uta-net.com/movie/243359/
https://www.youtube.com/watch?v=F_jxG1EypuI
脈絡が一筋縄にはたどれない例の一つに、女性一般を意味する「おんな」という語があります。
「おんな」は中世以前は wonna と発音されて、「をんな」と書かれており、さらに遡ると「をみな」という形でした。
womina>womna>wonna>onna
と変化してきたのが、現在の形です。この「をみな」に対して、古く、また「おみな」という語がありました。この方は、後に、
omina>omna>ouna>o:na
と変化して、「おうな」という形になりますが、これは、「おきな(翁)・おうな(嫗)」と対にして言われるように、老女の意味です。「おみな」と「をみな」とは、ともに女性ですが、「お」で年長の方を、「を」で年少の方を、それぞれ区別してあらわしたものであると考えられます。「お」が大を意味し(おそらく、「おほし」の「おほ」と関係があるか?)、それにたいして「を」が小を意味したことは、「小川(をがわ)」「小舟(をぶね)」「小(を)暗し」などの語から明らかであるし、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の二人の皇子のうち、兄をオケの皇子(後の仁賢天皇)、弟をヲケの皇子(後の顕宗天皇)と呼んだというような例もあります(『日本書紀』清寧天皇の条)。
すなわち、「をみな」というのは、元来は少女を意味する語であったようです。この少女に対して、少年は「をぐな」と言いました。「をぐな」と「をみな」との関係は、第二音節の違いで、「ぐ」が男性を、「み」が女性を表しています。それは、「おきな」と「おみな」との関係において、「き」が男性をあらわし、「み」が女性を表しているのと並行しています。イザナキが男神、イザナミが女神であるのも同様の関係です。以上の四語は
年長(お) 年少(を)
男性(k,g) おきな(翁)―――をぐな(少年)
⇕ ⇕
女性(m) おみな(嫗)―――をみな(少女)
という、きわめて論理的な関係をもって構成されていると認められます。
ところが、これとは別にまた、
男性 をとこ
女性 をとめ
という一対の語がありました。これは、「こ」と「め」で両性が区別されていますが、共通要素の「をと」というのは、「月のをち水」とか「をちかえる」とかの語にも用いられて、「若返る」という意味の動詞「をつ」に関係づけうる語と考えられます(wötu~wötö)。すなわち、「をとこ」「をとめ」というのは、「若々しい活力にあふれた男性、あるいは女性」ということで、もと、結婚適齢期の男女を意味する語であったようです。
「をとめ」は『万葉集』では「未通女」などと表記されて、処女を言っており、もちろん、「をみな」とは別でした。
ところが、例えば『古事記』応神天皇の条の歌謡に、
……木幡の道に 遇はしし袁登賣(オ会イニナッタをとめ)……眉画き 此に画きたれ(眉ヲコンナニ長ク描イテ) 遇はしし(オアイニナッタをみな)……
のように、同一の女性を、ヲトメともヲミナとも言っている例があるように、両者は年齢の似寄りもあって、いつのまにか混同されてしまったようです。
その結果、先のばあいとはちがって、
男性 をとこ
女性 おみな
という一対の関係が、成立するようになりました。『万葉集』の
秋野には 今こそ行かめ もののふの
乎等古(をとこ)乎美奈(をみな)の 花にほひ見に
という歌はそれをよく表しています。
「をのこ」が、「男(を)の子」〔「女(め)の子」の対〕の意で、従僕とか軍卒とかの余り身分の高くない男性を言ったのに対して、「をとこ」は、元来は特に結婚の相手としての意味したのですが、やがてその適用の範囲が広まって、男性一般を言うようになったのです。それにつれて、その対語である「をみな>おんな」の方も、女性一般をいうようになります。それが今日の「おんな」という語の用法でして、異常に説いたような関係のずれの起こったことを想定しないと、「おんな」という語を語源的に説明することは、難しいのです。
ウェブニュースより
藤井六段、高校生初対局で白星…2度目連敗阻止 ―― 将棋の史上最年少棋士・藤井聡太六段(15)が5日、大阪・関西将棋会館で指された棋王戦予選で後手の古森悠太四段(22)を145手で下し、高校生棋士としての初対局を白星で飾った。昨年10月にプロ入りした“後輩”の1分将棋突入を機に、じわじわ追い詰めた。
中学ラスト対局(3月28日、井上慶太九段戦)は敗れたが、自身2度目の連敗は許さず、新年度を好発進。7日の名古屋大学教育学部付属高校入学式を前に自ら“前祝い”し「なんとか新年度を白星でスタートできてよかった」と話した。
過去の中学生棋士4人は全員、高校に進学。加藤一二三・九段(78)、谷川浩司九段(55)、羽生善治竜王(47)はいずれも高校生初戦は黒星。勝ったのは渡辺明棋王(33)だけだった。
対局数(73)、勝数(61勝)、勝率(約8割3分6厘)、連勝(29連勝=16年度からまたぐ)の4部門を独占した2017年度に引き続き、熱視線が集まるが「まずはしっかり実力を付け、各棋戦で上位を目指して頑張りたい」と変わらぬ姿勢を示した。
次回公式戦は10日の阿部光瑠六段(23)との竜王戦5組ランキング戦。5組で2連勝すれば4組に昇格し、規定で七段昇段が決まる。 (2018年4月6日5時0分 スポーツ報知)
https://www.youtube.com/watch?v=cVRXxYvGadg
語源が問題になるのは、意味展開の最初の段階あるいは途中の段階を示すものが、すでに忘れられてしまった結果、一つの語の「名」から理解される意味と、その「名」によって指示されている事物との間の関係が、簡単には付けにくくなっている場合です。
たとえば、「家を普請する」などと言って、建築工事などをすることを(普請)ということは、現在一般的に用いられています。フシンは「普請」の唐宋音(中世に禅僧や商人がつたえた、唐末から元初の頃の中国語に発音に基づく漢字音)で、外来語でありますが、「普(あまね)く請(こ)う」というこの「名」としての意味と、「建築する」ということとは、簡単には結び付きません。「普請」は、もとは、その字の示すように「禅寺で、普く人々に請うて労役に従事してもらうこと」を意味しました。その労役は堂塔の建築造営のためのものが多かったところから、やがて禅寺に限らず、道や橋を造営する土木工事を行うことを言うのにも、この語を用いるようになり、さらに、単に「建築工事をする」の意味になって、個人宅を建築する程度のことにも、この語を用いるようになったものです。
こういう使い方は、以前からあって、狂言などでも、個人の家の造りを褒めるのに、「さてさて結構なご普請じゃ」などと言っています。室町時代なら、一方で、まさに本来の「普請」という語にふさわしい大工事も行われていますので、上の言い方が、言葉の一種のしゃれた転用であることがすぐ理解されたはずです。けれども、「普請」という語の本来意味した史実そのものがなくなり、したがって、その段階での用法が忘れられてしまって、転義の方だけが行われている現在では、その欠陥部分を埋めて、この語の指示する概念とその形式とがそもそもどのようにして結合するにいたったか、その由来(すなわち語源)を、改めて説かなければならないことになるのです。
名詞の中には、無論、ものの名前の他に、事の名が多数含まれていて、殊に漢語の名刺などには、「哲学」「理論」「思考」「存在」などの抽象概念を合わすものも沢山あります。具体的なものに命名するだけでなく、こういう抽象概念に名を与える事もまた、命名です。
このように考えてくると、たとえば「足を交互に前に出して、身体を前方に移動させる」動作を意味する「歩く」という動詞や、「胸が痛むように感じる」心情を意味する「いたましい」という形容詞なども、やはりもと、それぞれ、そういう動作の概念や信条の概念に、上のような名(記号)を与えたものなのですから、これまた「命名」ということが出来ます。こうして、名詞・代名詞のみならず、動詞も形容詞も形容動詞も副詞も連体詞も感動詞も、助動詞・助詞でさえも、あらゆる単語は、命名の結果生まれてきたものであるということになります。
ただ、人に名をつけたり、新しい商品に命名したりする場合に比べて、こういう普通名詞や、動詞その他の単語の場合の命名は、いつ、誰によって、どういう理由があって行われたものであるか、ということを知るのが非常に難しくなってしまっています。しかし、そういう困難は十分に承知の上で、あえて、その命名の事情を探ろうとするのが、語源の探求ということなのです。
既存の語を命名に利用するという場合、その種類はいくつもあります。外国語に由来する語、すなわち外来語の場合などは、その著しい例といえます。例えば、着物を着るときの下着をジュバンと言って、「襦袢」の字を当てています。ジュバンは、もとポルトガル語の gibão で、肌着カジャケツのようなものを指す語であったようです。すなわち、この語は元ポルトガル語という、日本語とは別の言語体系の中で、そういう意味を持つ記号として行われていたものです。それを、体裁は違うけれども、「肌に近くつけるもの」であるという点の共通性によって、日本語において、着物用の下着を指す名として借用するようになったものです。こう言う経緯を、「襦袢の語源は、ポルトガル語 gibão である」という言い方で説明します。
ブーツ(boots=長靴)とか、プロペラ(propeller)とかのように、外国語の単語(の意味や形)をほぼそのままに日本語に採り入れて用いる場合には、借用語というだけで、その語源についてはあまり問題はありません。語源が問題になるのは、原語(もとになっている外国語)との間にずれが生じている場合で、甚だしい場合には、カステラのように、その原語を正確に決定しかねるものもあります。
カステラは、ポルトガル語 pão de Castela (パン・デ・カスティーリャ=スペインのカスティーリャ王国のパン)にする説が有力ですが、あるいはオランダ語 Castiliaan brood (カスティリア・ブロート)によるとも言い、さらには、オランダ語 kasteel(城)によるもので、この菓子が初めて長崎に持ち込まれた時、日本人がその名を訊ねたところ、これを入れた箱(一説には、これを載せた皿)にたまたま城の絵が描いてあったので、訊ねられたオランダ人は、その絵のことを聞かれたものだと勘違いして、「カスティール(城)」と答えたため、それがこの菓子の名になってしまったのだ、という説が行われたこともあるといいます。
この最後の説は、いかにも作り話めいていますが、外来語の移入の際には、往々にしてこのような勘違いがあるもので、例えば、理髪店で頭髪を借るのに用いる器械を、日本でバリカンと呼ぶのは、金田一京助博士によると、たまたま初めて輸入されたこの器械が Barriquand et Marre(バリカン・エ・マール商会)という会社の製品で、その会社名がこの器械の名称と勘違いされたのが起こりだといいます。
これは事実らしく、こうなると、バリカンの語源説明は、純粋に言語的な問題ではなくて、一種の文化史上の事件に求められなくてはならなくなります。
固有名詞と普通名詞
固有名詞はその形が、他のどの名とも違っていることを理想とします。いまだかって一度も用いられたことのない音の組み合わせを考えて、たとえば「チャパッピ」というような変わった名を子供につければ、その固有名詞としての働きは、もっともよく果たされている訳です。
名というのは、つまりは、一つの記号であればよいのだから、本来から言うと、そういう試みも可能なはずなのです。しかし、実際は、人名にしろ商品名にしろ、そんな突飛な名は避けて、既に存在する言葉や文字が利用されます。従って、その記号は、「強(つよし)」とか「幸子(幸いな子)」とか「サクラ」とか、それ自体の普通名詞としての意味を持ったものである場合が多いのです。
けれどもその意味が、その名で呼ばれる人や物の内容を、必ずしも表している訳ではないことは言うまでもないことです。極めて弱虫の「強君」もいれば、不孝な「幸子さん」もいるわけです。本来から言えば両者はむしろ無関係なはずなのであって、だからこそ、いわゆる同姓同名の場合のように、まったく別個の人間が同じ名で呼ばれたり、又、フィルムが「さくら」、特別急行列車が「光」などと言う名で呼ばれたりすることも許されるのです。
「すゑひろ」という名が、人の姓にも、名にも、紋所の名にも、菓子の銘柄にも、洋食店の屋号にも用いられたりするのは、固有名詞ということからすれば不都合なように見えます。けれども、こういうことのあり得るのが固有名詞の特色であって、要するに、人々の中である人の人が、菓子類の中である種類の菓子が、諸洋食店の中である一軒の洋食店が、この「すゑひろ」という記号で特定されれば、固有名詞としてのはたらきはそれで十分に果たせることになります。その点からいえば、固有名詞というのは、ある特定の事物を指示するはたらきを持つけれども、その内容を説明するはたらきは持たない語と言えるようです。
これに対して、普通名詞もまた、それぞれある事物を指示するために設定された記号ですが、固有名詞の場合のように、全く性質を異にするものを同一の記号で呼ぶというわけにはいきません。
例えば「山」という普通名詞で呼ばれるものはその一つ一つが、位置・標高・土質・生育植物の種類などで違っていても、とにかく「平地より隆起した地塊」であるという一点で、共通していなければなりません。そういう、いわば「ヤマ的性格」を持つものをヤマという記号でよぶのです。この特徴は、このヤマという語が「廃品の山」とか「リンゴのやま」とかのように比喩的に用いられた場合にも保たれています。
「平地より隆起した地塊」がなぜ、ナゼ、ヤとマという二つの音を結合させた記号で呼ばれなければならないのか、なぜハマやヌマではいけないのか、ということになるとその理由を十分に説明することは困難です。困難ではあるけれど、固有名の場合に比べると、こちらの方には、まだ多少その必然性が認められる場合があります。
広辞苑などによる山の語源についてはいくつかの説がありますが、山の「ヤ」は「高き義」「重なり積もれる」ことをいい、「マ」は「限り隔たりぬる」こと、一定の間隔があることを指すという新井白石の「東雅」の説に沿った解釈を採用しています。
例えば、ハマ(浜)、ヌマ(沼)、シマ(島)、クマ(隈=山や川が曲がりこんだところ。また、奥まったところ)などと言う記号を比べ合わせてみますと、これらは皆ある地整、又は地形の名であり、そして共通に、「マ」という要素を第二音節に持っています。すると、この「マ」という要素が地形を意味し、「ハ」・「ヌ」・「シ」・「ク」などの要素が、それぞれの地形の違いを示すものであったのではないかということになります。もしそうだとすれば、ヤマもまた、「ヤという名でよばれるマ(地形)」という意味でつけられた名ではなかったか、というような推定を降すことが出来ます。
勿論、その地形が浜の場合はなぜハで、沼の場合はなぜヌで、そして山の場合はなぜヤで、それぞれ表されるのか、それが説明されない以上、この解釈はなお不十分ではありますが、それでも名付け(命名)の由来をある程度説明したことにはなります。
こういうことが考えられるのは、基本的には普通名詞の場合は固有名詞と違って、指される事物と、それを指すなとの間に、命名に当たって何らかの関係が考えられたであろう、という予測を立てる理由があるからです。
ウェブニュースより
藤井六段の連勝ストップ 中学生最後の対局は飾れず ―― 最年少で六段に昇った将棋のプロ棋士、藤井聡太(そうた)六段(15)が28日、大阪市福島区の関西将棋会館での第68期王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の一次予選で、井上慶太九段(54)に137手で敗れた。連勝は16で止まった。藤井六段にとって2017年度の最終戦を白星で飾ることはできなかった。
藤井六段の17年度の記録は73対局、61勝12敗、勝率8割3分6厘、29連勝となった。将棋界の記録4部門(対局数、勝ち数、勝率、連勝)の今年度の1位独占は、すでに決まっていた。
年度別の歴代記録(日本将棋連盟調べ)と比べると、73という対局数は歴代10位より少ないが、61勝という勝ち数は歴代4位タイ(1位は羽生善治竜王が00年度に記録した68勝、2位は羽生竜王が88年度に記録した64勝、3位は森内俊之九段が91年度に記録した63勝)、8割3分6厘という勝率は歴代同率4位(1位は中原誠十六世名人が67年度に記録した8割5分5厘、2位は中村太地王座が11年度に記録した8割5分1厘、3位は羽生竜王が95年度に記録した8割3分6厘、同率4位は木村一基九段が01年度に記録した8割3分6厘)。自らが16年12月のデビュー戦から記録した29連勝は歴代1位。
午前10時に始まった対局は午後6時に終局した。終局後、藤井六段は報道陣の取材に応じ、「初めて指した形で、ちょっと感覚がつかめていなかった。早い段階で形勢を損ねてしまった」と反省。連勝が止まったことについては、「仕方が無いことかな、と思います。まずは、(本局の)内容の方をしっかり反省したい」と述べた。
中学生として最後の対局だったと話題を振られると、「自分が思った以上の活躍が出来たかなと思っていますが、本局のように力が足りないところもあったので、これからも、しっかり、やっていかなければ、というふうに思います」と応じた。「自分への通信簿は何点?」という質問に対しては、「今の段階でこれまでの結果に対しての評価はまだ早い。まだまだ実力をつける時期だと思っているので、結果に対しての評価は控えたい」と答えた。
これに対し、勝った井上九段は「一方的な将棋にならないように粘り強く指そうと思っていた。(藤井六段の将棋は)手厚く、腰が重い」と話した。井上九段は兵庫県加古川市在住。谷川浩司九段(55)の弟弟子にあたる。名人挑戦権を争うA級順位戦に3期在籍した関西のベテラン。現在は日本将棋連盟の常務理事も務めている。
将棋の王将戦は、8大タイトル戦の一つ。全棋士が参加。一次予選、二次予選をトーナメントで行い、勝ち上がった棋士とシード棋士4人でリーグ戦を行う。王将とリーグ優勝者が例年、1~3月に七番勝負を行う。現在のタイトルホルダーは久保利明王将(42)。 (朝日新聞DIGITAL 2018年3月28日20時03分)
https://www.youtube.com/watch?v=Y1oqKAIDG84
昨夕、私のメールを見ての藤沢市在住のMY氏から電話があり、成富氏のメールを教えてくれということなので、現在の私のパソコンの状態を話し、メールを入れてくれるよう頼んでおきました。
今朝ほどパソコンを開くとメールが入っていました。曰く、
日高 様 先ほどは電話で失礼しました。
今年の桜は平年より10日も早く満開を迎えたとか昨今の気象は狂っているようです。
この時期になると水門会の花見を思い出します。貴兄のお世話で何度か催した同期の連中の隅田川の花見会はいつまでも懐かしく脳裏に刻まれています。今年も墨堤の桜はさぞかし見事でしょう。
成富君のメールアドレスよろしくお願いします。
季節の変わり目は油断すると体調を壊しやすいとか、ご自愛のほどを。
早速、返事をしたためました。曰く、
昨夜は失礼しました。
成富満生君の住所とメールアドレスです。
成富満生
(住所・メールアドレス・電話 略)
隅田公園の桜は明日あたりが満開でしょうか。携帯で写した写真を添付します。
お互い、自重して寿命を全うしましょう。
日高節夫
ウェブニュースより
藤井六段、詰将棋で初の4連覇 類いまれなる読みの速さ ―― 第15回詰将棋解答選手権(同選手権実行委員会主催、朝日新聞社など後援)のチャンピオン戦が25日、東京、大阪、名古屋の3会場で行われ、藤井聡太六段(15)が優勝した。史上初の4連覇を果たした。
同選手権は、詰将棋を解く正確さと速さを競う。谷川浩司九段や広瀬章人八段らトップ棋士のほか、将棋ファンなど105人が出場した。
藤井六段は、名古屋市内の会場で出場。第1ラウンドの5問を参加者でただ1人、全問正解した。制限時間90分のうち、55分しか使わなかった。第2ラウンドの5問も全問正解。類いまれなる読みの速さを見せつけた。
詰将棋は、将棋の玉将の詰まし方を考える問題。実戦の終盤戦の訓練に不可欠だが、解いたり鑑賞したりすることを楽しむ愛好家も多い。藤井六段は、プロ入り前の小学6年の時に史上最年少で初優勝を成し遂げ、昨年まで3連覇していた。 (朝日新聞DIGITAL 2018年3月25日15時59分)
sechin@nethome.ne.jp です。
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